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戦火
戦火の影が忍び寄る。
戦士たちの隊列へ向けて馬を駆りながら、その蠢く騎馬たちの視線の遥か先にブラッドは無数の橙色の光を見た。橙色の光は揺れながら近づいている。灯りを持つ兵士たちの歩みだ。
馬を走らせるブラッドの視界を過ぎた戦士たちは興奮に息を巻いている。彼らの馬も猛々しく荒い鼻息を吐き、間もなく始まる戦いに武者震いをしている。
褪せた麻の装束に、革の胸当てと肩当てをしただけの軽装備だった。祖国側で戦いに身を投じるならば、厚く重い甲冑を身につけていたが、ブラッドは南の部族の陣営にいる。
アトレイア軍を待ち構える隊列の最前へ到達したブラッドは、横へ続く騎馬隊の果てしなさを見渡した。目を凝らしながら速歩で馬を走らせ、刈り上げと編んだ黒髪の戦士の姿を探す。
「……ユリアーン!」
馬を落ち着けてその首を王の隣に並べると、不気味な赤色がゆっくりとブラッドを見た。暗闇で目立つ白の毛並みの愛馬は、ぶるると息を吐いて数度蹄を鳴らす。
「どこに行っていた」
ユリアーンが共通語で言いながら、敵へ向けるのと同じ烈火の如く激しい眼差しを向ける。ブラッドはそれを受け流し、声を張った。
「七千を相手にどうやって凌ぐつもりだ」
門の内側で大人しく持久戦をするようなダイハン族でないことは承知している。だが敵の半数にも満たない戦力で、正面からまともに戦っては自ら無為に殺されに行くようなものだ。
策があるとも思えない。出鼻を挫かれ、迎え撃つのみ。ユリアーンは本当に、どうにかなると思い込んでいるのか。
「投降しろ! このままじゃ全滅する」
痩せた月がたなびき、細い銀光を落とす。わずかな灯りの下、馬の蹄で土埃が舞っているのがわかる。濃厚な土の匂いがした。獣が吠えるように、ユリアーンが言う。
「お前は死ぬ。クバルは死ぬ。俺たちは勝って生きる」
ユリアーンはファルカタを携えた腕を高く上げ、そしてゆっくりと大地の遥か先、揺れる炎と忍び寄る敵の影へ切っ先を向けた。
大音声で号令が飛ぶ。
割れんばかりの叫喚。味方を鼓舞する野太い雄叫びと、敵を威嚇する甲高い鳴き声が、群青の夜天にぐわんぐわんと響き渡る。
馬が駆け出す。激しい土埃を上げて、戦士の叫びとともに狂ったように嘶き、太い脚で大地を蹴り、すべての音を掻き消して、その場に留まるブラッドを置き去りにしていく。
「クソが……やっぱり、あいつを……」
強く手綱を引くと、愛馬が前足を上げ、走り始めた。
逆はあっても、自分とクバルが死んで、ユリアーンら戦士たちがこの戦いに勝つことなどあるものか。
だが戦は始まった。咆哮を上げる戦士たちはもう止まらない。止まるのは、王が号令をかけた時だ。
戦馬の中を、ブラッドもアトレイアの陣形へ向かって駆けた。戦士たちの士気は高く、倍以上の数を相手に恐れを抱く者などいない。みな、裂けた眦で敵を睨んでいる。
あちらも先頭は騎兵。衝突するまで十数秒もない。ブラッドは走りながら剣を抜いた。甲冑を着て身を守る兵士が、得物の先をこちらへ向けている。祖国の兵士を斬ることに、躊躇いを抱く余裕などない。
馬の首と首が交わる、その刹那、ブラッドは上空に空気が裂けるような音を聞いた。咄嗟に仰ぐと、自陣から敵陣の方角へ向けて矢の雨が飛んでいるのが、わずかな銀光の下に照らし出されている。
「……!」
放物線を描いた矢は地上へ向かって落ち、アトレイア兵と、彼らが騎乗する馬を貫いた。馬が甲高く嘶いて後ろ足で立つと、兵士は悲鳴を上げて大地に転げ落ちた。
そこをダイハンの戦士の群れが駆け抜ける。落ちた兵士を馬ではね、ファルカタで斬りながら。
「だがこれだけでは……!」
視線の先から運良く嵐を抜けた騎兵が駆けてくる。剣を構えて交わろうとした時、ブラッドは突然身体が浮く感覚を覚えた。
愛馬が悲惨な声で鳴いて前足を折り、ブラッドは土の上に投げ出された。見上げると矢の雨が降ってきた。
迫った矢尻を剣で弾く。空気を裂くその音が消えるまで数秒、収まってから見ると愛馬の尻に矢が三本刺さっている。ブラッドが駆けてきた方角から飛んできたものだ。
刃を交えようとした男も落馬していた。倒れた身体の首に、深々と矢が突き刺さっている。アトレイア兵だけではない、見渡すと周囲の戦士たちも剥き出しの鋼の肉体に矢を受けて倒れていた。ダイハンの戦士も、ガラガ族の戦士も、フ族の戦士も、みな同じように。
「味方にも当たってるぞ……!」
承知の上で攻撃したというのか。敵の数を減らすためならば、味方の先鋒を犠牲にしてもいいというのか。
打ちつけた背中に痛みを感じながら、ブラッドは立ち上がった。戦いは途切れてはいなかった。
騎兵が行き交う。落ちた者を馬上から突き刺す。地上から狙われて兵士が落ちる。呻き声が上がり、血飛沫が上がる。
蹄の音を聞き背後を振り返ると、戦斧を手にしたアトレイアの兵士が馬で迫っていた。ブラッドは剣の柄を両手で握り、構える。相手の戦斧がブラッドの首を捉えようとした瞬間、身を低くして馬の脚を斬った。嘶きが聞こえ、どさりと重い甲冑が地に落ちる。間髪置かず、ブラッドは甲冑の隙間から頚を狙って突き刺した。
続けざまに兵士が襲ってくる。始めは蛮族の風体をしていないブラッドを自陣の者と思っていたようだが、味方を殺す光景を見て敵だと認識したらしい。雄叫びを上げながら斬りかかってくる。ブラッドは正面から受け止め、押し返すと腋を斬った。怯む男の喉を裂く。
次々と襲い来る敵を斬り捨て、十人を殺す頃には身体が赤く染まっていた。周囲でも、戦士たちは複数人の敵を相手に戦っている。
「こんなことをしてる場合じゃない……どこだ、ユリアーン!」
顔に飛んだ血を拭い、馬蹄の音と剣戟と叫喚に満ちた闇夜の中でブラッドは叫んだ。ブラッドの目的は、アトレイア兵を殺すことではない。そんなことをしてもこの戦に勝利できない。たかだかブラッドひとりで討てる数は、底が知れている。
すでに辺りは混戦となりつつあった。兵士の落とした松明の炎が大地で燃えている。炎に打ち捨てられた戦士がその熱さに断末魔を上げる。頭蓋を砕かれた兵士が仰向けに死んでいる。主を失った馬が鞍を炎に包まれながら狂ったように鳴いて戦場を駆けている。
「どこにいる、ユリアーン!」
落ちている松明を拾おうとすれば、側で死んでいると思った兵士の手がブラッドの腕を掴む。兵士の肩を蹴って離し、ブラッドは炎を掲げながらアトレイアの方角へと進んだ。
確かに南の戦士は、アトレイア兵五人に匹敵する戦いをしている。アトレイアの民が彼らを恐れて伝えた誇張表現ではなく、戦士たちの腕と勇敢さは本物だ。複数で集られても臆することなく敵と向き合い、屠っている。
だが、疲弊を知らない身体ではない。絶えず戦い続けた戦士たちは幾人目かの敵を斬る頃に弩に射られ、膝を突き、槍に貫かれる。
見渡せば、大地は死体に溢れている。その中で甲冑を着たアトレイア兵と、軽装の南の戦士の数はおよそ大差ない。もともとこちらの方が数が少ないのだ、戦死の割合はダイハン側が大きい。
「……ユリアーン」
果たして探していた男は見つかった。馬に跨がり、アトレイア軍の群れを駆けて馬上から敵を屠る。彼に付き従う者たちも勇敢に立ち向かい周囲の敵を減らしていくが討ち取られる者もある。
ブラッドは近くで主を失って彷徨っていた馬を捕まえ飛び乗ると、露を払いながらヘリオサのもとまで駆けた。
「ユリアーン! 退け!」
ユリアーンがぎょっとしてブラッドを見た。生きていたのか、とでも言いたそうに。
「無駄だ! 突破できても先には何千と控えてる! 死にたいのか!」
ここまで至るに大勢のアトレイア兵を討ってきた百戦錬磨の戦士も、襲いかかる数の暴力には勝てず無惨に貫かれ殺されていく。ブラッドの叫びを聞いたユリアーンは、凝視して唸った。そして憎々しげに何か言い放つと、周囲で戦っている戦士たちに大音声で号令をかけ、馬首の向きを変えた。
ブラッドは速度を上げ、馬首をユリアーンの隣に並べた。
「ユリアーン! 聞け!」
だが王は隣を疾走するブラッドに一瞥もくれようとしない。業を煮やしたブラッドはさらに速度を上げ、行く手を阻むようにユリアーンの前に出た。急停止させられたユリアーンは怒鳴り声を張るが、臆せずブラッドは同じ音量で叫んだ。
「このままじゃ全滅する! 武器を捨てるように命じて、投降しろ! 戦士たちが死んだら誰がヘリオススや村の民を守るんだ。敵は俺たちを越えて赤い大地中を蹂躙するつもりなんだぞ。お前は民がどうなってもいいのか!」
アトレイアの望みはダイハンの死だ。以前にユリアーンが言ったように、降伏した途端に首を刎ねられるかもしれない――だが、どちらにせよ助からないのであれば、わずかでも可能性のある方に懸けたい。
ブラッドの言葉がすべて伝わったかはわからない。ブラッドは荒く呼吸を繰り返しながら待った。身体中に浴びた敵の血と脂と自分の汗が混じった液体が、額とこめかみを流れていく。戦の轟音で頭が痛い。視界が霞み、瞼が痙攣している。こめかみに浮いた血管が脈打っている。
気を抜けば下りてしまいそうな瞼に力を込め目の前の男を睨みつけると、ユリアーンは口を開き、拙い共通語で言った。
「俺たちは最後まで戦う。決めるのは、ヘリオサ。俺が決める。お前じゃない」
遠くから歩兵が進む重い足音が、甲冑が擦れる金属音が、耳鳴りに混ざって近づいてくる。打ち寄せる戦火の音が、ブラッドの頭の中で大きく鳴り響く。
「そうか」
身体に沈む轟音が、自身の怒りを表すようにぐらぐらと煮だっている。やけに冴えた声が出たと自分でも驚いていた。
「なら俺はお前を殺す」
殺す。その単語を聞いてユリアーンは細い片眉を跳ね上げた。
「ユリアーン。俺はお前に決闘を申し込む」
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