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犬小屋

 リドル城には十分に食糧の備蓄があった。平常時でも近郊の町や村から物資が運ばれていたが、今度の戦のために王都サラディから運ばれてきた兵糧も加えると、戦いが長引いても兵糧が尽きることはないだろう。しかしそれを口にする筈だったアトレイアの兵士はなく、代わりに南の戦士の腹の中に収まることになる。  葡萄酒と、固すぎるパン、チーズ。アトレイア軍の置き土産のおかげで、ダイハンの戦士たちは故郷から離れていても食べるものに困ることはない。食糧の他に、大量の馬も手に入れた。それから、女にも不自由することがなかった。  戦いの間、城の地下通路に身を隠していた使用人たちは一応の難を逃れた。武器を持つ兵士は曇天のもとで喉を裂かれみな死んだが、戦う術を持たない者は戦士のファルカタにかかることはなかった。  その代わり、女は奉仕の道具となった。今も城の一番大きな広間で、アトレイア産の葡萄酒を呷る戦士たちの側に侍っている。  新しいヘリオサや彼の側近が、膝に女を座らせて酒をかっ食らう光景を間近で眺めるのに辟易したブラッドは、彼らが女に夢中になっている隙に宴を抜け出した。  城の外郭へ出て、周囲を警戒しながら松明の明かりを頼りに壁際を辿り、城の西へ急ぐ。  探していた粗末な小屋はすぐに見つかった。木造で、天井はブラッドの背丈より頭ひとつ分ほど低く、幅も狭い。馬二頭が押し込められるかという大きさだ。身を屈め、押すと容易に開いた入り口の戸を潜った。  長年に渡り染み込んだ、息を止めたくなるような獣の臭気が鼻をつく。ここは猟犬を繋いでおくための小屋だ。今は猟犬ではなく、人が繋がれていた。 「クバル」  松明を地に置き、傍らに膝を突いた。湿った藁の上に身体を横たえているクバルを、揺れる炎がぼんやりと照らし出した。  瞼を伏せているが、眠っているのではなく、気を失っているに近い。呼吸は浅く、弱い。額には汗の粒が滲み、湿った長い前髪が貼りついていた。目元と口元には真新しい切創と青黒い痣が目立ち、首を一周する赤い縄目の跡が痛々しい。  指先で脂汗を拭ってやると、気配に気づいたのか瞼が震えた。酷く億劫そうに持ち上げ、覗いた赤い目には光がない。 「……ブラッド」  ほとんど声になっていなく、吐息に近い音を聞いて、喉へ込み上げてくる熱い塊を強引に飲み込んだ。 「葡萄酒を持って来た。身体を起こせるか」 「ああ……」  殴打され、足蹴にされ、痣は顔だけでなく身体にもある。全身が激痛に苛まれているだろうに、表情には出さず、腕を突いて上体を起こそうとした。だが上手く力が入らないらしく、崩れそうになる身体を支えようと手を触れたが、火傷しそうに熱い。深い傷を負った肩は、腫れている。 「すまない……」  肩を支え、汚れた壁に背を預けさせた。革の水筒を口に宛がい傾けてやるが、噎せて少し吐き出した。口内の傷か、吐き出したものに血が混じっている。 「……傷の具合はどうだ」  苦しげに息を吐きながら、クバルは己の腹部に目を落とした。  粗末な縫い跡の縁が赤く腫れている。ろくな処置はしていない。回復を助ける薬も、痛みを和らげる薬もなく、傷口は化膿し始めている。 「焼けるように熱い」  熱いのは傷口だけではないだろう。菌に抵抗しようとする身体は発熱していた。入り込んだ菌が毒として全身に回る前に適切な処置をしなければならなかったが、現状で叶える術はなかった。 「大丈夫だ……」  覇気のない声音に、何が大丈夫なものかと荒げそうになった声を飲み込んだ。 「前にも一度……前のヘリオサを殺した時に、同じような傷を負った」 「その時はヘリオススにいて、傷を治す医者も、まともな食事もあったんだろうが」  そして、クバルは王だった。今は違う。ヘリオサの名はユリアーンに奪われ、ここはヘリオススではなくリドル城の薄汚い犬小屋で、傷を診る医者も薬師もいなければ、ブラッドが与えてやれるのは戦士の目を盗んでくすねた葡萄酒だけだ。 「俺のせいだ」  揺れる言葉に、クバルは視線をゆっくりと向けた。 「俺が斬った傷が原因で……お前はユリアーンに負けた」 「それは違う……ブラッド。ユリアーンに敗れたのは、俺の弱さのせいで、そうなると最初から決まっていた」  クバルは目を細め、弱々しく腕を持ち上げて震える手をブラッドの頬に添えた。 「ユリアーンに負け、殺される運命だったのを、お前が掬い上げた。おかげで、まだお前の顔を見ていられる」  ブラッドは唇をぐっとこらえ、頬に触れた土と血のこびりついた手が落ちてしまわないよう強く握った。 「そんな顔をするな……ユリアーンには、何かされたか」 「何もされてねえよ。あいつは、お前から何か奪いたいだけだ……もう気が済んだだろう」  ヘリオサになったユリアーンが、立ちはだかったカミールの喉を切り裂いた瞬間を、瀕死の状態にあったクバルは目にしていない。彼女の痙攣する身体を、溢れる血を、彷徨う瞳を思い出せば、やるせなさと、自分への憤りと、殺した者への激しい憎悪と、昇華できない悲しみが湧き上がる。  彼女のことは話さないことにしようと決めた。今の状態のクバルにカミールの死を伝えてどうなる。悲嘆に暮れるのは自分と、ヤミールだけでいい。 「クバル……ここから出るぞ」  瞬いた赤い瞳が、じっと見上げてくる。 「この城にいたら、お前の容態は悪くなる。薬師は治療を禁じられているし、ユリアーンは明日もお前を縄に繋いでいたぶる。俺はここではお前を守ってやれない……」  ユリアーンがブラッドを傍に置いておくのは、女王だからではなく、行動を監視するためだった。逃亡を図らないか、勝手な行動を起こさないか、いつでも殺せるように目を光らせている。すぐにでもクバルを嬲るユリアーンの首に刃を宛てがって喉を切り裂きたいが、無謀すぎる愚行だとブラッドは弁えていた。そんなことをすれば、腹心の戦士によって自分もクバルも殺される。 「どこかでまともな医者に診せないと、このままじゃ……」 「逃げてもユリアーンは追ってくる」 「だが」 「それに、俺は動けそうにない。馬にも乗れないのに、どうやって逃げる」  滅多に見せない唇を綻ばせたクバルの表情には、諦念が浮かんでいる。そんな笑顔を見せるなと、自分の命に執着しないクバルに苛立ちと痛みを感じながらも、ブラッドは毅然を貫いた。 「大丈夫だ。俺が支えてやる」 「それは、心強い……」  心から安堵したような声音で囁いて、深く咳き込んだ。全身に激痛が走るのだろう、惨い傷を負った腹の上に置いた手を握り締め、たえている。それでも何か伝えようと、じっとブラッドを見上げながら無理に息を吸い込む姿に胸が潰れそうになる。 「無理するな、何も喋らなくていい」 「……どこへ、行くつもりだ? アトレイアか? ヘリオススか?」  ブラッドは声を詰まらせた。  本当は、行く当てなどどこにもないことは知っていた。重傷のクバルを背負って、敵であるアトレイアへ逃げて何ができる。王が代わったことはヘリオススにも届いているだろう、瀕死の前王とともに今の王から逃れてきた女王を、誰が助けるというのか。  逃げる場所などない。それでも、ここではないどこかへ行かなければ。気持ちばかりが急いて、ブラッドを追い詰める。 「どこへだって行ってやる……歩けないなら、俺が背負ってやる。ここにいたら俺もお前も助からない。ユリアーンは、アトレイアと戦うつもりだ。ダイハンの数倍の兵力がある、勝つ見込みはない」 「ユリアーンは、他部族に加勢を頼んだようだ……戦士との会話では、明日合流すると言っていた。それなら、可能性がまったくない訳じゃない」 「アトレイアに勝てると本当に思うのか? 二度勝ってユリアーンは調子づいているが、王都の軍隊が攻めてきたら王を殺して報復するどころの話じゃない。奴らを追い払って逃げ延びるのが関の山で、その次があれば俺たちは終わりだ。捕虜を殺さずにさえいれば取引の可能性があったのを、あの野郎は台無しにしやがった」 「取引を考えるような男じゃない……敵に膝を折るくらいなら、限りなく低い、勝つ見込みに賭けて戦うだろう」 「戦士だけじゃなく、ダイハンの民が死ぬことになってもか?」  その時、遠くからかすかに声が届いた。  太い戦士の声で、アステレルラ、と聞こえ、ブラッドは身を硬くした。 「呼んでいる……アステレルラはヘリオサの隣にいなければと……言っている」 「俺はアステレルラじゃない……それに俺は、お前の隣にいると決めた」  クバルは苦しげに胸で息をして、薄い瞼を伏せた。 「絶対に、違えることはないからな」  握っていた熱い掌をクバルの腹に置いた。離したら、ブラッドの知らない場所へ行ってしまいそうな気がしたが、奥歯を噛み締めて手を離した。  クバルはもう気を失っていた。重たい身体を慎重に寝かせて松明を拾い、ブラッドは立ち上がった。音を立てずにそっと犬小屋を後にする。足は重く、見えない手が足首を掴んでいるような気さえした。 「……また来る」

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