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シャツとタラシとマシンガン(ニール+SJ+ハリー)

 目が覚めたら知らない男が隣に寝ていた。  ……いやよく見たら知っている男だったが、寝起きの顔を見るような間柄じゃないから彼の正体に気が付くまでたっぷり三分はかかった。  まずセンセイじゃないことは確実だ。手に馴染む恋人の身体ではないという事は、まあ、見ただけでもすぐにわかる。俺の恋人はかなり細身で、かつストレートヘアのアジア人だ。どう見ても、ベッドで隣り合わせに寝ているブロンドヘアの白人は別人だろう。  この辺で唯一と言ってもいい個人的な知り合いの髪の色は、俺と似た赤毛だ。あいつを友人だとはいまだに認めたくないが、他に親しい人間もいないので仕方なく、NYの知り合い筆頭はSJになる。認めたくないがしかし職場の人間とセンセイ以外で頻繁に会話をしているのは、やはりSJだろう。  他にはもうブロンドの男など限られている。プラチナに近い珍しい金髪の持ち主は先日でかい映画の脇役でなんとか賞をもらっていた正真正銘のスターで、尚且つ前記したSJのパートナーの男だった。  俺の隣で静かに寝ている男がハロルド・ビースレイだということはわかった。わかったが、結局一体何がどうしてこんな事になっているのか、一瞬どころかまた三分程茫然としてしまった。  俺の気配を察してか、その三分でハロルドも目を覚ましたようだ。センセイ以外の男にも女にも一切興味が無い俺から見ても、寝起きの映画俳優の吐息はセクシーだと思える。別に、欲情するわけじゃないが、綺麗なもんは綺麗だ。 「……あー……えーと。ミスター・ビースレイ……?」  しかし生憎とこの綺麗な男をファーストネームで呼んでいいのかわからない。特別剣呑な仲というわけではない。かといって友人というわけでもない。食事を共にする時はSJが必ず居たし、招く時も招かれる時も俺の隣には大概センセイが居た。  フランス映画のワンシーンのようにゆっくりと起き上がったハロルドは、平坦な湖のような落ち着いた声でゆっくりと唸り声を上げた。一々仕草が様になる男だ。 「ああ、おはよう……一瞬、スタンが急に成長したのかと思ったよ……君たちの髪色は不思議と似ているね」 「勘弁してくれ。俺よりあいつの方が艶もあってまとまりやすいレディッシュだろうよ……っあー……ええと、……」 「もしかして昨日の記憶がない?」 「……いや、朝に弱いだけだ。ちょっと待って」  特別気分に上がり下がりは無い方だけれど、どうしても朝だけは駄目だ。笑えるくらいに俺は朝に弱い。普段も覚醒するだけで三十分は必要になる。早起きが身についたのは頭がはっきりするまでに時間がかかる、というただそれだけが理由だった。  起き掛けに煙草を吸うのが俺の日課だ。しかし煙草を入れたヒントミントの缶を探した俺は、ここが禁煙か喫煙か尋ねる前に更なる異変に気が付いた。  俺の格好は普段よく羽織っている黒いシャツに、ジーンズだ。そのシャツの表のボタンがすべて、見事にひとつもない。  このあたりで、漸く俺の頭が動き出す。みるみると、嫌な記憶がよみがえる。  こめかみを押さえて記憶を反芻する俺の様を見てどう思ったのか。ハロルドが苦笑したような気配がしたのは確かだった。 「キミは酔っぱらって記憶を無くすタイプじゃないらしいな。といっても、ほんのひとくちビールを飲んだだけだったかな」 「あー……いや、悪い……ひどく、迷惑をかけた事を今さら思い出した……SJは?」 「明け方まではキミの隣で丸くなっていたけれど、眠れないとか言ってソファーに移動した筈だ。具合は?」 「悪くないよ、別に酔いつぶれたわけじゃない。ちょっと苛立って何もかも忘れたくなったが、酒に頼ると大概よくない事が起こるって知ってるんだ。ベッドを半分占領してすまない、あと、あー……助けてもらって、ありがたかった」 「キミは思いのほか律儀だな。昨日も散々聞いた言葉だ」  表情の力の抜き方がうまい男だ。ふっ、と笑うよりもナチュラルに顔全体が優しくなる。これが俳優という職業故のものか、それとも天性のものなのか俺にはわからないがしかし、嫌な気分にはならないから素晴らしい特技なのだろう。  この他人をうまい事いい気分にさせるイケメン俳優のお陰で、昨晩俺はどうにかシャツのボタンを犠牲にするだけでどうにか帰宅することができたのだ。  思い返せば何が発端だったのか。  センセイの急な帰郷のせいかもしれないし、SJの気まぐれな誘いのせいかもしれないし、俺の仕事の無駄な忙しさのせいかもしれない。どれが直接の原因かと問われれば微妙なところだ。  とにかく俺はくそみたいな忙しい仕事の合間に自炊をする気も失せて、センセイも近場に居ないものだから暇だけは有り余っていた。普段はにべもなく断るSJの誘いにも、ほんの数秒迷っただけだった。どうせやることもない。シリアルとヨーグルトをぶっこんで煙草を吸うくらいなら、マシンガンのように喋る男の声を聞き流しながら飯を食う方がマシだ。  指定されたダイナーには、SJの他にそのパートナーも座っていた。本物のハリウッド俳優がこんな庶民的なところをうろついてもいいのかと眉をひそめたものだ。しかし本人は割合気にせずにその辺をふらふらとしているらしい。  テレビの画面の中で正々堂々と交際宣言をしたカップルは、パパラッチなんて怖くもないのだろう。うらやましいような、そうでもないような、不思議な気分になったことを覚えている。  しばらくは和やかに(もしくはSJだけは常にうるさく忙しかったが残りの二人は苦笑いで)食事は進んだ。ダイナーにしては飯もうまかったしビールも悪くない味だった。ウェイトレスはハロルドを見ても表情を変えなかったしサインもねだらなかった。そのまま食事を終えていたら、俺は今自室以外の場所でセンセイ以外の人間とベッドを共にしてはいないわけだ。  問題だったのは後ろの席の客だった。  元々かなりうるさかった。別に、心地よい空間を求めてダイナーに来ているわけじゃない。静かに食事をしたいなら自室かそれともレストランに行く。安い金でそれなりのものをそれなりの空間で食うための場所が、ダイナーだ。そのくらいは承知している。  だから最初は無視を決め込んでいた。最初は、というか、俺は一貫して無視をしていた。SJもハロルドも、時折眉を顰めることはあったが、わざわざ言葉にする事もなかった。  そのうちに騒いでいた女どもが、こちらのテーブルの俳優に気が付いてしまった。むしろ今まで気が付かなかったのかと呆れたが、彼女たちは相当酔っぱらっていたらしい。他の客が善意で見てみぬふりをする中、大声でハロルドに絡み、果てには無断で写真を撮ろうとした。  流石に、と思った俺はそれを制した。仕事柄面倒な女に絡まれる事は少なくない。喧嘩腰に注意しても仕方ないと思ったので、それなりに柔らかく声をかけたのだが。  今度は、ターゲットが俺になってしまった。  酒を片手にソファーに乗り込み隣にぐいぐいと詰め寄る香水くさい女の不快感を、何に例えたらいいだろうか。しばらくはシトラスの匂いが地雷になりそうだ。  シトラスと酒のにおいのする女は、同行者の別の女のささやかな制止も聞かず、珍しく呆れるSJが珍しく強い苦言を並べたてる言葉も聞かず、俺との距離を縮める。  言葉が通じないのならば、もう逃げるのが一番だ。  そう判断してレジに向かおうとしたところで、女にシャツの襟もとを掴まれた。キスをしようとしたのだ。と、後から気が付いたが、その時の俺はただ不快感からおもいきり身体を退いた。  ――その結果、俺のシャツのボタンは見事にちぎれてしまった、というわけだ。 「今が秋でよかったよほんと……あんたの薄い上着がなければ、俺は変態よろしくはだけたシャツでNYの街を歩くしかなかった」  一通り記憶をおさらいした俺は、煙草を探す事を諦めてため息を吐いた。昨日のダイナーに忘れてきたのかもしれない。ポケットに入れると座った時にたまに落とす、という事を知っているのに、つい癖で尻の後ろに突っ込んでしまう。  それにしても惨めなシャツだ。これを見ている限り、何度でもため息を吐ける。特別気に入っていたシャツではないが、それでも他人に壊されていい気分はしない。くそ。あの女いつかうちの店に客として来たらとんでもなく高いセットを絶対に買わせてやる。絶対にだ。  脆弱にぶっとんでしまったボタンは、今はダイナーのウェイトレスに掃除されてダストボックスの中だろう。改めて、深く息を吐く。  最悪だ。そしてその最悪な気分のまま家に帰って寝るなんて憂鬱すぎて、結局何故だか俺よりもキレているSJにひっつかまれて二人の共同住居まで引っ張られてきた事もはっきりと思い出した。  改めて見回せば、それなりの生活感がある。微妙に落ち着かない気持ちになるのは仕方ない。どう考えても俺は邪魔者だからだ。  今さらながら気まずさが押し寄せる俺に対し、ベッドから軽やかに立ち上がったハロルドは見事に爽やかに笑う。……ほんと、どうなってんだあんたのその表情筋は。ちょっと他人に対して甘すぎやしないかと思う。 「礼を言うのは俺の方だよ、という話も昨日何度もしたな。キミが制止してくれたおかげで、今日のインターネットのホットワードはハロルド・ビースレイとSJのダイナーデートじゃないんだ。まあ、それ程有名というわけでもないし、スタンは何があっても大概笑って流すが……しかし珍しく昨日はスタンが怒っていたな。あんな彼を見るのは久しぶりだ」 「へぇ。……珍しいのか。ああ、いや、そうだな珍しいかもしれないな……そういえば俺たちは憤るということ自体が苦手で、面倒くさくて、昔から大して怒ったりしなかった、かもしれない」 「キミたちというのは、スタンとキミとミスター・アボット?」 「あー、そう。アボットは何を言われても言葉にするのが面倒って感じだったし、俺は怒るっていう行為が疲れるから嫌だった。SJはたぶん、」 「怒っている時間がもったいない」 「……ご名答。『そんなことに時間を持っていかれるなら僕はカタツムリの交尾の方法を調べていた方がマシ』とか言っていたな。ただ、まあ、俺とアボットよりはまともに怒っていたかな。あいつが怒るのは大概、自分を馬鹿にされた時じゃない。時間を奪われた時だけは怒っていたような気がするけど」 「変わらないな。まあ、人間そうすぐに変わるもんじゃないんだろう。キミから昔の話を聞くのは楽しいな」 「……そう? 他人の過去なんて興味ないものの筆頭じゃないか?」 「そうでもない。好ましい人間が、好きな人の話をしているのは面白いし楽しいよ」  さらりと他人に対する気持ちを言葉に乗っけてきやがるから、俺は珍しくどうしようもないような顔になってしまい、更にこのくそみたいなタイミングで隣室からSJが珈琲カップ三つ片手に飛び出して来たものだからわりと本気で神様を呪った。神様なんて信じてないけどこういう時に誰に責任を擦り付けていいのかわからないのだから仕方ない。 「ヘイ、ノーマン&僕のかわいいハニー、そろそろ起きて朝の珈琲でもどうかな!? って思ってお湯を沸かした僕を褒めてほしいけどそんなことよりニール顔なんか変じゃない!? どうしちゃっ、あ、わかったぞノーマン僕のハニーの魅力に朝からやられちゃったんだねわかるよその気持ちハニーは寝起きが一番セクシーだ!」 「……初耳だよスタン。あと、珈琲が零れそうだからテーブルに置いて。中身はどうでもいいし染みは掃除したらいいけれど、キミの手がやけどしたら大変だ」 「うははほらちょっとノーマン聞いた? ハニーってばねーちょっと僕の事をお姫様か何かだと勘違いしてるみたいで特に朝がひどいのなんの。わかる? この痒さがわかる? いやもちろんこのくそみたいに痒いハニーが死ぬほど好きなんだけどでもわかるかなぁ~」 「すこぶる不本意だがわかるよ……俺も人の事は言えないがビースレイ氏はちょっとどうかしているな。まあ、幸せならいいんじゃないか……」 「この朝の痒いハニーを経験してほしくてノーマンをお持ち帰りした甲斐があったよ! と思ったけどなんだかノーマンはハニーに対してちょっと優しいよねーいつもの毒舌はどうしたの」 「俺は別に毒舌じゃないだろ。お前がうるさすぎるから煩いって正面から正々堂々苦言をぶち込んでるだけだ。おいそれ俺のシャツだ何すんだ」 「洗ったげるよノーマンのボタンなし黒シャツ。これかっこいいよねーほんとあの女どうかしてるしあの場にキャンディさんがいなくてほんと良かったよーノーマンの事に関してはキャンディさんも相当いかれてるもんね。公衆の面前でシャツ全開になっちゃうノーマンを見たら、卒倒しそう。僕なら卒倒……いや、ハニーはフィルムの向こうで結構脱いでるなぁ。あ、ボタン適当なのでよければ付けて返すよ、その間は僕の服だとちょっと袖足りなそうだからハニーのお洋服羽織ってたらいいんじゃないかと思うよ良いよねハニー?」 「……スタン、裁縫なんかできたのか?」 「できないよ! 洗濯するのは僕のお仕事。ボタンを縫い付けるのはハニーの好意。……だめ?」  首を傾げるSJに、甘い俳優が否と言う訳がない。仕方ないなというような顔で苦笑するのは構わないが、俺は別にシャツを元の状態に戻さないと死ぬというわけでもない。別に、高いシャツでもない。いっそ捨ててもいい、というような事を慌てて主張してみたが、いいからとSJは笑うばかりだ。 「僕が誘わなきゃあのダイナーでご飯食べる事もなかったし、ハニーが彼女たちに見つかんなきゃノーマンが絡まれる事もなかったし、まあそんな事言ったら全部が全部原因になりえるんだけどとにかくボタンの無い服で帰るわけにいかないじゃない?」 「そりゃそうだが。……ああ、まあ、じゃあ代わりの服はありがたく貸してもらうよ」 「任せて任せてーハニーってばお裁縫までうまいんだ、もう欠点を見つける方が大変だよね!」  欠点はお前に惚れたことだろうなと思ったが、世話になっていてそんな暴言をぶつけるのも気が引けて口を噤み、しかしその内心はしっかりバレていて静かなノーマンってばかわいいなどと言われてしまい酷く遺憾だった。  朝起きたらシャツのボタンがすべて無くなっていて、そして隣には友人の恋人が寝ていたが、まあ、こんな日があってもいいのかと妙な気持ちで納得できたから、そんなに悪い目覚めではなかったのかもしれない。

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