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味方の兵士
ブラッドは言葉を失った。ヤミールは興奮で肩を上下させ、その手に赤く濡れたファルカタを携えている。
「ヤミール……」
身体のあちこちが痛む。呻きながらユリアーンの重い身体をどかし、ブラッドはようやく立ち上がる。ヤミールは荒い呼吸を整えるように深く息を吐き、ユリアーンを絶命させた剣を大地に落とした。垂れ下がった腕は細かく震えている。
「……どうして来た!」
口から出た第一声がそれで、ブラッドは少し後悔した。違う、言うべきは責める言葉ではないだろう。だが、炎と血に塗れた戦場に、屈強な鋼の肉体を持たない、戦士でない青年が立っているちぐはぐさを見れば、苛立ちが勝ってしまった。そしてすぐ、ブラッドは深呼吸をしてヤミールを正面から見据えた。
「お前の来るところじゃない……クバルを見ていろと、俺は言ったぞ」
ヤミールはその怜悧な顔にわずかな怯えを走らせたが、唇をぐっと引いてブラッドを見た。
「どうか誤解しないでいただきたいのです。決してアステレルラから与えられた重要な役目を投げ出した訳ではありません。クバルが仰ったのです」
至極真摯な表情でヤミールは続けた。
「ほんの一瞬、短い時間でしたが目を覚まされたクバルが、あなたを守ってくれと言いました」
「……」
「今度はお守りできました、アステレルラ」
意識が朦朧としながらも、クバルはブラッドが何をしようとしているのか、気づいていたのか。
「必ず戻ると、アステレルラは仰いました」
「そうだ……だが、お前がいなきゃ、戻れなかった。……ありがとう」
わずかに目を見張るヤミールの肩を引き寄せ、戦士のものではない細い身体を片腕で抱き締めた。青年は「光栄です」と首元で囁いたが、すぐに息を詰めた。
「アステレルラ、背中の傷は」
身体が離れ、ヤミールが深刻そうに見上げてくる。
「ああ、名誉の傷だ……不名誉とも言うかもな」
「いけません、手当てをしなければ」
決して浅くはないが、急所でなく、すぐ死に至るようなものでもない。焼けるように熱く失血は続いているが、たえられない痛みではない。こんなもの、致命傷を負い、その上ユリアーンに執拗に嬲られ続けたクバルの痛みに比べれば。
「そんなことをしている余裕はない。すぐにこいつの首を胴体から離して持ってく」
ブラッドは地に伏せるユリアーンを一瞥し、周囲を見渡した。周辺にはわずか懸命に戦っている味方がいたが、状況は絶望的と言えた。
戦士は押し寄せる敵に数人がかりで襲われ絶命する。馬で駆ける弩兵部隊に何本もの矢で胸を射られ倒れる。死んだ主人を乗せた馬は兵士に捕らえられ、死体は引き摺り下ろされて入念に喉を貫かれる。
この惨事を、ユリアーンは想像していただろうか?
ブラッドは干上がった喉に唾を流し込み、ヤミールに向き直った。
「お前はまだ動ける戦士たちに、城への退却を命じろ」
「……戦士たちが聞くのはヘリオサの命令だけです」
「ヘリオサは死んだ。首領がいないのに、負け戦を続ける義理は、ガラガ族やフ族にはない。犬死にはごめんだろう」
ガラガ族やフ族のように、ヘリオサ・ユリアーンを信じていたものがすべてではない。ダイハンの戦士の中には、王が取って替わられる決闘以前、捕虜を解放し相互不干渉の盟約を結ぶというクバルの言葉に耳を傾け頷く者もいたのだ。
ユリアーンのために決死で戦い続け自死を選ぶ必要はもはやない。
「お前も城に戻れ、ヤミール。俺が戻るまで今度こそクバルから離れるな」
「アステレルラも今は城へ帰還し安全な場所に身を隠すべきです。一度休まれた方がいいでしょう」
「いや、今行かなきゃ駄目だ」
「ですが――」
ヤミールの言葉は続かなかった。ブラッドがその腕を引き自身の背後へ隠したからだ。
兵士がふたり、襲いかかってくる。ブラッドは咄嗟にヤミールが落としたファルカタを拾い、ひとりの兵士の大振りな動作の隙を突いて残るわずかな力で斬り伏せた。もうひとりの剣筋を読んで受け止めるが、失血のためか指先が痺れて力が入らない。ヤミールを守りながら攻撃を防ぐのに精一杯で、反撃などできそうになかった。
その上、さらに兵士が向かってくる。
「クソ、まだ来るか……」
霞む視界のなか目を顰めると、剣を手にした歩兵ふたり、そしてその後方からは騎馬に跨がったのが一騎。ブラッドは、額から降りてきた汗に片目を瞑る。
どうする。ヤミールを逃がすか。だが自分が今死ねば、何のためにユリアーンを殺したのか。誰が王の首をアトレイアの陣営まで携えて持って行くのか。帰れない自分のことを、ヤミールに話させるつもりか。
瞬時に頭の中を考えが巡ったが、答えは出なかった。ただ自身を奮い立たせるために叫びを上げながら、対峙した兵士を斬った。これ以上は戦えないと理性が叫んだ。
ブラッドは次の瞬間には驚くべき光景を目の当たりにしていた。剣を携える騎兵が、同じくこちらへ駆けてくる歩兵の急所を馬上で背後から突き刺したのだ。銀の兜を被った騎兵は、血飛沫を上げて倒れる同胞には目もくれず、一目散にこちらへ駆けてくる。
ブラッドは荒く息を吐きながらヤミールを庇うように片腕を広げ、もはやただ掴んでいるだけの剣を一応の形だけ構えて警戒した。兵士はふたりの前で馬の足を止め、馬の身体を横へ向ける。
兵士は剣の血を払って鞘へ戻すと、甲冑に覆われた太い腕で頭に被った兜を取り去った。
その兵士――女は、汗に濡れた栗色の頭を振る。
「そこら中に転がる死体の仲間入りをしていなくて安心しました」
ブラッドより十年以上年を重ねた女は、薄い唇に不敵な笑みを浮かべ、目尻の小さな皺を深める。ブラッドは銀の甲冑を纏い馬に跨がる大女を呆然と仰いだ。
「グラン……?」
「ええ……まさかお忘れではないでしょう。忌々しい晩餐会の夜以来です、殿下」
前線は自然と後退している。三人はそれよりも後方へ一時的に逃れ、死んだ馬の陰でひっそりと顔を合わせた。
元騎士であり、元従者である女は、別れの挨拶もできず王都で離れ離れになった時から何ひとつ変わらなかった。騎士であった頃のように立派な甲冑を身につけていたが、同じアトレイア軍の兵士を殺し彼らの血飛沫を浴びた彼女の姿は、敵ではなく味方であることを示している。
グランとは、シュオンがブラッドフォードの名でアトレイア国王に即位した日の晩餐会の夜に別れたきりだった。グランが会場で不在にしている間にブラッドは不本意に連れ去られ、事件は起きた。そして事の首謀者たちはクバルに惨殺され、玉座の間でアトレイアとダイハンは決裂した。クバルに置き去りにされたブラッドは城へ軟禁され、グランの待遇も消息も知ることなく、国王ブラッドフォードとして南へ行くこととなったのだった。
「私は罪には問われませんでしたが、ヘリオサがあの夜アトレイアを去って以来、ヘイズの領地で謹慎を命じられていました。その後、南へ向けて国王ブラッドフォードが王都を発ったと聞き、あなたのことではないかと思いました。謹慎が解けた頃、オルセンとシルヴァの連合隊の敗走と国王の戦死が聞こえてきました。そしてすぐに軍が再編され、今度はシュオン様が新たな王として、大軍を率いて南へ行くと」
グランは顔を流れる汗を掌で拭いながら手短に語る。
「ですが何が真実なのか私にはわかりませんでした。あなたが本当に亡くなられたのか、にわかには信じられなかった。信じたくなかった」
そう言う彼女の土色の瞳には強い光が宿っていた。
「確かめるために兵に志願したのか?」
「いえ、兵士にはなっていません。私は身元が割れています。女の武人など滅多にいるものではありませんので。出立前に軍に忍び込んだのです。そうしてここまで来られた」
安堵を示すように、グランは長く息を吐いた。
「あなたのご無事を確認できてよかった」
ひび割れた唇を綻ばせる彼女の顔を見て、全身が泥沼に浸かっているかのような重苦しさが軽減したように思えた。
「ああ……俺も、お前に見放されていなくて安心した。わざわざ危険を冒して兵士と偽り、会いに来てくれるような従者がいて俺は恵まれてる」
「ええ、もっと感謝すべきです。わざわざ会いにきたことで、命拾いもされましたから」
「グラントリー様には私も感謝申し上げます。アステレルラも私も、非常に危険な状況でした」
膝を折った体勢でヤミールが頭を垂れる。グランは薄く微笑んだ。
だが到底危機を脱したとは言えない状況だった。すぐにグランの表情は厳しいものに変わる。
「殿下、このままではダイハンの敗北は必至です」
「わかってる」
「ヘリオサは何をしてるんです」
責めるような口調だった。彼女の言うヘリオサは、クバルのことだ。
「クバルはもう王じゃない」
真実を告げると、グランは目を瞠る。
「では……死んだのですか?」
躊躇いつつも容赦のない問いに、ブラッドは城に残してきたクバルを思った。容態は危うく意識も不安定で、視力を失い、食べ物も口にできない。不安に飲み込まれそうで、汗に濡れた掌をぐっと握った。落ち着かせようと目を閉じる。
「いや、生きてる。新しいヘリオサに、生かしてもらった」
無事だとは言わないブラッドの重苦しい声音から悟ったらしいグランは、ただ「そうですか」と硬く相槌を打つ。
「それで、新しいヘリオサは」
「ユリアーンが……さっきまで王だったが、死んだ」
簡潔に告げると、グランの揺れる視線はブラッドが手に持った布に包まれて丸みを帯びた物体に向けられた。布は赤が染み、滲み出した液体がぽたりぽたりと大地に滴っている。
「では……」
誰が王なのか、と。困惑するグランの目は語っている。
「誰が王かなんて今はどうでもいい。気にしてる場合じゃない。俺はこの首を持ってアトレイアへ降伏しに行く」
「ですが危険です。降伏が受け入れられる保証もありません。そもそも一度拒んだものを願い入れに行くなど」
「確かにお前の言う通りだ。辿り着いても断られるかもしれねえし、一笑されて斬り捨てられるかもしれない」
「道中もです。誰も国王ブラッドフォードの死を疑っていません。兵士はみな、死んだと思っています。あなたの姿を見ても、前国王とは思いません。捕えられます」
「そうかもな」
「戦場を離脱し逃げるべきです。クバルも連れて我々だけで、オルセンやダイハンからも離れた地へ」
「それはできない」
強い語調で断言するブラッドに、グランは薄い唇を引き結んで黙った。どうして、と縋るような目で見つめてくる。
「クバルはもう動けない」
「……」
「それにダイハンを見捨てることはできない。ダイハンを更地にはしない……クバルと約束した」
そして、カミールの身体をヘリオススで葬り、来世へ生まれ変われるように太陽のもとへ還してやらなければならない。
ブラッドのすべきことは明確に決まっている。ダイハンの民や戦士を見殺しにして逃げ延びることではない。クバルが守ってきたダイハンを、この先も守り通すことだ。
「……わかりました」
執念に似た、覆ることのない決意を感じ取ったグランは、覚悟を決めたように、戦場の轟音に似合わぬ静謐な声で呟いた。そして突然、肩の甲冑の留め具を外し始め、ブラッドとヤミールはぎょっと目を剥いた。
「おい、何してる」
「せめて安全に辿り着いて欲しいのです」
躊躇いのない手つきで肩当てを取り、胸当てを外し、手甲まで取り去るグランを前にしてブラッドは少し焦った。甲冑の下は肌着なのだ。
「せめてこれを着て、姿を晒すことなく兵士に紛れ、シュオン様のもとまで向かってください。無事に行ける筈です」
「影武者じゃなく、本当に弟は来てるんだな」
「そのようです。本当は守って差し上げたいのですが、おひとりで甲冑に身を包んで向かわれた方が安全かと思います。私は殿下の降伏が受け入れられるよう祈っております」
ガチャガチャと金属音を鳴らして銀の甲冑が剥がれていく。ブラッドはグランの好意を受け取ることにし、血に濡れた鎧を身に纏う。その前に負傷した背中の傷をせめてもの治療として、衣服を裂いて包帯代わりに巻く。血はすぐに染みていくが、意識はまだ明瞭だった。
「少し窮屈かもしれませんが」
馬に乗り上げたブラッドを、下穿きと下着姿になったグランが見上げる。
「窮屈じゃないが、今の俺には重くて押し潰されそうだ」
「アステレルラ、どうかご無事でお戻りください」
血と土に端整な顔を汚したヤミールは胸を押さえている。彼の不安を増やさぬように、ブラッドはしっかりと頷いた。
「必ず戻る。クバルが目覚めたら、あいつにもそう念押ししておけ」
「はい、アステレルラ。必ず」
ブラッドは馬上で夜天を仰ぐ。地上に巻く戦火に燃やされているが、まだ濃い群青は居座り、夜明けは遠い。細い月は地上のことなど気にも留めず、粛々と心許ない銀色の光を落とすだけだ。
「夜明けまでだ。城に撤退し、夜明けまでたえろ」
「はい。ガラガ族やフ族が退けば、ユリアーンに追従していた戦士たちも退かざるを得なくなるでしょう。彼らに主導をお願いします」
「ああ……頼む」
鮮明に輝く赤色の瞳を見返し、ブラッドは兜を被る。どこからどう見ても、アトレイア軍の兵士である。
「さあ、急いでください」
グランが馬の尻を叩くと、馬は新たな主を乗せて北へ向けて走り出す。ブラッドは兵士の流れに逆行しながら、王の首とともに茨の陣営へと疾駆した。
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