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Zero.
「ユーリ・オルヴェ、貴様は何度忠告すればその態度を改めるつもりだね?」
ジャスパーグリーンの鋭い瞳が向けられる。居丈高でいて圧の強い視線だ。ユーリ・オルヴェと呼ばれた青年は、怯むどころか白けた表情を崩さない。目にかかりそうなほど伸びた前髪を掻き上げて、部屋の窓のほうへと視線を向けた。口答えをしているわけではないが、反省の色などないことを態度が表わしている。
「そんなことでいちいち呼び出すんじゃねえっての」
ゆるくウェーブのかかった髪を指に絡めて不満げに唇を尖らせて、目の前の男に聞こえる音量でユーリが呟く。どう注意をしても改められることのない態度に苛立ちを覚えたのか、ユーリを呼んだ男があからさまに不機嫌そうに溜息をついた。
「そっちこそ、何度言えば納得してくれるんですか?
その忠告は俺じゃなくて、本人にしてくださいって言ってるじゃないですか、学長」
ユーリはここスパツィオ大学の研究医だ。スパツィオ大学とはミクシア王国随一の大学であり、たった一握りの優秀な人材のみ入学が許される。そのなかでも最も権力が強い疫学研究室の栄位クラスに所属している。そしてそのなかでもとりわけ目立つ存在であり、異彩を放っている。なぜならユーリと兄であるサシャは、ノルマ族と呼ばれる種族が人口の97%の割合を占めるここミクシア国において、他とは異なった容姿を持つ種族だからだ。
褐色の肌に、薄い銀色がかった髪を持つ。やわらかそうな毛質のそれは腰に届きそうなほど伸びており、それをバレッタで無造作にまとめている。意志の強そうな眉。はっきりとした二重。ラピスラズリのように深みのある穏やかな海のような青とアイスブルーの独特なダイクロイックアイ。長身の割にベビーフェイスなのは、ユーリの種族ーーイル・セーラの特徴でもある。イル・セーラはつい4年ほど前までは、ミクシアの奴隷として扱われていた種族だ。
高級そうなアンティークデスクを前に、まるで威厳を示すかのように腹を突き出してデスクチェアーに深く腰を掛けているのは、スパツィオ大学の学長イヴァン・アゴスティだ。気難しく偏屈そうな表情を眉間に深く刻まれたしわがより強調している。高級そうなスーツに身を包み、白髪交じりのダークブロンドの髪は丁寧に後ろになでつけられている。デスクの上もほぼ散らかっておらずぴしりと整頓されているのを見るに、まじめ一筋の彼はユーリとは合うはずのない性格の持ち主である。
ドン・アゴスティ(ユーリなど多くの生徒が学長と呼ぶ)は国内最高峰のスパツィオ大学をはじめ、ミクシア内でも五本の指に入る大学すべてを経営している資産家でもあり、ミクシアの大学に通う者で知らない者はいない。大学在学中に彼に逆らえば資格はく奪も免れないと、多くの者は学長の一存に従うが、ユーリは違う。学長の説教を煩わしそうな表情でいつも聞き流している。
「本人に言えないからって、俺に当てつけで言っているくせに」
「黙れ、ユーリ・オルヴェ」
学長が声を荒らげる。しかしユーリはふうと息を吐いて煩わしそうに視線を逸らすだけだ。
「この度の一件はスラムに診療所を作るのが研修の一環だなどと、詭弁にもならん。聞けば聴取のためにピエタの派出所に赴いた際にまわされかけたのだろう」
ユーリの眉がピクリと跳ねあがる。このことはその時にボディーガードとしてついてきた友人にしか話していない。権力の犬めと口の中で吐き捨て、ユーリは学長の言葉に耳を傾けた。
「事の次第は二コラから聞いたが、そもそも大学は貴様の研究とやらを全面的に認めたわけではない。貴様一人で行うならそうしろと言ったのだ。それなのに結局は栄位クラスの者を巻き込んでいるではないか」
学長が声を荒らげる。二コラとはユーリの友人だ。ニコラ・カンパネッリ。学長同様にダークブロンドの髪にジャスパーグリーンの瞳を持つ典型的なノルマ族の容姿だが、性質や考え方はほかのノルマとは大きく異なっている。ハイスクールのころから常に主席レベルの成績の良さで、授業の一環で赴いた軍医研修ですぐにスカウトされたほど適切な判断ができる。品行方正が服を着て歩いているような堅真面目な性格ではあるが、なにかと馬が合い仲良くなった。その堅真面目さのおかげでいまユーリは学長からこんこんと説教をされているのだが。
「俺は最初から一人でやるつもりだったんですって」
何度も言わせないでくださいよと、まるで挑発するかのように間延びした口調で言う。視線も学長ではなく窓の外に向いている。ちょうど窓の外をユーリの研究チームの看護師であるミリスが通りかかった。ミリスに向けてひらひらと手を振り、長くなりそうだからサシャに先に寝てろって伝えてもらえないか? とわざとらしく告げる。ミリスはその様子からなにかを察したらしく、ぺこりと頭を下げて研究室がある校舎へと向かっていく。わざとらしい学長の咳払いが耳に入り、ユーリは学長へと向き直りへらりと笑った。
「これ以上は庇いきれん。ピエタの要請次第では懲罰房行きも覚悟してもらうぞ」
「あそこは寒いことを除いたら、静かで居心地がいいんですよね」
ユーリにはまったく悪びれる様子などない。懲罰房には何度も入っているから慣れているとでもいうように、『看守はニコラ限定で』とけらけらと笑いながら言ってのけた。ついには学長が頭を抱えて溜息をついた。ユーリを呼び付けて説教をするも、だいたいいつもこんな具合で怯みもしないのだ。
ミクシア国は先代の王の影響が根強く残り、近隣諸国と比較すると差別主義の国民性が目立つ。 代表的なのは下流層以上しか国が率先する医療を受けることがかなわず、また保険制度も適用されないことだ。
この国はスラム街と下流層地区、中流層地区、そして貴族や王族が住む上流層地区に分断されている。その中でもスラムは北側、南側、西側、東側の四つに区別され、どの地区も街から自由に往来することを許されていない。南側は特に警備が厳重で軍部が管理し、西側は再犯者が収監されていることもあってピエタという民間警備機関と軍部が協力して管理している形になっている。そういう事情で南側と西側では多少の医療が受けられるものの、治安の悪い東側となると街では軽症で済む流行風邪でも死者が格段に増えるほどだ。怪我や病気での死者が圧倒的に多く、おまけに不衛生なスラム街に住む者にとって、常に死と隣り合わせの緊張状態にある。
事の起こりは8か月前。ミクシア郊外のエルン村で大流行した風邪の対処に行った帰りに、そこまで案内してくれた流れの傭兵から偶然スラムの実態を耳にした。ユーリは4年前まで自分が奴隷だったこともあり、国が見て見ぬふりをする実態に腹を立ててほぼ無理やりに診療所を作ることを計画したのだ。
ユーリが研究の一環として(もちろんそれは詭弁だが)医療制度が整っていないスラムに診療所を設けたことで、違法な薬物を売買して生計を立てていたマフィアの下っ端たちに目をつけられた。そのせいで東側のスラムのごろつきたちとトラブルになり、たまたまスラムの治療に付き合ってもらっていたキアーラと共に暴漢に襲われたのだ。
キアーラを逃がすために自分が標的になったまではよかったが、四人がかりで執拗にまわされた挙句に殺されかけた。偶然警邏中だった“まともな”ピエタに救われたものの割と目立つケガを負う羽目になった。首の怪我などあと数ミリずれていたら一巻の終わりだった。事件から数日たってもなお真新しいガーゼに血が滲んでいることからも怪我の程度がどれほどだったかがうかがえる。そのことを咎められこんこんと説教を受けているのだが、学長はユーリのまるで他人事のような態度に翻弄されており、辟易したような溜息を吐いた。
「いいか、ユーリ・オルヴェ。貴様は軍部預かりの身なのだ。本来なら勝手にアンゼラ地区を出ることすら許されない立場だということを失念するな」
アンゼラ地区というのは中流層が住む街の区画の一部で、大学やピエタの派出所や市場などがそろっている比較的住みやすい地域だ。そこに居住権をもらえたのはある意味で監視のためでもある。なぜならイル・セーラはいまだに差別対象であり、ユーリは特にその端正な容姿のせいで目を付けられることも少なくないからだった。
口調はさておき、学長が自分のことを気に掛けているからこそのセリフだということがわからないユーリではないが、鬱陶しそうに眉を顰めて首元のガーゼに触れた。
「正直見込みが甘かったのは認めますよ」
言いながら、首元を指で数回叩いてみせる。
「普通に考えて、悪いのは俺じゃなくて逆恨みしてきた連中ですよね。奴隷解放宣言から4年も経ってるってのに、まさか往来で暴行されるなんて、この国の腐敗具合の象徴みたいなもんだと思うんだけど」
反省の色など全くない、挑発的な物言いだ。学長が大げさに溜め息をつく。眉がひくひくと動き、いら立ちを隠せない様子だ。
「往来での暴行など、4年前までは日常茶飯事だっただろう。それにスラム街は下流層街とは異なり、無法地帯だと言ったはずだぞ。街ではイル・セーラへの暴行並びに性的暴行は重罪であるが、あちらには取り締まる者が常駐していない」
学長の言うとおりだ。ユーリが暴漢に襲われた時間帯は、ピエタの警邏が終わり駐留所に戻っている頃合いだったのだ。それも“悪徳”ではなく“まともな”ピエタが居合わせたことこそ、奇跡に近い。
「まあ成り行き上犯人捕まったし、べつにいまさらごちゃごちゃ言われる筋合いないっていうか」
「それとこれとは別問題だ、馬鹿者が!」
ついに学長の怒号が飛ぶ。ユーリは片眉をひそめてあからさまに嫌な顔をした。
往来で暴行された――などと被害者がましく言っているが、それこそがユーリの策だった。キアーラさえ逃がしてしまえばあとは暴れるなり逃げるなりどうにでもなったのだが、彼らの動向がどうにも“におった”ことを理由に、敢えて暴行される道を選んだ。
奴隷解放宣言が施行されて以降、イル・セーラへの暴行や性的暴行、売春の強要はいかに上流階級であれ罪に問われるようになり、特に性的暴行に関しては最低でも1か月の収監、そして100リタス(日本円にして100万円)以上の罰金が科せられることになった。ユーリはその法律を逆手に取り、わざとスラムで騒ぎを起こし、その暴漢グループを軍部の刑務所に収監させたのだ。ある意味で誤算だったのは、二コラではなくピエタが助けに来たことだった。二コラが相手なら色仕掛けでその気にさせて暴行されたこと自体を隠ぺいしてもらうつもりでいたが、相手が“まともな”ピエタだった為にそのことが露見した。ユーリにとって想定外の出来事だった。
「貴様の身になにかあれば、大学側が軍部と揉めることになるのだと何度も言っているだろう!」
ドン・アゴスティの語気が強まる。ユーリは小声でうるさいと非難するようにぼやいて片耳を覆った。
「そんなでかい声出さなくたって。悪かったっつってるでしょ。俺だってあんな騒ぎにするつもりなんてなかったんだから不可抗力ですよ」
不満げにユーリが言う。けれどいくつも前科があるだけに学長はその言い分を信じてくれそうもない。さすがにそろそろ同じ手は通用しないなと思い、次の言い訳を考える。
「話し戻すけど、栄位クラスの人間はスラムに降りるなっていう命令なら、うちの班長様かニコラかに直接伝えてもらえません? そのほうが迅速に対応できるでしょう。俺はなにも手伝ってほしいなんて一言も言ってないんで、そうやって凄まれる理由なんてないんですよね」
言って、ユーリがわざとらしく両手を広げて肩を竦めてみせた。
「むしろ話が大きくなりすぎて、こっちも迷惑してんですけど」
冷めた視線を学長に向ける。学長は苛立ったように眉を顰めた。
「二人が積極的に貴様を手伝っているとでも言いたいのか?」
「だぁかぁらぁ、俺は最初っからそう言ってるじゃないですか」
今度は学長が深い息を吐いた。ユーリが学長室に呼び出されてから数回繰り返されている問答だからだ。
「貴様のせいでセラフィマ嬢にも危害が加わるところだったのだ。彼女に何事かあってみろ、貴様の命ごときで償えるものではないのだぞ」
なるほど、真に言いたいところはそこかと内心する。何事もなかったからよかったものの、そうでなければユーリが怪我をしたことや、スラムで騒ぎを起こしたことなどよりもよほど重大だ。
セラフィマ嬢――キアーラ・セラフィマ・ディアンジェロは、ユーリが在籍する栄位クラスの先輩にあたる。ユーリと生まれ年は同じなのだが、ロースクールのころからスパツィオ大学への進学コースに在籍していた為に、2人より4歳年上のニコラ・カンパネッリよりも2年も早く現場に出ている。ミクシアの中でも3本の指に入る財閥の令嬢で公爵の娘でもあるのだがそれを鼻にかけることもなく素直で人受けのする女性だ。上級階級はコネクションが物をいう部分があるうえ、ほとんどの女性が職を持たずに家を守るこの時代に、キアーラはまっとうなルートで医師になった。その為か学長からの信頼は厚く、また叔父がミクシアの大元帥ということもあって、強く物を言えない部分がある。
キアーラは栄位クラスの班長でもあるし、そのうち財閥を受け継ぐ国にとっても大事な存在だが、若干の――いや、かなりの変わり者なのは否めない。なぜならユーリのことを友人だと言ってのけ、ほぼすべてのやり取りに目を輝かせて新鮮さを堪能しているような純粋な部分を持ち合わせている。
だからこそそんな彼女がスラム街に降りることをユーリは反対した。それこそ怒鳴りあいの大喧嘩に発展するほどにまで反対した。けれど急を要する患者が女性だった。ユーリと同じ栄位クラスに所属する二コラ、リズ・マクシミリアノ、4歳年上のユーリの兄であるサシャには産科にいた経験が一切なかったことが決定打となり、彼女を連れて行かざるを得なかったのだ。
真実を言ってしまえば済みそうなものだが、自分が怪我をしたせいで落ち込んでいるキアーラをこの場に連れてきたくなかったというのがユーリの本音だった。奴隷だったころと比較すれば大したことがない怪我だというのにあそこまでしょげるということは、自分を逃がすために暴行されたなんて知られた日には泣いて謝られること必至だ。
「じゃあ二コラかサシャを召喚すればいい。俺だってセラフィマ嬢には暴行されたことを知られたくない」
学長は心底呆れたというような表情をして、深い溜息をついた。
ニコラはユーリと仲が良いが、ピエタの派出所でまわされかけたことを学長に伝えたのは二コラだ。ユーリを庇うための嘘をつくタイプではない。もしもユーリが言っていることが嘘なら、キアーラか二コラのどちらかが学長室にやってきて、無理やりにでもユーリに頭を下げさせるくらいのことはするだろう。ユーリが大学にやってきて4年経つが、ふたりがユーリの粗相を手放しで見逃すことはないに等しかった。
だがユーリは違う。存外強かな性格をしており、自分が逃れるために誰かを槍玉に挙げるようなことはしないが、誰かをかばうためなら平気で自分が不利になるような嘘をつく。奴隷生活が長かったこともあり、自分が傷つくことをいとわない。
「最初から協力させるつもりがなかったからこそ、セラフィマ嬢がスラムに降りたことがバレちゃまずいと思って文字通り身を挺してセラフィマ嬢を守ったってのに、なにが不満なんだよ」
学長が苦い顔をそのままに眉間を指でつまんでなにかを考えている様子なのは、自分の悪癖をよく知っているからだろうとユーリは考えた。このままだと学長は二コラではなくキアーラを呼び出す方向に話を持っていくだろう。そう察したユーリは、わざとらしく話の方向を変えた。キアーラ自身は名前で呼んでほしいと言っているが、公爵の娘ゆえに研究室や気心が知れた相手以外がいるときには反感を買わないようにと呼び方を改めている。
「それとも俺が我が身可愛さにセラフィマ嬢を差し出して、彼女が代わりに暴行されたならよかったとでも? そうすりゃあのじゃじゃ馬も少しは大人しくなるだろうって?」
「き、貴様っ! 恥を知れ!」
学長の怒号が飛ぶ。それはまるではめ込み窓のガラスが揺れるほどのものだった。比較的耳がよく大きな音が苦手なユーリは、反射的に両耳を塞いだ。
「ンなでかい声出さなくても聞こえるっつの」
眉を顰めて迷惑そうに言った後、ユーリは耳を塞いだ手を外し、後ろ手に腕を組んだ。
二コラ以外には言っていないが、暴漢は確実にユーリ目当てだった。殺すつもりなら腹か腿を刺せばいいものをそうしなかったうえ、逃げたキアーラを追いかけもせずに四人がかりでユーリをまわした。スラムの住人が中流階級以上の女性に危害を加えた場合は問答無用で死刑だが、イル・セーラ相手なら逃げるが勝ちだ。彼らの目的がユーリへの見せしめだとするのが妥当だろう。まわしたごろつきたちを軒並み軍部の収容所に収監したことにより、マフィアたちが黙っていないはず。そうなれば、これ以上キアーラを東のスラムに連れて行くのは危険だ。今度はキアーラが狙われかねない。
「貴様とセラフィマ嬢は立場もなにもかも違う。本来ならばああして気安く接することができる相手ではないのだ」
「わかってますって。どうせ俺を襲ってきたやつらは、診療所ができたせいでみかじめ料を取れなくなったごろつきどもでしょうし。ピエタが干渉できないように軍部に引き渡してやったことくらいは評価してもらいたいもんですけど」
「貴様が余計なことをしなければ、暴行されることもなかったとは考えられないようだな」
学長が鋭い視線を浴びせてくる。余計な事ねえとつぶやいて、ユーリは肩を竦めてみせた。
「どうせ何処にいたってそういう対象なのはいまも昔も変わんねえんですよ。”お上品”な学長様と違って、ピエタだってごろつきとおなじだ。そもそも助けに来たのがべつのピエタだったら、ごろつきを逃がして俺をまわしてただろうし」
ユーリの言い方は投げやりだった。ピエタは旧軍部出身者で構成されており、とても正当とは言い難い組織だ。けれどスラムや下流層街の治安を守る存在でもあるため、多少の粗相を見逃されている。ユーリは学長くらいの立場になるとそういう報告がいくつもされているだろうと踏んでいた。その読みは当たっていたようで、学長は苦い顔をそのままに、咳払いをして見せた。
「声が大きい。貴様、外でそのようなことを言うと、収監されるぞ」
「ここにいるのは俺と学長だけ。どっからその話が漏れると? そちらが“悪徳”ピエタと繋がってるってんなら別だけど」
にやにやと挑発的に笑いながら、ユーリ。違うだろとでも言いたげに目を眇めて学長を見る。学長がスラムのマフィアと繋がりを持つピエタのことをよく思っていないことを知っているからだ。いつもの沈着や様子はどこに行ったのかと突っ込みたくなるような荒々しい口調で『やつらを全員収監してやりたい』と吠えていたのは、ユーリが収容所を出てすぐのことだと記憶している。確かあの時は窃盗罪をでっち上げられてまる2日収監された上に散々な目に遭わされたなあと邂逅する。学長は決して非差別主義者ではないが、ピエタ相手に何度も訴訟問題に発展するほどのトラブルを抱えていることから、なんだかんだでユーリのことを気にかけてくれているのだ。
素直にそれはありがたいと思う。けれどいささか過干渉の気が否めない。
「結果がどうあれセラフィマ嬢も俺も無事だったわけだし、今後は一人でスラムに降りるような危険な真似はしないってことで、折り合いつけてもらいたいなぁ」
そろそろ戻らなきゃ今日中に纏めなきゃならない報告書の作成が間に合わなくなると言い訳がましくユーリが言う。
「ならば今後一切セラフィマ嬢をスラムに近づけてはならない。私からもお伝えしておくが、貴様がスラム街に診療所を作るなどと馬鹿げたことを言い出さなければ、このような事件が発生することも、ごろつきどもを収監したことにより反感を買うこともなかったのだ」
やはりそう来たかと、ユーリは口元を綻ばせ、挑発的な笑みを浮かべた。
「じゃあセラフィマ嬢にスラムには近づけないって約束させる代わりに、スラムの診療所に関しては一切口出ししないでもらえます? どうせ学長からはセラフィマ嬢には強く言えないでしょうし、いい交換条件でしょ」
勝ち誇ったような笑顔だ。学長は苛立ったように眉を吊り上げた。
「こ、このっ、奴隷風情が」
「残念ながら“元”奴隷だって存外役に立つってことをお忘れなくー」
おどけたように言い捨てて、ユーリは足早に学長室を後にした。これ以上学長の御小言を聞いていたところで時間の無駄だからだ。キアーラは自分の立場を笠に着てに偉ぶるそぶりはみじんも見せないが、学長にしてみればキアーラの卒業後は自分よりもはるかに立場が上の存在になるため、強くものを言えないのだ。だからこそそれを引き合いに出してしまえば学長が押し黙ることはわかっていた。
もっと早くに交換条件として振り翳しておけばよかったと思いながら、ユーリは自分の気持ちを表現するかのように軽快ににリノリウムの床をローファーの踵で鳴らしていつもの研究室へと向かった。
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