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蟻と夕餉(有賀×桜介)

「春になると、なんかこう、料理したくなるんだよね」  なんでかな、と呟くと、僕の隣でがちゃがちゃとお風呂の給湯器を直していたサクラちゃんはだらりとした声をあげた。 「あー……有賀さんってわりと季節に踊らされるよな。テンションとか香りに惑わされるタイプっしょ? カレーの匂いしたらカレー食いたくなる、みたいな」 「カレーの匂いしたらカレー食べたくなるでしょ? え、ならないの? カレーって強いでしょ?」 「弱かないだろうけど強いのかね」 わっかんねーけど、と苦笑しながらサクラちゃんは埃やら錆やらで汚れた手で器用に作業を進めている。 僕の住処であるスワンハイツの暮らしは、ついに二年を過ぎた。 この二年で変わった事はあれど、変わらぬ事ももちろんある。オンボロという名前にふさわしいこの古いアパートは相変わらず古いままで、何度直しても定期的に様々なものが壊れる。 いい加減僕がクラッシャーなんじゃないのかなぁと思って首をひねっていたのだが、どうやらアパート内の他の部屋も似たようなものらしく、定期的に里倉さんかサクラちゃんが修理に訪れているようだった。 いっそリフォームしてくれたらいいのにと、サクラちゃんはボヤく。 キッチンの冷たい床に座布団を敷いて、膝の上でパソコンを広げていた僕は、その言葉に同意するべきか少し悩んだ。 確かに、色々ととんでもないものが急に壊れたりするアパートだ。 去年の暮れあたりには下の階のドアが壊れて開かなくなっていたし、階段の手すりもちょっとがたがたしてる。 僕の部屋の給湯器が挙動不審になるのは四回目だ。サクラちゃん曰く、正直古すぎて直すもなにも応急処置以外の対処ができないらしい。 それでも僕はこの不便きわまりないスワンハイツを妙に気に入っていたので、急にこの部屋がおしゃれなワンルームになってもなぁと思うと、素直に賛同できない。 「有賀さんがわりとぼろいアパート好きなのは知ってるしさぁ、俺も別に、ちょこちょこ直すのは苦じゃないけど。せめて風呂周りはちょっと新しいやつに変えてくれてもいいんじゃないのって俺は思う」 「まあ、確かに。ここ一週間、サクラちゃんのおうちのシャワー借りっぱなしだったしね……」 「いやそれは別にいい。風呂上がりの有賀さん堪能できて大変よかった。生乾きの髪の毛の有賀さんをバイクに乗せて送るのも甘酸っぱい感じしてよかった」 「……サクラちゃんってちょっと青春っぽいシチュエーション好きだよね?」 「まあ、経験してないもんで。正直今が青春っすわ」 直ったよ今のところ、と声をかけられた時、僕は今の彼の言葉が嬉しすぎて痒すぎてあーあーもうもう、これだからサクラちゃんの言葉は僕に甘い、と、もだもだ床に崩れ落ちていた。 少し照れた様な、呆れたような溜息が上から落ちてくる。息をはくときの彼の掠れた音が、僕は大変好きだ。 「なーもういい加減慣れろよ……好きだっていってんじゃん」 「慣れているつもりです。慣れててもいちいちね、ああ好きだなって思って崩れ落ちちゃうんですよ」 直った給湯器が稼働し、キッチンの蛇口から待望のお湯が出た。一週間ぶりの安定したお湯の供給だ。 念入りに手を洗ったサクラちゃんは、ほんとちょろいなと笑った。 「これでまあ、しばらくは問題なくお湯出るんじゃない? とは思うけど結局応急処置レベルのことしかできなかったから、急に水になっちゃう恐怖は拭えないかもなぁ」 「いやもう、十分。十分だよ。何度つけても何故か消えるっていう不毛な戦いをしなくていいならそれでいい。休日にほんと申し訳ありませんでした……」 「イーエ。俺こそ仕事中に来れなくてゴメン。ちょっと急に寒くなったりあったかくなったりで、じいさんばあさんの家の電化製品が挙動不審期間みたいでさ。嬉しい事にちいさい工務店も大忙しだよ。まー有賀さんのとこの風呂がいかれてても俺んちくればいいじゃんと思ってたし、それで後回しにしちゃったんだけど」 「いや、うん、お風呂はいいんだけどね。どうもこの時期洗い物するのに水っていうのがきつくてね……いやー久しぶりにおもいっきり料理ができるかと思うと、なんかこう、うん」 「春もちけーしなー。春になると有賀さんが張り切って和食作るからさーなんか俺も、春ってうまいよなぁみたいな気分になってんだよね。刷り込みかな」 「だってスーパーがなんかこう、うきうきする感じになるんだよ」 春は特有の野菜が多い。 山菜が出て、葉モノが一気に増える。香りの強い野菜も多くなるし、カツオとかなんかこう季節限定みたいなものも多くなる。 冬は大根と白菜で生きているような生活をしてしまうから、暖かくなって出てくる季節のものは、ついつい目が行ってしまう。 三品くらい小さい小鉢を作って、まったりと冷酒を飲むのもいい。 窓を開けても寒くはない季節は、外の空気まで肴になる気がする。この辺は下町っぽい住宅街だから、植木や花の香りも強い。僕がスワンハイツの立地を気に入っている理由の一つだった。 「スーパー行こうかな。今日も台所使えなかったら適当な鍋にしようかなって思ってたんだけど、大丈夫そうだし。めいいっぱい調理器具を使って洗える」 「あ、俺も行く。でもその前に風呂貸して。思ったより埃かぶっちゃった」 「奇麗に掃除してるつもりだけど、普段覗かないところはやっぱり汚いねぇ……服も汚れちゃったね。ごめん」 「いいのいいの、今日はそのつもりで来たから。あ、風呂一緒に入る?」 「……お料理する気なくなるからやめておきます」 「ふはは。真っ赤じゃん。かーわいーの。有賀さんってほんっといつまでたってもかんわいーよなぁー。なんかもう何がなんでも風呂に引きずり込みたくなってきたな?」 「え、夕飯、買いもの、僕、スーパーに、」 「まだ二時じゃん? 夕飯作るの俺も手伝うし、スーパーまではバイクで行けばいいじゃん? ほら時間できたじゃん。寒い時期はほら、一緒に風呂とかできなかったじゃん。夏になったらシャワーだけになるし。今だけのお楽しみさせてよ。給湯器のテストがてら」 「給湯器のテストがてら、一緒にお風呂ってどうなんですかね」 「いいんじゃないの、ちょっと浮かれてる恋人っぽくて」 もうすぐ春じゃん、と笑うサクラちゃんに逆らえる筈もなく、僕は仕方ないなぁと笑って照れ隠しにキスをした。 春になると料理がしたくなる。 散歩もしたくなるし無駄に写真をとりたくなる。 映画を見て読書をしたくなる。 あとは恋人とお風呂に入りたくなるので。 「春すばらしいね」 「もうちょっと先だけどな」 ふふふと笑って肌寒さに震える肌をくすぐった。 end

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