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弟の婚姻

 アトレイア王国の王が死んだのは二週間前のことだった。  死因は病だった。半年ほど前から体調が優れず、公務のない日は一日中自室へ篭もり伏せている日が多くあった。王はみるみる痩せ衰え、ついにふたりの息子と宰相に見守られながら息を引き取った。まだ五十も半ばであった。  二年前に先立った妻の元へ行ったのだと、王城の者はみな言った。王都は二週間、喪に服した。祝宴の類いは禁じ、煌びやかな衣服は控えるよう触れが出た。王都サラディの城下は静まり返ったが、どこか仄暗い喜びが重たい空気となって漂っていた。王は民に愛されていなかった。  喪が明けた今日。緑の生い茂る夏の初めだった。亡き王と亡き皇后の息子であるブラッドフォード・ロス・サーバルドは公務を前にして、死んだ父王が重たい尻で温めていた玉座に腰かける。王が死んでからの二週間、ブラッドフォード、通称ブラッド王子は王の代理人として公務をこなしていたが、喪が明けるまで玉座に座すことはなかった。  短く刈った眩いほどのプラチナブロンドは薄暗い玉座の間でも淡く輝き、少し日に焼けた肌によく映えている。秀でた額の下にある、切れ長につり上がった目の中に嵌まる瞳は深いグリーン。髪と目の色は死んだ父王にそっくりで、玉座に座った息子の姿を見て騎士や大臣たちは暗澹たる面持ちで嘆息した。王の姿を彷彿させられるのが憂鬱なのだ。王は臣下にも愛されていなかった。  待ち人が定刻を過ぎても姿を現さないことに苛立ち、ブラッドはその精悍な顔つきを歪めた。丹精に磨かれた大理石の床より階段を数段上った玉座。そこから端の大扉までは成人した男の歩幅で五十歩ほどあった。重厚な鉄の扉が開かれるのを、脇息にもたれながら遠目に待つ。玉座から扉までの間、左右にずらりと控える臣下や騎士たちは、機嫌を損ねたブラッドの矛先が自分たちに向かないよう祈っていた。 「いつまで待たせるつもりだ」  たえかねたブラッドは、低く苦々しい声で感情を露にした。 「弟君の部屋へ使いを送りますか」  左隣に控える騎士を暗い翡翠の瞳が睨み上げる。苛立ちを隠すことなく、指先で脇息の先を数度叩く。 「まだやっていなかったのか、サー・マーティン」  サー・マーティンは短く返答すると、従者のひとりを走らせた。日当たりが悪く窓から差し込む光のない玉座の間は、国家の傾き具合を表しているように薄暗い。扉までの重苦しい道のりを、燭台に灯る小さな炎が照らし出す。従者の男が扉に到達しようかという時、鉄扉は錆びついた音を立てて開かれた。  外の光が玉座の間へと差し込む。陽光を背にして、ひとりの青年が現れる。ブラッドの弟であるシュオン・ロス・サーバルド王子だった。 「お待たせして申し訳ございません、兄上」  青年の滑らかな声が広い空間に天井高く響き渡る。シュオン王子はつとめて明るい声で詫びながら、静穏な足取りで玉座までの間を歩いた。扉まで迎えに行く形となった従者は、彼の後をついてくる。シュオンの泰然とした姿を、臣下たちは目で追った。  シュオンは兄のブラッドとは似ても似つかない。ブラッドが皇后である母から生まれた嫡子であるのに対し、シュオンは落とし子だった。城下へ外遊しに出かけた王が娼館の女に孕ませた子だという。王は女を王城へ上がらせようとしたが、皇后の猛反対により子どもだけ引き取る形となった。  シュオンは緩く波打ち燃えるような赤毛を揺らし、玉座へ続く階段の前で足を止めた。ブラッドを見上げる大きな瞳の色は深いグリーン。それだけが兄との共通点だった。瞳の色以外は何もかも違う。  男性的で威圧感さえ感じられる兄の顔立ちとは異なり、弟の緩く弧を描く頬は少女のよう。ぱっちりとした目元は愛くるしく、二十七となるブラッドよりもたった四歳年下とは思えない。大柄で筋肉質な兄とは異なり、細身の身体はやっと剣を持てるかという具合だ。  まったく似ていない弟のシュオン。その姿を見る度にブラッドは己の中の憎しみや嫉妬といった感情が呼び起こされる。公の場では露わにしないよう、ブラッドは感情を抑えてつとめて冷静に口を開いた。 「呼びつける度に俺を長く待たせるのは当てつけか何かか?」 「とんでもありません、兄上。いつも急な呼び立てのため、身なりを整えるのに多少の時間がいるのです」  嫌みに対しても朗らかに皮肉を返す弟を、ブラッドは冷えた眼差しで睥睨した。 「お前を責め立てるのは時間の無駄だ。今はお前に重要な役割を託すために呼んだ」 「重要な役割ですか。兄上のお役に立てるのであれば、何なりと」   慇懃に一礼するシュオンの姿に、ブラッドは不愉快げに鼻を鳴らした。 「先日、長く国境沿いで小競り合いを続けていたダイハン族と和平を結ぶことが決まった。同盟の証として、王家の者を嫁がせることになった」 「……王家の者を? 従姉妹のアイリーンはすでに婚約しているし、ミリアはまだ七つです。他は全員男ですから、嫁がせる者などいないでしょう」 「お前を嫁がせることにした。すでにダイハン族へは使いをやってある。第二王子、シュオン・ロス・サーバルドがダイハンの花嫁になると」   覆せない決定事項だと断言してやると、ブラッドの胸のつかえは落ちたような気がした。兄を見上げるシュオンは大きな目を瞬かせている。 「めでたい婚姻の話だから、父上の喪が明けるまではと待っていたんだ。話が遅くなって申し訳ないが、名誉ある婚姻だ。お前によってアトレイアの平穏は保たれる」  笑みで捩れそうになる口元を正しながら、ブラッドは眉尻を下げて告げた。  名誉の婚姻とは名ばかりだ。アトレイアとダイハン族双方の損益を加味した、政略結婚。長く続いた敵対関係に疲弊し、双方手を結ぶことを選んだ。そこにはブラッドの個人的感情も絡んでくる。弟を王都から遠ざけたいという捻くれた嫉心が。  シュオンは俯いていた。周囲の臣下たちは気の毒そうに眉を顰めながらも口出しする者はいない。ブラッドは言葉を続けた。 「お前の嫁入りに必要なものやダイハンまでの足はすでに手配してある。結婚で煩わしいものといえばその準備だが、お前は何も心配することはない」  「……ありがとうございます、兄上」  シュオンが秀麗な顔を上げた。嘆いているのかと思いきやその目に涙の名残や憂いの片鱗はなく、シュオンはあろうことか微笑みさえ浮かべ兄へ感謝を述べた。罵られるか、せめて文句のひとつでも言われると予想していたブラッドは少々、拍子抜けした。 「この二週間、兄上が亡き父上の代わりにダイハンとの和平の取り決めに奔走していたことは知っています。そのうえ私の婚姻の準備まで。さぞ煩わしく、大変だったことでしょう」  「たいしたことじゃない」  シュオンは父の代わりに公務を行っていたブラッドの多忙を察し、まるで同情するかのように兄を労った。ダイハン族との婚姻を嘆いている様子はない。その口調はやや芝居がかっており、ブラッドは力強い眉を顰めた。   「父が亡くなる前も兄上は隣国との戦ばかりで、休む暇などなかったでしょう。帰ってきて早々、父上は亡くなり……葬儀の手配やら戦の後始末やらでご多忙だったでしょうに、私まで気にかけてくださっていたなんて」 「兄として当然のことだ、シュオン」 「なんてお優しい兄上。――ですので、これからはどうぞ、遠くの地にてゆっくりお休みになってください」   シュオンの声音が突然、冷えたものに変わる。穏やかな笑みは歪む。異変を訝しむ間もなく、ブラッドは何者かに腕を強く掴まれた。

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