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女王と王
落ちた松明の炎が兵士と戦士の死体を燃やしている。脂と肉の焦げる臭いすら、もはやブラッドは感じなくなっていた。
「お前はダイハンを滅びへ導く。王にはしておけない」
ブラッドの言葉を理解したユリアーンは、肩を震わせ、笑った。そしてダイハンの言葉で、侮蔑を露にして叫んだ。
「お前が王になるのか!? アトレイアから追い出された阿婆擦れが! 穴くらいしか使い道のないお前が、ダイハンの戦士を率いるのか!」
彼に付き従う戦士たちが唇を歪めて嗤っているのを見て、罵倒されていることだけは理解できたが、ブラッドは毅然とした態度を崩さなかった。
滅びをもたらす王など、必要ではない。
戦って得られる命はないのだ。だが、王の首を敵に献上することによって救える命はあるかもしれない。
「その首を寄越せ、ユリアーン」
ダイハンはブラッドの故郷ではない。乾いた赤土も、舞う土埃も、燦々と照りつける太陽も、住まう鱗の獣も、野蛮な戦士たちも、決闘という風習も、すべてブラッドの知るものではない。辟易していた。
クバルのことも嫌悪していた。毎夜組み敷いて自分の尊厳を奪う男のことが憎くて仕方なかった。冷酷で、残忍な男だと思っていた。
だが彼の王としての姿は、厭うようなものではなかった。かつてのヘリオサから民を救った英雄であり、民が健やかにあるよう望んでいた。
そのクバルが守り抜いてきたダイハンを、アトレイアに踏み均されてしまっては、彼はきっと嘆き悲しむだろう。クバルが守り抜いてきたものを守ることこそが、クバルへできる最大限の報いだ。それをすべき時が、今なのだ。
「痴れ者が……」
ブラッドが冗談を言っているのではないと知ったユリアーンは、鼻梁に皺を寄せて唸る。
「お前の相手をしている時じゃない!」
周囲では戦士たちがアトレイア兵と剣を交えている。ユリアーンは接近してきた敵の頭を馬上からファルカタで粉砕しながら、共通語で叫ぶ。取り合おうとしない男に、ブラッドは正面から剣を突きつけた。
「ヘリオサが決闘から逃げるのか? 逃げた時点でお前は王じゃねえぞ」
「邪魔だ、どけ!」
「俺を斬ってから敵と戦え」
阻むブラッドについに業を煮やしたらしい、ユリアーンは突然、ブラッドの跨がる馬の首を斬りつけた。暴れる馬の背から振り落とされたブラッドが受け身を取って仰ぐと、火の粉が舞う夜天を背にユリアーンが鼻息荒く見下ろしている。
「煩い蝿だ。生かしておくつもりだった……だが邪魔をするならここで殺す」
自身の馬から飛び下り、血走った目で見据えてくるユリアーンは、ダイハンの言葉で憤怒を露にした。
「切り刻んだお前の死体をクバルに見せてやる。朽ちていくお前の身体の前に繋いで。腐り悪臭を放ち、骨になって塵に変わるまで、あいつは俺の犬として飼ってやる」
決闘を受ける意思を感じ取り、ブラッドは立ち上がって剣の柄を深く握り締めた。アトレイア兵の血と脂を吸った刃は、肉を断つことは困難になっている。だが男の命を奪うに、鋭利な刃が失われていても自身の腕さえあれば十分に果たせると、ブラッドは思った。
「死ね!」
怒号とともに空気が唸り、ブラッドは強烈な一撃を受け止めた。手首の骨と肩が痺れ、ブラッドは呻いた。
耳の奥で甲高い音が長らく尾を引いていて、非常に厄介だった。あちこちで上がっている炎のおかげで視界が奪われていないのが唯一の救いではあったが、瞼の痙攣が止まず頭痛が酷くて目を開けているのも億劫だった。
ユリアーンの一撃を押し返し、素速く打ちつけた。剣を薙ぐ度、その鋼鉄の重みに肩が軋み腕が千切れるのではないかと思った。
――だが、こんなところでは終われない。
ユリアーンを殺すことが、目的ではないのだ。ユリアーンを殺して首を取った後、ブラッドにはすべきことがある。過程に過ぎず、今、この程度の困難で倒れる訳にはいかないのだ。
疲労と痛みを訴える肉体を奮い立たせ、血を流す大地を足裏で強く踏み締める。しかしユリアーンは、傷を負って本調子でなかったとはいえ、クバルを打ち負かした戦士だ。単純な豪腕ではブラッドに勝る。まともに打ち合っていては勝算はない――だが、自分が敗れる姿はまるで想像できなかった。
ブラッドには目的が、願いがある。ダイハンを危機から逃し、クバルとともに生きる。だがこの男には信条も目的もなく、敵に膝を折らないことに固執し、自身を過信し、敵の王の首を取ることがすべてだとする。それが誇りなのだと言うのなら、ダイハンが滅びるのは然るべき結果なのだろう。
ユリアーンはヘリオサにはなれない。ヘリオサになる資格のない男に負ける気は、微塵もない。
「こんなものかユリアーン……クバルはお前よりずっと腕が立った……!」
打ち合って十数合、競り合いながら間近で言葉を吐けば、ユリアーンの表情が憤怒に染まった。リドル城の厩舎でクバルと対峙した時の痛みと苦しみを思えば、ユリアーンを下すことなど他愛もない。
肉が裂け、血が飛び散る。互いの身体に傷を負わせながら、決闘は続く。アトレイア兵と南の戦士たちが刃を交える戦火の最中、ダイハンの女王と王が殺し合う。
競り合って小さな火花が散る。ユリアーンの豪腕と鮮明な殺意をなまくらの剣で受け止めたブラッドは、背後から忍び寄る殺気を感じ取った。自身を奮い立たせる雄叫びとともに得物を構えた兵士が疾駆してくる――渾身の力でユリアーンを押し返し、ブラッドは背後に迫る兵士を振り向き様に斬った。怯んだ男の喉元を薙ぐが、綺麗に肉を削ぐことはできず、男は長く苦しみながら倒れた。
直後、ブラッドは背中に走った激痛に喘いだ。血を吸った大地を転がり、自分のものではない剣を拾って咄嗟に立ち上がるが、背中が熱くて堪らなかった。にじり寄るユリアーンは、ブラッドに深い一撃を浴びせられたことに満足を覚え、口もとに悪辣な笑みをたたえている。
「……っ」
肩で荒く息をしながら、再び剣を構える。だが先刻までとは異なり酷く重く感じ、腕は痺れて感覚が遠のいている。血と混じった汗が目に入り沁みたが、瞬きをすれば一瞬の隙にユリアーンのファルカタに捕らえられてしまいそうで、ブラッドは血走った目の縁を大きく広げ、息を殺した。
もう長く戦っていられない。背中の傷も浅くない。血を失えば立ってもいられなくなる。
顎の先からぽたりぽたりと滴が落ちる。唾を飲むと濃い鉄の味がした。水か酒が飲みたい、そう思いながら、ブラッドは構えていた得物をにわかに下ろした。警戒したユリアーンは笑みを消し身体を強張らせる。
ブラッドはユリアーンの間合いに飛び込み、肩から体当たりを食らわせた。一歩、二歩、よろけ転倒をこらるユリアーンの身体の正面を、咆哮を上げながら斬った。
深い血が吹き上がるのを、ユリアーンは眼球が飛び出そうなほど大きく目を見開いて見ている。驚愕している男の腹に深く刃を突き刺し、強く握った柄を捻ると濁った悲鳴がユリアーンの口から迸った。
突き刺した剣をそのままに、ブラッドは一歩後ずさって男の血と汗に濡れた身体から距離を取った。ユリアーンは口から血を吐いて膝を突き、うつ伏せに倒れた。
「もうお前は王じゃない……」
倒れたユリアーンの腹部から血が大地へ染み渡っていくのを冷淡に見下ろす。どっと疲労が肩にのしかかり、大地から足を引っ張られているようだった。長く深く息を吐く。
欲しいのはこの男の首だ――胴体と首を切り離すため得物を見つけようと周囲に視線を走らせた途端、ブラッドは足首を強い力に引かれて背中から大地に倒れた。
「ぐ、っ……!」
後頭部を強打し、視界がぐわんと揺れる。
仰げば口もとを深紅に濡らした男が、仰向けになった身体の上に乗り上げてきた。腹から臓物がはみ出している。
斬られた背中が硬い大地の小石に擦れて激痛を生んだ。ユリアーンの太い腕が伸び、大きな両手が首に巻きつき、力が込められた。
気道が圧迫され、身体の内側でひゅうと細い音が鳴る。引き剥がそうとユリアーンの手首を掴むがびくともせず、徐々に酸素が回らなくなり、意識がぼうっとしてくる。必死に爪を立てるが、猫のように引っ掻くばかりで男は歯牙にもかけない。
死ぬ――そう思った時、霞みゆく視界の中、ユリアーンの悪辣な笑みで開いた口から突如、濡れた赤色を纏った銀の輝きが突き出た。
首の拘束がふっと緩み、ブラッドは急激に流れ込む熟んだ空気に激しく咳き込む。ユリアーンの上体はゆっくりと傾き、ブラッドの横にどっと倒れ込んだ。胸で喘ぎながら仰ぐと細い影が立っている。
見下ろしていたのはヤミールだった。
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