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掟破り
雨は止まなかった。
一時も慈悲を与えずに降り続け、大地を抉る強さで兵士や戦士たちを打ちつけていた。黒に塗られた空はわずかに白んでいるが夜明けはまだ遠く、暗闇をもたらす灰色の雲はその厚さを変えていない。
激しい剣戟の音や男たちの怒号や叫びは、もう聞こえなくなっていた。ただ耳を塞ぎたくなる、うんざりするほどの雨音だけが支配していた。
厩舎の外に出ると思い出したように寒さが駆け抜けた。リドル城の北の城壁、赤の門へと向かう間、雨の矢が容赦なく額を打ってくる。
「ブラッド」
轟音を縫って声が届く。振り返ったクバルの顔には水が流れている。
「心配いらない」
「……ああ。お前のことは信じてる、クバル」
薄く笑むと、クバルは唇を固く引き結んで前を向いた。
北の外郭には、集結した戦士たちが裸の上半身を雨に打たれなら待っていた。その数は、三百もない。ヘリオサ・クバルの姿を認めると、無秩序に立ち並んだ屈強な男たちは、冷めやらぬ勝利の興奮を顔に浮かべ、彼らの王へ道を譲るように左右に割れる。だが、ヘリオサに続く男の姿を見て表情を険しくさせた。
捕縛された百名弱のオルセンの兵士たちは、ファルカタの先を突きつけられ、ぬかるんだ地面に膝をつけていた。降伏した者は殺すなと、ヘリオサから命令が下されていた。武器を捨て降参を表明した彼らは、ダイハン族の王の背後を彼らの国王が手枷もなしに歩く様子に違和感を抱きながら、凝視していた。
人の波を抜けると、赤の門の前に出る。そこに佇んでいた者たちは動揺していた。
ヘリオサの腹心の戦士たち。ユリアーンは怪訝と、不信感を露わにしてクバルを厳しい表情で見据えた。戦士たちの足元に捕縛されたオルセン候は、緊張と困惑を飲み込んだ。そして見慣れた顔の王の従者たち。その中にはヤミールとカミールの姿もあった。彼らは、ブラッドの姿を見て長い睫毛に縁取られた目を大きく見開いていた。
クバルが、腹心たちの前まで歩み寄る。当然、ブラッドも一緒にだ。
ユリアーンは爬虫類のごとく鋭く陰湿な目線をブラッドに向けた後、クバルを正面から見据え「どうしてその男がいる」と不快感を隠しもせず苦々しい声で言った。
クバルは彼の問いには答えずに「捕らえた兵士たちをアトレイアに引き渡す」と戦士たちに宣言した。
どよめきが走った。
ユリアーンが再び口を開く前に、クバルは戦士のひとりにオルセン候を立たせるよう指示した。襟首を掴まれ乱暴に起立させられた候は、固唾を飲んで敵の王を見つめている。
「貴様の王に伝えろ。捕虜を解放する。アトレイアはオルセン領からすべての兵を退き、今後一切、この城から南、我々ダイハンへは干渉するな。我々も、北へ刃を向けることは二度としない」
オルセン候は目を丸くしてクバルを見つめていた。
促したのはブラッドだった。
オルセンの兵士の半数以上の命を奪い、壊滅状態に追い込んだ。一度も敵に落とされたことのないリドル城を陥落させ、奪った。南へ誘い出された部隊が帰還しても、門扉を閉ざしてしまえばこの地が奪い返されることはまずない。
しかし、勝てないとわかれば敵は数を増やす。王都にはまだ、最終手段に控えていた兵がある。その数は、これまでに相手した数とは比べものにならない規模になるだろう。もしそれが南へ全勢力をもって進軍してきたら、とても太刀打ちはできない。
――もしも、ではない。シュオンはダイハン族を滅ぼすと言ったのだ。
これ以上先に進めば、死者は増える。ダイハンの民を守りたいのであれば、懸命な判断をすべきだ。捕らえた捕虜と引き替えに、南からの撤退と半永久的な不干渉を要求するのだ。
クバルは理解を示してくれた。民や戦士が多く犠牲になるのは、彼の望むところではなかった。
問題は他の戦士たちが、報復を終えることに従うかどうかだった。
「腑抜けた冗談だ」
王の従者が翻訳した内容を聞いたユリアーンは、鼻息荒く、ダイハンの言葉で吐き捨てた。オルセン候の身体を押し退け、クバルの前に立ち塞がる。
「奴らの王はこの城にいるんじゃなかったか? 殺したか? 逃げたのか?」
「王は、最初から来てなどいなかった」
「敵の王が生きているのなら、なおさら退けねえ。城を落とした。ここまで来て北に攻め込まない理由があるか」
ブラッドにはユリアーンの言葉が聞き取れなかったが、どんな意味の内容を話しているのかは彼の表情や語調で理解はできた。
彼らダイハンの戦士にとっては、ここで撤退するなど、考えられないだろう。裏切ったのはアトレイアだが、報復を誓って宣戦布告をしたのはダイハンの方だ。誓約に背いたアトレイアを許さない。侮辱された怒りを燃やして名誉のために進んできたのだ。今さら矛を収めるなど、できないのだろう。
「アトレイアの猿たちなど脅威じゃない。怖じ気づくことは何もないだろう」
「十分に報復した。これ以上は望むところじゃない。俺たちに犠牲を増やすだけだ。長くヘリオススを空けていれば、残してきた女子供や老人たちも危険だ」
「その男に言われたのか?」
ユリアーンの鋭い視線がブラッドに突き刺さった。深紅に滲んだ殺意に背筋をそろりと撫でられる感覚がした。ユリアーンは鼻梁に皺を寄せて、獣が威嚇するようにクバルに顔を近づけた。
「その男に説得されて易々と従うのか? その男の話す言葉は、俺たちを嵌めるための罠かもしれねえ。そいつは俺たちに正体を偽っていた。お前は、嘘つきの男の言葉に乗せられるほど腑抜けになっちまったのか?」
「……アトレイアの王都には俺たちの数倍の兵力がある。奴らはダイハンを滅ぼす算段でいる。だが、こちらには捕らえた大勢の捕虜がいる。指揮官も生きている。捕虜を解放する条件を無視し、自らの民を見殺しにして進軍するほど敵は愚かじゃないだろう。今が俺たちにとって重要な局面だ」
ユリアーンは、王の腹心の戦士たちの顔触れを見渡した。彼らの中には、クバルの言葉を聞いて頷く者もいた。不愉快そうに顔を顰めた後、ブラッドを蛇の目で捉えた。
「最初の問いに答えてねえぞ、クバル」
濡れて衣服が張りついた背中を、じとりと汗が流れるような感覚がしたが、それは雨に違いなかった。
「お前の隣にいる男についてだ。どうして、生きて俺たちの前に立っている?」
冷気が緊張でぴんと張り詰めた。漂う殺意を、雨は洗い流さない。ユリアーンは顔の水を拭った掌で、ブラッドを指差した。複数の視線が突き刺さる。
「アトレイアに攻め込んで、その男を見つけたら殺す。俺たちの総意だった筈だ。どうしてお前は生かしている?」
彼の話す内容はわからない。しかし今すぐにでも斬りかかって来そうな苛烈な視線が彼の心情を表していることは明らかだった。
歓迎されないことは最初から理解していた。だが、クバルと離れて姿を消すつもりも、制裁として殺されるつもりもなかった。
「その男にアステレルラの資格はない」
「ああ、彼はもうアステレルラじゃない。だが、俺とともにいると誓った。彼は俺たちの仲間だ」
「冗談だろう、裏切り者だ!」
ユリアーンが雨を裂いて声を荒げた。同じ言葉を周囲の戦士たちは叫ぶ。ブラッドにもその意味は理解できた。
「お前が剥奪したんだろう。誓約を破った者は生かしてはおけない」
「ユリアーン」
「そうだろう、ヘリオサ・クバル。例外はない筈だ」
ユリアーンが拳でクバルの肩を押し退ける。ブラッドに伸びた腕を、クバルの手が掴み上げた。ぎりぎりと音がしそうなほど強い力だった。
「彼を傷つけることは許さない」
低い囁きだったが、声に滲んだ怒りをブラッドは感じ取った。側に控えた従者たちがたじろいだのがわかった。
ユリアーンはかっと目を見開き、突き飛ばす勢いでクバルの手を振り払った。
「お前自ら掟を破るのか、クバル」
ユリアーンは誰が見てもわかるほど激昂していた。鼻息荒く、肩で息をしている。彼と心情を同じくする周囲の戦士は、王であるクバルを睨みつけていた。
「掟を破る王は王じゃない!」
雷のような大喝だった。彼の宣言に、戦士たちは同じ声を上げている。何度も、同じ単語を叫んでいる。言葉のわからないブラッドは困惑していた。クバルは動じた様子もなく、目の前で理性を失った獣のように怒り狂う腹心の男をじっと見つめている。
ユリアーンが腰元のファルカタを抜いた。刃の残像が雨の中でクバルの頬を裂いた。ユリアーンが牙を剥いて、呪詛を吐くように口を開いた。
「ヘリオサ・クバルに決闘を申し込む」
戦士たちが上げた獣の咆哮が、濡れた地面に落ちて吸い込まれていく。怒りと興奮に包まれている。
取り残され立ち尽くすブラッドの肩に、細い指先が触れた。
「ヤミール、カミール……」
「アステレルラ、ご無事で安心しました。もう二度とお会いできないかと……」
緊張に満ちた表情だった。再会を喜ぶ猶予はない。
「ああ、運良く生きてる。それよりどういう状況だ、これは」
焦燥を隠さず、僕だった双子の兄に問い詰めれば、彼は切れ長の目で真っ直ぐにブラッドを見返した。
「決闘です」
重々しい響きだった。ブラッドは皮膚の上に這い上がる緊張に、無理矢理唾を飲み込んだ。首の筋肉が引き攣る感覚がする。
「ユリアーンが、ヘリオサに決闘を申し込んだのです」
「つまり……奴はクバルを殺すのか」
王に決闘を要請するとは、そういうことだ。挑戦者が王を殺して新しい王になるということ。
「断ることはできるんだったか」
「可能ですが、断った時点でその者は王ではありません。そうでなくとも……ヘリオサは必ず受けるでしょう」
クバルは静かな瞳でユリアーンを見据え、口を閉ざしていた。
これは王の決断だ。他の何者も口を挟むことはできない。壮麗な横顔を見つめじっと待つ。
クバルに勝てる者はない。ダイハンの中では彼が最も強い戦士で、絶対に斬り伏せられることはない。クバルならユリアーンを打ち負かし、ダイハンの民を犠牲から守ることができる。
濃い睫毛に縁取られた赤い瞳が一瞬ブラッドに向いて、再び前を向いた。
「俺はダイハンの民を守らなければならない。お前が王になれば大勢が死ぬだろう、ユリアーン」
クバルが静かにファルカタを抜いた。銀色に濡れた剣身に走る闘志を感じ取り、彼が承諾したのかわかった。
戦士たちは興奮の雄叫びを上げて、ふたりから距離を取った。
「アステレルラ、私たちも」
「待て。……クバル」
彼が必ず勝利することは知っていたが、名前を呼ぶ声は張り詰めて硬くなった。振り返ったクバルの表情にも、わずかに緊張が滲んでいるように見えた。唇が強張っていた。
「ブラッド」
「信じてるぞ、クバル」
強い語調で言い切れば、不意にクバルの表情が緩んだ。
「ああ。信じてくれ」
腕が伸びて大きな掌がブラッドの冷たい頬を撫でる。ブラッドはその濡れた指先を握りながら、過去を思い起こした。
「あの時もお前が勝つことを祈ったな」
それはブラッドがダイハンに嫁ぎ、婚姻の祝宴が開かれた日のことだった。ひとりの戦士が宴の席でクバルに決闘を申し込み、祝いに訪れた客や花嫁の前で流血が繰り広げられたのだった。クバルが死ねば自分も死ぬ。夫になったばかりの男の勝利を、ぞっとしない気持ちで願っていたのだ。
今度もきっと大丈夫だ。ともにいるという約束を違える筈はないと、ブラッドは信じていた。
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