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椎葉祐一郎の感慨

社長が煙草をやめたらしい。 有賀デザイン事務所発足当時から事務として、そして細かい雑務もこなす貴重な社員として学び、働いてきた椎葉にとって、これは思わず珈琲を零してしまう程の重大なニュースだった。 「しーばちゃん、珈琲零れてる零れてるあー、あー、ちょっと、雪ちゃん雑巾かティッシュ、」 「……自分で拭きますんで大丈夫です。すみません余りにも社長が現実的ではないネタをふっかけてくるもんですから、動揺しました。あれですかね。普段忙しすぎて四季を忘れがちな社員に送る一か月遅れのエイプリルフール的な優しさですか」 冷静を装いつつメタルフレームの眼鏡の弦を押し上げ、押しっぱなしのせいで溢れた珈琲を片づける為に給湯器横のキッチンペーパーを取った。 そんな椎葉の言葉にも動じることなく、常日頃から済ました顔の有賀は感情の読みとりにくい低めの声でだらりと喋る。 「しーばちゃんのね、その容赦ない嫌味なんだかおもしろいんだかわかんない口頭攻撃、結構好きなんだよねぇ。嘘ついてうんたらっていうイベント、そもそもあんまり興味無いし。煙草やめたのは本当。まあ、まだ一週間もたってないけど」 普通の男がこんな喋り方をしたら少し気持ち悪いか苛つくかもしれないが、美男子とは得だ。三十歳近くだというのに金髪でも許されるし、ヘビースモーカーでも許される。しかし今この金髪美男子は、その煙草をやめたとたしかに言った。 健康に良くないからやめたらどうかと、今まで時折り声をかけてきた。 それも暖簾に駄目押しで、やめると逆に苛々して健康に悪いとかわされてきた。ほとんど仕事が趣味の有賀にとって、毎日の煙草と酒と、時々の料理がストレスのはけ口になっているというのは勿論知っていたし、故に余り口出しするのもどうか、と最近は諦めていた。 椎葉は有賀が好きだ。尊敬している。だからできれば長く楽しく生きてほしい。健康でいてほしい。そう思うくらいには好きだった。 しかしいざ実際にやめたときくと、実感が持てない。 トレードマークのように咥えていた煙草は確かに有賀の周辺には見当たらないが、正直、違和感すら覚える。 「健康診断の結果ってきましたっけ……」 「まだ。ていうか煙草の弊害って簡易健康診断くらいじゃわかんないでしょう。しーばちゃん、そんなに僕が煙草やめたの信じられないの。いつもやめろやめろってうるさかったじゃない。もうちょっと喜んでくれてもいいんだよ」 「いや……、ええ、まあ。そうですね嬉しいような気がしますが同時に若干恐ろしいですね気持ち悪いというかなんというか。何が社長の背中を押したんですか」 「何って、あー……恋? かな?」 「ごほっ、……っ、」 珈琲を飲みながら会話をするべきでは無かった。 思いきり噎せた椎葉は、それでも吐く事だけはなんとか耐え、暫く気管に入った珈琲のせいで止まらない咳と戦っていたが、有賀は手元の作業を続けたまま『しーばちゃんはほんとひどい反応するねぇ』と澄ました顔で呟いた。 今自分は何か聴き間違いとしただろうか。 それともここまで全てエイプリルフールの名残なのではないか。 社長が煙草をやめた。そしてそれの原因は恋だと言う。 これが珈琲を噴かずしてどう反応したらいいのか、椎葉にはわからない。 「いいじゃない恋くらいしたってさ。僕だって人間ですよ。恋もするしキスもするしセックスもしたいです。かわいい恋人ができることもあるわけで、そのかわいい恋人から煙草吸ってる有賀さんはかっこいいから好きだけどでも長生きして欲しいからって健康被害一覧出されたらそれはもう僕も観念しますよ。まあ、いきなりやめるのはちょっとつらいから、休憩中に一本くらいは吸うけどね」 「くそ。惚気か」 「メンチ切らないでよ怖いからしーばちゃん。いいじゃない。聴きなよ。いつも奥さんの惚気きいてあげてるでしょ。たまには僕のかわいい子のお話をたっぷり聴いてくれても良いんだよ? 朝に強くて寝起きの笑顔が最高にかわいいとか。でも寝る時はうとうとするの必死にこらえててすこぶる愛らしいとか」 「……前々からちょっと言語センスが甘ったるいなとは思ってたんですけど、お花畑に突入すると本格的に痒い住人になる人だったんですね……」 「うん。それサクラちゃんにも言われるなぁ。そんなに痒いかね、僕。そんなつもりまったくないんだけどね。あ、ここ修正」 「了解です」 有賀にチェックされたデータに目を通しながら、思わず自身の反省をする程その惚気が痒い。確かに新婚の椎葉は妻かわいさについついその小話を有賀に零してしまう。椎葉も有賀と同じく仕事が趣味に近く、ほとんどこの事務所か家で生きている。 友人もいるにはいるが、時折り集まった時にする会話はやはり、主だった事件やエピソードが主になり、例えば昨日の朝のお茶に茶柱が立っていて妻がどうにかそれを倒さず最後まで浮かせながら飲もうと必死に努力していた話などは、酒のつまみにはならない。 だが言いたい。だってかわいいから。 今までそう思っていたが、そうかきく方は中々に痒い思いをしていたのか、と、椎葉はひっそりと反省をした。 「それ、明日の昼までで良いよ。急ぐものでもないし、どうせ他の作業止まってるから。奥さん退院してきたんでしょ、早く帰ってもいいよ」 「え。いや定時まではいますよ。うち、今親戚連中総動員お祭り騒ぎで嫁と子供にかかりっきりなんで。むしろ俺が居ても多分邪魔かと思います」 「大変だねぇ新米お父さん。まあそういってもらえると僕が若干早く帰れるかもしれない確率が上がるのでありがたい。もうほんと、いい加減明るいうちに帰りたい。帰ってサクラちゃんとご飯作りたい」 有賀の相手の名前はさくらちゃんと言うらしい。 どんな女性かは分からないが、名前の響きがかわいらしくてつい、小柄な少女を想像してしまいそうだ。二十八歳で長身金髪の有賀と並んだら、犯罪になってしまいそうな絵面だ。 きっと相応の歳なのだろうが、有賀は大体人間に痒いあだ名をつけて呼ぶので、そのさくらちゃんとやらも毎日痒い思いをしているに違いない。 「……御結婚とか。考えてる感じなんです?」 「うん? うーん、あー……まあ、どうだろうね。気持ち的にはそんな感じだけど。まあまだ、始めたばかりだし。禁煙も恋愛もねー。地味にやっていきたいよ、結構ね、真面目に考えてるからね。どっちも」 「社長はいつもくそがつくほど真面目ですよ。外見で誤解されがちですけどね。見た目もっと真面目にシフトチェンジしたらいかがですか」 「がり勉みたいになるからイヤ」 「さくらさんが黒髪にしてって言ったらします?」 「…………考える、かも」 「さくらさんすげーな」 直接は知らないがとんでもない影響力だと感心したし、とんでもなく惚れてて面白いと感動したし、社長も人間だったんだと思うと気持ち悪いような感慨が襲った。 何にせよ、煙草をやめたのは喜ばしいことに違いない。 確かに長い指が煙草を支える様はポスターの様に絵になっていたが、納期明けにげっそりとやつれる原因の三割くらいは煙草の吸いすぎではないのかと思っていた。 これで多少は血色がよくなってくれると椎葉としても安心する。 根が真面目な有賀は予定をキャンセルする事は無いが、その分体調的には無理をすることも多かった。青い顔で遠方まで出張に行く有賀を見送るのは、社員としても不安でならない。 「でも禁煙ってしんどいって話ですよね。俺は吸った事ないんであんま、わかんないんですけど。口寂しくて苛々するって感じなんです?」 珈琲のカップを洗い、手を拭きながら自分のデスクに戻り作業の段取りを考えつつ、そんなどうでもいい雑談を投げかけたことを、数分後には後悔した。 「まあ、仕事中は本格的に集中しちゃえば気にならないし。集中力切れた時はとりあえず珈琲で誤魔化してるね今のところ」 「家では吸っちゃいませんか」 「口さびしいって言うとサクラちゃんがちゅーしてくれるようになった」 「……結局惚気か!」 しかも相当なバカップルだ。これは自分程度では勝てないかもしれない。というか勝負にならない。 「馬に蹴られろバカップル」 「それって邪魔した方じゃなかったっけ?」 澄ました顔が、微妙に嬉しそうににやにやしていたのも苛ついて、けれどどうにも良い人が見つかったらしくて良かったと思っている自分もいて、椎葉は複雑な気分で仕事しろと一括した。 結局自分は有賀が好きなのだ。 だから有賀が目に見えて幸福そうな恋愛をしているというのは、悔しいが喜ばしい。 禁煙も恋愛も、できることなら一生続けばいいと、苛立ちを含めて呪いのように念じつつ、椎葉はパソコンに向き合った。 これが、有賀デザイン事務所の日常単語に、『さくらちゃん』が加わった瞬間だった。 End

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