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帰る
至る場所に焚かれた松明の炎が、緊張感に満ちたアトレイアの陣営を明るく照らし出す。
本陣の守備を担う精鋭部隊は一寸も違わずに正しい配置につき、万一の奇襲に備えて警戒を強めていた。
補給を受けるために戦場から戻った兵士が、荷台や積み荷の木箱の上に腰を下ろし黙々と飯を口に運んでいる。休息を取った後に、復帰しなければならないのだ。
致命傷を負いながらも命からがら戦線から離脱した兵士が担架で運ばれる先は、大きな天幕の中だった。通りすがりブラッドの耳には、苦痛に喘ぐ呻き声や怨嗟が聞こえた。戦士たちに負わされた傷だ。中を覗けば、手足を失った兵士や顔を斬られた兵士が包帯に巻かれ、ところ狭しと寝かせられている。嗅覚が鈍ってしまってわからないが、濃い血の匂いに満ちているのだろうと思った。
ダイハンは甚大な損害を受けた。だがアトレイアの被害も少なくはない。
茨の御旗が掲げられた天幕は最奥にあった。他のアトレイアの兵士と同様に甲冑を身につけたブラッドを敵と認識する者は当然おらず、甲冑の中でこもる己の呼気を鬱陶しく思いながら真っ直ぐに足を動かした。
一度でも足を止めれば二度と動けなくなってしまう。それほどに腰から下は重く怠く、一歩を踏み出す度に大地に沈み、絡め取られるように感じられた。
負傷した背中は火傷のように熱く、包帯代わりの布に血が滲んでいくのがわかる。全身熱くて、血だけでなく汗が身体中から噴き出している。頭がぼうっとして、時折視界が霞み、足が縺れそうになるが、不審に思われぬようブラッドは自身を叱咤し続けた。
革袋に詰めた首を差し出し、乞えばすべてが終わる。そして帰る。それまでは倒れる訳にはいかなかった。
掲げられた茨の御旗。それを照らすように燃える炎の明るさ。目を引く朱色の天幕の前には、騎士がふたり、背を正して直立している。
ブラッドは迷いのない足取りで、彼らの前まで進んだ。
「所属を言え。お前のような一兵士が陛下に何用か」
ふたりの騎士は立ち塞がるように前に出て、血飛沫が散った甲冑の兵士を訝しむ。
「前線の部隊から来た。陛下にご報告申し上げることがある」
「中へは入れない。私が聞こう。さっさと吐いて配置へ戻れ」
「直接陛下の耳に入れるべき重要な話だ。上官から預かってきたのだ。他の誰にも話せない」
毅然とした態度に、騎士の胡乱な視線も和らぐ。重要な案件と判断したらしい騎士は、ふたり顔を見合わせ、道を開けた。ブラッドは頷き、垂れ幕の前で一歩、足を止めた。金糸で繊細な刺繍がなされた、厚手の上質な布。
「――陛下」
つとめて低く発した声は、甲冑の中でくぐもる。間もなく、弟でない男の声で「入れ」と短く返答があり、ブラッドは垂れ幕に手をかけた。
「失礼いたします」
中に入り、まずは内側の入り口の左右にも騎士がふたり、控えているのを素早く確認した。それから上げた視線の先に、彼はいた。十数歩先、獣の姿が彫られた広く厚い長卓を挟み、腰かけている。
ブラッドはその場でゆっくりと膝を折り、片膝をついて跪いた。
「戦況の報告か」
故意に威厳を纏った、少し高めの声音が頭上に降りかかる。
王族にのみ許された、白金の輝きをなす甲冑。胸の辺りには細かい線で茨や蔦の紋様が見事に彫られている。緋色のマントを羽織り、卓の影で見えないが腰には宝珠に等しい剣を佩いている。黒鞘に繊細な金の彩りが走り、抜けば露が滴る煌めきの刃。
肩まで伸びた、燃えるような赤毛。翡翠の輝きを放つ双眸。中性的で凛とした顔立ち。
アトレイア国王、シュオン・ロス・サーバルドだ。
「恐れながら陛下のお耳に直接入れたい重要なご報告がございます」
「楽にしていい。立て」
許しを与えられ、ブラッドは泥に沈んでいく足に力を込め起立した。
シュオンの隣に、騎士がひとり控えていた。ブラッドが玉座の間から追放された日、ブラッドの頬を打ち、捕囚のようにしてダイハンまで送り届けたサー・マーティンだ。
ブラッドは不意に込み上げる憤りを飲み込む。
王が座るべき場所に当然のように居座る弟。もし今、彼の首を落とせば、この戦いは終わるか――? 何よりも愚かな考えが、十分に酸素の行き渡らない頭を過る。
ブラッドは憎しみに目を瞑った。ダイハンを滅ぼそうとするこの男をどれだけ憎悪していても、今すべきことは違う。衝動に身を任せここで自分を終わりにしてしまったら、帰りを待つ者を永遠に待たせてしまうことになる。
渇く喉に唾を流し、ブラッドはこれが最後かと思うほど長く息を吐いた。そして首の金属の留め具を乱暴に外し、両手で頭部を覆う甲冑を脱ぎ、敷きつめられた柔らかな絨毯の上にガシャンと放った。
冷たい空気が熱を帯びた額や頬に触れ、鼻と口から肺の中へ流れ込んでくる。
シュオンは兜を取り去った兵士の顔を見て、ブラッドと同じ緑の目を大きく見開いた。ブラッドは弟の表情を見て、わずかに溜飲の下がる思いがした。
信じられない、と言うように、シュオンは兄の姿を凝視している。生きていることに驚いているのか、戦の最中に兵士の姿を装ってまでアトレイアの本陣まで来たことに驚いているのか、汗みずくで短い金糸に血や土をこびりつかせ汚れた形相に驚いているのか。わからないが、ブラッドは目を瞠る様子の弟を差し置いて、重い防具に覆われた脚を踏み出す。シュオンの隣に張りつくサー・マーティンと、背後のふたりの騎士が剣を抜く音を聞いて、ブラッドはそれ以上接近するのをやめた。
「ダイハンはあなたを許したのですか?」
生きている筈がない、とシュオンは暗に言う。
「リドル城はダイハンの手に落ち、逃げ延び帰還したのはシルヴァの軍隊とオルセンのわずかな手勢のみ。あなたのことを任せたオルセン候も、あなた自身もその中にはいなかった。戦死なされたのだと思っていた……まさかダイハンが再びあなたを受け入れるとは」
すぐに平静を取り戻したシュオンは、立ち尽くすブラッドを鋭く見据える。
「クバルが俺を許した」
痰と血が絡んでしゃがれた声で、毅然と言い放つ。
傷を負い、息も切れ切れで、血と脂と汗に塗れて汚れた無様な姿で、以前ならこんな様を弟の目に晒すなどたえられなかった。弟は王で、自分は何者でもない。だが今ではそんな些末事などどうでもよくて、果たすべき目的を持つブラッドには己の見かけや立場など恥じるに値しなかった。
シュオンは血走った目で自分を睨みつける兄に、軽く鼻を鳴らす。
「あの時、玉座の間で、ヘリオサ・クバルが何と言ったか私は覚えています。絶対に許されない、お前はもうアステレルラではない……そう記憶していますが」
「ああ、確かに俺はアステレルラじゃない……クバルの妻でもない。俺が何者かなど、お前は気にすることじゃないだろう」
「ええ、その通りどうでもいい。けれど兄上が今こうして生きて私の前に立っているということは、あなたはダイハンの戦士としてダイハンのために戦っているということ……それが異様に思えただけです」
何もおかしいことはない。ブラッドはクバルのために、クバルの望むダイハンのために、ここまで来たのだ。
「俺はダイハンの使者として、アトレイアの国王に会いに来た」
「殺される危険があると知りながら、わざわざ出向いた。その覚悟は評価します。ですがダイハンの使者と話すべき事項は何もありません。戦いは続き、間もなく訪れる夜明けには我が軍がリドル城を落とし、奪還します。その後は言うまでもないでしょう――」
ブラッドはシュオンの言葉を最後まで聞かず、革袋を肩から下ろし、逆さにして中身を落とした。短毛の絨毯の上を、赤い線を引いて丸い物体が転がる。振り乱した黒い長髪と褐色肌の首は、まだ生きているかのような生々しさだった。
シュオンは野蛮な行為を忌避するように眉を顰めた。
「……それは?」
「王の首だ」
端的に告げる。シュオンは顰め面のままサー・マーティンに目配せをすると、従順な騎士は側から離れて絨毯に転がる男の頭部を頭髪を掴んで拾い上げる。
「違うようですが」
「ヘリオサの首だ」
「私の記憶するクバルの顔ではない」
「クバルはもう王じゃない」
「死んだのですか」
不躾な問いに、ブラッドは答えを返さなかった。
「ヘリオサの首を持って来た。俺たちは降伏する。兵を撤退させろ、アトレイア国王。ダイハンは二度とアトレイアに楯突かない。国境を越えず、半永久的に不干渉を保つ」
威圧的な降伏の申し出に、シュオンは冷ややかな視線で使者を睥睨した。
「こちらがダイハンに送った使者は首を失って帰還しました。それがあなた方の答えであると私たちは認識していましたが、劣勢に陥った途端に掌を返されるとは」
「それは、この愚かな王が出した答えだ」
「もう愚かではないと? 今さら撤回なされても遅いと、賢い兄上であればお気づきでしょう」
「言わせてもらうが、もともとお前たちに降伏を勧める気などなかっただろう? 滅ぼすと言った筈だ。こっちを一網打尽にできる兵力を持ちながら、わざわざ使者を送って寄越す理由は、体裁のためだろう」
シュオンは答えない。ブラッドは肯定だと受け取った。
「もう勝敗は決まっている。ダイハンは敗北した。敗北した俺たちをこれ以上追い詰め、罪のない女子どもや老人まで殺してダイハンを平らにする必要はないだろう。降伏する者を攻撃するのは外道だぞ」
「納得しない者もいるのです」
実年齢よりも少し幼く見える顔が、苦虫を噛み潰すと相応の年に見えるようになる。
「私がダイハンの降伏を受け入れても、それを良しとしない者が少なからずいます」
そのアトレイア国王の言葉に、わずかな希望を見る。
「お前自身はどう思う」
「……あなたの言う条件では降伏になりえない。ダイハンの地はアトレイアのものにならなければならない」
「監視でも何でも寄越せばいい。貢ぎ物を要求するなら応える。だがダイハンはアトレイアの属国にはならない。ダイハンとして生きていく」
「まるでダイハンの代表であるかのようだ」
ブラッドは渇く喉を鳴らして視線だけで肯定を返した。
「あなたが望んでいるのは降伏ではなく、ただの取引です。しかも我々には何も得るものがない。受諾すると思いますか」
「何が欲しい。言ってみろ。ダイハン以外なら、何でもくれてやる」
「征服なしには国への示しがつかない。相応のものをもらわねば、臣下も民も納得しないでしょう」
「お前を納得させるにはどうしたらいい?」
シュオンは押し黙り、表情を消した愛らしい顔を向けた。
「以前に私が話したことを覚えていますか? 兄上が国王ブラッドフォードとして王都を立つ直前……もしアトレイアに背くようなことがあれば、あなたの命は本当にないかもしれないと」
「……俺に死んで欲しいか?」
流れ続ける脂汗を拭いながら、霞む視界で弟を見据えた。
「そんなに血みどろになってわざわざ危険を冒して私のもとまで来たということは、よほど本気なのでしょう。もし命さえ投げ出すというのなら、その誠実さに私は応えるべきでしょう」
命を絶つのなら、考えてやらないこともない。そう言っている。
ブラッドは足元を見た。ぽたりぽたりと、汗と血が混ざった滴が毛足の短い絨毯に染みを作っている。意識が朦朧としてきて、もはや立っているのか、どこに足をつけているのかさえ定かでない。己の息遣いの音が、身体の中でうるさく響いている。
考える。自分ひとりの命でダイハンが助かる。クバルの望んだダイハンの未来が救われる。
きっとそこにはクバルがいる。その隣に自分がいないなど、考えられるか。
「――シュオン。悪いが命はやれねえ。俺は、帰らなきゃならない」
「……帰る、ですか」
顔を上げるとシュオンは苦い表情をしていた。
「代わりにこれをくれてやる」
鉛のように重い足を引き摺り、厚い長机の前まで距離を詰めた。赤く血走った目で弟を見据えながら、ブラッドは躊躇いなく左手で剣を抜いた。サー・マーティンが剣を構える。騎士よりも先に、ブラッドは剣を振り下ろす。
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