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椎葉祐一郎の動揺

「まずい資料うちに忘れた」 珍しく、絶望的な声を出したのは今からクライアントの会社に向かう、その三十分前の有賀だった。 端正な顔は相変わらず涼しい美貌を湛えてはいるが、よくよく見ると目の周りに若干の隈が見え、肌も唇も乾いている。心なしか顔色も悪い。熱はないし風邪でもないので大丈夫だと言い張るが、むしろ普通の状態でこの疲れようという事実もどうかと思う。 事務所一同、自分が代わりにと挙手をしてみたがそもそも一から有賀自身が手掛けていた仕事だったので、本人がいかなくてはどうにもならない。 たいした打ち合わせじゃないから大丈夫、と結論付けてかばんを用意していた時に、先程の絶望的呟きが発せられたわけだった。 今にもふらりと倒れそうな有賀を新人デザイナーの雪見が慌てて支えたが、小柄な女性ではうまく支えられずにそのまま倒れそうになり、それをまた椎葉が支える。 「え、ちょ、マジですかソレ。他にコピーないんですか」 「あー……やっばいねー、ひっさしぶりに馬鹿やったねー……原本はこっちにあるんだけど結局家で完成させちゃったからデータ家だ……封筒に入れて椅子の上に置いたまま忘れてきたしにたい」 「しゃ、社長落ちついてください! は、早まったらいけませんきっと、あの、何か、きっと、ほら、解決策が!」 「雪見ちゃん落ちついて。タクシー呼んで取りに行ったら間に合います?」 「あー……呼んで、来て、そんで家に行ったあたりでアウト、かも」 「じゃあ今から自宅周辺で暇してそうで家に寄れそうな御友人とかいないんですか。なんか古いアパートに越したって話だから、大家とかほら! そういうのに言えば鍵くらい開くでしょう。今昼時だし、誰かしら、あっ、さくらさんは!?」 「……あ」 急にぱっと真顔に戻った有賀は、携帯を取り出すと驚くべき速さで通話ボタンを押していた。 相手が出たと思うや否や早口でごめんと謝り今から家に行って資料取ってきてほしい旨を一気に伝えた。 それは隣で見ていた椎葉も雪見もぽかんと口を開けてしまう程、淡々としていて、尚且つ業務的だ。 付き合っている女性に対して、そんなに強引で言葉少なでいいのだろうか。普段有賀が惚気るさくらちゃんという人物に対しての印象と、随分と違う。やはり疲れているのだろうか。 無駄な心配をしていると、颯爽と電話を切った有賀がほっとしたように机に突っ伏した。 「今から来てくれるって。車で。あー……サクラちゃんがお昼休憩中でよかった……蕎麦屋とかじゃなくて車の中でおにぎり食べてて良かった本当に良かった来週一週間お弁当作ってあげよう……」 「間に合いそうで良かったです……疲労って恐ろしいですね。タクシー呼びますか?」 「いや、なんか面倒だからそのまま送ってくれるって。持つべきものは社用車持ちの恋人だねー……」 「え、さくらさんって、銀行員か事務員さんかなにかですか?」 「んーん。もうちょっとアクティブ業。お宅に伺う系」 雪見が口にした疑問に、有賀はさらりと答えながら身支度を再開する。 一瞬今まで自分が何をしていたかわからなくなるほどパニックした事務所内が、ようやく日常業務に戻り始めた。 雪見は新しいデスクの上で雑用を始め、椎葉も騒動で散らばった机を片づける。 お宅に伺う系とは、保険の外交員か何かだろうか。 そう思いつつ、働く女性は大変だなとどうでもいい感想を抱く。それでも休憩合間にあの有賀の切羽詰まった電話で駆けつけてくれるのだから、さくらちゃんとやらも相当有賀に熱を上げているのかもしれない。 先程のほぼ用件だけの会話で、有賀が切羽詰まってパニックしていることを察するくらいには、二人の仲は順調かつ深いものなのだろう。 そうこうしているうちに有賀の携帯が鳴り、さくらの到着が知らされた。思っていた以上に早い。近くに居たのか、飛ばしてきたのか、何にしても素晴らしい行動力だ。 「鍵。鍵が無い。あれ、ファイル、あれ……ちょっと、しーばちゃん、サクラちゃんとこに先に行って、待ってて貰って。あと三分で行くからって」 「しっかりしてくださいよ……三分って本当に言いますからね」 そう言い、二階の事務所の扉を開けた下には、古臭いワゴンが一台止まっていた。 なんとなく保険の営業イメージがあった椎葉は、首をかしげつつも一階に降りて行く。ワゴンはいかにも下町の親父さんが乗っていそうな古びたもので、尚且つその車体には『里倉電器工務店』の文字がこれまた古臭い明朝体で記されていた。 工務店の事務さんなのだろうか。などという疑問は、運転席でぼんやり頬杖を付く人物を目にした時には、どうでもよくなっていた。 職業などどうでもいい。 そもそも、そこに居たのは男だ。 どう見ても男だ。 若干のパニックのまま、それをおくびにも出さず、椎葉は運転席の窓を軽く叩いた。ハッとこちらに気がついた男性は、すぐに窓を開けてくれる。一応ウインドウは自動らしいが、ギアの形から見てマニュアル車だ。 中から顔を見せた男は、愛想の良い笑顔を見せる。別段変わった事もない、作業着が似合う男だった。有賀ほどのインパクトのある美男子ではないが、良く見れば良い男という感じで、異性にも同性にも頼りにされそうな爽やかさと落ち着きがある。 「どうもすいません、私、有賀の部下の椎葉と申します。ええと、さくらさん、でよろしいですかね」 「あ、はい、そうですそうです。有賀のえーと、友人の」 若干言いにくそうに言葉を濁すことから、むしろこの男が有賀の恋人であることが確定的になったような気がした。しかし、きちんと関係を伏せているあたり、常識的というか、本当に普通の人間だ。まっとうだ。その真っ当さに少し、涙が出るような思いになる。 さぞあの有賀と付き合うのは大変だろう、という話もしてみたかったが、今は時間が無いし友人と自己紹介されたものを恋人と伺っています、というのはさくらにも悪い。 そう思い、簡単な挨拶をしてから三分だけ待ってほしい旨を伝え、苦笑いするさくらに了承を得た。 そのまま、うっかりさくらを凝視していたことが本人にばれ、少し首を傾げられてしまう。 ああ、そういえば社長が、首を傾げる時の角度がかわいい、なんて言っていたなぁなどと遠い目をしてしまいそうになった。 「……どうかしました?」 「いえ、ええと。……うち、そういえば風呂の給湯器が変な音立てるんだよな、と、お車を見たら思い出しまして」 「ああ、そういうの、うちでよければ見ますよ。良かったら電話ください。一応平日のみ営業っていうナメた経営方針ですけど、個人的には日曜とかでも全然問題ないんで」 渡された名刺には確かに、里倉電器工務店のロゴと、三浦桜介という記名があった。 その名刺を持って、ああそうか、それでさくらちゃんか、と妙な納得の仕方をしている時、事務所のドアが閉まる音と、いってきますという声が聞こえた。 階段をばたばたと降りてくる有賀に向かい、桜介は遅いと一言睨む。 「ばかじゃねーの資料忘れって。だからしっかり寝てしっかり食って生きろって言ってんじゃん。ばーか。ほら乗ればか」 「もう今へろへろしてて罵倒も愛にしか聞こえないよありがとうこんなに感謝したのは久しぶりです何かしら奢ります」 「そうしてください。飛ばすけど酔うなよ。吐いても置いて帰るから」 「がんばる。うん、がんばるよ。じゃあしーばちゃん、行って来ます。終わったら一応連絡入れるけど、長引くようなら先に帰っててもいいから。鍵持ってるし、施錠は任せたし」 「はい。……体調もろとも、お気をつけて。では三浦さん、社長をよろしくお願いします」 奇麗に礼をして送りだす椎葉に対して、有賀は軽く手を上げ、桜介は爽やかに礼を返して車は発進した。 その車が見えなくなった頃、やっと、男だった、という動揺が来たが。 それでも、あの社長とうまく付き合っていけるというのは、とても真面目で素敵な人間なのだろうと思う。実際に数分だけ対峙した桜介は、誰にでも好かれるような爽やかな魅力をもった男だった。一番最初に目を引くタイプではないが、絶対にひそかにモテるタイプだ。下町然とした地域に住んでいれば、奥様のアイドルになるだろうことは予想が付く。 ゲイというものに偏見がないとは言わない。 社長の相手男かよ、という微妙なショックはあったがしかし。 「……たぶん、良い人、だよなぁ」 とりあえず、家に帰ったら風呂の壊れ具合を妻に相談してみようと思った椎葉だった。 End

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