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裏切りと婚姻
はっと振り返れば、隣に控えていたサー・マーティンがブラッドの左腕を掴み上げていた。甲冑を身に着け常に武装している騎士はその腰に剣を佩いている。彼のもうひとつの手が剣の柄を握っているのが視界に入り、ブラッドは息を飲んだ。
「どういうことだ、シュオン」
シュオンはブラッドの問いに答えない代わりに、麗しい少女のような顔を硬くして騎士に命じた。
「サー・マーティン。弟シュオンを、ダイハン族のもとまで送り届けよ」
「……は?」
間の抜けた声しか出なかった。現状を把握しようとしている間にも、弟シュオンの命令を受けたサー・マーティンはブラッドの腕を掴み強引に玉座から立たせる。ブラッドはさらに高くなった視点から玉座の間を見渡した。
薄暗く、燭台の炎によってようやく灯りが保たれた、王が務めを果たす広い空間。その左右に控える大勢の臣下たち。両手を正しく身体の前で組みながら、誰も声ひとつ上げない。甲冑を身に着けたひとりの騎士が第一王子を玉座から引き摺り下ろすのを見て、誰ひとりとして進み出て制止する者はなかった。固く口を引き結び、ことの運びを黙って見ている。
「……シュオン、一体何の真似だ」
「私はシュオンではありません」
サー・マーティンに腕を引かれるまま一歩ずつ下へ、下へと下りていくと、ブラッドと同じ色をした目が微笑みかけた。ついに同じ高さに立つと、彼の細く滑らかな手がブラッドの肩に置かれた。頭ひとつ分ほど背丈の低い弟を自然と見下ろす形になる。
「今日から私がブラッドフォード・ロス・サーバルドです。アトレイア王とアトレイア皇后の唯一の息子にして、正当な後継者。王家の血を引く誇り高き第一王子」
ブラッドは弟の話す内容が理解できなかった。
とても正気ではない。思わず茫洋とした声が漏れていた。
「何言ってんだ、お前……」
「あなたはシュオン・ロス・サーバルド。アトレイア王と娼婦の間にできた息子。王の代理人、第一王子ブラッドフォードの策略により、和平の証として南の異民族、ダイハン族の王へ嫁いでいただく」
毅然としたシュオンの口調に、それまでの少年らしい軽快さや愛らしさは見当たらなかった。まるで王の話しぶり。これまでブラッドがそうしてきたように。
シュオンが何を企んでいるのか本人の口から聞いたところで、腹の底からじりじりと熱く不快なものが迫り上がってくるのを感じた。不愉快を煮出した声を、ブラッドは喉からやっと絞り出した。
「お前……自分が何をしているのか、わかっているのか」
「もちろん、理解しております」
「俺に成り代わるつもりでいるのか。これは反逆だぞ」
眼前の弟の白く秀麗な顔を睨みつけるブラッドの表情は、噛みつこうとする獣にも劣らず恐ろしい。過去ブラッドの機嫌を損ね詰問された者は、王国の栄誉ある騎士でさえも縮み上がった。だがシュオンはその小ぶりな鼻を鳴らして一蹴した。
「反逆? 面白いことを仰いますね。即位していない者に対して、反逆も何もありません。まだ王は立っていないのです」
「国家への反逆だ」
「国家ですか。あなたが国家という言葉を持ち出すなんて……。私の行為は、それこそ国家のためです」
憤怒を滾らせるブラッドとは対照的に涼やかな様子で、シュオンは玉座の間に控える臣下たちを見渡した。ブラッドはふと、玉座の側に控えていた騎士たちに向けて声を荒げた。
「サー・レイル、サー・ロック! 何を黙って見ている、早く弟を拘束しろ」
「……恐れながら、弟とは一体どなたのことを指しているのでしょうか。あなたには兄上しかいらっしゃいません」
腰に佩いた剣の柄に手をかけたまま動こうとはしない騎士の姿を見て、ブラッドは途方に暮れた。シュオンは兄の肩に置いていた手を滑らせて、その首筋に柔らかい掌を優しく添えた。
「ブラッドフォードにつくか、シュオンにつくか。彼らにはそれだけです。そして不幸にも……あなたの味方をする騎士はいなかった」
「お前……臣下を買収したのか」
「買収? 王と娼婦の落とし子である私に、嫡子である兄上と同じ財力があるとお思いですか」
シュオンの真っ直ぐな瞳がブラッドを見上げる。
「なぜあなたにつく者がいないのか、わからない?」
シュオンの視線につられ、ブラッドは再び玉座の間に控える大勢の臣下たちを見渡した。誰も彼も、底冷えするような目でブラッドを見ている。見苦しいとでも言いたげな目で。
「人心のない王に民はついては行きません」
「俺に、人心がないと?」
間接的な暴言に、ブラッドはつり上がった目元を引き攣らせた。
「あなたは王が存命の間、何をしました」
「俺は、国のために戦った」
「父は戦争が大好きでしたね。あなたもですか。必要のない戦で兵を疲弊させ、民を困窮させ……父もあなたも、私や大臣たちの言葉には一度も耳を傾けなかった。内政をおろそかにし、ことあるごとに徴兵だ、増税だと」
「無駄な戦だったと言いたいのか」
「そう思っていたのはきっと私だけではありません。……他にも上げ連ねれば、沢山」
そしてシュオンはブラッドの行為のいくつかを罪と称して取り上げた。槍試合で何人もの騎士を残虐に殺したこと。父王を諫めないばかりか父王に従って罪のない民を処刑したこと。それから、シュオンを蔑ろにし政に干渉させなかったこと。
シュオンが朗々と申し上げる度、左右に控えた臣下たちは「そうだ!」と大声を何度も上げた。
「あなたは戦では勇敢でした。中には本当に国を守った戦いもあるでしょう。剣術ではあなたに勝る騎士はそうそういません。だが、それだけだ。あなたのこれまでの行いで、誇れるものが戦の他にありますか? 武力だけの王に民はついていきません。あなたに国を治めることはできない」
強い語調で断言したシュオンの顔を、ブラッドは奥歯を噛みしめながら穴が空きそうなほど睨みつけた。視線だけで殺せるのであれば、今すぐ弟は死んでいる。
「自分にはその資質と、資格があるとでも?」
「……民を飢えさせた父とあなたよりは、ずっと」
にっこりと麗しい微笑みを浮かべた弟の綺麗な頬に、ブラッドは唾を吐きかけた。途端、頬に激しい衝撃と痛みが襲う。ふらついた先で口元を拭うと、唾液と血液が混じったものが手の甲にべっとりとついた。
ぐらぐらと揺れる視界で見上げると、サー・マーティンが拳を握っていた。
「サー・マーティン。顔に傷はつけるな。ダイハン族へ送る花嫁だ」
「承知しました」
「さあ……我が弟シュオン。彼がダイハン族のもとまであなたを送り届けます。大丈夫、従者もつけます。あちらに行っても寂しくありませんよ」
サー・マーティンに強引に腕を引かれ、ブラッドは鉄扉までの長い長い道を引き摺られるようにして歩いた。左右の臣下たちの群れから向けられるのは憐れみの視線ではなく、侮蔑や嘲笑。
何の茶番だ、これは。ブラッドは暗い大理石の床を見ながら乾いた笑いを漏らした。
残酷にも、今の今まで王の正当な後継者であった第一王子は、玉座の間から締め出されたのだった。
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