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従者

 王都の城下に暮らす民は、ひとりの貴人とひとりの騎士が馬で闊歩するのを無気力な瞳で黙って見上げた。  町に活気はなく、一番の大通りで店を広げる商人たちの呼び込みの声もどこか諦念に満ちている。貴族が城下を歩く姿は滅多に目にするものでなく、民たちは暗い瞳にかすかな好奇心を宿してその光景を眺めた。  白い馬に跨がった男は、黒いマントのフードを目深に被り、容貌は見えなかった。だが外套の上からでもわかる、騎士に劣らない立派な体躯、風にはためく外套から時折見え隠れする上等そうな生地には金糸で刺繍がなされ、一介の役人や成り上がりの貴族には到底思えなかった。馬が闊歩する間近で見上げた者にはその顔が一瞬見えた。引き結んだ唇の端が破れ、赤い血液が滲み出ている。  その横にぴったりとついて離れないのは、栗毛の馬に乗ったサー・マーティンだ。彼はこの国の筆頭騎士で、民からの信望も厚い男だった。その彼が貴族らしき男を囚人のように引き連れていた。   ただならぬ鬱屈とした空気の王都の中を、ブラッドはただ馬に揺られる。  自分の身に何が起こったのか。これからどこへ行くのか。そこで何が起きるのか。   すべて自分自身で組み立てていた、弟シュオンが辿るべき筋道を、自分で辿る。これは現実なのか。もしかして悪い夢でも見ているのではないか。王都の出口である門に着くまでに、判然としない頭で何度も何度も考えたが、夢は覚めなかった。  ブラッドは隣に寄り添って馬の手綱を握るサー・マーティンを、横目で睨みつけた。公爵家の跡目争いに敗れた、貴族の何番目かの子息だった男だ。戦で戦功を立てた彼を騎士に推薦し叙任したのは、ブラッドだ。彼は恩義のあるブラッドに対し、弟シュオンに従って顔を殴るという仇で返した。 「なぜシュオンに従う」  苦々しく漏らしたブラッドの言葉を聞いた筈だが、サー・マーティンから返答はなかった。ただ横目でブラッドを一瞥したきり、即座に前方に視線を戻してしまう。もとより会話をする気のなかったブラッドが再度尋ねることはなかった。    分厚く天高い城壁によって王都は四方を囲まれている。城壁の東西南北にそれぞれひとつずつ外へ通じる門があり、ブラッドが連行されたのは南門だった。  アトレイア王国の国土は広いとは言えない。ちょうど国の中央に位置する王都から南へ五百キロ行くと国境がある。国境は異民族の町や村と接しており、アトレイア国内の村を襲撃する異民族との小競り合いが長年に渡り続いていた。その異民族を代表するのがダイハン族だ。  ダイハン族との和平が、一週間前にようやく結ばれた。その人口は一国家には遠く及ばないものの、彼らの力を軽視することはできなかった。  太陽神の末裔を名乗る、戦士の一族。ダイハンの民はみな戦闘に長けており、男ひとりでアトレイア兵五人分の働きをするという。ダイハン族を恐れた国境沿いに住むアトレイア国民の大仰な表現に過ぎないが、彼らが強力であることに違いはない。  ダイハン族の暮らしを実際に目にしたことはなかったが、彼らは屋外に住み、狩った獣の肉を食らって生きる。血塗れで、不潔で、悪臭がする。そんな場所に弟を嫁がせてこの先一生顔を見ることもないのだと思えば、淀んだ気持ちが晴れていくような気がした。それも数刻前までのことだ。  ブラッドは弟シュオンを嫌悪していた。彼は王であった父が娼婦に産ませた落とし子だったが、華やかで明るい気質の弟を父は深く愛した。皇后との子であるブラッドよりもだ。  幼い頃は何も気にならなかった。四歳年下の弟はひとりでは何もできない子どもで、成長した自分よりも可愛がられるのは当然のことだと理解していた。その頃は母も正気だった。  弟が十五を過ぎても変化しない父の溺愛ぶりを見て、ブラッドの中には黒い靄のようなものが溜まっていった。剣術は弟よりも上手い。王族に必要な知識や教養の覚えも、弟より早かった。父の信頼を得られるよう、父の言うことや命令は何でもこなした。戦に出て戦功を持ち帰った。法の取り締まりを強化した。それでも父の愛が弟よりも上回ることはなかった。  夫が自分の息子よりも娼婦との子を愛する光景を毎日のように見せつけられた母は徐々に狂いだした。夫への異常な執着、シュオンへの執拗な嫌がらせ。育ち盛りの弟の食事を抜くよう厨房の料理人に命じたことは何度あっただろうか。仕方のないことだと、ブラッドは母の行為を諫めることはしなかった。母はついには自らの憤怒と嫉妬のために病に伏せ、二年前に死んだ。  弟が異国へ勉強しに行きたいと言い出せば、父は余分なほどの騎士と従者をつけて船で送り出した。弟が成人する前に、父は彼に城を与え王都にほど近い領地の城主とした。ブラッドは戦以外でこの狭い国を出たことがない。与えられたのは、戦の褒賞として、王都から離れた領地だった。もとの領主は後継を残さずに死に、管理をする者がいなくなった土地だった。  父が死に、弟を擁護する者もいなくなった。だから王に即位する第一王子の自分が座るだろう玉座から遠く離れたダイハンへ送り出し、二度と国へ帰ってこられぬよう花嫁の役割を与えるつもりだった。  その役目が自分に回ってこようとは考えもしなかったのだ。 「シュオン殿下」  まさか自分のことを呼んでいるのだとは思いもしない。続けざまに再度「シュオン殿下」と強い語気で呼ばれ、ブラッドは伏せていた顔を上げた。 「あ?」   「前を」   サー・マーティンに言われ前方を見やると、城門の端に甲冑を纏った人物が馬の手綱を握って立っていた。その人物が誰かよりも、今後自分はシュオンの名で呼ばれるのだと思うとブラッドの背筋には悪寒が走る。 「――殿下」  近づけば甲冑の人物の容姿は徐々に判然とした。城門で待っていたのは、ブラッドにとって懐かしい顔だ。  「何で……お前が俺の従者なのか」  「はい。殿下におともできて光栄です」  アトレイア王国の騎士のひとり、グラントリー・ヘイズ。他の騎士と同様の銀の甲冑が包むのは、大柄な女の身体だ。 「お前、何か失態でもやらかしたか? 何で俺の従者なんて損な役回りをさせられた」  「いえ、私自ら申し出ました」   ブラッドの問いに愚直に答える姿に、思わず顔を顰めた。  四十を回った真面目な女騎士は、ブラッドが少年の頃、剣術の指南をしてくれた相手だった。男に劣らぬ大柄な図体と膂力、剣の技で、騎士の位を受けた貴族の娘。子はおらず、結婚もしていない。王国で唯一の女騎士だ。  このまま王国に仕えていれば彼女の実力なら筆頭騎士にでもなれるだろうに。どういう訳でダイハンの花嫁として送り出されるブラッドの不名誉な従者となったのか。 「話は道中聞く。ダイハンまでは長いだろうからな」  門の先、家々がまばらに見える土と草原の道を見渡しながらブラッドは呟いた。土と草原のさらに先は、乾いた赤い大地だ。

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