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約束

「助かった……礼を言う」  居住区内の一室にクバルを運び入れたガラガ族の戦士は首を横に振る。 「ヘリオサ・クバルは過去何度もガラガ族に手を貸してくれた。朋友を助けるのは我らの喜びだと言っています」  ブラッドは寝台の横に椅子を引いて、瞼を落として浅く胸を上下させるクバルを見つめていた。ふたりのガラガ族の男は傍らに佇んでいたが、衰弱したクバルの姿に当惑を隠せないようだった。 「最も勇猛なヘリオサ・クバルが王を決める決闘で破れたと聞いて落胆した。しかし、どうして命を奪われずにいるのかと聞いています」 「お前の知る範囲で答えていい、ヤミール」  ヤミールは逡巡したが、ブラッドに許しを与えられ、ガラガ族の言葉で彼らに説明を施した。  宴を抜け出し、何を見たか、聞いたか、何者にも口外しないと誓い、彼らは部屋を出て行った。  クバルの容態は最後に見た時よりも悪化していた。何日も風の通りのない狭い小屋に閉じ込められ、全身に酷い汗を掻き、脱水の症状を起こしていた。夜間、ブラッドが水を与えに行っても口にできたのはわずかばかりで、それすらも吐き出している。肩と腹の傷は乾かず、膿が出ていた。  クバルを連れ出し城の一室の寝台に寝かせていることをユリアーンに知られれば、いかなる仕打ちをされるかわからない。だから明日の太陽が昇る前に、また犬小屋に戻さなければならない。だがそれまでは、犬の糞尿の臭いが染み込んだ小屋ではなく、清潔で温かな場所で眠らせてやりたかった。 「……どうしてユリアーンは、ガラガ族やフ族にクバルの姿を見せない。今まで周囲に見せつけるように引き摺り回していたのに」 「わかりません。ですがガラガ族の男たちはこう話していました。ガラガ族の長は、新しいヘリオサ、ユリアーンから助力の要請があった時、ほとんど拒否しようとしていたそうです。新しいヘリオサがどういう男かも知らず、勝算も見出だせず、ガラガ族は民をまとめ今より南へ逃れるつもりだったようです」 「なのに、ガラガ族は来た」 「クバルは過去何度かガラガ族の求めに応じ、戦士を伴って自ら彼らの戦に加わっています。助力の決断に時間はかかったが、クバルへの義心のために参じたと話していました。ガラガ族はヘリオサ・クバルに恩を感じているようです。そして、フ族はガラガ族と非常に親交が深い。彼らの求めもあってフ族もここへ参じてくれたのでしょう」 「ユリアーンはそれを察して、クバルの姿を隠したのか? ガラガ族は自分ではなくクバルに敬意を払うと」 「わかりません。ですが、少なくとも思うところがあったのは確かでしょう。王との決闘で勝った者が新しい王、敗者は、敗者です。それは覆りません。決闘で勝ったユリアーンは紛れもなくダイハンの王なのです」 「決闘で勝ったのなら、負い目を感じる必要はない。たとえ前ヘリオサが生きていたとしても、今の王はユリアーンなんだからな。それなのにわざわざクバルを隠すってことは、不安なんだろう」  事実、王としてユリアーンはクバルに及ばない。自身でも劣等感を抱いていて、それを掻き消すようにクバルを虐げていたのではないか。傷痕痛々しく、病に冒されたクバルをガラガ族やフ族の前に晒せば、彼らが非難すると気づいていたのではないか。 「全部、推測に過ぎねえけどな。いずれにせよ、南の部族の連中がクバルを害することはないとわかっただけで今はいい」 「はい……アステレルラ」  眠りながらも眉間に深い皺を刻むクバルの瞼が、震えた。喉で唸りながら薄く目を開き、燭台の灯りが照らすほの暗い天井を映し出す。 「クバル」  力ない手を手繰り寄せると、クバルはわずかに首を傾けた。ひび割れた唇を動かすが、声はほとんど音になっていなかった。 「水を持って参ります」 「頼む」  ヤミールが立ち部屋の扉が閉まると、ゆっくり、しかし浅く繰り返される息遣いが静寂に広がった。  眼は充血し、落ち窪んでいるように見える。まともな食事も取れず、顔は少し痩せた。初めて会った頃の、強靭な肉体を持つ戦士の覇気や王の威厳といったものは跡形もない。  ブラッドが無言で額に張りついた黒髪を払ってやると、驚いたように瞬きをする。 「眩しい……」  消え入りそうな声を絞り出したクバルの瞳は、ブラッドを向いているが虚空を見ているように不安定に揺れていた。 「あそこは真っ暗闇だったからな。燭台の灯りでもそう感じるんだろう」 「ここは……小屋じゃない、のか」 「城の中に連れてきた。長くはいられないが……」 「ブラッド……俺は、目を開けているか」  クバルの問いかけに、ブラッドは一瞬、硬直した。 「お前の顔が見えない」  触れる硬い指先が、確かめるようにブラッドの手を握ろうとするが、あまりに弱々しい。焦点の定まらない視線がブラッドを探して彷徨う。  後頭部を槌で殴られたような衝撃だった。 「いつから」 「暗闇で声が聞こえて、声のする方へ歩いた気がする……だが何も見えなくて、確かな記憶もない」  今宵はかろうじて月がある。わずかながら月光が降り注ぎ、暗闇でも足元くらいは見える筈だった。 「今も暗い……たまに光が、ぼうっと揺れる。それが眩しい」  首はブラッドへ向けているが、クバルの虚ろな瞳はブラッドを見てはいない。  何も見てはいないのだ。酷く不安なのだろう、声しか聞こえないブラッドの存在を確かめるように、指先がブラッドの手の甲を引っ掻く。横たわるクバルの姿が途端に小さく感じて、震える喉を誤魔化すように唾を飲み込んだ。 「何も見えない……お前の姿が見えないのは、嫌だ」 「俺はお前の手を握ってる……わかるだろ」  爪の間に土が入り込み、乾いた血が滲んだ褐色の手を、両の手で包み込んだ。掌は炎が燃えるように熱い。この温度はまだ生きている。  しかしここまで悪化していると、もはや回復は絶望的だ。死がクバルへ一歩ずつ忍び寄っているのだとブラッドは気づいた。 「ああ、わかる。お前が連れ出したのか」 「いや、ガラガ族の戦士が……ここまで運んでくれた」 「ガラガ族……援軍が、来たのか」 「お前が呼んだ。お前への恩義があって、助力してくれる」 「そうか。ユリアーンは……」 「あいつのことは気にするな。どうせ気づかない。明日の夜も、ユリアーンはお前に構うどころじゃなくなるから、安心して休める。ここで横になって休めば、きっと良くなる……」 「なら、いい……また、お前が側にいてくれれば、だいぶ楽だ」 「大丈夫だ。少しでも楽なように、俺が側にいて、お前の手を握っていてやる」  身を乗り出し、脂汗に濡れた額を掌で掻き上げ、嘘を吐く。差す影を追って移ろい揺れる深紅が、安堵を示すように笑った。  ずっと、こうしていられたらいい――明日の夜など、訪れなければいい。ここにはダイハンを討滅しようとするアトレイアの兵士も、クバルを虐げるユリアーンもいない。少なくとも、離れた地で互いの命が知らぬ間に消え行くのを思う苦痛はないだろう。今だけは穏やかな時が流れている。  その時間も明朝までと思っていた。しかし突如、角笛のけたたましい音色が響き渡り、終わりは唐突に訪れた。  身体の中を羽虫が駆けずり回るように神経を逆撫でするその音は、ブラッドが息を詰め緊張を取り戻すまでの間に二、三鳴った。 「そんな、まさか」 「何の、音だ……」  不安を感じる幼子のようにクバルが喘ぐ。ブラッドは呆然と「始まった」と声を落とした。  部屋の扉が荒々しく開け放たれる。はっと振り返ると、息を切らせてヤミールが立ち尽くしていた。 「アトレイア軍が……侵攻を始めたようです」 「先手を打たれたか」 「まだ到達はしていませんが、まもなく」  一日を待てば、明日の新月の下、夜陰に乗じて攻め入る筈だった。斥候の報告によると、攻城兵器は未完成だという話だが、こちらの動きを読んだか、あえて新月の前に襲撃をしかけるつもりだろう。  今は宴の最中だ。戦士たちは慌てて戦いに備え始めただろう、遠くからかすかな怒号が聞こえてくる。 「勝てるのか」  今のクバルにはブラッドの表情は読めない。だがまるで不安を見透かすように、ブラッドの目を違わずに見つめている。 「……わからない」  一騎当千の南の戦士とは言え、圧倒的な戦力差。不意を突かれ乱れる士気。必ずダイハンが勝つ、問題ない、そう言い聞かせて安心させてやりたかったが、意図せず本音が零れ落ちる。  硬く張り詰めた声を聞いて、クバルは悟ったようだった。 「ダイハンは、ここで終わりか」  ぽつりと零れ落ちた声には、一抹の寂寥が滲んでいる。 「そんな、ことには」 「……俺のせいだ」  自らを責める風でもなく、ただひとつの事実としてクバルは言った。 「俺のせいでダイハンがなくなってしまう」 「ユリアーンに負けたのが、悪いと思ってるのか」 「違う」 「じゃあ、どうして自分のせいだなんて言う」 「これは、俺が始めた」  その時、ブラッドの頭の中にはサラディの王城の、玉座の間での情景が浮かび上がった。自分を前にして、凍えた血色の視線を向けるダイハンの王。 「俺が始めた戦いだ」  誓約破りへの報復として。事実、クバルは玉座の間で放った宣言に反することはなかった。  だが、その誓約を破ったのは、誰だったか。嘘を吐いたのは、誰だったか。――クバルではない。 「クバル、お前のせいなんかじゃない」  城内にものものしい足音と叫び声が満ち始める。迎え撃つ準備をしている。 「ダイハンが消えてなくなることはない」  クバルが少年の頃から王として守ってきたダイハンだ。今はもう王ではなく、戦士でもない。  ユリアーンは決して投降しない。使者の首を刎ねて殺し、降伏という選択を斬って捨てた。  もし今、ユリアーンではなくクバルがヘリオサだったら、どうしただろう。誇り高いダイハンの戦士、誇り高いダイハンの王。やはり信念を曲げず、敵の前に膝を折ることはしなかっただろうか。 「ダイハンが消える……そんなことは俺がさせねえよ」 「……そうか」 「クバル……眠れ」  顔を寄せ、熱い額に唇を落とす。縋るように握る指先を優しく剥がし、ブラッドは立ち上がった。  言葉通りにしたのか、それとも意識を保つのが限界だったのか、クバルはゆっくりと瞼を伏せる。 「ヤミール。お前はクバルを頼む。もう目が見えない」  浅い寝息を聞きながらかつての僕に言うと、背中に当惑の声がかかった。 「アステレルラは、どうなさるのですか」 「ユリアーンを探す」 「まさかともに出撃なされるのですか」  その問いには答えず、ブラッドはもう一度眠るクバルの手を強く握った。 「俺は少しここを離れるが、その間だけたえてくれ。必ず戻ってくるからお前も絶対待ってろ。……約束だ」  答えるようにクバルの指先がわずかに動いた。名残惜しい温度を離し、その手を自身の胸に当てた。ともに生きて欲しい。上着の内側にはその言葉とともに受け取ったものがある。  ブラッドは開け放たれた扉まで歩きヤミールに相対した。 「クバルを頼んだぞ」 「先程仰った、もし戻らなかったら……そのようなことは、考えなくてよろしいですか」  惑いを落とした切れ長の赤が、強い眼差しで見据えてくる。ブラッドは頷きを返し、ヤミールの薄い肩を過ぎて戦いの気配へと歩いて行った。

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