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屋根裏の王様 4

大学は夏休みに突入した。世界は毎日ウザったいくらいの蒸し暑さと、セミの声で溢れている。 我様は相変わらず本に夢中で、毎日散歩がてら図書館に通っているようだった。だけど、なんとなく以前に比べて俺に気を遣ってくれるようになった気がする。マナー本かなにかを読んだ影響なのかもしれない。 俺は敬語を使うのを止めた。どういう理由かは知らないけど、我様が「普通に話せ」と言ったからだ。口は悪いし敬語は苦手だから、ありがたくそうさせてもらうことにした。  俺は集中講義が立て続けにあって、レポート作成に追われている。毎日講義が終わったらキャンパス内にある付属図書館で勉強してその後バイトに行く、その繰り返しだ。  付属の図書館は六階建てで結構でかい。蔵書の数も多いし、いつ来ても大体静かで重宝している。 隣に座っている斎藤が、うんうん唸っている。金に近いくらいの茶髪で一見チャラいのに、講義にも毎日出ているし案外真面目な奴だと思う。 斎藤が俺の服を引っ張った。 「なーなー、ここちょっとどーゆーことかわっかんないんだけど」 覗いたノートはぐちゃぐちゃで、何が書いてあるのかよくわからない状態になっている。 「声でけえよ。ここは、……ふぇっくし……!」 自分のノートを見ながら説明しようとしたら、盛大なくしゃみが出た。 室内の冷房がガンガンかけられているせいかもしれない。さっきから、涼しいを通り越して寒かった。 「どした大丈夫かー? 風邪引いた?」  そういえば昨日冷房をつけたまま寝てしまったっけ、とぼんやりする頭で思い出す。それより、雨に濡れたのがいけなかったのかもしれない。朝は晴れてたのに、バイトが終わって帰る頃には土砂降りのゲリラ豪雨みたいな降り方になっていて、ずぶ濡れになってしまったのだ。 「……あー、いや、そうかも。……俺帰るわ」 「おー、あんま無理すんなよ。あ、ちょっと待って。せめてノート置いてって。今度お昼おごるから」 「お前なぁ。……レポートは自力でやれよ」 ため息交じりにノートを差し出すと、斎藤が嬉しそうに飛び跳ねた。 「ありがとー! 大和君大好きー!」 「おいよせやめろ気持ち悪い」 約束は律儀に守るタイプだから、ノートを貸す度に毎回昼飯をおごってくれる。今度はいつもより高めのやつにしよう。 廊下に出ると窓から差し込む光が暖かくて、冷え切った肌がホッとした。両腕をさするようにしていると、なんだか館内が普段より騒がしい気がした。  女子特有の黄色い声があちらこちらから聞こえてくる。なんだ一体、と思ったのも数秒のことで、皆の視線の先を追いかけるとすぐに原因がわかった。 見慣れた金髪の青年がいる。 「ぅえ?」 自分でもびっくりするくらい変な声が出た。なんで、こんなところに。 書架の間の通路で、我様が立ったまま小難しそうな本をめくっていた。遠巻きに何人もの女子がひそひそ声で話している。  完全に色めきだっている。前に一緒に図書館に行った時は、周りが割合落ち着いた世代の人たちばかりだったからか、そこまでこんな風にあからさまに騒がれたりしなかった。 パッと見、白人のイケメンがただ本を読んでいるだけだ。それなのに、まるで洗練された絵画でも見ているような気分になる。彼に話しかけて邪魔をしてはいけない、そんな空気が流れていた。 近寄りにくい。声をかける勇気が出ない。どうしよう。気づかなかったことにして、このまま帰ってしまおうか。 そのとき、ふと我様が顔を上げてこっちを見た。目が合って、ふんわりと微笑まれる。 「ヤマト」 周りにいた女子が一斉に俺を見た。なんだかいたたまれない。 仕方ないと覚悟を決めて我様に近づく。後ろの方で女子達の囁き声が大きくなったけれど、気づかないふりをした。 我様はにこにこしている。 「こんなところで会うとは奇遇だな。一体どうしたのだ?」 「どうしたはこっちのセリフだよ。何してんの?」 「ハイゼンベルクの不確定性原理について、少し気になるところがあってな。調べに来たのだ」 「ハイ、ゼンベル? 何?」 「量子力学の権威だ。簡単に言えば、素粒子などの動きというのは、位置を確認しようとすると動きが分からなくなり、動きを把握しようとすると今度は位置がわからなくなる、という現象を――」 ほんの二か月前まで小学生の教科書を読んでいた男の言葉とは思えない。マジでこの人の頭の中は、一体どうなってるんだろう。 「いや、そうじゃなくて。なんでこんなとこにいんの?」  遮った俺の質問にも、我様が気を悪くした様子はない。 「いつもの図書館の者に聞いたら、ここならより詳しい書物があるだろうと地図をもらった。ここは、誰でも入れると聞いたが。いけなかったのか?」  確かに、近所のじーさんばーさんが来てることもある。 「いや、別にダメじゃない、はずだけど……。それでわかったの?」 「ああ、とりあえず納得したぞ。科学というのは日進月歩だな。常に学び続けなければ意味がない」 「じゃあ、」 周りからの視線が痛い。早く帰りたい。胸の辺りがモヤモヤして、なんだか気持ちが悪い。 「ところで、あの者たちは何をしているのだ?」 ここにきてようやく我様の視界にも女子達の姿が映ったらしい。やっぱり状況を理解していなかったのか。恐ろしくてちゃんと確認できないけど、あきらかにさっきよりも人数が増えている。 「みんな、我様のこと見てんだよ」 「何故だ?」 「何故って……、アンタがイケメンだからだよ」 我様は本気で不思議そうな顔をする。イケメンという単語がわからなかったのかもしれない。 「だから、えーと。我様が綺麗だから、みんな見とれてるんだって」 「どういうことだ? 我にはよくわからん」 「アンタなぁ、毎日顔洗うときに鏡見てんだろ? もっと自覚しろよ」 イラッときて、ひそめていた声が少しだけ大きくなってしまった。 我様が首をひねる。絹糸のような金の髪がさらりと揺れた。真顔だ。 「我は、お前のその黒い髪も黒い瞳も、美しいと思うが」 「……っ」 あまりにも当然のことのように言われて、動揺してしまった。言葉に詰まってむせそうになる。 真に受けるなんて、馬鹿げてる。我様は服装だって頓着しないし、たぶん美醜感がちょっとズレている。他人に対しても見た目で判断したりしない人なんだろう。それだけだ。 だから、いちいち気にするようなことじゃない。たぶん何も考えてない。わかってる。  それなのに、顔が熱い。 「と、とにかく、我様が読みたい本があったら、俺が借りるから。だから、えーっと……」 なんて言えばいいのか、悩んでしまう。 もうここの図書館には来るな、なんて言えない。そもそも、そんなことは我様の自由だし、みんなが我様を見てキャーキャー言っていても俺には関係ないはずだ。それなのに、すごく嫌だと思ってしまう。理由なんてわからない。どうして嫌なんだろう。 考えすぎて頭がぐるぐるしてきた。よくわからないけど、嫌なものは嫌だ。 「おい、ヤマト。顔が赤いぞ」 「え?」 腕を引かれて、額が何かにぶつかった。女子の奇声が聞こえた気がする。状況がつかめない。どうしてこんなに近くに我様の顔があるんだろう。驚きすぎて固まってしまう。 一、二秒後、離れた我様は眉を寄せて言った。 「お前、熱があるのではないか?」 まともに頭が回らなくて、何も言えないのは熱のせいだろうか。それとも、我様が急に変なことをしたからか。 どうしてこんなに、顔があついんだろう。 視界がぐるぐる回り出した。足元がフラフラする。自覚したら、一気に立っていることが辛くなってきた。 「帰るぞ」 我様は本を棚に戻すと出入口に向かって歩き出した。俺は手を掴まれたまま、我様に引きずられるように図書館を後にする。 みんながこっちを見ていたような気がしたけど、顔が熱くて、フラフラして。なによりも掴まれた手の方が気になって、どうでもよかった。 「…………あ、れ……?」 カーテンの隙間から差し込む光がぼんやりと辺りを照らしている。 視線を動かして気づく。俺の部屋だ。枕元にあるデジタル時計の表示は午後六時を過ぎていた。汗で湿った服が気持ち悪い。起き上がろうとしてまた気づく。いつの間にか寝巻になっている。 「起きたか」 電気が点いて、ペットボトルを手にした我様が部屋に入ってきた。キャップを取ったボトルを渡されて、何口か流し込むと喉がずいぶん乾いていたことに気づかされる。 「ありがとう」 「熱はどうだ?」 額を触わる手の冷たさが気持ちよくて目をつぶった。 「まだ少しあるな」 「……あの、ごめん、俺?」 図書館を出て、普段乗らないバスに乗って揺られて、ほとんど我様に支えられるようにして家まで帰ってきた、ところまでは覚えている。 「玄関に入るなり倒れた。あまり心配させるな」 どうやら我様がここまで運んでくれたらしい。しかも服まで着替えさせてくれたなんて、手のかかる子どもみたいで恥ずかしい。 「う、あー…………ごめん、ありがと」 「構わん。それからお前は少し軽すぎるぞ。もっと太れ」 「我様のおかげで、ちゃんと食ってるよ。アンタの飯美味いし、姉ちゃんと暮らしてた時よりちゃんと生活してる、と思う」 姉ちゃんは仕事で帰りが遅かったから、飯に関しては俺が作ることの方が多かった。できるだけちゃんとしたものを作るようにしていたつもりだけれど、コンビニ飯や、テキトーなどんぶり飯になってしまうことも少なくなかったと思う。 「姉? お前、姉がいたのか? ……そういえば、お前の家族はどうしている?」 今さらな質問に、そういえば説明していなかったなとぼんやりする頭で思う。 「母親は俺が小さいころにこの家出て行っちゃって、親父は五年前に交通事故で死んじゃってて、姉ちゃんはこの前結婚して今は隣町にいるけど」 「……そうか」 我様が悲しそうに目を伏せるものだから、逆に俺が慌ててしまった。 少し前まではこんな顔する人じゃなかったと思うし、なんだったらこんな風に訊いてくることもなかったと思う。調子が狂ってしまいそうだ。 「あ、あのでも全然! 母親のことは覚えてないし、親父のことはもう五年も前の話で、そもそも出張だのなんだので元々あんまり家にいる人じゃなかったし、姉ちゃんはめでたい話だから。だから、えーっと、気にしなくていいから。それに」 「……それに? なんだ?」 言いかけて止めた俺に、我様が首を傾げた。俺今何言おうとした。 今は我様がいるから、なんだかんだで結構、楽しい、だなんて。 「いやごめん何でもない、気にしないで」 危うく口から出そうになった言葉を慌てて飲み込んで、ごまかすように早口で言った。 我様はまた首を傾げながら、それでも素直に頷いた。 「わかった。粥を作ってみたが、食えるか?」 「あー。……ちょっと食いたい、かも」 「持ってくる。寝ていろ」 そう言うと、我様はさり気ないしぐさで俺の髪の毛をそっと撫ぜて出て行った。 なんだ今の。 触られた前髪を無意識に撫でている自分に気が付いて、顔が熱くなった。下がりかけた熱が、また上がった気がする。 そのままぼんやりとしていたら、戻ってきた我様が少しだけ眉を寄せた。 「寝ていろと言っただろう」 どうやら心配してくれているらしい。 土鍋の蓋を開けると、湯気と一緒にいいにおいがした。自分では気づいていなかったけど、思っていた以上に腹が減っていたらしい。我様が作ってくれた卵粥は美味しくて、あっという間に平らげてしまった。 「それだけ食欲があれば大丈夫だな」 安心したように笑う顔をぼんやりと眺めながら、ふと思う。 今日の我様はなんだかすごく優しいのは、きっと気のせいじゃない。俺が風邪を引いていることも関係しているかもしれないけど、たぶんそれだけじゃない。最近はこんな風に笑うことが多くなったし、ずいぶん優しくなった、と思う。 出会った頃はもっと、怖かった。口は笑っているのに、目は笑っていなかった。今は全然違う。ちゃんと笑っている、と思う。 いつからだろう。この人はいつから、こんな風に柔らかく笑うようになったんだろう。 じぃっと見つめる視線に、気づいた我様は首を傾げた。 「どうかしたか?」 「あー、いや。……そういえば、初めてだなぁと思って」 「何がだ?」 「誰かに、こういう風に看病してもらうの。子どもの頃から、風邪引いても一人で寝て何とかしてたから。それが当たり前だったし」 親父も姉ちゃんも忙しい人だったから、そんな我儘は言えなかった。 「そうか。では、今日は我がついていてやろう」 「え? いや、いいよ別に。つうか、うつったらどうすんだよ」 「病人が余計な気を回すな。いいから、寝ていろ。ここにいてやるから」 いつのまにか、どこかから椅子を持ってきていたらしい。ベッドサイドに長い足を組むようにして腰掛けた我様と目が合う。じっと見られるのは、なんだかちょっと落ち着かない。 「我様本でも読んでなよ」 「お前が眠ったらな」 「えー……。じゃあ何か話してよ。何でもいいから。あ、でも難しいのはパス。簡単な話がいい」 「我儘な奴だな……。そうだな、では」 苦笑しつつ、我様は話し始めた。 「――あるところに一人の男がいた。その男は神が作った人形でな。神の言うことをよく聞いた。男は人形だったから、心を持たず、それゆえ人々に心があることを知らなかった。だが、心がなくても笑うことだけはできた。そう作られていたからな。ただ、笑っているだけの、憐れな人形だ」  腹が満たされたせいか、なんだか眠くなってきた。静かな声が耳に心地良い。 「だがな、ある時、神は気まぐれにその男に心を与えた。ほんの気まぐれだ。急ごしらえの粗末なものだったが、それは男によく馴染んだ。男は学びを覚え、喜びを知り、悲しみを知り、怒りを知った。そして神の言うことをきかなくなった。神は怒り、自我の芽生えた人形など要らぬと、その男を捨ててしまった。自分で与えたくせに、全く勝手なことをする……」  伏せられた長い睫毛が、キラキラと光っている。彫刻のように端整な横顔をぼぅっと見つめながら、我様の声に耳を傾ける。 「男は仕方なく、旅に出ることにした。長くあてのない旅だ。旅の途中、男は三人の男と女に出会った。貧しい男、病に侵された男、それから、醜い女。三人とも、望みを持っていた。だから男は、神から与えられていた力を使って、その望みを叶えてやった。貧しい男には金を、病に侵された男には健康を、醜い女には美を。だが三人とも、男が神の作った人形だと知ると、皆そろって男を恐れ、追い出した……」  我様の声が少し沈んでいるように聴こえて気になった。横顔が、酷く寂しそうに見える。 「我様……?」 目が合うと我様は首を振って、ほんの少しだけ口元を緩めるようにして笑った。 「…………随分経ってから、今度は、一人の若い男と出会った。その若い男は、今までの誰とも違って、何の見返りも、望みも口にしようとしない。少し変わった男だった。男は服と寝床と食事を与えられた。それから――」 「それから?」 「……我が知っているのはここまでだ」 なんだか不思議な話だった。どこかひっかかるような違和感を覚えて、でもそれが何なのか、眠気に襲われた回らない頭ではわかりそうになかった。 「……その人、どうなった、かな?」 「さてな。今頃は案外、楽しくやっているのではないか」 優しい掌がそっと頬に触れた。その仕草が少しくすぐったくて、ずいぶん甘いなぁと思ったけど、嫌だとは少しも思わなかった。 「ほら。もう寝ろ」 「我様……」 「ん?」 瞼を持ち上げるのがひどく億劫だ。 「その人、幸せになるといいな……」 夢うつつの中、我様が微笑んだ気がした。

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