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待ち人【完】

 ヘリオススに朝が来た。朝靄の立ち込める中、薄い色をした遥か上空を鳥が飛んでいく。地中で眠っていた獣たちが目を覚まし、冷気の漂う地上に這い出てくる。  ヘリオススの民の一日が始まる。  若い戦士は狩りに出る。馬に跨がる者たちの中には女の姿もあった。先の戦で大勢の男が死んだ。子どもや老人たちを食わせていくために、戦える者は戦わなければならない。  ヘリオススに残った者たちは火を起こし、朝餉の支度を始める。王の家である洞窟の奥に湧く水を汲み、酒に浸けていた昨晩の残りの肉を裂く。  降伏が受け入れられ戦が終結して以降、ヘリオススに滞在している一部のガラガ族とフ族の男たちは、夜間の警戒から帰還してくる。大きな打撃を受けたダイハン族を、ツチ族を筆頭とする敵から守るためだった。  赤い大地中に点在するダイハン族の一部の村の民は、荷を携えてヘリオススへと移り住んだ。戦へと赴いた若い戦士たちが帰還せず、村を外敵から守ることができなくなったのである。それはヘリオススもまた同じであった。開いた穴を埋めるために他部族の力を借り、移住した村の民の力を借りている。  アトレイアとの戦に敗北し、多くの戦士の命を失って、彼らの暮らしは少なからず変化した。日々は流れ、太陽は毎日昇り乾いた赤い大地を焼いていく。家族を失った悲しみを胸に抱きながら、民はヘリオサの不在を思いながら生きていく。  大地が熱を持ち始めた頃、狩りに出ていた者たちが帰還した。ヘリオススの南の三日月へ乗り入れ、興奮している馬たちを落ち着かせる。下馬した男たちの中には、ブラッドの姿もあった。  先の戦で矢に射られたが奇跡的に生き延び、主のもとへ帰った白い愛馬の綱を引きながら、中央の広場へと歩いていく。朝から早速照りつける太陽の光を浴びて輝く短い金糸、鋭さのある深緑を朝日に眇め、目的の人物のもとへと向かう。物を掴む指を失った右手は布に巻かれたまま、不用意な刺激を与えぬよう首から布で吊っている。戦士たちとともに歩くブラッドの姿に向け、ヘリオススの民たちは頭を垂れる。  アトレイアに降伏を受け入れてもらうためには、ブラッドの命を差し出す必要があった。 だが、待っている者に会うために命だけはやれないと、ブラッドは代わりに右手を差し出した。それは剣を持ち戦い生きてきたブラッドにとって、己の命と同等に価値のあるものだった。自分の身を自分で守るという、ブラッドにとっての当然の行いが困難になるということだった。クバルの背中を守りともに生きると言った誓いを破るに等しい行為だった。  だが、右手がなくとも左手でできることは無数にある。だから、絶望するほどの大きな喪失感はない。弓矢を扱うことはできないが、狩りの獲物を追い込んで戦士たちを助けることはできる。利き手の機能を失った状態だとしても、ダイハンを救うためにできることがあるのならすべきだ。  ヘリオサでもアステレルラでもないけれど、ダイハンの戦士として、民として、やるべきことは残されている。 「……アステレルラ!」  洞窟の外で朝餉の支度の手伝いをしていたヤミールが、狩りから帰還したブラッドを目に留めて、屈んでいた身体を起こす。安堵するように叫んだ、かつて僕だった青年の声を聞いて、ブラッドは薄い唇を曖昧に歪めながら近づいた。 「ヤミール」 「すみません、……ブラッドフォード」  ばつが悪そうに謝罪するヤミールの口から放たれる名は、初対面の者を呼ぶような、所在なさげなぎこちなさがあった。すぐに平時を取り繕い、広場へとやってきたブラッドと戦士たちを見て問う。 「今朝の収穫はいかがですか?」 「ガンバスの成獣六頭と、これが三羽だ。俺が仕留めた訳じゃないが。先に羽を毟ってもらおうと思って」 「ありがとうございます。十分な量です。……どうぞお休みになってください。後から朝食をお持ちします」  ブラッドの側に控えた戦士から獲物を受け取るヤミールに、ブラッドは首を振る。ヤミールの態度には、いまだ恭しいものが見て取れた。 「俺に畏まるな。お前はもう俺の僕じゃない。それに、俺だけ楽してる訳にはいかないだろう」 「ですが、あなたはまだ本調子ではありません。狩りにも出られてお疲れでしょう。少し休まれた方がみなも安心します」  大量の失血と高熱が続いたことによって伏せていたことは記憶に新しい。外に出て動き回れるようになったのは二日前のことである。切断した傷口から菌が入り込む前に焼いたために深刻な状態にならずに済んだ。ブラッドが気絶している間にアトレイアから連れてきた医者によってすべての処置がなされていた。意識を取り戻す頃には医者はヘリオススを去っていて、礼を言うこともできなかった。 「じっとしていられないんだ。動いて何かに集中してないと、余計な、馬鹿なこと考えちまう」  ヤミールは休息を促すが、狩りに出るかヘリオススの中で動くかしていないと、振り払いたい雑念が湧いて、ありもしない想像が働いてしまう。養生のために休んでいるのに、気持ちは不安に苛まれていても立ってもいられなくなってしまう。  ふと広場の端に目をやれば、かつてブラッドの従者だった大女がダイハンの子どもたちにファルカタの稽古をつけていた。 「グランと一緒に、稽古でもつけてやるか」  グランは自身だって最近扱い始めたばかりの武器で戦う方法を、狩りやら巡回やらで忙しい戦士たちの代わりに、まだ戦士にはなれない幼子に教えている。  視線に気づいたグランが、ブラッドとヤミールのいる広場の中央を見やる。 「激しく動くことは控えろと、アトレイアの医師は仰っていました」 「子どもと剣合わせるだけだろ。怪我する心配も、させる心配もない。左手で相手するくらいが、ちょうどいいだろうしな」 「また倒れられたらどうするのですか」 「お前は大袈裟だ。少し動いたくらいで俺は」 「ブラッドフォード」  ヤミールの美しい赤色の宝石が、射抜くようにブラッドを見上げる。初めて見る色をしている、とブラッドは少し驚いて口を噤んだ。普段ブラッドを見上げる、敬意と優しさに満ちた静かな瞳とは違っていた。 「よく覚えていないと仰っていましたが、あなたはリドル城に戻られた後、昏睡状態に陥っていたのです。ヘリオススへ帰還してからも、常に意識があった訳ではありません。歩けるようになってからはまだ二日です。あなたが伏している間、私やグラントリー様がどのような思いで待っていたかお分かりですか。クバルだってまだ……」 「……ああ、悪かった」  ブラッドがリドル城の一室で意識を取り戻した後、ヤミールは声を出さず静かに泣いた。グランは指を失ったブラッドの右手を包んで声を詰まらせた。彼らがブラッドにどれだけ文句を言いたいか、感情をぶつけたいか、ブラッドはわかっていたが、彼らはそうしなかった。ブラッドが身体の一部を犠牲にしたことには大きな意味があったと、彼らは理解していたから。  土を踏む音が聞こえ視線を上げると、稽古を切り上げたらしいグランが近づいてきた。ヤミールの思い詰めた表情を見て、静かに傍らに立ち、彼の言葉を聞いていた。 「あなたが不安に思う気持ちは、大変よく理解できます。じっとして、ただ待っていることはできない。私も同じですから。ですが、ブラッドフォードがクバルを思うように、私がブラッドフォードのことを心配していることを、どうか理解していただきたいのです」  自分は臆病だと嘆いていた青年とは正反対の、真摯で重い声音で自身の心情を語るヤミールに、ブラッドは不用意に返答することなく小さく首肯した。 「殿下が叱られているのは初めて見ますね」  傍らに立つグランが、口もとに小さな皺を寄せてくすりと笑う。 「叱られているんじゃない。それから、お前ももう殿下と呼ぶな」 「そうでした、ブラッドフォード」  少しの悪びれもなく囁いて、グランは広場の端で細長い棒を持って打ち合わせている子どもたちに視線をやる。  ブラッドフォードという名。その本当の名を弟に奪われてアトレイアを追われてから、久しく誰にも呼ばれることのなかった名前だ。女王の名で、あるいは殿下と呼ばれることはあっても、ダイハンの誰も本来の名を知らなかった。クバルに呼ばれたのだって、至極最近のことだ。  だから少し胸の内側がむず痒いような、慣れない感覚がした。ようやく、ダイハンの女王でもなく、アトレイアの王子でもない、何者でもない自分になれたような気がしていた。 「ダイハンの子どもたちは、想像以上にやんちゃで、負けず嫌いですよ。ブラッドフォードが相手をしても、あのお転婆たちの餌食になります」 「ガキ相手に打ち負かされると思ってるのか。左手でも手本見せるくらいはできるぞ俺は」 「いくらあなたでもいきなり左は無理でしょう。十分に体力が回復なされたらあなたにも左手の稽古つけてさしあげますから、子どもたちの相手をするのはその後ですね」  ヤミールとはまた違ってずけずけと不躾に物を喋る元従者の女には、少々腹が立つ。だが言葉に棘はなく、ブラッドの右手に関しても悲観的な感傷を見せないことに安堵する。  子どもたちの相手は無理だ、と口にするのも、病床から這い出たばかりのブラッドを心配する気持ちの表れだということも理解している。あるいは、多少の本心は含まれているかもしれないが。 「グラントリー様の仰る通りです。今はまだ、安静にすべき時です」  ヤミールが、また話を蒸し返す。過保護すぎやしないかと、ブラッドは閉口する。  「本当は、明け方の狩りもお控えいただきたいと思っています。戦士のみなを信じて任せてはいますが。万が一、倒れられたら」  そんなに柔じゃねえよ、と反論しようとしたが、ヤミールの曇った表情を見たブラッドは声を飲み込んだ。 「みな、何を支えにすればいいのか、誰を信じればいいのか、わからなくなります」  憂いを帯びるヤミールが、薄い胸の前に握った拳に力を込める。かすかに俯くと、艶のある長い黒髪が肩から流れる。  これからのヘリオススへ対する不安、憂慮。つい昨日も、彼は同じ表情をしていた。 「俺が昨晩した話……考えたか?」  ヤミールはブラッドを仰ぎ、下唇をきゅっとこらえる。 「……やはり私では、力不足です。務めを果たすだけの能力も、勇敢な心もありません。ブラッドフォードやクバルのように、強くはない。ヘリオサには、なれません」  当惑、萎縮、迷い。お前がダイハンの王に、ヘリオサになるべきだと口にしたブラッドに、ヤミールは恐れを見せた。  実質、現在ヘリオサはいない。クバルを決闘で破り新たな王となったユリアーンは死んだ。戦士も民も、降伏し戦が明けた直後の今、口には出さないものの柱が不在であることに不安を抱いている。  誰が王としてダイハンを導き、守るのか。みなの胸中にある思いは同じだ。 「俺はユリアーンと決闘した。だが、ユリアーンを殺したのはお前だ、ヤミール」 「あの状況では、そうするしかありませんでした。ブラッドフォードをお守りするためにしたことです。それ以上の意味を持ちません」 「ああ、そうだ。あの戦いに、誰が王になるか決める意味合いなんてなかった」 「ならばどうして、私にヘリオサになれと仰るのですか」  唇をこらえ困惑を示すヤミールの端整な顔を、ブラッドは緩めた深緑の瞳で真っ直ぐに見下ろした。 「お前が臆病で、勇敢な男だからだ」  ブラッドを見上げる赤色が、かすかに揺れ動く。 「お前は自分が弱くて臆病だということを知っている。知ったうえで、お前は戦場に出て剣を握って俺の命を救った。そして自分が弱いと認めることは、敵を殺すことよりも勇気のいることだと、俺は思う」  かつてヤミールはアトレイアの侵攻を知らせる音が鳴る直前の夜、犬小屋へと向かう道中でブラッドに吐露した。怖い。恐ろしい。誰かを失うことも、自分自身を失うことも、酷く恐れていた。それを聞いて、ブラッドは安堵したのだった。 「自分の臆病を知っているお前は、賢明な男だ。他人の気持ちも、自分の気持ちも慮れる。傍若無人な振る舞いはせず、人の意見に耳を傾けることもできる。これからダイハンに必要なのは、お前のような王だ」  ヤミールは適任だと心から思っているし、ダイハンの民にとってよい王になれると信じている。必要なのは、少なくともユリアーンのような男ではない。  断言すると、ヤミールは俯いてしまった。自身の頼りない足元を見て何を思っているのかは知れない。 「……何もダイハンのことをひとりですべて背負う必要はありません」  グランが慈愛の眼差しで、ヤミールの薄い肩に両手を置く。 「私もアトレイアには戻れません。戻るつもりもありません。ブラッドフォードと一緒に、新たなヘリオサを支えるくらいはできます。王の役目のうち自分でなくていいものは、押しつけても構いません、ヤミール」  たおやかな乳白色の声音で、母のように悟す。実際、彼はまだ十七だ。ダイハンではすでに成人しているとはいえ、男と呼ぶにはまだ幼い。クバルは十五で成人してすぐにヘリオサとなったが、彼はまた特殊だ。  ヤミールが視線を上げる。赤色はいまだ揺れていたが、ひとつ、意思が固まったように口を食い絞めていた。 「もう一晩、考えさせてください」 「……わかった」  熟考が必要な決断だということは、ブラッドも理解していた。急いて決めるものではない。 「ですが、きっと良い答えを出します。そのような気がします」  ふ、と息を吐いて、ブラッドは「そうか」とだけ言った。  王の家であるヘリオススの洞窟。燭台に火が灯されていることがわかる、ゆらゆらと炎の影が揺れる王の部屋に、ブラッドは足を踏み入れた。  明け方目を覚ました後、朝の挨拶をするために。そして夜、湯浴みを済ませた後、就寝の挨拶をするために。一日二回、こうして訪れている。  岩の上に幾重にも厚く重ねた毛皮の上は、案外にも硬くないとブラッドは知っている。寝台の上にすでに幾日も眠り続けている男は、今日も目を覚まさなかった。 「……クバル」  寝台の側の岩の椅子に腰掛け、呼んだ名前に返答はない。剥き出しの肩に流れる黒髪へ手を滑らせながら、ブラッドはクバルを見つめる。  少し落ち窪んだ目と、痩せた頬、ひび割れた唇、やや肉の削げた首と肩。だが呼吸はあの時と違って穏やかだ。苦痛を訴える眉間の皺もない。  生きている。そう実感できるくらいには、静かで深い、安らかな息遣いが聞こえることに、ブラッドは口もとを緩ませる。 「今日は、昨日より獲物が狩れた。まあ、俺が仕留めた訳じゃないが……昼に出た戦士たちが狩った分も含めれば、二日はもつ。たまには豪勢にしても問題ねえよな。ガラガ族の連中もいるし……彼らには、世話になりっぱなしだ」  ぽつりぽつりと低く言葉を落としても、薄い瞼が上がって神秘的な赤色が姿を現すことはない。反応を示さないクバルに、ブラッドは幾日も、朝も夜も、話しかけていた。  日中は、クバルがヘリオサだった頃の従者が彼の世話をしに来る。精油と水を含ませた布で身体を拭いて、薬草を擂り潰した汁を水差しから飲ませてやる。本当は自分が世話をしてやりたいが、今のブラッドの身体では満足にできない。まずは自分の世話をしなければならないのだ。 「ヘリオススに、他の村から民が集まってる。もう少し増えたら仕事を割り振って、それからガラガ族やフ族の連中には故郷に帰ってもらう。いつか借りを返さねえとな」  彼らには戦の際にも世話になった。アトレイアとの戦いに、かつてクバルに助けられた恩があると言って助力してくれた。重態のクバルを城の一室まで運んでくれた。降伏が受け入れられ、アトレイア軍が撤退するまで残された戦士たちとともに戦い砦を守ってくれた。 「お前も早く起きて、彼らに礼を言ってくれ」  無造作に腹の上に置かれた手を手繰り寄せ、左手で握り締める。硬く、かさついて、温かい手だ。 「それから、ヤミールにお前がヘリオサになるべきだと言った。これまでのヘリオサとは違うだろうが、あいつなら任せられる。お前もそう思うだろ。それともまたお前がヘリオサになりたいか?」  乾いた手の甲を親指の腹で撫でながら、軽く顔を覗き込んで問いかける。 「少し休んでもいいだろ。お前はよく戦ってきた。別にヘリオサじゃなくても、戦士としてダイハンを守れる」  ブラッドも、アステレルラとしてでなく、ただひとりの戦士としてダイハンを守っていける。 「俺はお前と一緒に、ダイハンを守っていく。左で戦うのは、これから練習していく。グランに稽古をつけてもらう。お前とまともに手合わせできるくらいにはなってやる。だから……早く目を覚ませ」  祈りにも似て震えた声が、虚空に浮かぶ。どれだけ強く願っても、握り返してくれる手はない。 「一緒に生きてくれって、お前が言ったんだぞ、クバル……俺が何て返事したか、聞いてただろ」  普段は他愛ない、その日の出来事や収穫を話すだけなのに、不意に感傷が溢れ出す。どんな病も傷も治す霊薬と、医者は言っていた。だからクバルはいつか必ず意識を取り戻す。今はただ長く眠っているだけなのだと自身に言い聞かせる。 「……お前は、約束を破らない。必ず戻るから待ってろって俺が言った時、お前は生きて、待っていてくれた。今度は俺が待ってる。どれだけ長い時間でも待っててやるから、必ず戻って来い……」  そう、信じている。 「クバル」  乾いた風が吹きつけ、土埃を巻き上げる。  思わず目を細める。  ひび割れた赤い大地。緑の代わりに聳え立つ巨岩。じりじりと殺意のごとく照りつける太陽。  果てしない地平が見えた。振り返っても、同じ光景が見えた。どこまでも赤い大地が続いている。  生まれた故郷ではなかったが、知っている。嫌いじゃない。  自分の居場所さえ失ってしまいそうな茫漠の大地の上で、ブラッドは待っていた。  何を待っているのかはわからない。だが信じて待っていた。  そうしてじっと待っているうちに、夜が訪れた。混じり気のない暗夜の空に、小さな星の光が煌めく。  クバル。  声にしたのは人の名前だった。一体誰の名前なのか。不思議と口に馴染んだ。まるで、何度も呼んだことがあるようだ。  だが、呼んでも現れなかった。  どうしてか眠くはならなくて、星を仰いで眺めている間に、空が白み始めた。  朝が来た。太陽が昇り、大地を熱し始める。羽虫も飛ぶ。今日は獣の姿も見る。ブラッドの側まで来て、視線を向けるとすぐに逃げてしまう。  日が落ち闇に覆われると、また星を眺めた。小さな星が、白く光って尾を引いて落ちていく。  クバル、とまた名を呼んだ。  朝が来て、今日も大地の上に佇んでいた。遠目に獣を見る。  夜は少し肌寒くて、腕を抱えて蹲る。  また同じ名前を呼んだ。そして、きっとこの名前の人物を待っているのだろうと気づいた。  日が昇って朝が訪れ、日が沈んで夜になる。幾度も幾度も繰り返す。クバル、と名前を呼ぶ。ずっとひとりきりで、何度も朝と夜を繰り返しては同じ名を口にする。  どうして待っているのだろう。こんな場所で。ひとりで。  わからないまま、また何日も同じ場所で過ごした。吹き荒ぶ風が頬を乾かし、燃える熱射が肌を焼き、冷えた空気が首筋を撫でていく。  幾度目かの朝、悲しくはないのに目から滴が零れ落ちた。頬を伝ったそれが、乾いた大地に沁み渡っていく。    ブラッド。  低く、張りのある声が背後から聞こえた。ゆっくりと振り返ると、クバルが立っていた。  じっと見つめていた。  目を覚ますと、目元が濡れていた。夢を見ていたようだが、内容は覚えていない。酷く単純なものだったような気がする。  顔を毛皮に伏せたまま、右手で涙を拭おうとして、使えないのだと思い出す。代わりに左手を使おうとして、弱々しいが確かな力で掴まれて動かないことに気づいた。 「……ブラッド」  伏せていた獣の毛皮から顔を上げた。  どれほどの間抜け面をしていただろう。  呆然として、少しの間声も出せずに硬直していた。 「泣いているのか」  弱々しい光を灯した赤色が、不思議そうにブラッドを見上げている。確かに、ブラッドを見ている。 「俺が、見えるか」  喉の筋肉が収縮してぐっと苦しくなる。震える声で問いかけると、クバルは頭をわずかに傾けた。 「そうか……そうか。よかった」  指先から力が抜けていくような感覚。情けなくも手が震えている。クバルのかさついた手を離してしまわないように、力を込める。 「よかった」  口から出てくるのは、単純なその言葉だけだった。馬鹿みたいに、何度も繰り返す。  唇がこらきれなくなって、俯いて奥歯を噛み締める。引き絞る喉から声が漏れないように飲み込んで、目を硬く瞑った。ぱたりぱたりと、毛皮の上に滴が沈んでいく。嚥下した唾は、少し塩辛い。  長く息を押し出してから、ゆっくりと顔を上げた。  肉の削げた、けれど力強い大地を彷彿させる美しい顔が、じっとブラッドを見つめている。 「起きるのが遅ぇよ」  だが、戻ってきてくれた。それだけで十分だった。  胸がいっぱいだった。ヤミールを呼ばなければと思うが、立ち上がることはできなかった。視線を巡らせ、ゆっくりと口を開こうとするクバルの手を握りながらじっと待つ。 「ここ、は」 「……ヘリオススだ。帰ってきた」 「アトレイアとの、戦は」 「負けた」  クバルが言葉の意味を噛み砕くよりも早く、ブラッドは言葉を続ける。 「降伏した。ヘリオススの民が傷つかないように」 「降伏……」 「だが、アトレイアの支配下に置かれる訳じゃない。アトレイアとダイハンは、半永久的に干渉しない」  それを降伏とは呼ばないことを、クバルは知っているだろう。いまいち理解が追いつかずにいるクバルは、今はそれ以上を考えることを中断したようだった。 「怪我を、したのか」  ブラッドの首から吊った右腕を目に留めたクバルは、しゃがれた声で確かめるように問う。 「少しだけな」 「見せてくれ」 「……大したものじゃねえよ」 「ブラッド」  クバルの視線が、ブラッドの吊った右腕と、涙が乾き始めた顔を見上げる。  黙っていられることではない。大事なことだ。  ブラッドは惜しみながらクバルの手を離し、吊っていた右腕を下ろすと、残った左手で右手を覆うように巻いた布を、慣れないながらもゆっくりと取り去った。クバルの視線の先に、指を失った右手の先が露になる。 「……なぜ」  渇いた舌を動かして発した声は、まるで自分自身が傷ついたような、悲嘆を孕んでいた。 「……」 「誰にやられた」 「……違う」  切断し、炎で焼いた断面は爛れ、赤黒く変色している。醜い姿になってしまった右手の先を見下ろしながら、ブラッドは真実を告げる。 「自分で斬った」  自ら望んでやった。そうする他なかったのだ、とブラッドは真っ直ぐで強固な視線で主張する。 「それが、条件だったのか」 「俺の指でダイハンが生き延びられるのなら、対価としては安すぎるくらいだ」 「……安くは、ない」  褐色の腕がぎこちなく伸びて、右手の先に触れる。ある筈のものがない。剣を握り、矢をつがえ、赤い大地を感じ、巨岩に触れていたものがない。少しだけ感覚が鋭敏になった、引き攣った皮膚を躊躇いがちになぞったクバルの指は、震えながら離れていく。ブラッドはそれを、反対の左手で掴んだ。 「俺は、何かを失ったとは思ってない」  左の手で、離れていく褐色の指先をぎゅっと掴むと、クバルは痛みにたえるように眉根を寄せて、険しい瞳でブラッドを見上げた。 「ダイハンの未来も、お前のことも、俺は諦められなかった。守りたかった。ただ、それだけだ」 「……ブラッド」 「たった、右手の指四本だ。左手でもできることはある。それとも、片手がないんじゃダイハンの戦士は務まらないか?」  唇の端で笑ってみせるが、クバルは同じように笑みを返してはくれなかった。  後悔は微塵もない。惜しみもない。だから、クバルにはそんな、悲愁に満ちた表情をして欲しくない。 「クバル。お前に触れるのは、左手でもできる。だから、左が残っていれば俺は十分だ」  左手で掴んだ褐色の手指に、涙の渇いた頬を当てる。皮の厚い指先は熱を持っていて、ブラッドに確かな安堵を与えた。  クバルが帰ってきた。クバルと言葉を交わすことができる。クバルに触れることができる。これ以上、望むことはない。 「愛してる……クバル」  赤色の宝石の輝きは、病に伏しても濁りはしていなかった。見開いた赤色がふと揺れ動き、その煌めきが綺麗だと思った。クバルはひび割れた唇を震わせて、喉から声を絞り出す。 「ブラッド……俺に、触れてくれ。お前が生きているのを、感じたい」  願いの通りに、ブラッドは握っていた指先をするりと解き、クバルの頬へ自由な手を滑らせた。そして上体を屈め、顔を近づけて唇に触れるだけの口づけをした。  熱を感じ、胸の奥に何かが染み渡るようにじわりと熱くなる。幸福と呼ぶ感覚なのかもしれないと思った。  顔を離すと、クバルの目の端から小さな雫が一筋流れた。かすかな笑みをたたえた唇が、低いけれど優しい音を紡ぐ。 「ずっと、お前に触れていなかった。ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。眠っている間、お前の呼ぶ声が聞こえた。お前が俺を引っ張り上げた。お前が俺を生かした」  それは俺もだ、とブラッドは胸の内で返した。クバルが待ってくれているから、自分の命を諦めずに生きて帰ろうと思えた。 「ブラッド。俺もお前も、互いがなくても生きてはいける。だが、俺はお前に隣にいて欲しい」  胸がぎゅっと苦しくなって、いきれるような感覚がした。豪雨の中、湿った厩舎の中で言われた言葉だった。 「二度も言われなくても、そのつもりだ。俺も前に言っただろ」  女王でなくとも、伴侶でなくとも、命がある限りはお前の傍に。  泣き笑いのような表情で言うと、クバルの褐色の手が伸びて指のない右手を握る。その上に左手を重ね、ブラッドは静かに目を伏せた。瞼の裏に見た、赤い大地の上に立つ自分の隣にはクバルがいた。 END

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