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決別
戦場に響き渡る太鼓の音は、遠く離れたアトレイアの本陣までも聞こえてくる。白み始めた東の空を見つめ、ブラッドはようやく息を吐いた。
その音は、撤退を意味する。激しい戦場を生き延びた兵士たちがじきに帰還するだろう。
ざ、と砂を踏む音が背後から接近する。居場所は敵陣、常であれば警戒し武器を構えるが、すでにその必要はなく、今のブラッドには不可能だった。身体の向きを変えるために足を踏み出すと、視界がぐらりと大きく揺れてそのまま転倒しそうになる。何とか踏ん張って見たシュオンの顔は、苦いものに染まっている。
呆れ、畏怖、そして兄のことが理解できないという気持ち悪さで。
「我がアトレイアとダイハンは、永久に、相互に干渉しない。破った時は戦になるだろう。ダイハン族外の南の蛮族がアトレイアの国境を侵す時もまた、ダイハン族はその責任を負ってアトレイアの侵攻を拒むことはできない」
結んだ盟約を口にするシュオンを、もはや言葉さえ口にすることも億劫になったブラッドは不安定な呼吸を繰り返しながら見据えた。
「忘れないでいただきたい……あなたの狂気のために、私が最大限の譲歩をしたこと」
「……ああ」
感謝はしないが、忘れはしない。忘れようもない一日となった。自分の姿を見る度に思い出すことになるだろう。ブラッドは渇いた喉に唾を押し込める。
「もうひとつ頼みがある」
「……兄上の図々しさには頭が下がります」
「医者を貸してくれ」
「まだ要求するのですか」
「要求じゃねえ。これは、俺個人の頼みだ。お前への。最後の」
だから聞き入れて欲しいと、ブラッドは力の入らない首を垂れた。シュオンがどんな表情をしているかは容易に想像がついた。
「あなたのその傷口は応急処置したのですから、砦まではもつでしょう」
「俺のためじゃない」
もはや尋ねるのも面倒になったようで、シュオンは深い嘆息とともに応答した。
「わかりました。手配します」
「ああ……手配してくれたら、すぐ帰る」
それが、弟であるシュオンとの最後の会話になった。
アトレイア兵の甲冑は脱ぎ捨て、本陣へ帰還するアトレイア軍を避けてブラッドは馬を走らせた。医者を乗せた馬を一騎連れて、兵士と戦士の血に染まった、煙の立ち上る大地を疾駆する。一刻も早く帰らなければならなかった。自分の身体の状態など気にも留めず、時折意識を手放しそうになりながらも、ブラッドは執念だけで走り続けた。
空が完全に明るくなった頃、ブラッドはリドル城へと到着した。門は破られてはいないが、攻撃を受けたらしい城壁は一部損壊して崩れ落ち、焼け跡が確認できた。
城門が開かれると、グランが待機していた。今にも馬から転げ落ちそうなほど身体を傾けたブラッドを見て、グランは血相を変えた。
「殿下……!」
グランの支えを借り、馬から下りる。意識は朦朧としていたが、それでも何とか立って歩ける。
城の中を見渡せば、物見の陰や荷台の上に、血をこびりつかせて汚れたまま力なく蹲る戦士たちの姿が見受けられた。蹂躙され追い込まれた過酷な戦場から逃げ延びた男たちだ。帰還したブラッドには一瞥もくれず、生きているのを疑うほど静かに伏せっている。その数は、数えられる程度にまで減っていた。
「グラン……クバルのところへ、この医者を連れて行く」
肩を借りた女を仰げば、彼女は目の周りを強張らせながら硬く頷く。
「わかりました……殿下はあちらで、少しお休みを」
「いや、俺も行く……行かなきゃならねえ。もう少し肩を借りていいか」
「ですが、その状態では」
「クバルが目を覚ます時、傍にいてやらないと」
ぎょろりと血走る目と額に浮き出る血管は、まさに鬼の形相と言えた。ブラッドを突き動かすのは、執念とクバルへの想いだけだった。クバルに会うまでは膝を折らないし、気を失うこともできない。薄い呼吸を繰り返し血を流しながら、憑りつかれたように進もうとする主を見て、グランはそれに従った。
足を縺れさせながらも、クバルの横たわる居住区の一室まで歩いた。アトレイアから連れてきた医者に道中「あんたも横にならないと」と窘められたが一蹴し進んだ。
部屋へ入ると、ベッドの傍らで祈るように背を丸めていたヤミールが振り返り、グランと同じようにブラッドを見ては表情を変えた。
「アステレルラ……! その手はどうされたのです」
「平気だ……問題ない」
駆け寄ろうとするヤミールを制し、グランの支えで寝台まで歩く。傍に引いた椅子へ医者を座らせ、自身はグランへ体重を預けたまま見下ろす。
「……クバル」
痩せた顔と、影の差す目元。
浅いが、胸は上下している。息がある。
必ず戻るから待っていろと言った約束を、クバルは守ってくれていた。ブラッドを置き去りにしないでいてくれた。
「早く診てくれ。助かるんだろうな」
医者はクバルの脈を測り、腹部や肩の傷の具合を確認した。脱水と酷い発熱、腫れて化膿した傷口。ブラッドたちには判断できない容態を一通り診た医者は、ブラッドを仰いで首を横に振った。
「絶望的だ」
口の中が干上がって、唾も飲み込めなくなっていた。狭まる喉がヒュ、と細い音を鳴らす。
そんな言葉は、信じない。
「適当なこと言ってんじゃねえ、ヤブ医者が。まだ助けられるだろ。……必ず助けろ。絶対だ」
「諦めてくれ。傷の状態とこの男自身の治癒力では、私が治療を施しても回復しない。もう視力すら失っているのだろう」
「こいつが死んだら、俺はお前を殺すぞ」
「無理なものは、無理だ」
不安定な身体を支えるグランを振り払い、ブラッドはほぼ倒れ込むようにして左手で医者の襟首を掴んだ。
「こいつは、強いんだ。ダイハン族の中で、一番……。こんな傷で死んだりするような柔な男じゃない」
クバルは約束を守ってくれた。一時のものではなく、これからも守り通す筈だ。
ともにいて欲しいと、クバル自身がブラッドに言った。その言葉を自ら覆すような男ではない。
今までも、これからも、クバルはダイハンを守っていく。ブラッドとともに。本人がいなければ、本末転倒ではないか。
ブラッドが立つその隣に、クバルがいないなんて、考えられないのに。
「クバルが守ってきたダイハンのために、俺は弟のところへ走って、降伏を勝ち取ってきた。一番にダイハンを守りたかったこいつが、ダイハンの未来を見られないなんてこと、ある筈ねえんだよ……」
ギリギリと、力を込めた指先が白くなっていく。頬を生温い液体が伝って顎から滴となって落ちる。背後で、アステレルラ、とヤミールが弱々しい声で呼んでいる。
「手を離せ、王兄よ」
「あんたが首を縦に振るまで、離さない」
「……ダイハンには、あらゆる病や傷に効能があると聞く霊薬があると聞いた。持っていないのか」
ブラッドは震える左の拳をにわかに緩めた。
「……何?」
「どれだけ死に迫った病状も、治療不可能な傷も治してしまえるほどの治癒力を与えるという……薬草だ。書物で目にしたことがある。実際に、もう数十年も前だが、命が助かった例があると書かれていた」
ブラッドは弾かれたようにヤミールを顧みるが、彼はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ……聞いたことがありません」
「私も直接見たことはない。乾いたダイハンの地に咲く、花だそうだ。一年に一輪見つかるかどうか、それほど貴重なものだと」
ブラッドは涙に濡れる緑の目を見開いて医者を凝視した。
「……花?」
「そうだ。だが、南の部族に関する記述の中に書かれていた短い一節だ。真実かどうかもわからないし、それほど貴重なものならばダイハン族自体が知らない可能性もあると……」
震える指先を医者の襟首から離し、胸の前でぐっと握り締めた。顎から伝った涙が乾いてひび割れた手の甲に滴る。
『この花は大変貴重なものです。乾いた赤い大地で、一年に一輪見つかるかどうか。この花は水をやらずとも枯れることがありません。ダイハン族の王の婚姻で、王が女王へ贈るものなのです』
婚姻の祝宴の最中、カミールがブラッドへ差し出し、ヤミールが説明を施した。
ブラッドはおそるおそる、その花を懐から出した。
茎も葉も花弁も白い、奇異な見た目の花。少し折れてはいたが、変わらず美しさを保っている。
「! アステレルラ」
「この花……」
殺伐とした豪雨の夜、濡れた厩舎の中で、ともにいて欲しいとクバルが望んで差し出した花。ブラッドは迷わず受け取ったのだった。
医者はすぐにブラッドの手から白い花を取り、器で擂り潰して水を加えた。器の中で、白く濁った液体が揺れている。
「この男の身体を起こせるか」
「……飲ませればいいんだな」
寝台の脇に膝をついたブラッドは医者の手から器を奪い取り、躊躇なく口に含んだ。渇いた舌に、味わったことのない苦味が広がった。
身を乗り出し、クバルに口づけた。顎を掴んで口を開かせ、少しずつ染み渡らせるように流し込む。小さく嚥下する音が聞こえ、顔を離した。
濡れた唇を拭い、憔悴したクバルの顔をじっと見つめた。
「……俺を置いて行くな」
懇願するように祈った。
浅い呼吸も、弱々しい脈拍も、変わらない。
「お前の傍にいてやるって、言っただろうが。お前を助け……、背中を守ってやることは、できなくなっちまったが……」
「殿下」
「目を覚ませ、クバル。起きて、俺を見ろ……」
視界が端から狭まり、漆黒に染まる。背後に傾く身体を、誰かが受け止めた。
「アステレルラ!」
クバルが目覚めるまで意識を失う訳にはいかないのに、意思とは裏腹に身体はすでに限界を迎えていた。
目を開けているのか閉じているのかもわからない。暗くなったのだから瞼は閉じているのだろうが、確信は持てなかった。意識が泥の中に引っ張られるような感覚に支配される。
「先生、殿下にも薬を処方していただけますか。傷口からの失血が……」
「当然だ。縛って包帯を巻いただけなんだから、十分じゃない。止血薬じゃどうにもならん、傷口を焼く」
会話を聞きながら、ブラッドはいつしか気絶していた。
ブラッドが首から布で吊るした右腕の先、血が滴り落ちるほど真っ赤に染まった包帯を医者が取ると、親指を残して右手のすべての指が根本から切り取られていた。断面の肉と骨が露になっている。
「どうして、こんな」
「自ら斬ったそうだ」
グランが重みを増したブラッドの身体を支えながら、痛々しげに顔を歪める。
「アステレルラ……深く感謝します」
あなたが守ったダイハンでクバルが目を覚ます時が、必ず訪れます。ヤミールが囁くと、ブラッドの眉間の皺は和らいで、呼吸がにわかに穏やかになる。
グランとヤミールは、信じて静かに待った。ヘリオススにふたりを連れて帰る日を。
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