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 北にアトレイア軍の陣ありと偵察の情報がもたらされたのは、それから十日も経過しない頃だった。  その後、敵の布陣と兵力を探るべく数人の戦士が放たれた。山野に隠れ隠密に偵察し、彼らが得た情報はヘリオサへ伝えられた。  首を刎ねられた使者は兵士の数を一万と言っていたが、実際は六千から七千が妥当であった。攻城戦になることを想定し、乏しい周辺の樹木を斬り倒して攻城兵器の作製が行われていた。そして、陣の後方には茨の御印をあしらった旗が掲げられていた。  茨は王室の印である。つまり王の近衛軍が出動し、それを唯一指揮できる王本人も従軍しているということである。  それだけダイハンの討滅には意味を持たせたいということだ。王自らが出向き、王の名のもとに南の蛮族を討ち滅ぼす。アトレイアの重臣殺害という凶行を犯し、兄王ブラッドフォードを死なせたダイハンを新王シュオンが誅する。  それがアトレイアの大義だった。歪められた大義のもとに、王へ忠誠を誓った兵士たちが集い従っている。  ガラガ族、フ族の援軍は予定から三日遅れはしたものの、リドル城へと到着した。数は合わせて千に満たず、予想を下回る戦士の数と助力の遅れにユリアーンは憤っていた。  彼らが合流してまた五日ほど経過したが、城内に流れる雰囲気は険悪なものとなっていた。諍いが絶えず、乱闘に発展してすでに何名か死亡していた。やむなくユリアーンは私闘を禁じたが、約束を違えたガラガ族とフ族へダイハン族が向ける視線は凄まじく苛烈で、何かひとつきっかけさえあれば殺し合いが始まってもおかしくないほどに壁内は一時緊迫した。  攻城兵器が完成すれば、敵は進軍を再開する。それに先んじ、数で劣るこちらから夜間に襲撃をしかけ先手を取ることになった。暗闇の中での戦闘はアトレイアの兵士よりも南の部族の戦士の方が長けている。少しでも戦力の差を埋めるべく、有利な戦闘に運ぼうとしていた。  襲撃を明日の夜に控え、南の戦士たちは宴に興じていた。その日ばかりは全体の士気を高めるべく、部族の隔たりを関係なく互いを兄弟と呼んでともに酒に酔っていた。  ブラッドはユリアーンの目を盗み、宴の席から抜け出した。明日は新月である。今宵も月は痩せ細り、地上にもたらす銀光は乏しかった。  足を向ける場所は決まっていた。松明の明かりを頼りに闇に紛れながら犬小屋へ向かうが、後をつける気配に感づいて足を止めた。 「お前も姿を消せばユリアーンは腹を立てるんじゃないか」  土を踏みながら振り返り、腕を伸ばして炎を近づけると、橙色の光に照らされて怜悧な印象の顔立ちが浮かび上がった。 「幸いヘリオサは酒と女に酔っていて、従者のひとりが姿を消したことにすぐには気づかないでしょう」  ヤミールの細く長い睫毛が影を落として揺れている。 「すぐに気づくさ。戦士を寄越される前に戻った方がいい」 「私よりも先にアステレルラの不在に気づかれます」 「だろうな」 「……クバルのもとへ行かれるのですか?」  無意識だろう潜められた問いに、ブラッドは頷いた。 「出撃は明日の夜だ。王の側で戦うよう俺も命じられてる。その前に一度顔を見ておきたい……お前も一緒に行くか」 「ご一緒して、よろしいのですか」 「だから後をつけたんじゃないのか?」  躊躇しながら首肯するヤミールの姿を収めてから、ブラッドは前に向き直って歩みを再開させた。静かに土を踏む音が少し遅れて追いかけてくる。 「クバルの容態は良くない。もう一週間以上高熱が続いてる。まともな治療を受けてない割には持ちこたえてるが……昨夜は水も飲めないほどに衰弱していた」 「打つ手は……ないのでしょうか」  ブラッドは返答できず黙り込んだ。医者も薬師もユリアーンから治療を禁じられている。命令に背けば首を刎ねられると知れば、かつての王の命を救うという、自らの命を溝に投げ込むような真似は誰もしなかった。  城へ侵攻したアトレイアの兵士に刺し殺されるのが先か、衰弱した身体から病が命を奪うのが先か。できるのなら、そのどちらも防ぎたかったが――。  ブラッドは明日の夜、ユリアーンや戦士たちとともに闇夜の中アトレイア軍へ向けて出撃を開始するのだ。もし生きて帰って来られなかったら、クバルを敵の刃から守ることも、医者のもとへ連れて走ることも叶わない。 「不可能に近いがこの戦いに勝って……あとはあいつの気力に賭けるしかない。……ヤミール」 「はい、アステレルラ」 「もし俺が戻らなかったら……お前がクバルを守れ」  背後の土を踏む音が消えた。  振り返るとかつての僕は足を止めて立ち尽くしている。 「アステレルラをお守りすることができなかった私が……クバルを敵からお守りすることができますか」  闇夜に浮かぶ赤い光が細く揺れている。 「あの時も私は黙って見ているしかなかったのです。私は臆病です。恐ろしくて動けませんでした。せめて妹の持つ勇気の半分さえ持ち合わせていれば、アステレルラを苦しめることも……カミールをあのような目に遇わせることもなかった」  ヤミールの震える声が、あの日の豪雨を思い出させる。雨に打たれた冷たい身体。彼女の瞳孔が開いて、割れた喉から空気と鮮血が溢れ出る。冷えた肌とは裏腹に、温かい血液が両手を濡らして雨と混ざって流れ落ちて行く。意識が消えるまで、痛くて苦しくて堪らなかっただろう。  ヤミールはあの夜明け前の雨を故意に思い返して、自らを苦しめているようだった。 「明日の夜を迎えるのが私は怖くて堪らないのです。アステレルラを失うことも、クバルを失うことも、それ以上に私自身が死ぬことが、とても恐ろしい。足が竦み、手が震えます。妹のように命を投げ出すことは、きっと私にはできない」  普段の平静な調子とは程遠く、揺れる声音で感情を吐き出すヤミールは、涙は流さずとも泣いているようだった。怖い、と詰まった声で叫ぶ彼の肩を、ブラッドは松明を持っていない方の手で強く掴んだ。 「……俺はそれを聞いて安心した」  呆然と見上げる赤い瞳が、不思議そうに瞬いた。 「恐ろしいと思えるなら、少なくともお前は愚かじゃねえってことだ」 「……アステレルラ」 「絶対に、俺やクバルのために自分の命を犠牲にするな。俺はお前に戦えと言ってるんじゃない。守れと言った。危険が迫ったら逃げろ。クバルを馬に縛りつけて、引き摺ってでも逃げろ」  自分を、アステレルラを守って命を落とすことは、名誉でもなければ幸せでもない。そんなものは、残された者が自身の心を納得させるため名前をつけたまやかしに過ぎない。あんな死に方をさせていい訳がなかった。 「カミールのような死に方をしたら許さねえ。これは女王の命令だ……わかったか?」  妹と同様、細い肩だった。豪腕の戦士が力を込めれば容易に折れてしまいそうだった。その双肩に重責を背負わせることを自覚しながら、ブラッドは指先に力を込めた。 「はい……アステレルラ。仰せのままに……」  覚悟を決めたようにヤミールは細い顎を引いて、肩に置かれたブラッドの手に震える掌を重ねた。  その時、ふたりではない、大地を踏む音が聞こえた。ブラッドの視線の先、ヤミールの背後からだった。炎を近づけると、人影がふたつ浮かび上がった。 「……!」  ひとりの男が言葉を発する。しかしブラッドには聞き取れなかった。共通語でも、ダイハンの言葉でもない。  褐色の肌をしているがその上に黒い刺青が躍り、やや色の抜けた頭髪を持つ男は、ダイハンではなくガラガ族の戦士だ。 「ここで何をしているのかと……言っています。宴を抜けてどこへ行くのかと」  ひとりは小柄だったが、ひとりは大柄な部類のブラッドより頭ひとつ分高い。じとりと、こめかみに不快な汗が滲む。  クバルの眠る犬小屋まで、あと十数歩という距離だった。 「ここはダイハンが占拠した城の内部だ。どこで何をしようとガラガ族には関係ない。お前らこそ……ここで何をしている」  ブラッドの言葉をヤミールが伝えると、ふたりの男は剣呑な空気を纏いながら目の前まで足を進めてくる。炎が彼らの銀灰色の頭髪を照らし出して細かな光が散った。 「私たちの後をつけたようです。何か隠していることがあるのではないかと疑っています」 「俺たちはただ……酔いを覚ましに風に当たりに外に出ただけだ」 「……あなたは酒を口に含んでいなかったと、言っています」  見張ってでもいたのかと、眼前の男を睨め上げた。髪色と同じ薄い色の瞳は、闇夜の中で不気味に煌めく。 「アステレルラのことを知っています。ヘリオサ・クバルが異国から娶った男だと」 「今は違うがな……」 「決闘に負けたクバルがまだ生きていると……どこにいるか聞いています」  ブラッドは浅く息を吸い、男を仰いだ。  どうしてクバルを探す?  瞬くヤミールの瞳と目を合わせる。  確かにガラガ族とフ族が合流してからは、ユリアーンがクバルを縄に繋いで連れ回し嬲ることはなく、犬小屋に監禁したきりその姿を晒させることはなかった。顕示欲の塊のようなユリアーンならば、自らが敗北せしめた前ヘリオサの惨めな姿を南の部族の目に晒させる真似は好んですると思ったが。  この男はクバルの居場所を尋ねてどうするつもりなのか。  ブラッドの些細な動揺を感じ取ったらしい男は、怪訝に表情を顰めた。途端、足裏から不安が皮膚を這って上ってくる。ブラッドの意識は目の前の男ではなく、後方の犬小屋へ向けられた。背中の全神経が危険だと騒ぎ出す。  クバルに危害を加えるつもりか。そんなことが、他部族であるこの男たちに許される筈がないが――いずれにせよ、悟られる前に離れなければ。  返答の仕方を口の中で探しているうちに、男の視線がぎょろりとブラッドの背後へ移った。  土を踏む音が聞こえ、咄嗟に振り返ると、暗闇の中に影が佇んでいる。 「……ブラッド……」  痰が混じり酷く掠れた声は、かろうじて聞き取れた。  前のめりで腹を抱え、踏み出した一歩は土を擦ったが、支える力を失って膝がガクリと折れる。 「クバル、……!」  ブラッドが駆け寄るより早く、銀灰色が風のように横を過ぎて行った。 「……!?」  崩れ落ちるクバルの身体を、大柄なガラガ族の男が支えている。彼がクバルの名を繰り返し呼ぶのはブラッドにも聞き取れた。  だがクバルの視線は定まらず、虚ろな瞳が虚空を彷徨う。戯言のように何か口走るが判然としない。 「意識が混濁している……なのに、小屋から出て、歩いて来たのか……」  ガラガ族の男が何か大声を張っている。ブラッドはそれを聞き流しながらクバルに縋り寄り、膝を折った。  ひとりで歩けるような状態ではない。事実、支えがあってようやっと地に足をつけている。気力だけが懸命に彼の身体を操って動かしているのだ。 「アステレルラ……彼らが、城の中へ運ぶと言っています」  振り仰ぐと、男は太い顎で強く頷いた。ブラッドは、ただ頼むとしか口にできなかった。

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