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家畜

 石で造られた砦の中の一室で、城主の椅子にダイハンの戦士がかけている。  元来住まいとしていた乾いた赤い大地の、土と砂に塗れた褪せた色の天幕。隠れることのない太陽がひび割れた赤土を容赦なく焼き、日が落ちて闇夜が訪れても大地に蓄積された熱が天幕の中に立ち上ってくる。遥か遠くから獣の遠吠えが聞こえ、熱帯夜を小さな羽虫が飛び交う。  ここは故郷とは正反対だった。アトレイア王国オルセン領はダイハン族の暮らす赤い大地に最も近い南部であり、繁る緑の少なさや乾燥した気候は限りなく似ているとはいえ、頑強な石の城は南部特有の暑さを感じさせない。太陽の光を通さず、虫の一匹も入り込まず、積み重ねられた灰色の石は部屋の中をひんやりとさえさせる。  ヤミールは、書斎というものを初めて目にした。その部屋ひとつで、ヘリオサの腹心の戦士が持つ天幕ひとつよりも広い。窓は男の肩幅ほどの小さなものがひとつしかなく、ヘリオススの洞窟の王の部屋のように、燭台に火が灯っている。その小さな炎が、壁際の背の低い棚に収納されている本の背を照らしている。  木でできた長卓の上に行儀悪く脚を乗せている男がいる。棚から引っ張り出した紙の書籍が、その土まみれの履き物の下敷きになっている。字の書かれた紙を束ねた本は、紙の普及していないダイハンで目にすることは滅多にない。ヤミールは異国の書籍に関心があったが、それを踏みにじる男は大した興味がないようだった。 「ガラガ族とフ族はまだ到着しねえのか」  新しいヘリオサが苛立ちを繕いもせずに、広い長卓を挟んで控えた戦士に問いかけた。 「使いを送って何日経った?」 「部族の村中から戦力をかき集めると言っていた。昨日戻った使いの話では、明日の朝には到着する」 「そうか。やっと北へ侵攻できるな。アトレイアの残党はどうだ?」 「連中はすでにオリア山を抜けている。とっくに都に着いてるだろう」  ユリアーンは戦士からの報告を聞くと、盛大に鼻を鳴らして脚を組み替えた。開かれた本のページが、ぐしゃりと歪む。 「奴らめ、本当に他愛もなかったな。指揮官を失ったら銀色の鎧も黒色の鎧も尻尾巻いて逃げやがった」  豪雨の日、ダイハンは北方からリドル城を攻撃し、防衛についていたオルセンの兵士たちを皆殺しにして占拠した。しかし敵はそれですべてではなく、ダイハンが城を陥落させることができたのも、敵の半数以上を南へ誘い出すことに成功したからだった。  領主の首を刎ね、武器を捨て降伏した兵士たちの喉を斬り、城を占拠した後、戦士たちは南へ進撃した。早馬によって城が攻撃を受けている旨を伝えられた敵はすでに城への帰還の道を辿っていた。しかし時はすでに遅く城は落ちた後であり、平地でダイハンの戦士と激突した。攻城戦ならばともかく、野戦でダイハン族に勝利することは難しい。数は勝っていたが、南で囮として野営していたダイハンの戦士たちが背後に追いつき、挟撃される形となったアトレイアの兵士たちは士気を失った。そして指揮官であった騎士が撃ち取られると、黒色の甲冑を纏った兵士たちは戦線を離脱した。それを見て、銀色の甲冑の兵士たちも敗走した。 「あの腰抜けどもがオリア山を越えられたか。忌々しい」 「きっと半数も残っちゃいねえだろう」  南からアトレイアの内地へ至るには、必ずオルセン領を通過しなければならない。しかし、ひとつだけ抜け道があった。それがオリア山だ。  オリア山は赤い岩肌の剥き出しになった山岳で、今回の奇襲のためにダイハンの戦士たちはリドル城の北へ抜けるべく通らざるを得なかった。凹凸が激しく行軍には向かず、足を滑らせると急斜面を転げ落ちて命を落とす。おまけに山の民が住んでいて、通ろうとする者は身ぐるみを剥がされて命を奪われる。  ダイハンの戦士たちは山の民を蹴散らして山道とも言えない山道を抜けた。荒れ地に慣れた馬と、混戦に慣れた戦士だからこそだ。そんなオリア山を北の兵士たちが被害を出さずに通れる筈がなかった。 「山の民は人の肉を食う。アトレイアの兵士たちのほとんどは奴らの食糧になってる」 「食える部分が少なくて、山の民もがっかりしただろうよ」  テーブルを挟んでユリアーンの前に立つ三人の戦士たちが声を立てて嘲笑った。 「こいつの方がまだ食い甲斐がある」  そう言って手に持った縄を引くユリアーンを、ヤミールは王の従者として壁際に控えながら虚ろな瞳で見つめた。血の滲む縄を辿ると、ユリアーンの隣に亡霊のように佇む男の首に巻きついている。肺を損傷しているのか、浅い息を吐く合間に、男が血痰の絡んだ咳をする。 「こんな状態になっても、まだ立ってやがる。頑丈なのは良いことだ。さすがはヘリオサ……いや、前ヘリオサだ。いつまで続くか見ものだ」  ヤミールは滲みそうになった涙を、唇を噛んでたえた。  ユリアーンとの決闘で深い傷を負った腹は、最低限の処置はなされているが十分ではない。果実酒で消毒した後、薬草の汁を塗り込んで糸で大雑把に縫い合わせただけ、肩の抉れた傷に至っては酒で洗っただけだ。  かろうじて地に足をつけている。うまく息を吸えないのか苦しそうに胸を喘がせ、瞳に光はなく彷徨う視点はどこを見ているのか怪しい。立っていられるのが不思議なくらいだった。 「面白い見世物がひとつできた。次にアトレイアの連中と殺し合うまで退屈しなさそうだ。そうだろう、カミール」  ユリアーンが愉快げな声で、ヤミールを向いた。 「いや、ヤミールだったか。どっちでもいいが……生きているうちにクバルの姿をよく見ておけよ」 「……はい、ヘリオサ」  クバルの痛々しい姿に目を背けたくなる。  それ以上に見ていられないのが、ブラッドだった。  新しいヘリオサの妻、新しいアステレルラとして、ユリアーンの隣に座っている。背を正し、テーブルの下で脚を組んでいる。無表情で、じっと心を殺して。  豪雨の下、戦士たちに引き摺られてクバルの姿が遠ざかるのを唇を震わせて凝視していた。見えなくなっても、泥に膝をついたまましばらく冷たい雨に打たれていた。ヤミールが声をかけてようやく呆然としながらも立ち上がり、「カミールをどこかに寝かせないと」と言って、ふたりで彼女の身体を雨の当たらない場所に運んだ。  あんなに心を乱した様子のアステレルラを見たのは初めてだった。彼はいつだって力強く、泰然として、クバルの前でも尊大な態度を崩さなかった。少なくともヤミールの前ではそうだった。それが、「待ってくれ」と引き攣れた声で懇願し、慟哭をこらえて顔を歪めていた。  今は、ただ息をして、生きているだけだ。 「だいぶ元気になったようだからな。今日からこいつの寝床は外でいいだろう」  ユリアーンが突然、縄を強引に引き寄せた。クバルは足を縺れさせ転倒した。肩を打ちつけ呻くのを笑いながら、それでもなお縄を引くとクバルは咳き込んで血を吐いた。  ブラッドは歯を食い縛っている。ユリアーンは新しく得た伴侶の様子を窺いながら、唇を捲って下劣な笑みを浮かべた。 「クバルは俺たちの犬だ。貴様も飼い犬にして、家畜同士の交尾をみなの見世物にでもしてやろうか」  ダイハンの言葉はブラッドには通じていない。無反応を貫くのが面白くなかったのか、ユリアーンはおもむろにテーブルから足を下ろし、伏せているクバルの頭を蹴り飛ばした。 「……ッ!」  殺してやる。ユリアーンを凝視するブラッドの目はそう語っていたが、声には出さなかった。唇を引き攣らせ、息を飲み込んでぐっとこらえている。視線だけで殺せるのであれば、すでにユリアーンは血を吐いて死んでいる筈だ。  王は憤りに染まるブラッドの様子が愉快なのか、彼の襟元を引き寄せてぐっと顔を近づけ、笑みで唇を歪めた。 「お前もこの犬とまぐわえるのなら嬉しいだろう?」  ヤミールは壁際で、血が滲むほど拳を握り締めた。  叶うのなら、ユリアーンを殺してやりたい。クバルとブラッドを苦しめるこの男を、妹を殺した憎い仇を。妹と同じように喉を掻き斬って、濁った音で血を溢れさせながら無様に死んでいく様を見てやりたい。  カミールの最期はよく覚えている。あの光景は忘れようもない。彼女は勇敢だった。恐怖に戦きながらも、ヤミールを押し退け、ユリアーンを突き飛ばした。震える足でユリアーンの前に立ちはだかった。割れた喉から血を流し、空気と血が混じって濁った音を立てていた。掌に流れる妹の血は、冷えきった肌にはとても温かく感じた。最期まで自分を見ていた。その目はすぐに何も映さなくなってしまった。  けれど、何も映さずに済んでよかったのかもしれない。クバルが惨い待遇を与えられているのを、ブラッドの顔が苦痛に歪むのを見なくてもいいのだ。  それは自分だけで十分だ。ヤミールは、妹が救ったブラッドを守らなければならない。あの忌々しい男の手から、クバルを解放しなければならなかった。  しかしヤミールが跪かなければならないのは、ヘリオサだ。現在のヘリオサはクバルではなく、ユリアーンだった。

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