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冷たい雨*流血描写
ふたりを取り囲むようにして、戦士たちは距離を取った。ブラッドも、ヤミールとカミールとともに後ろへ下がった。
城の北、赤の門の前は異様な空気に包まれている。戦士たちが遠巻きに見守る中、クバルとユリアーンはファルカタを手にして激しい雨に打たれていた。
ヤミールとカミールの腕が鳥肌を立てていることに気づいた。長時間雨に晒され、体温が奪われていく。ブラッドも自身の両腕を抱えた。
ふたりは対峙して睨み合っていた。雷光が曇天を照らした時、それが合図であったように決闘は始まった。ふたりの足元で泥が跳ねた。
湾曲した刃と刃がぶつかり、甲高い音を立てた。ふたりを円形に取り囲んだ戦士たちは、最初の一合を聞くと怒号を上げた。
王を決定する重要な儀式。しかし彼らにとっては同時に遊興でもある。流血がなければ不興さえ買うだろう。
戦いと血を好む野蛮な民族。ダイハンに嫁ぎ、婚礼の儀があった日は、なんて忌々しい風習だろうと思った。祝宴で、花嫁の前で突然殺し合いを始めるなど、下手をしたら、自分も殺されるのだと知って、正気の沙汰じゃないと思った。
「ヘリオサが必ず勝利します」
祈りに似たヤミールの言葉に、ブラッドは静かに頷いた。
ユリアーンも、戦士の中では相当の実力者である。戦いは互角のように思えた。しかしクバルが上手なのは間違いなかった。単純な腕力ではおそらく五分、剣捌きや動きの速さではクバルが優れている。
クバルの、ユリアーンの攻撃を逸らす立ち振舞いは危なげない。咆哮を上げて打ちつけるユリアーンの剣を受け流し、瞬時に返して空いた隙を狙う。クバルがユリアーンの足を斬った。ユリアーンは唸り、わずかに後退する。戦士たちが野次を飛ばす。
アトレイアの軍隊を撤退させ、二度と互いに干渉しないよう誓約を結ぶ。そのためにはまず、クバルがユリアーンを打ち倒し前に進まなければならない。戦士たちは納得しないかもしれないが、それでも力を示した彼らの王には従う筈だ。
「アステレルラ」
王の健闘を見守りながら、ヤミールが女王の名でブラッドを呼んだ。
「もう俺はアステレルラじゃない」
「ですが、そう呼ばせていただきたいのです」
「……好きにしろ」
「はい。ありがとうございます」
一度アステレルラでなくなった者が再びアステレルラになることはないとクバルは言った。だから今のブラッドはダイハンの女王ではなく、ましてやアトレイアの国王でもなく、ただブラッドフォードというひとりの男だった。だが「アステレルラ」という小さく星が煌めくような響きが僕の口から紡がれるのは、嫌いではなかった。
「ヘリオススにいる間、ヘリオサはずっと迷っておられました」
「迷っていた?」
「戦士たちに命令を下すかどうか。そして、あなたのことについてです」
ずっと考えていたと、クバルは話していた。王の責任を果たすべきだと己の信念を貫く一方で、許してしまいたいと思い悩んでいたと。
「洞窟の中に三日籠っていました。苦しんで答えを出して、アトレイアへ侵攻をお命じになりました。躊躇った理由は、アステレルラです」
アステレルラの存在がずっと引っ掛かっていた。まるで自分に言い聞かせるように、あなたが酷い男であると語った。そしてやっと決意して、進むことにした。でもあなたはその決意を歪めてしまった。ヘリオサの、王としての決意を歪めてしまった。
ヤミールは切々と語った。
「そうか……俺が変えてしまった」
クバルの、ダイハンの民を守るための選択は、もしかすると絶対的な王としては正しいとは言えない選択だったのかもしれない。そうさせたのは自分なのだと思うと、胸にのし掛かる重圧と、愉悦のような気持ちが生まれる。
「民を守るためのヘリオサの選択は正しい筈です」
「それが今、この決闘で証明される……」
激しい戦闘が目の前で繰り広げられていた。ふたりとも無傷という訳にはいかない。両者の身体から、雨と血が混じり合った水が流れている。
観衆が沸いた。ぬかるんだ地面のせいもあっただろう。クバルに足をかけられたユリアーンが派手な飛沫を上げて転倒したのだ。雨で滑った彼の手から、ファルカタが離れて落ちる。ブラッドは息を飲んだ。
仰向けに倒れたユリアーンの上に馬乗りになったクバルが、その喉笛に鋭い刃をかける。終わる、そう思ったがユリアーンの抵抗は凄まじかった。上半身で我武者羅に暴れ、自分の命を握るクバルの手首を掴む。互いに押す力は拮抗し、ふたりの腕は震えている。
単純な力比べだった。しかし優勢なのはクバル。ユリアーンの力が尽きた時に勝敗は決定する――ほとんど勝利を確信し、強張っていた筋肉の緊張が緩んだ。
その時、ユリアーンが片腕を精一杯伸ばして、泥に落ちていた自身の得物の柄を握った。気づいた時には遅く、ブラッドが叫ぶのとユリアーンのファルカタがクバルの肩を斬りつけるのはほぼ同時だった。
血が吹き出し、雨と混ざり合って泥へと流れる。ブラッドが斬った肩だ。負傷している箇所を狙ったのだ。
クバルが怯んだ隙に、ユリアーンは血を流し肉を覗かせた肩を、得物の柄で殴りつけた。クバルが呻き、仰け反る。抜け出したユリアーンは泥塗れになりながら立ち上がり、クバルを蹴りつけた。
クバルもすぐさま体勢を立て直し立ち上がるが、ユリアーンの方が早かった。
「……!」
深い。
横に薙いだ一閃が、クバルの腹を裂いた。
「が、っ…」
血が溢れる腹部を押さえながら、クバルが後退する。
その足取りの覚束なさ。大きな手の脇から流れる鮮血の量。背筋がすうっと冷たくなっていく。
何とか地面に足裏をつけて立っている状態だった。震える腕でファルカタを構えるが、呆気なく弾き跳ばされた。
飛沫を立てて泥水に膝を突いた。見上げるクバルの首に、ファルカタの刃が宛がわれる。
ヤミールとカミールを押し退け、ブラッドは飛び出していた。何も考えず、振り下ろされる一撃の間に押し入った。自分が斬られるかもしれない、そんな考えには微塵も至らなかった。
幸運なことに、ユリアーンの刃は皮膚を裂く手前で動きを止めた。
「……ブラッド」
背後に蹲るクバルの声は、今まで聞いたことのない弱々しいものだった。血と、痰が絡んだ声だ。ブラッドは胸で荒い呼吸を繰り返しながら、訝しげに細い眉を上げる目の前の戦士を睨みつけた。
「もう、いいだろう」
自分でも、禁忌を犯している自覚はあった。これは決闘だ。殺し合う男ふたり、それ以外の者が干渉することは絶対にあってはならない。どちらが死ぬことになっても、何者も文句を言うことは許されない。
「決着はついた。殺す必要は、ないだろ」
身体を叩く雨が痛かった。じくじくと、つけられてもいない傷が抉られるように熱を孕んでいる。決闘を取り囲む戦士たちは、しんと静まり返っている。
ブラッドの言葉を理解したユリアーンは掲げたファルカタを下ろし、拙い共通語で「どちらかが死ぬまで、終わらない」と言った。
「……ダイハンに背いた俺を殺せば済む話なんだろう。代わりに俺を殺せ」
ユリアーンの蛇のように細い目が、興味深そうにますます細められた。
ブラッドの背後から、痰の混じった咳が聞こえる。
「っ、駄目、だ……」
言葉を紡ぐために息を吸うことさえも苦しげで、何も話すなとブラッドは囁いたが雨に吸い込まれて聞こえはしない。ユリアーンはブラッドを視線で捉えたまま、ダイハンの言葉でブラッド越しに重症の王へ語りかけた。
「そんなにこの男のことが大事か、クバル」
「ああ……」
「命よりも大事か?」
「そうだ……誰にも、手出しはさせない……」
ふたりの会話の内容はブラッドにはわからなかった。ただ息を潜め、ユリアーンの不気味な赤色から一時も目を離すまいと、見据えていた。
ユリアーンがヘリオサになれば、ダイハンは北へと進軍する。その過程でどれだけのダイハンの戦士が死ぬだろう。アトレイアの軍隊がダイハンの戦士を壊滅させるのに、一体どれだけの時間をかけるだろう。ヘリオススに残されている民たちが滅ぼされるまで、どれだけの猶予があるだろう。
すべて二の次だ。クバルが生きてさえいれば。重要なのは、今はそれだけだ。
ユリアーンが、酷薄に開いた口から浅く息を吐いてクバルを笑った。
「じゃあ、お前の命の代わりに、お前の一番大事なものを奪ってやろう」
ユリアーンの手にする刃の先が、ブラッドの喉元に突きつけられた。鋭い尖端が、薄い皮膚に食い込む感触がする。
「アトレイアの裏切り者。お前が新しい王の妻になるのなら、クバルは生かしてやる」
粘着質な視線が絡みつく。ユリアーンがどういう決定を下したのか、ブラッドにはわからない。取り囲む戦士たちとともに見守っていたヤミールへ首を向けると、彼とその双子の妹は、秀麗な顔を硬直させて戦慄いていた。
「ヤミール」
名前を呼ぶと、彼は薄い唇を震わせ、ユリアーンの言葉を共通語に訳した。
「新しい王……」
つまり、ユリアーンのことだろう。クバルはもう、王でなくなる。この男に、ブラッドを妻にしたい意思がある訳ではないことはわかっている。王であったクバルから、何かを取り上げることに意味があるのだ。
肩越しに背後で蹲っている男を振り返った。苦痛に喘ぎながらもブラッドを見上げて、力なく首を横に振った。
彼の意思を尊重することはできない。クバルを死なせることと、ユリアーンの所有物になることは、比較する必要もなかった。
醜悪に歪んだユリアーンの目を見つめ、ブラッドは硬い唇を開いた。
「わかった」
承諾の言葉を聞き、ユリアーンが鼻で息を漏らす。
「……ブラッド」
覇気のない、憔悴した声。応えたい気持ちに蓋をし、ブラッドは振り返らなかった。
「王でなくなった男で生きているのはお前くらいだ、クバル」
酷く愉快そうに新しい王が笑った。睨めつけると、彼はブラッドの肩を掴んで力任せに乱暴に脇へ突き飛ばした。
「っ……何……」
ぬかるんだ泥に身体が埋もれる。何のつもりだと問う間もなく、ユリアーンは残忍な血色の瞳で冷たく見下ろし、共通語で言い放った。
「クバルの前で、犯す」
耳の裏がぞわりと粟立った。
這うようにしてクバルがユリアーンの足首を掴んだ。しかし容赦なく蹴飛ばされ、泥水の中に倒れ伏した。彼の身体の下から赤い液体が溢れ出すのが目に入り、全身から血の気が引いていく。泥に濡れた顔を傾け、それでもクバルの目だけはこちらを睨んでいた。
ユリアーンが身体の上に乗り上げてくる。大腿に馬乗りにされ、脚を動かすことができない。暴れるブラッドの肩を地面に縫いつけ、男は醜悪な笑みを浮かべている。
「俺に、触るな……!」
ぞっと悪寒が這い上がってくる。殺意が腹の底から沸き上がってくる。振り払うが、衣服の合わせを掴まれ、中のシャツごと強引に前を開け放たれる。矢のような雨が、露わになった肌を直接打ちつける。
盛り上がった筋肉は戦き萎縮していた。ユリアーンは硬い胸に手を這わせながら、ぐっとブラッドの首筋に顔を近づけて息を吸い込んだ。
「ちょうどいい……お前の尻にぶち込むのは簡単そうだ」
「っ……」
「雨に流されてもわかる……今までクバルに抱かれていただろう」
耳元でぶつぶつとダイハンの言葉を唱える男が不気味で仕方なかった。ユリアーンの手が胸元を下りて脇腹を這い、腰の下に手を潜り込ませて尻を鷲掴みにする。
「貴様の一物を切り取ってその汚ねえ口に突っ込んでやる……!」
ブラッドの憎悪を理解したのかしていないのか、ユリアーンは猥雑な笑みを浮かべていた。その手が下履きを摺り下ろそうとする。ブラッドが奥歯を噛んだ時、のし掛かる重さが突然消えた。
「っ……?」
視界は灰色の曇天と、降りてくる大粒の雨だった。
首を傾けると、突き飛ばされた様子のユリアーンが泥の中から立ち上がりながら意味をなさない怒りの声を上げている。
誰だ。肘を突いて上体を起こすと、ブラッドに向けられている背中がある。
白い装束は濡れて身体に張りついて、束ねられていない長い黒髪が剥き出しになった褐色の背中に散っている。薄い肩はわずかに震えていて、それが寒さからなのか、恐怖からなのか、判断はつかない。
「カミール……?」
凍えるように、肩で息をしていた。彼女はユリアーンを正面から見据えて、細い脚で立っていた。
「アステレルラはヘリオサ・クバルの妻です。この方への乱暴は許さない」
ブラッドは呆然と、カミールの後ろ姿を見上げた。
ユリアーンが、倒れ伏すクバルの手元に落ちていたファルカタを拾う。
誰かが何かを叫んだ。男の手にした刃が横に薙いだ。
カミールの後ろにいるブラッドにはその瞬間が見えなかった。だが間もなくして彼女の華奢な身体が、糸が切れたように崩れ落ちた。
咄嗟にブラッドはその身体を支え、彼女の顔を覗いた。濃い目の縁を限界まで見開き、ぱっくりと開いた喉から目と同じ色の液体が流れている。
止まらない。
「カミールッ!」
叫喚が雨を裂いて響き渡った。ヤミールが血相を変えて、傍に膝を突いてカミールの身体をブラッドから奪い取った。
彼女の身体はまだ痙攣していた。最後に一度、虚ろな瞳を兄へ向けて、動きを止めた。
「あ……ああ……」
意味をなさない声が、ヤミールの口から零れ落ちる。温かい妹の身体を抱き締め、胸に顔を埋めた。鼓動はもう止まっているだろう。ううう、と獣の唸り声が聞こえる。ブラッドはどうすることもできず、妹を抱くヤミールの旋毛を見つめていた。
どれだけの覚悟で飛び出してきただろう。新しい王に楯突くなど、正気ではとてもできない。愚かなアステレルラを守るために、どれだけ怖い思いをしただろうか。
泥の中に投げ出されたカミールの微動だにしない腕を呆然と見ていると、ヤミールがゆっくりと顔を上げた。
「ヤミール……」
彼の目に涙は浮かんでいなかった。
「カミールは喜んでいます。アステレルラを守って死ぬことができました。大変な名誉です」
そして、平然と言うのだ。悲嘆も悲憤もない声で。
ブラッドは大きく息を吸い込んで深呼吸した。喉が絞まって酷く苦しかった。
「こいつは、馬鹿だ……お前も……」
どうして泣かない。妹が殺されて、どうして憤慨しない。悲しみを心の奥底に押し込めて、蓋をして、こらえている。たえられる筈がないのに。
「……下らない」
低い呟きが地に落ちた。見上げると、ユリアーンは興醒めとばかりに踵を返した。
――殺してやる。
立ち上がろうとするが、ブラッドの殺気を感じ取ったヤミールが服の裾を掴んでいる。再び見た彼の顔面は、ぶるぶると震えている。ブラッドは言葉を失った。
ユリアーンはダイハンの言葉で腹心の戦士たちに命じると、名残もなく背を向けて群れの中に姿を消した。するとすぐにふたりの戦士がオルセン候を地に押しつけ、首を刎ねた。拘束されていたオルセンの兵士たちが、次々と喉を斬られていく。
「アステレルラ……ヘリオサを」
ヤミールの声で、ブラッドは地に伏したままのクバルに目を向けた。動きがないことに、悪寒が走る。必死にクバルに這い寄り、泥と血に濡れた身体を抱き起こした。
「クバル」
辛うじて薄く開いた目がブラッドを捉えるが、もう意識が朦朧としていて、視線は宙を漂うように揺れている。肉が覗く腹を手で押さえるが、生温かい液体が次々と溢れて止められない。雨に晒された身体は、異常なほど冷たい。ブラッドは自分の呼吸が浅くなっていくのを自覚した。
不意にクバルの身体を取り上げられた。ふたりの戦士が彼の両腕を持って、荷物のように引き摺り始めた。
「どこに連れて行く……」
追い縋るブラッドには一瞥もくれず、戦士はクバルを連れて遠ざかる。取り囲んでいた戦士たちはすでに疎らになり、背を向けて歩き始めていた。
「待て……待ってくれ……」
今度はその言葉が言えたのに、どうして待ってくれない。どうして離れて行ってしまうのか。ともにいると誓ったのに。
血の混じった泥を、豪雨が穿っている。震える手で握り締めると、爪の間に泥と小石が入り込んでくる。
とても寒い。氷のように冷たい雨が、ざあざあと背中を叩くのが痛くて堪らなかった。
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