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屋根裏の王様 3

日増しに強くなっていく陽射しに、夏が来たんだなあと実感する。陽も落ちてもう数時間経つというのに、肌にまとわりつくような湿気と暑さは、なかなか消えてくれない。 我様がうちに来て三週間が経った。記憶はまだ何も戻っていないようだ。 バイトから帰って来てシャワーを済ませた後、空腹のまま台所へ入ると、美味そうな匂いが鼻をくすぐった。 ジャッ、ジャッと小気味よい音を立てて米と具が宙に舞い上がる。じめじめとした蒸し暑さの中、不快な湿気など気にも止めていない様子で、我様が中華鍋をふるっていた。 白いシャツ越しに綺麗に動く肩甲骨をぼうっと眺める。 「すぐにできる。そのまま座して待て」  テーブルの上にはバンバンジーが載っている。 どうやら我様は料理作りにハマってしまったらしい。テレビの料理番組だとか、姉ちゃんが置いて行ったレシピ本を眺めて覚えているようで、レパートリーもだいぶ増えた。 最初の日に朝と同じメニューになってしまったのは、それしか「ご飯」を知らなかったから、らしい。 今ではほとんど毎日、夕飯は我様が作ってくれている。あたりまえのように俺の分も出てくるから、最初は驚いたし、今でもまだちょっと不思議だ。今日みたいにバイトで遅くなった日には、俺の分だけ別に作って出してくれたりする。 初心者とは思えないくらい、美味いものを作ってくれるし、純粋にありがたいけど。 料理だけじゃなくて、掃除機も洗濯機も使い方を教えたら、何故か気に入ったらしい。嬉々として使っている姿を時々目にする。 普通に家事もこなすし、贅沢もしない。正直、王様っていうより、家政夫って言った方が正しいような感じがする。家政夫っていう言い方もどうかと思うけれど、他に思いつかない。 楽しそうだし、別にいいんだけど。 我様は王様で、彼が言うには俺は臣下になったはず、なんだけど。 てっきりこき使われるものとばかり思っていたから、若干拍子抜けではある。どうしてこんな状況になっているのか、もしかしたら我様なりの「労い」ってやつなのかもしんないけど、イマイチよくわかっていない。 「あのー、我様」 「なんだ?」 「俺、臣下って言ったけど、何もしてなくない、ですか?」 我様は振り返ることもなく、鍋をふるったまま言った。 「特に何もせずともよい。王は一人では王たり得ないだろう?」 言葉通り、特別気にすることでもないように、さらりと返される。 それでいいなら、別にいいんだけど。 願い事も考えるのが億劫で、ずるずると引き延ばしている。何かないかと思っても、率先して肉体労働してくれているし、わざわざ頼むこともない。なんだか、これじゃあ――。 「できたぞ」  コトリと音を立てて、目の前に出来立てのチャーハンが置かれた。 そういえば、昨日はエビチリがでてきたっけ。中華料理の特集でも見たのかもしれない。 「いただきます」 「うむ、存分に食すが良い」  手を合わせた俺に満足そうに微笑むと、向かいに座った我様は本に視線を落とした。 一口頬張ると、口の中にやさしい旨みが広がった。見た目の想像通り、ご飯も卵もパラパラで、たっぷり入った桜えびが香ばしかった。そのままもくもくと食べながら、目の前の男をちらりと見やる。  我様について俺が分かったことと言えば、本が好きってことと、すごくもの覚えがいいということ。頭の回転が異常に早くて、知識欲が旺盛で、気になったことはとことん調べたがるし、一度覚えたことは忘れないらしい。 それから、寝起きはかなりよくない、ということも知った。今思えば、初日はちゃんと起きてくれた方だった。 二日目の夜、お客さん用に残してあった親父が使っていたキングサイズのでかいベッドを提供してからは、眠りが深くなったのかさらに寝汚くなってしまった。ちょっとやそっとでは起きようとしない。 我様は順調にこの世界のことを学んでいるようだった。 最初こそ、俺が渡した教科書や子ども向けの図鑑を読んでいたみたいだけど、いつの間にか大学受験用の参考書を捲っていた。昨日は『社会学』で、今読んでいるのはどうやら『相対性理論』に関する本らしい。つうか、そんな本この家にあったのか。 屋根裏部屋の白いソファがお気に入りらしく、そこに座って書棚の本を読んでいることが多い。小説の類に興味はないのか、もっぱら教養書や実用書なんかの学術書ばかりを黙々と読みふけっている。数学、物理学、経済、哲学、ジャンルもバラバラ、今のところ特にこだわりは見られない。 興味深そうにテレビを見ている時もある。もっぱら、ニュースかドキュメンタリーばかりで、バラエティーとか、ドラマとかには感心がないようだ。 それでもずいぶんと俗っぽくなったものだと思う。 初日に感じた不信感は、きれいさっぱりとまではいかないものの、だいぶ薄らいでいた。 悪い人じゃない、と思う。 よく笑うし、かといって騒がしくもない。思っていたよりも自分勝手でも、我儘でもない。飯も作ってくれるし、掃除や洗濯をしてくれることもある。必要以上に干渉してこない我様との暮らしは案外楽で、気を遣うこともない。 そんなに、悪くはない、と思う。 暮らし始めた当初は、いろいろ教えることもあって面倒に思うことも多かったけど、一度教えてしまえばすんなりと飲み込んで覚えてしまう我様は、それほど手のかかる子どもというわけでもなかった。今ではもう普通に日常生活が送れている。 けれど、依然として我様の考えていることはさっぱり分からないままだった。いつもにこにこしているから、それなりに楽しいんだろうとは思うけど。 何が好きで何が嫌いなのかとかもイマイチよくわからない。 俺はたぶん、嫌われてはいないだろう、とは思う。だからといって、気に入られているというのも微妙な気がする。 たぶん、関心がない。この言葉が一番しっくりくる。だって――。 「あの部屋にある書物は粗方読んでしまったのだが。他にはもうないのか?」 パタンと本を閉じる音が聞こえて、我様が声をかけてきた。 「え? もう?」 数えていないから正確な数はわからないけど、親父の書斎にはかなりの蔵書があったはずだ。たぶん、二、三百冊はかるく超えていると思う。半分は我様の読まない小説やエッセイだとしても、ペースが速すぎる。 この人の読むスピードに合わせて本を買っていたら、確実に破産する。大体、一度読んだら内容は覚えてしまうから、読み直す必要もなさそうだ。 どうするか。ちょっと考えて閃いた。 「じゃあ、明日図書館行ってみます?」 「図書館?」 いつも家の中で着ているジャージのままで外に出ようとするから、必死で止めて着替えてもらった。初日にも思ったけど、我様は着るものに対して全く気にかけないタイプだ。 着られればそれでいいというくらいこだわりがない。 手足が長くて身体全体のバランスがいいせいか、量販品のTシャツやジーンズがどこぞのブランド物かと思われるくらい映えている。 外に出て、我様がパッと見ただの金髪イケメン外国人だったと思い出した。日本語ペラペラ話すから、うっかり忘れていた。やっぱり目立つらしい。道行く人が皆我様を見ているが、本人は全然気にしていないように見える。というより、気づいてないっぽい。だから、あえて俺も気にしないようにした。大体、見られているのは俺じゃないし。 我様は足が長い。つまり、歩幅が大きい。 「おい、次はどちらだ?」 「ちょっ、我様、待っ、早い」 道案内をするはずの俺は気が付くとちょっと遅れていて、後ろから着いて行く形になってしまう。我様は呆れたように言った。 「お前はどうしてそんなに遅いのだ?」 「……足の長さ、考えてください」 我様が視線を足元に落とした後、ちらっと俺の方を見て、初めて気づいたというような顔をした。俺もそんなに自分の足が短いとは思ってないけど、流石に我様みたいな超人と比べられたらへこむ。 それから、我様は心持ゆっくりと歩いてくれた。それでも彼に合わせる為には、若干早足で頑張らないといけなかったけど。 家から十五分くらい歩いたところに、市営の図書館がある。大きな公園のすぐ横に設置された、茶色いレンガ造りの趣のある建物で、中学生の頃よく通っていた。 大学とは方向が反対だし、ここ数年は全く利用していなかったから、中に入るのは久しぶりだ。冷房が程よく効いていて、火照った肌に心地良い。 平日の昼過ぎの図書館は、人数もまばらで、物静かなじーさんばーさんが殆どだった。我様が近くを通ると皆、ぎょっとしたように目を見開いている。平和な田舎の図書館に、いきなりこんな外国人俳優顔負けの金髪美男子が来たら誰だって驚くだろう。 けれど我様自身は、周りの視線には全く気が付いていない様子で、初めて来た図書館に夢中になっていた。口元に笑みが浮かんでいて、見るからに楽しそうだ。適当に目を付けた棚の前で、本を手に取ってはパラパラとページを捲っている。 気にしないようにと思っていたけど、チラチラこちらを見てくる視線が気になって仕方がない。本人が無自覚だからなおさらだ。 小声で、我様に話しかけた。 「あのー、さっさと借りて帰りませんか?」 「何故だ?」 「あ、えっと。家のソファで読んだほうが楽かなー、って」 「む、まぁそれも一理あるな。ならば、手を出せ」 我様に従って手を出すと、持っていた本を乗せられた。それから我様は片っ端から取り出した本を、よどみない動きでその上にどんどん積み重ね始めた。どれもハードカバーの分厚い本ばかりで、すげえ重い。 「え!? ちょっ、待っ重! 我様、あの」 「なんだ?」 「いや、どれだけ借りるつもりですか?」 「ここから、ここまでだが。何か問題があるのか?」  我様は今立っている棚の端から反対側の端までを指さした。そうすることが当然とでも思っているような口ぶりだ。 「……たぶん、貸出制限があるから無理だと思いますけど」 自分ではそんなに借りたことがないからよく覚えていない。第一そんなに借りたくない。たぶんこの流れだと、持って帰るのは俺だと思うし。 「貸出制限だと?」 少し不満そうな我様のことは見ないようにして、辺りを見回すと、壁際のインフォメーションコーナーに紙が貼ってあった。 「あー、十冊までだそうです」 そう言うと、渋々といった体でページをぱらぱらとめくって、我様は選び直した。それでも充分重い。 我様はまだ少し名残惜しそうに本棚を見ている。 「じゃあ、ちょっと借りて来るんで、待っててください」 ずいぶん利用していなかったから、借りる前にカードの更新をしてもらった。それでもたぶん、五分もかからなかったと思う。 それなのに。 本を無理矢理トートバッグに押し込んで振り返ると、元居た場所に我様はいなかった。 ああ、もう。どこ行きやがった。毒づきながら辺りを見渡す。 我様にとっては初めて来た場所だし、きっといろいろ見て周っているに違いない。 そう思って我様が読みそうな学術書の辺りを中心に、何度も行ったり来たりしてみたけどなかなか見つからない。それほど大きな建物じゃないし、目立つ人だからどこにいたってすぐにわかるはずなのに。 もしかしたら、もう帰ってしまったのかもしれない。どうしようかと視線をさまよわせた時、奥の方にある棚の前で佇んでいる我様を見つけた。  周りに小さい椅子だとか、ぬいぐるみが置いてあるところをみると、どうやら子供向けの絵本のコーナーのようだ。そんなところにいるなんて、盲点だった。 帰りますよと声をかけようとして、ようやく気がついた。表情が硬い。いつも笑っている口元は引き結ばれていて、何かを睨むように一点を見据えている。出会った日を思い出すような冷たい眼だった。 剣呑な雰囲気に、近づくのをためらう。どうしたらいいのか分からないまま突っ立っていると、我様がこちらに向かって歩いてきた。 「……我様?」 思い切って声をかける。目があったはずなのに、我様はそのままフイ、と俺の横を素通りして、図書館を出て行こうとする。 明らかにいつもと様子が違った。いつもだったらたぶん、何か一言くらい声をかけてくれると思う。気づかなかったはずがない。 無視された? 訳が分からないまま、追いかける。本が重くて、走る度に肩に下げたトートバッグが揺れた。紐が肩に食い込んで少し痛い。 我様は、まったくこちらを気にかけない速さでスタスタ歩いていき、図書館の自動ドアを抜けて外に出て行ってしまう。 「ちょ、何? 急にどうした? おい!」 大きな声で呼びかけても、我様は立ち止まってくれない。絶対に聞こえているはずなのに、歩調を緩めてもくれない。 「なあ! どうしたんだよ?」 公園の敷地内に差し掛かった頃、ようやく追いついた。どこかぼんやりとした表情のまま、こちらを見ようともしない。我様の前に回り込んで話しかける。 「我様?」  やっぱり様子がおかしい。一瞬ちらりと俺の顔を見た後すぐに踵を返そうとしたから、反射で手が伸びた。 「待っ」 「触るな」 乾いた音がした。 何が起こったのかわからなくて、一瞬茫然としてしまう。微かな痛みで手を振り払われたのだと気がついたけど、その時にはもう我様は歩き出していた。 「……っ」 俺の中の何かが切れた。 「なんなんだよ、いきなり! 俺何か、アンタの気に障るようなことしたかよ? 何か気に入らないことがあるんなら、言えばいいだろーが!」  我様が立ち止まった。けれど、何も言わないし、振り返りもしない。それがまたイラっときて、俺は怒鳴った。 「だいたいアンタいつも何考えてんのかわかんねーんだよ! 今だって、落ち込んでんのか、怒ってんのかもわかんねーし。言ってくれなきゃわかんねーんだよ。アンタちょっと勝手過ぎんだろ。これでも一応心配してんだよ。俺の気持ちも少しは考えろよ。自分の感情ひとつセーブできないなんて、ただのガキと一緒だろーが! だいたい本くらい自分で持てよ。アンタが選んだ奴全部すげー重いんだよ!」 自分でも何を言っているのか途中からわからなくなってしまった。しかも、最後のは本当に全然関係ない。ただの八つ当たりだ。 こんな風に喚く自分の方がガキだって思ったけれど、止まらなかった。思ったまま喚き散らして肩で息をしていると、何一つ反論せずに聞いていたらしい我様が、急に向き直った。目が合う。 反射で、びくりと肩が震えた。 切れ長の青い目を、俺に向けて真っ直ぐぶつけてきた。直感的にわかった。さっきまでは目に映っていても見えていなかったのに、今はちゃんと「俺」を認識している。 いつもの目だ。猫みたいな、何か不思議なことや、自分の知らないことに出くわしたときにする目をしている。 「な、何……?」 あまりに強い視線を向けられて、思わず後ずさりしそうになった。 少し言い過ぎたかもしれない。敬語も使わなかったし、逆切れされてたっておかしくない。 もともと、自分の気持ちを言葉にするのは苦手な自覚がある。怒るのはもっと苦手だ。疲れるし、言いたいこともまとまらない。怒った後は必ずと言っていいほど後悔してしまう。余計なことを言って気まずさが残るよりは、自分が我慢して言葉を飲み込んだ方がよっぽど楽だ。 それに、言ったって分からない奴には一生分からない。だから、怒りたくない。言わなくていい。 今までずっとそうしてきたのに、それなのに、耐えられなくて怒鳴ってしまった。 罵倒が飛んでくるのでは、と身を固くして待っていると、ぽつりとしたつぶやきが聞こえた。 「…………お前は、怒るのだな……」 顔を上げると、我様はただただ純粋に驚いたような顔をしていて、逆に俺の方がびっくりしてしまう。 「は?」  なんなんだ一体。謝るとか、理由を話すとか、もっと他に言うことがあるだろう。 「そりゃ、怒るよ……」 わざと睨むようにしてみても、目の前の男は一人納得したように頷くばかりだ。 「うん。面白い」 その一言に、怒りも呆れも通り越してなんだか毒気が抜かれてしまった。 俺がさっさと帰ろうなんて言ったから、ひそかに怒っていたのだろうか。それとも、待たせたつもりはないけど、遅くてイライラしたとか? 考えてみてもわからない。どれも違う気がする。そんなに小さいことで怒るような人じゃない、と思う。 気がついたらいつもの飄々とした我様に戻っていて、なんだか少しホッとした瞬間だった。 「ヤマト」  急に名前を呼ばれた。 「ヤマト」  もう一度、呼ばれてから気が付いた。 初めてちゃんと名前を呼ばれたことに。 「な、何、ですか?」 びっくりし過ぎて、どもってしまう。俺のことなんか臣下その一くらいにしか思ってなくて、名前なんて絶対忘れてると思っていたのに、一応覚えていたらしい。 「腹が減ったな。帰るとするか」 「えっ、マジで何?」 我様は俺が持っていたバッグを取り上げると、ひょいっと肩にかけ歩き出した。 何が何だかさっぱりわからなくて、この人、どうかしているんじゃないかと思う。でも我様の機嫌が直ったみたいでよかったと思ってしまう俺も、きっとどうかしている。正直自分でも、なんで安心してるのかわからない。 ぼんやり突っ立ったままでいたら、我様が立ち止まって振り返った。 「今夜の食事はどうする? お前は何が好きだ?」 こんな風に俺に訊いてくるのも、初めてのことだ。ご機嫌取りのつもりなんだろうか。それならそれで、まぁ、いいか。 「…………チキン南蛮。こないだ、作ってくれたやつ」 「うむ。いいだろう」 大きく頷いた我様はなんだか楽しそうに笑っていた。やっぱりちょっとホッとしてしまって、うっかりつられて笑い出しそうになってしまった。 帰り道は並んで、ゆっくり歩いた。 我様のことは、やっぱりよくわからない。

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