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王の選択

 翌日、強い陽射が真上から照りつける頃から、王は不機嫌を極めていた。  南の城壁に上り、乾いた赤い大地の地平から騎馬の大群が姿を現すのを心待ちにしていたが、砂塵の吹く赤土の情景は変わらず、時間ばかりが過ぎていった。斥候として戦士を数名南へ走らせたが、ガラガ族、フ族の隊列らしいものは見当たらずという報告を受け、ユリアーンは戦士のひとりを書斎で斬り殺した。  日は暮れ、赤く染まった城壁の内側、練兵場を兼ねる中庭でユリアーンと腹心の戦士が激しく打ち合っている。周囲には人だかりができ、戦いの決着を歓声を上げながら見守っている。ブラッドも戦士の輪に混じって、怒号と野次の渦に包まれながら火花を散らすふたりの男を冷めた眼差しで見ていた。  求めていた援軍がないことに激昂し同胞を殺したユリアーンは、その後自分の飼い犬として縄に繋いでいたクバルをブラッドの目の前で嬲った。クバルの体力が尽き気絶すると、向ける矛先を失って持て余した苛立ちを抱えながら、来るべき戦いに向けて外で練兵を行っていた戦士たちのもとへ赴いた。腹心の戦士のひとりに声をかけると、煮詰まった感情を発散させるかのように激しく剣を打ち始めた。  手合わせや稽古と呼ぶには荒く、一方的だった。最初は手合わせの体をある程度保っていたが、流血を厭わず故意に急所を狙ってファルカタを振るうユリアーンの戦いぶりは、眉を顰めるほどだった。殺意に満たされた王の荒ぶりを抑える者はなく、対峙している戦士は暴発する殺意を受け止めるのに必死だった。  怒りに任せた豪腕に、戦士の手からファルカタが弾かれた。勝負は着いた、そう思われたがユリアーンの攻撃は止まず、次の一手で戦士の腹を裂き、頭髪を掴んで引き寄せると喉を斬り裂いた。  辺りは静まり返り、斬られた戦士は腹から溢れる臓物を抱えながら地に伏した。返り血を被った王の興奮は冷めず、得物の血を払いながら周囲を見渡す。次、と叫んでいる。 「……暴れたところで援軍が来る訳じゃない」  ブラッドの冷えた諌めに、鋭い赤色の目がギロリと向いた。 「怒りをぶつけて戦士を殺して貴重な戦力を失くす……クバルならしなかった」  言葉は理解しないだろうが、自分の行動が非難されていることを察したらしいユリアーンは、事切れた戦士の身体を跨ぎ、地を踏み鳴らして近づいた。聳えるように立ち、胸を膨らませて威嚇している。耳を裂くような大音声でヤミールの名を大喝すると、戦士の輪を縫ってかつての僕が顔を出し、頭を垂れた。今は新しいヘリオサの従者のひとりだ。  険のある語調でユリアーンが命じると、ヤミールは感情を消し去った低い声で話し始めた。 「ヘリオサは言っています。……女王は王に意見するものじゃない。文句があるのなら、お前が次の相手になるか」 「許されるのなら、そうしよう。もし女王が王を殺せばどうなる? 女王は王になるのか?」  ヤミールは通訳を躊躇していたが、厳しい視線を向けるとおずおずと重い口を開いてユリアーンにブラッドの言葉を伝えた。目を血走らせてブラッドの胸倉を掴み上げた王は、顔を近づけ唾を飛ばした。戦士の血と脂に濡れた肌が、橙色の光を受けて濡れている。ヤミールが通訳する。 「そうなる前に犯して首をへし折ってやる。その後はお前の死体を戦士たちが順番に犯して切り刻む。残った身体は烏の餌にしてやる」  ユリアーンの血に濡れた手が襟元をさらに引き寄せる。露骨に顔を歪めると、突き飛ばすように離され、ブラッドは足裏に力を込めた。 「あるいはクバルをそうしようか、と言っています」  赤く汚れた襟元を正しながら目の前の王を睨めつけると、ユリアーンは青筋の浮いた額を手の甲で拭った。戦士の血がべっとりとついている。  その時、誰かが「ヘリオサ」と声を上げた。  包囲が崩れ、人垣を割って小柄な戦士が顔を出す。ユリアーンは怒りの滲んだ表情を変えない。  ガラガ族とフ族の援軍が見えたのかと、ブラッドも思った。しかし戦士の報告を受けユリアーンの顔がみるみる怪訝に歪んでいくのを見て、違うのだと悟った。 「北へ巡視に出ていた戦士隊が、馬に乗った男を捕らえたようです。男はアトレイア人で、国王からの使者だと言っているようです」  ヤミールの通訳を聞き、ブラッドは唾を飲んだ。オルセンとシルヴァの連合軍は敗走し、国王ブラッドフォードは戦死――そういうことになっている筈だ。使者の言う国王とは、新たな王のことである。喪に服する期間を設けることなく、即位がなったのだ。  ユリアーンが頷くと、戦士は背を向けて一時的に姿を消した。  アトレイアはリドル城の防衛に失敗し、野戦で指揮官を討ち取られた。王は死に、残存するオルセンの兵士もシルヴァの軍団も王都サラディへ逃げ延びた。  現状では敗北を喫しているアトレイアは、しかし抱える兵力はこちらに大きく勝る。二度は奇襲という手には落ちない。ダイハンへ他部族の加勢がない限り、優位に戦いを進められることに変わりはない筈だ。和議を申し入れる訳でもあるまいし、何の理由があって使者を送るのか。  しばらくして、ダイハンの戦士とは異なって甲冑を纏った白い肌の男が、ふたりの屈強な褐色の男に連れられてきた。手枷はないが捕囚のようだ。  ユリアーンの前まで到達すると、戦士のひとりに足を蹴られその場に跪かせられた。王が片言の共通語で「話せ」と命じる。 「偉大なるアトレイア国王を失い、新たに王となられたシュオン・ロス・サーバルドより、ダイハンの王クバルへお言葉がございます。アトレイア王の名のもとに、降伏を勧告する。ダイハンはアトレイアへ跪いて忠誠を誓うように。さもなくば、一万の兵士がダイハンの土地を蹂躙し、南の民は歴史から姿を消すことになるだろう」  ユリアーンの爪先を見つめながら淡々と奏上した使者の頭部を見下ろしながら、ブラッドの心中では降伏という単語に違和感が頭をもたげる。隣でヤミールの通訳を聞いたユリアーンや側近たちの発する覇気が、憤怒に染められていくのが肌で感じ取れた。 「降伏勧告……」  口をついて出た疑念の言葉に、ユリアーンが裂けた眼で一瞥を寄越した。  アトレイアは最初からダイハンを殲滅する計画の筈だ。国王ブラッドフォードとして南へ軍を率いる前、捕囚となり王城に軟禁されていたブラッドはシュオンからそのように聞かされていた。アンバー候やアーリス候、貴族たちの死は、ブラッドの死とダイハンの滅亡によって贖われるのだと。  事実、一万の兵力ならばダイハンを虐殺するに容易いことだろう。降伏を勧め争いを避ける謂われは、アトレイアにはない。  ユリアーンはヤミールから使者の言葉を聞き終えるや否や怒鳴り散らした。使者の頭髪を掴んで立たせ、罵声を浴びせている。 「二度も北の連中を蹴散らした俺たちが、どうして敗者から降伏を促されなければならないのか。アトレイアの王は気が違っているのか、とヘリオサは言っています。それから、クバルはもうヘリオサではない。今は、ヘリオサ・ユリアーンです」  ヤミールの口から淡々と告げられた使者は、引っ張られた頭皮の痛みにたえながら立ち竦んでいる。 「……ユリアーン」  ブラッドの発した低い声に、王は裂けた眦を使者から外してこちらを睨めつけた。 「降伏という選択を退けるべきじゃない」  アトレイアは、何も気まぐれや温情で降伏を勧めるのではない。  パフォーマンスだ。ダイハンが降伏を受け入れないことを承知の上で使者を送ったのだ。  相手が忌々しい南の蛮族といえども、圧倒的な戦力を率いて討伐するにあたり、拒絶を示す者も少なからずいるのだろう。もし降伏を提示してそれを敵が拒むのであれば、実力行使に移るのもやむない。  アトレイアは自国の重臣を殺害した南の蛮族へ慈悲を与えるが、ダイハン族は信念を曲げて武器を捨てることはしない。アトレイアはやむなく蛮族を撃滅するに至る他ないのだ。  だが、本当に降伏するとは向こうも予測していない筈だ。  ならば、もし降伏してやったなら、その意志を差し置いて攻撃することはできないだろう。併合されアトレイアの麾下に入ったダイハンがどのような待遇を受けるかは予測できないが、少なくとも命は取られない。例え王の首を要求されたとしても、それはクバルではない。 「ダイハンが勝利できたのは、奇襲が成功したからだ。同じ手はもう通用しない。数は一万と言ったのを聞いたか? どう足掻いても、今のダイハンの戦力じゃ遠く及ばない。いくら野戦に強くても、全滅するのが目に見えている。戦士がみな死んだらヘリオススの民や他の村の民はどうやって自分の身を守る?」  憤怒の矛先を変えた王に、ヤミールはブラッドの言葉を訳してくれる。ユリアーンは鼻梁に深く皺を寄せて、飛びかかり噛みつくように口を開いた。 「一万を殺す必要はない。王の首さえ取れればいい。ガラガ族とフ族の援軍さえあれば北の連中に対抗できると、言っています」 「そのガラガ族とフ族が加わったところで、戦力は向こうの半分にも満たないだろう。そもそも助力自体、本当に望めるのか怪しいところだ。朝にここへ合流する筈だったのに、まだ到着していない」  冷静に指摘すると、ユリアーンは獣のように唸った。たどたどしい共通語で吠える。 「赤い大地の部族は、必ず来る。俺たちを裏切らない」 「根拠はどこにある。同じ南の民だからと言って勝機のない戦にまで加わってくれるのか。すぐに駆けつけないのは、交替したばかりのダイハンの王を信用していないからじゃないのか」  ヤミールは今度は一時も逡巡せずに伝えてくれた。血がこびりついたユリアーンの目元が引き攣り、赤い瞳が眇められる。  空気が裂ける音がした。振り上げられた褐色の拳を、ブラッドは掴み取った。乾きかけた血のぬるついた感触がした。  ユリアーンが喉の奥で唸る。そしてずっと手にしていたままのファルカタを翳し――身を翻した勢いで、アトレイアの使者の首を刎ねた。  王は新たな血を浴びて、興奮の息で胸を膨らませている。赤い斜陽が中庭に差し込んで、濡れた王の身体と、驚愕の表情をして地に転がる男の首を濃い赤に染め上げている。  ユリアーンは周囲の戦士たちを見渡しながら叫んだ。 「ヘリオサは言っています。北の連中は信用できない。これはアトレイアの罠だ。ダイハンが降伏し武器を捨てたところで俺たちを皆殺しにするつもりだ。だがダイハンは降伏などしない。ダイハンを騙しこけにした連中に一矢報いるまで俺たちは止まらない。俺たちはアトレイアの石の城を奪った。俺たちの豪勇に恐れをなした連中は背を向けて北へ逃げ帰った。そんな臆病な連中に、恐れなどないダイハンの戦士が負けることはない」  戦士たちが上げた野太い雄叫びが、血色に染まった虚空に高く響き渡る。ユリアーンが握ったファルカタを天へ突き上げると、同胞たちは同じように拳を上げた。 「……それがお前の選択なんだな、ヘリオサ・ユリアーン」  士気を表す力強い歓声の渦の中で、ただブラッドの悄然とした呟きだけが地に落ちた。  日は落ちて、王は戦士に命じて頭を失った使者の身体を馬にくくりつけ、北へ向けて走らせた。

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