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Zero.

「ユーリ・オルヴェ、貴様は何度忠告すればその態度を改めるつもりだね?」  ジャスパーグリーンの鋭い瞳が向けられる。居丈高でいて圧の強い視線だ。ユーリ・オルヴェと呼ばれた青年は、怯むどころか白けた表情を崩さない。目にかかりそうなほど伸びた前髪を掻き上げて、部屋の窓のほうへと視線を向けた。口答えをしているわけではないが、反省の色などないことを態度が表わしている。 「そんなことでいちいち呼び出すんじゃねえっての」  ゆるくウェーブのかかった髪を指に絡めて不満げに唇を尖らせて、目の前の男に聞こえる音量でユーリが呟く。どう注意をしても改められることのない態度に苛立ちを覚えたのか、ユーリを呼んだ男があからさまに不機嫌そうに溜息をついた。 「そっちこそ、何度言えば納得してくれるんですか?  その忠告は俺じゃなくて、本人にしてくださいって言ってるじゃないですか、学長」  ユーリはここスパツィオ大学の研究医だ。スパツィオ大学とはミクシア王国随一の大学であり、たった一握りの優秀な人材のみ入学が許される。そのなかでも最も権力が強い疫学研究室の栄位クラスに所属している。そしてそのなかでもとりわけ目立つ存在であり、異彩を放っている。なぜならユーリと兄であるサシャは、ノルマ族と呼ばれる種族が人口の97%の割合を占めるここミクシア国において、他とは異なった容姿を持つ種族だからだ。  褐色の肌に、薄い銀色がかった髪を持つ。やわらかそうな毛質のそれは腰に届きそうなほど伸びており、それをバレッタで無造作にまとめている。意志の強そうな眉。はっきりとした二重。ラピスラズリのように深みのある穏やかな海のようなアイスブルーの瞳。長身の割にベビーフェイスなのは、ユーリの種族ーーイル・セーラの特徴でもある。イル・セーラはつい4年ほど前までは、ミクシアの奴隷として扱われていた種族だ。  高級そうなアンティークデスクを前に、まるで威厳を示すかのように腹を突き出してデスクチェアーに深く腰を掛けているのは、スパツィオ大学の学長イヴァン・アゴスティだ。気難しく偏屈そうな表情を眉間に深く刻まれたしわがより強調している。高級そうなスーツに身を包み、白髪交じりのダークブロンドの髪は丁寧に後ろになでつけられている。デスクの上もほぼ散らかっておらずぴしりと整頓されているのを見るに、まじめ一筋の彼はユーリとは合うはずのない性格の持ち主である。  ドン・アゴスティ(ユーリのみが学長と呼ぶ)は国内最高峰のスパツィオ大学をはじめ、ミクシア内でも五本の指に入る大学すべてを経営している資産家でもあり、ミクシアの大学に通う者で知らない者はいない。大学在学中に彼に逆らえば資格はく奪も免れないと、多くの者は学長の一存に従うが、ユーリは違う。学長の説教を煩わしそうな表情でいつも聞き流している。 「本人に言えないからって、俺に当てつけで言っているくせに」 「黙れ、ユーリ・オルヴェ」  学長が声を荒らげる。しかしユーリはふうと息を吐いて煩わしそうに視線を逸らすだけだ。 「この度の一件はスラムに診療所を作るのが研修の一環だなどと、詭弁にもならん。聞けば聴取のためにピエタの派出所に赴いた際にまわされかけたのだろう」  ユーリの眉がピクリと跳ねあがる。このことはその時にボディーガードとしてついてきた友人にしか話していない。権力の犬めと口の中で吐き捨て、ユーリは学長の言葉に耳を傾けた。 「事の次第は二コラから聞いたが、そもそも大学は貴様の研究とやらを全面的に認めたわけではない。貴様一人で行うならそうしろと言ったのだ。それなのに結局は栄位クラスの者を巻き込んでいるではないか」  学長が声を荒らげる。二コラとはユーリの友人だ。ニコラ・カンパネッリ。学長同様にダークブロンドの髪にジャスパーグリーンの瞳を持つ典型的なノルマ族の容姿だが、性質や考え方はほかのノルマとは大きく異なっている。ハイスクールのころから常に主席レベルの成績の良さで、授業の一環で赴いた軍医研修ですぐにスカウトされたほど適切な判断ができる。品行方正が服を着て歩いているような堅真面目な性格ではあるが、なにかと馬が合い仲良くなった。その堅真面目さのおかげでいまユーリは学長からこんこんと説教をされているのだが。 「俺は最初から一人でやるつもりだったんですって」  何度も言わせないでくださいよと、まるで挑発するかのように間延びした口調で言う。視線も学長ではなく窓の外に向いている。ちょうど窓の外をユーリの研究チームの看護師であるミリスが通りかかった。ミリスに向けてひらひらと手を振り、長くなりそうだからサシャに先に寝てろって伝えてもらえないか? とわざとらしく告げる。ミリスはその様子からなにかを察したらしく、ぺこりと頭を下げて研究室がある校舎へと向かっていく。わざとらしい学長の咳払いが耳に入り、ユーリは学長へと向き直りへらりと笑った。 「これ以上は庇いきれん。ピエタの要請次第では懲罰房行きも覚悟してもらうぞ」 「あそこは寒いことを除いたら、静かで居心地がいいんですよね」  ユーリにはまったく悪びれる様子などない。懲罰房には何度も入っているから慣れているとでもいうように、『看守はニコラ限定で』とけらけらと笑いながら言ってのけた。ついには学長が頭を抱えて溜息をついた。ユーリを呼び付けて説教をするも、だいたいいつもこんな具合で怯みもしないのだ。  ミクシア国は先代の王の影響が根強く残り、近隣諸国と比較すると差別主義の国民性が目立つ。 代表的なのは下流層以上しか国が率先する医療を受けることがかなわず、また保険制度も適用されないことだ。  この国はスラム街と下流層地区、中流層地区、そして貴族や王族が住む上流層地区に分断されている。その中でもスラムは北側、南側、西側、東側の四つに区別され、どの地区も街から自由に往来することを許されていない。南側は特に警備が厳重で軍部が管理し、西側は再犯者が収監されていることもあってピエタという民間警備機関と軍部が協力して管理している形になっている。そういう事情で南側と西側では多少の医療が受けられるものの、治安の悪い東側となると街では軽症で済む流行風邪でも死者が格段に増えるほどだ。怪我や病気での死者が圧倒的に多く、おまけに不衛生なスラム街に住む者にとって、常に死と隣り合わせの緊張状態にある。  事の起こりは8か月前。ミクシア郊外のエルン村で大流行した風邪の対処に行った帰りに、そこまで案内してくれた流れの傭兵から偶然スラムの実態を耳にした。ユーリは4年前まで自分が奴隷だったこともあり、国が見て見ぬふりをする実態に腹を立ててほぼ無理やりに診療所を作ることを計画したのだ。  ユーリが研究の一環として(もちろんそれは詭弁だが)医療制度が整っていないスラムに診療所を設けたことで、違法な薬物を売買して生計を立てていたマフィアの下っ端たちに目をつけられた。そのせいで東側のスラムのごろつきたちとトラブルになり、たまたまスラムの治療に付き合ってもらっていたキアーラと共に暴漢に襲われたのだ。  キアーラを逃がすために自分が標的になったまではよかったが、四人がかりで執拗にまわされた挙句に殺されかけた。偶然警邏中だった“まともな”ピエタに救われたものの割と目立つケガを負う羽目になった。首の怪我などあと数ミリずれていたら一巻の終わりだった。事件から数日たってもなお真新しいガーゼに血が滲んでいることからも怪我の程度がどれほどだったかがうかがえる。そのことを咎められこんこんと説教を受けているのだが、学長はユーリのまるで他人事のような態度に翻弄されている。 「いいか、ユーリ・オルヴェ。貴様は軍部預かりの身なのだ。本来なら勝手にアンゼラ地区を出ることすら許されない立場だということを失念するな」  アンゼラ地区というのは中流層が住む街の区画の一部で、大学やピエタの派出所や市場などがそろっている比較的住みやすい地域だ。そこに居住権をもらえたのはある意味で監視のためでもある。なぜならイル・セーラはいまだに差別対象であり、ユーリは特にその端正な容姿のせいで目を付けられることも少なくないからだった。  口調はさておき、学長が自分のことを気に掛けているからこそのセリフだということがわからないユーリではないが、鬱陶しそうに眉を顰めて首元のガーゼに触れた。 「正直見込みが甘かったのは認めますよ」  言いながら、首元を指で数回叩いてみせる。 「普通に考えて、悪いのは俺じゃなくて逆恨みしてきた連中じゃないんすかね。奴隷解放宣言から4年も経ってるってのに、まさか往来で暴行されるなんて、この国の腐敗具合の象徴みたいなもんじゃないすか」  反省の色など全くない、挑発的な物言いだ。学長が大げさに溜め息をつく。眉がひくひくと動き、いら立ちを隠せない様子だ。 「往来での暴行など、4年前までは日常茶飯事だっただろう。それにスラム街は下流層街とは異なり、無法地帯だと言ったはずだぞ。街ではイル・セーラへの暴行並びに性的暴行は重罪であるが、あちらには取り締まる者が常駐していない」  学長の言うとおりだ。ユーリが暴漢に襲われた時間帯は、ピエタの警邏が終わり駐留所に戻っている頃合いだったのだ。それも“悪徳”ではなく“まともな”ピエタが居合わせたことこそ、奇跡に近い。 「まあ成り行き上犯人捕まったし、べつにいまさらごちゃごちゃ言われる筋合いないっていうか」 「それとこれとは別問題だ、馬鹿者が!」  ついに学長の怒号が飛ぶ。ユーリは片眉をひそめてあからさまに嫌な顔をした。  往来で暴行された――などと被害者がましく言っているが、それこそがユーリの策だった。キアーラさえ逃がしてしまえばあとは暴れるなり逃げるなりどうにでもなったのだが、彼らの動向がどうにも“におった”ことを理由に、敢えて暴行される道を選んだ。  奴隷解放宣言が施行されて以降、イル・セーラへの暴行や性的暴行、売春の強要はいかに上流階級であれ罪に問われるようになり、特に性的暴行に関しては最低でも1か月の収監、そして100リタス(日本円にして100万円)以上の罰金が科せられることになった。ユーリはその法律を逆手に取り、わざとスラムで騒ぎを起こし、その暴漢グループを軍部の刑務所に収監させたのだ。ある意味で誤算だったのは、二コラではなくピエタが助けに来たことだった。二コラが相手なら色仕掛けでその気にさせて暴行されたこと自体を隠ぺいしてもらうつもりでいたが、相手が“まともな”ピエタだった為にそのことが露見した。 「貴様の身になにかあれば、大学側が軍部と揉めることになるのだと何度も言っているだろう!」 「そんなでかい声出さなくたって。悪かったっつってるでしょ。俺だってあんな騒ぎにするつもりなんてなかったんだから不可抗力ですよ」  不満げにユーリが言う。けれどいくつも前科があるだけに学長はその言い分を信じてくれそうもない。さすがにそろそろ同じ手は通用しないなと思い、次の言い訳を考える。 「話し戻すけど、栄位クラスの人間はスラムに降りるなっていう命令なら、うちの班長様かニコラかに直接伝えてもらえません? そのほうが迅速に対応できるでしょう。俺はなにも手伝ってほしいなんて一言も言ってないんで、そうやって凄まれる理由なんてないんですよね」  言って、ユーリがわざとらしく両手を広げて肩を竦めてみせた。 「むしろ話が大きくなりすぎて、こっちも迷惑してんですけど」  冷めた視線を学長に向ける。学長は苛立ったように眉を顰めた。 「二人が積極的に貴様を手伝っているとでも言いたいのか?」 「だぁかぁらぁ、俺は最初っからそう言ってるじゃないですか」  今度は学長が深い息を吐いた。ユーリが学長室に呼び出されてから数回繰り返されている問答だからだ。 「貴様のせいでセラフィマ嬢にも危害が加わるところだったのだ。彼女に何事かあってみろ、貴様の命ごときで償えるものではないのだぞ」  なるほど、真に言いたいところはそこかと内心する。何事もなかったからよかったものの、そうでなければユーリが怪我をしたことや、スラムで騒ぎを起こしたことなどよりもよほど重大だ。  セラフィマ嬢――キアーラ・セラフィマ・ディアンジェロは、ユーリが在籍する栄位クラスの先輩にあたる。ユーリと生まれ年は同じなのだが、ロースクールのころからスパツィオ大学への進学コースに在籍していた為に、2人より3歳年上のニコラ・カンパネッリよりも2年も早く現場に出ている。ミクシアの中でも3本の指に入る財閥の令嬢で公爵の娘でもあるのだがそれを鼻にかけることもなく素直で人受けのする女性だ。上級階級はコネクションが物をいう部分があるうえ。ほとんどの女性が職を持たずに家を守るこの時代に、キアーラはまっとうなルートで医師になった。その為か学長からの信頼は厚く、また叔父が隣国であるオレガノの大元帥ということもあって、強く物を言えない部分がある。  キアーラは栄位クラスの班長でもあるし、そのうち財閥を受け継ぐ国にとっても大事な存在だが、若干の――いや、かなりの変わり者なのは否めない。なぜならユーリのことを友人だと言ってのけ、ほぼすべてのやり取りに目を輝かせて新鮮さを堪能しているような純粋な部分を持ち合わせている。  だからこそそんな彼女がスラム街に降りることをユーリは反対した。それこそ怒鳴りあいの大喧嘩に発展するほどにまで反対した。けれど急を要する患者が女性だった。ユーリと同じ栄位クラスに所属する二コラ、リズ・マクシミリアノ、3歳年上のユーリの兄であるサシャには産科にいた経験が一切なかったことが決定打となり、彼女を連れて行かざるを得なかったのだ。  真実を言ってしまえば済みそうなものだが、自分が怪我をしたせいで落ち込んでいるキアーラをこの場に連れてきたくなかったというのがユーリの本音だった。奴隷だったころと比較すれば大したことがない怪我だというのにあそこまでしょげるということは、自分を逃がすために暴行されたなんて知られた日には泣いて謝られること必至だ。 「じゃあ二コラかサシャを召喚すればいい。俺だってセラフィマ嬢には暴行されたことを知られたくない」  学長は心底呆れたというような表情をして、深い溜息をついた。  ニコラはユーリと仲が良いが、ピエタの派出所でまわされかけたことを学長に伝えたのは二コラだ。ユーリを庇うための嘘をつくタイプではない。もしもユーリが言っていることが嘘なら、キアーラか二コラのどちらかが学長室にやってきて、無理やりにでもユーリに頭を下げさせるくらいのことはするだろう。ユーリが大学にやってきて4年経つが、ふたりがユーリの粗相を手放しで見逃すことはないに等しかった。  だがユーリは違う。存外強かな性格をしており、自分が逃れるために誰かを槍玉に挙げるようなことはしないが、誰かをかばうためなら平気で自分が不利になるような嘘をつく。奴隷生活が長かったこともあり、自分が傷つくことをいとわない。 「最初から協力させるつもりがなかったからこそ、セラフィマ嬢がスラムに降りたことがバレちゃまずいと思って文字通り身を挺してセラフィマ嬢を守ったってのに、なにが不満なんだよ」  学長が苦い顔をそのままに眉間を指でつまんでなにかを考えている様子なのは、自分の悪癖をよく知っているからだろうとユーリは考えた。このままだと学長は二コラではなくキアーラを呼び出す方向に話を持っていくだろう。そう察したユーリは、わざとらしく話の方向を変えた。キアーラ自身は名前で呼んでほしいと言っているが、公爵の娘ゆえに研究室や気心が知れた相手以外がいるときには反感を買わないようにと呼び方を改めている。 「それとも俺が我が身可愛さにセラフィマ嬢を差し出して、彼女が代わりに暴行されたならよかったとでも? そうすりゃあのじゃじゃ馬も少しは大人しくなるだろうって?」 「き、貴様っ! 恥を知れ!」  学長の怒号が飛ぶ。ユーリは眉を顰めてうっとうしそうに耳を塞いだ。 「ンなでかい声出さなくても聞こえるっつの」  迷惑そうに言った後、ユーリは耳を塞いだ手を外し、後ろ手に腕を組んだ。  二コラ以外には言っていないが、暴漢は確実にユーリ目当てだった。殺すつもりなら腹か腿を刺せばいいものをそうしなかったうえ、逃げたキアーラを追いかけもせずに四人がかりでユーリをまわした。スラムの住人が中流階級以上の女性に危害を加えた場合は問答無用で死刑だが、イル・セーラ相手なら逃げるが勝ちだ。彼らの目的がユーリへの見せしめだとするのが妥当だろう。まわしたごろつきたちを軒並み軍部の収容所に収監したことにより、マフィアたちが黙っていないはず。そうなれば、これ以上キアーラを東のスラムに連れて行くのは危険だ。今度はキアーラが狙われかねない。 「貴様とセラフィマ嬢は立場もなにもかも違う。本来ならばああして気安く接することができる相手ではないのだ」 「わかってますって。どうせ俺を襲ってきたやつらは、診療所ができたせいでみかじめ料を取れなくなったごろつきどもでしょうし。ピエタが干渉できないように軍部に引き渡してやったことくらいは評価してもらいたいもんですけど」 「貴様が余計なことをしなければ、暴行されることもなかったとは考えられないようだな」  学長が鋭い視線を浴びせてくる。余計な事ねえとつぶやいて、ユーリは肩を竦めてみせた。 「どうせ何処にいたってそういう対象なのはいまも昔も変わんねえんですよ。”お上品”な学長様と違って、ピエタだってごろつきとおなじだ。そもそも助けに来たのがべつのピエタだったら、ごろつきを逃がして俺をまわしてただろうし」  ユーリの言い方は投げやりだった。ピエタは旧軍部出身者で構成されており、とても正当とは言い難い組織だ。けれどスラムや下流層街の治安を守る存在でもあるため、多少の粗相を見逃されている。ユーリは学長くらいの立場になるとそういう報告がいくつもされているだろうと踏んでいた。その読みは当たっていたようで、学長は苦い顔をそのままに、咳払いをして見せた。 「声が大きい。貴様、外でそのようなことを言うと、収監されるぞ」 「ここにいるのは俺と学長だけ。どっからその話が漏れると? そちらが“悪徳”ピエタと繋がってるってんなら別だけど」  にやにやと挑発的に笑いながら、ユーリ。違うだろとでも言いたげに目を眇めて学長を見る。学長がスラムのマフィアと繋がりを持つピエタのことをよく思っていないことを知っているからだ。いつもの沈着や様子はどこに行ったのかと突っ込みたくなるような荒々しい口調で『やつらを全員収監してやりたい』と吠えていたのは、ユーリが収容所を出てすぐのことだと記憶している。確かあの時は窃盗罪をでっち上げられてまる2日収監された上にスカリア隊の隊長から散々な目に遭わされたなあと邂逅する。学長は決して非差別主義者ではないが、ピエタ相手に何度も訴訟問題に発展するほどのトラブルを抱えていることから、なんだかんだでユーリのことを気にかけてくれているのだ。  素直にそれはありがたいと思う。けれどいささか過干渉の気が否めない。 「結果がどうあれセラフィマ嬢も俺も無事だったわけだし、今後は一人でスラムに降りるような危険な真似はしないってことで、折り合いつけてもらいたいなぁ」  そろそろ戻らなきゃ今日中に纏めなきゃならない報告書の作成が間に合わなくなると言い訳がましくユーリが言う。 「ならば今後一切セラフィマ嬢をスラムに近づけてはならない。私からもお伝えしておくが、貴様がスラム街に診療所を作るなどと馬鹿げたことを言い出さなければ、このような事件が発生することも、ごろつきどもを収監したことにより反感を買うこともなかったのだ」  やはりそう来たかと、ユーリは口元を綻ばせ、挑発的な笑みを浮かべた。 「じゃあセラフィマ嬢にスラムには近づけないって約束させる代わりに、スラムの診療所に関しては一切口出ししないでもらえます? どうせ学長からはセラフィマ嬢には強く言えないでしょうし、いい交換条件でしょ」  勝ち誇ったような笑顔だ。学長は苛立ったように眉を吊り上げた。 「こ、このっ、奴隷風情が」 「残念ながら“元”奴隷だって存外役に立つってことをお忘れなくー」  おどけたように言い捨てて、ユーリは足早に学長室を後にした。これ以上学長の御小言を聞いていたところで時間の無駄だからだ。キアーラは自分の立場を笠に着てに偉ぶるそぶりはみじんも見せないが、学長にしてみればキアーラの卒業後は自分よりもはるかに立場が上の存在になるため、強くものを言えないのだ。もっと早くに交換条件として振り翳しておけばよかったと思いながら、ユーリはローファーの踵でリノリウムの床を鳴らしていつもの研究室へと向かった。 ***  ユーリが研究室に戻ると、その姿を見つけたキアーラがすぐさま抱き着いてきた。あまりの勢いに古ぼけたドアと、キアーラとドアに挟まれたユーリが短い悲鳴を上げる。 「ごめんね、ユーリ。わたしのせいで」  いつもは鈴の音のように綺麗なキアーラの声は涙に濡れている。ずっと泣いていたのだろう。頬に涙の痕がある。ユーリはすっかりしょげているキアーラを複雑そうな表情で見下ろした。 「だぁから言ったろ、あんたのせいじゃない」  もう泣くなと大きな目からこぼれる涙を指先でぬぐってやり、やわらかいダークブロンドの髪を撫でた。手入れが良く施されている美しい髪だ。ふわふわとよく指になじむ。キアーラはくすんと鼻をすすった後でユーリの胸に顔を埋めた。 「ごめんなさい、スラムがあんなに危険なところだと知らなかったものだから」  キアーラの身体は少しだけ震えている。ユーリは困ったように眉を下げ、キアーラの頭をぽんぽんと叩く。 「あんだけ人を罵倒して無理やりスラムに着いてきたくせに。俺が怪我した程度で後悔するくらいだったら最初から着いてくるな」  辛らつな物言いだがユーリは別に怒っているわけではない。二人はこういう軽口をたたきあえるほどの仲なのだ。 「だってあと少し傷の位置がずれていたら取り返しがつかなかったのよ」  キアーラがユーリの首元に手を伸ばす。ユーリはやや罰が悪そうな表情をそのままに、もう一度キアーラの頭を撫でた。 「俺のことはどうでもいいんだよ。患者も救われたし子どもも無事だった、それでいいだろ」  キアーラのうるんだ瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始める。ユーリは思わずぎょっとした。眉間にしわが寄ったかと思うと俯いて静かに泣き始めてしまった。 「昔はあんなの日常茶飯事だったんだ、全然気にしなくていいから」  それは彼女が欲しいセリフではなかったようだ。キアーラは堪えていたものがあふれたように泣き始め、ギュッとユーリにしがみついてきた。ユーリはうんざりしたように眉を寄せた後でがりがりと頭をかいて、声を押し殺して泣くキアーラを抱き寄せた。 「わかった、わかったよ。俺が悪かった。もうあんたに心配かけるような無茶はしないし、奴隷だったから平気だなんて言わないから」  だから泣くな。念を押すように言いながらぽんぽんと背中を叩いてやる。 「本当に気にしなくていい。キアーラが協力してくれなかったらあの子どもは助からなかった。いろいろあったけど結果だけ見ればなにも悪いことはない」  言いながらキアーラの頭を撫でる。キアーラは涙をぬぐいながらユーリを見上げた。心配そうな表情だ。まるで自分が怒られたかのように泣いてくれるほど、キアーラはユーリのことを気に掛けている。 「軍部から召喚状が届くようなことはない?」 「あー、たぶん、な。偶然通りかかったピエタの警邏隊が質のいい連中だったらしくて、向こうで処理してくれたみたいだ。学長からもそのことは聞いてない」  キアーラはくすんと鼻をすすりながらうなずいた。なんともないからもう泣くなよとキアーラの髪を撫で、離れるように指示する。 「学長はペナルティーのことをなにか仰っていた?」 「さあなあ。ほとんど聞き流してたから、なにを言われたやら」  神妙そうなキアーラとはまるで場違いなほどおどけた口調でユーリが言う。 「でたでた。そんなんだから学長に目をつけられるのさ。“元”奴隷は大人しく学長の言うことを聞いていれば厄介なことにならないのに」  冷めた口調で辛辣なことを言ってのけるのは、ユーリの一年後輩にあたるリズだ。ニコラやキアーラと同じノルマ族ではあるものの、身長が低く、小柄である。華奢でいてニコラよりもさらに色白であるせいか、インドア派という印象を懐かせる。ショートカットがよく似合う少年のような風貌だが、年齢はユーリと1歳しか変わらない。  スパツィオ大学は元々中流階級以上の人間が入学対象だったが、イル・セーラの奴隷解放が行われた4年前から入学規制が解け、下流階級の入学も認められるようになった。リズは入学規制が緩和されたあとのスパツィオ大学卒業者だ。歯に衣を着せぬ言い方をするのは物怖じしない性格の為だが、その性格ゆえに他チームの研究医たちから反感を買っており、ユーリともどもニコラによく叱られている。ユーリとは軽口を叩きあう仲だ。  最早嫌味としか受け取れないリズのセリフを慣れていると言わんばかりに鼻で笑うと、ユーリは近くの椅子を引き出して背もたれのほうを前にして腰を下ろした。 「しょうがないだろ、“元”奴隷だから権力にはどうしても抗いたくなるんだよ」  一種の習性のようなものだと、ユーリ。リズは声を出して笑って、キアーラを呼んだ。 「ほらね、言ったろ。ユーリが学長にどやされる程度でしょげるわけがないし、どうせ軍部からの召喚状が届いたところで前みたいにガン無視するに決まってるよ」  からからとリズが笑う。ガン無視したことをばらすなとユーリが語気を強めた。キアーラだけだからいいが、二コラに知られたらそれこそ学長以上に長い説教を食らう羽目になるとユーリは大げさに体を震わせた。 「それより、キアーラはしばらくスラムに近づかないほうがいい。万が一あんたの立場を知っている奴に出くわしたら大問題だし、近づかせたことがバレたら今度こそ文字通り俺の首が飛ぶ」  言いながら自分の首をとんとんと叩いて見せる。キアーラは複雑そうな顔をしたが、目を伏せたままうなずいた。ユーリの性格と多少似通っている部分があり、自分が危険な目に遭うことには無頓着だが、ユーリの立場を引き合いに出すと割と素直に応じてくれる。あのときはさすがに緊急事態だったこともあり無理やりついてきたが、自分が無理な行動をすればユーリにしわ寄せが来ることが身に染みたのだろうと思いたい。 「でもさあ、ごろつきたちはなんでユーリとキアーラがトレ地区にいたことがわかったんだろうね」  不意にリズが切り出した。それに関してはユーリ自身も不審に思っていたところだ。 「リズも不思議に思った?」 「そりゃあね。ノーヴェ地区で襲われるならわかるけど、ウーノ地区の近くなんてピエタがごろごろしてる場所で襲ってこないでしょ」  ぼくがごろつきならまずしないねと、リズが言ってのける。  スラムは東西南北共通して1から10までの区域分けがされている。東側のウーノ地区は北側のスラムとの境の門が構えてあることから、東側のなかで一番治安が良く、次にドゥーエ地区、トレ地区、クワトロ地区、チンクエ地区、セーイ地区、セッテ地区、オット地区、ノーヴェ地区、ディエチ地区、そしてディエチ地区の最下層である地下街の順に治安も住人の質も下がっていく。そして東側のスラムに限り、ノーヴェ地区、ディエチ地区、地下街の3つを併せてデリテ街(掃き溜めの意)と呼ばれるほど治安が悪い。ユーリが診療所を設けたのは、デリテ街に含まれるノーヴェ地区の中心部だ。  そして今回ユーリとキアーラが暴漢に襲われたのはトレ地区だがピエタの派出所があるウーノ地区にほど近く、リスクを冒してまでユーリたちを襲うメリットが見当たらない。ユーリもそれを不審に感じていたが、下流層街に住んでいることもありユーリよりもスラムに精通しているリズが言うのだから信憑性が増す。 「最初から狙いはユーリだったんじゃない?  そもそもあの時間は警邏隊が交代の時間だから派出所が手薄になる。それを見越してごろつきたちの息がかかっているピエタが警邏していないタイミングを狙ったんだとしたら、それはそれでエグイっていうかさ。  それも普段通らないトレ地区とウーノ地区の堺で襲い掛かってきたとなると、ピエタが気付かなくてもなんら不自然ではないよね」  言って、リズは真剣な目でユーリを見た。  リズの言うとおりだ。ごろつきたちは東側の奥地にあるノーヴェ地区ではなく、東側のスラムの駐留所に程近いトレ地区とウーノ地区と堺で襲い掛かってきた。どこのスラム街も奥地にいくほど治安も人の質も悪くなるため、ノーヴェ地区で襲われていたなら助けはもっと遅くなっていただろうが、比較的助けが来やすい場所だったということも幸いした。  考えれば考えるほど不自然だ。いつもならトレ地区とウーノ地区の堺は危険地帯だから通らないのだが、その日はドゥーエ地区とウーノ地区をつなぐ橋が壊れたとかで通れなかったためにトレ地区を経由した。ごろつきたちの情報網は広く、ユーリがトレ地区などいつもは通らないことくらい知っていただろう。そちらに誘導されたと考えられなくもないのだ。 「仮に軍部からピエタが責められても、交代の時間で手薄になっていたから知らなかった、わからなかったと詭弁を弄することでお咎めなしを狙っていたのかもしれないし、ごろつきたちも見逃してもらえる体で動いていた可能性もなくはない」 「それに関しては同感だな。本当にドゥーエ地区とウーノ地区をつなぐ橋が壊れていたとしたら、住人がもっと騒いでいたと思う」 「だろうね。配給の量ひとつで暴力沙汰に発展する奴らが多いんだ。交通の便が悪くなったなら騒ぎ立てないわけがない」  うんうんと頷きながらリズが言う。目を眇めてユーリを見る。 「橋が壊れたってのは狂言で、トレ地区とウーノ地区の堺に誘導したかった理由があるのさ。トレ地区とウーノ地区の堺になにがあるか知ってる?」  ユーリはきょとんとした。スラムに初めて降りたのは半年ほど前のことだ。ひとりで行くことも度々あったが、危ない目に遭いたくはないから探索をしたことがない。ユーリの反応にリズは満足げに笑みを深める。尋ねてこいとばかりの表情を隠さない。 「俺元奴隷だからスラムの詳細知らないの。教えて、リズちゃん」  ユーリが首を斜めに傾けて、わざとらしく言ってのける。リズは面倒くさそうに眉を顰めた後で『元奴隷のために教えてやろう』と、デスクに置いていた紙に簡単な地図を描き始めた。 「あくまでも噂だけど、中流層街にある港と、トレ地区とウーノ地区の堺にある地下水道がつながってるらしいんだよね」  このあたりねと、リズがざっくりした図で示す。 「地下水道はボート程度の大きさの船しか通らないけど、人ひとり運ぶなら問題ない。つまりだ」 「つまり、あそこで俺が捕まっていたら、そのボートに乗せられて連れ去られていた可能性がある……ってことか?」  さすがにそれは突飛すぎるだろうとユーリが言う。けれどリズは持っていたペンを振り、あながち間違っていないと念を押すように言ってきた。 「油断は禁物だよ、ユーリ。下流層街を取り締まっているピエタが言っていたのを小耳にはさんだけど、フィッチがイル・セーラを欲しがっているらしくて、特に“教育された”イル・セーラは相当な高値で売買されるんだってさ」 「相当な高値」 「リズ、そんなふうにユーリを怖がらせるようなことを言うのはよくないわ」  ユーリの声色が変わったのを聞いて、すぐさまキアーラがリズを諌める。けれどリズは冷めた視線をユーリに向けた。 「いやいや、この顔のどこが怖がってるように見えるのさ」  リズが呆れたように言う。ユーリは怖がるどころか目を輝かせている。まるでどのくらいの値が付くのかと胸躍らせているような表情だ。 「国ひとつ買える値段なら売られてやってもいいな」  ユーリのセリフをリズが馬鹿じゃないのと大袈裟に非難するような声で遮った。 「言っておくけど、フィッチとミクシアは国交断絶状態の上に休戦中だから、フィッチに降り立ったが最後、ミクシアには戻れないからな」 「マジか」 「マジだよ。ユーリ、きみのその馬鹿なのか馬鹿じゃないのかわからない発想は嫌いじゃない。だけど本当にそろそろ“無謀なふり”は改めるべきだ。スラムのマフィアたちの味方をしているのがピエタのどの隊かを探っているつもりなのかもしれないけど、それを突き止めたところで軍部の上層部とつながりでもない限り、どうすることもできないよ」  説教がましくリズが言う。ユーリは流石に気まずそうな顔をして、ひらひらと片手を振ってみせた。 「ご親切にどうも」 「冗談で言ってるんじゃないからね。スラムで売買されている違法薬物は、フィッチで作られたものだっていう噂だよ」 「あんな粗悪品が? じゃあフィッチの奴らぼろ儲けじゃねえ?」 「だから気をつけろって言ってるんだ。粗悪品を売りつけていたってことをスラムの住人が知ったら、ごろつきたちと軋轢が生じる。その矛先がフィッチに向かえばいいけど、自分があくどいことをしたっていう意識のない奴らは挙って『ユーリが悪い』って都合のいい責任転嫁をするよ。フィッチからもスラムからもマフィアからも目をつけられたらどうするのさ?」 「それをそっくりそのまま捕まえたら、軍部からいくら報奨金もらえると思う?」  ユーリが再度目を輝かせた。リズが思いきり嫌そうな顔をして大きな舌打ちをする。ユーリはわざとリズを怒らせるようなことを言っているのだが、リズはそれに気づいていない。 「危ないことをするなって言ったよね!? 言った先からそんなぶっ飛んだこと思いつくなんて馬鹿なの!?」  くっくっと意地悪くユーリが笑う。それを見て自分がからかわれたのだと気づいたのか、リズは眉間にしわを寄せて席を立った。 「二コラに告げ口してやる」  怒るなよと笑いながら言った後で、ユーリははたと二コラがいないことに気が付いた。 「そういえば、ニコラは?」  昼下がり、いつもなら自分のデスクで日誌をつけている時間だ。それなのに姿が見えない。そういえば今日は朝から顔を見ていない気がする。 「気付くの遅くない? ニコラならピエタに呼び出されてるよ。よかったね、軍部にもピエタにも顔が利く相棒がいて」  リズの嫌味が今日ほど的を射ていると思ったことがない。本当になと返すと、リズは意想外な顔をした後で唇を突き出した。 「スラムの診療所はどうするの? ぼくとキアーラは近づかないほうがいいだろうから、スラムに降りない代わりにスラムの現状を軍部に報告しようか?」  そのくらいならできるよと、リズ。リズは下流層街に住んでいることもあり、スラムの現状をよく知っている。だからこそスラムに診療所を作ることを最後まで反対していた。けれど、たまたま二コラとリズが同行してスラムの診療をしていた日、母親の風邪が治らないと助けを求めてやってきた少年がいた。彼女はただのシロップを風邪薬だと偽って買わされていたようだ。それに気づいたのはリズだ。風邪が悪化して肺炎になりかけていたこともあり、彼女を北側のスラムの診療所に連れて行き、事なきを得た。スラムでの診療は無報酬だし、続ける義務もない。でも助けを求めている人が大勢いることをリズは知っているのだ。 「そうだなあ。なにか対策を講じないと、やみくもに危険な場所に身を置くだけになる。  護衛を頼みたくてもどうせいまのピエタに期待は出来ねえし、かといって軍部のお偉いさんに依頼するわけにもいかない。一人でスラムに出向かないってことくらいしか妥当なコマがない。でもそうすると手遅れになるケースも出てくるだろうしなあ」  困ったと言いたげにユーリが眉を顰める。 「診療所を閉鎖するという選択肢は端から持たないんだな」  聞き覚えのある声がした。ニコラだ。バスバリトンの特徴的で落ち着きのある声色がいつもと違う。ユーリはすぐにニコラの機嫌がよくないことを察した。 「俺のお目付け役にでも任命されて不機嫌なのかよ? 別に俺はおまえに守ってもらおうだなんて」  微塵も思っちゃいない。その言葉は最後まで口から出ていかなかった。ニコラの隣にいたのは、ピエタの制服に身を包んだ青年だったからだ。左腕には雄々しい獅子が模られた紋章が付いた腕章をしている。ピエタの警邏隊であることを悟って、ユーリは背筋がぞっとするのを感じた。 「さすがのおまえもピエタを前にしたら減らず口を叩けなくなるんだな、初めて知ったぞ」  絶句したユーリを見て気を良くしたのか、ニコラが珍しく声を上げて笑った。ニコラは長身のユーリよりもさらに長身で、体格もいい。かぶっていたパトロールキャップを脱ぎ、アシンメトリーのかなり特徴的なウルフヘアーに指を突っ込んで髪型を整える。基本的には白衣さえ羽織っていれば私服でいいはずなのだが支給された制服を着こんでいるあたりが二コラの律儀でまじめな性格を反映している。 「ニコラ、誰それ? 何しに来たの?」  ユーリが今いちばん問いたかったことを代弁するようにリズが問う。するとニコラの隣にいた青年が穏やかに笑ってパトロールキャップを脱いだ。 「俺はナザリオ・アリオスティ。ピエタ警邏隊の隊長を任されています。以後お見知りおきを」  言って、ナザリオを名乗った青年が頭を下げる。ユーリよりも数センチ背が低く、警邏隊の隊長にふさわしくないほど細身の男だ。けれど体にフィットした制服からはしっかりと鍛えられているのが伺える。人受けのする顔をしており、目が細いわけではないが笑うと目がかぎ状になる。ピエタの警護班といえばみんな旧軍隊上がりのいかつい男ばかりだという印象しかなかったが、ナザリオのように一見頼りなさそうで、且つ肩まで伸びた髪を後ろで束ねた髪型をしているのは初めて見た。  ユーリはぽかんとしたままナザリオから目が離せなかった。記憶違いでなければ、数日前にユーリを助けた警邏隊にいなかっただろうか。ユーリをまわしたのは4人だが、彼らをガードするかのように10数名近い暴漢に囲まれていた。それでもユーリが比較的軽症で済んだのは、ナザリオや部下たちがあまりにも強かったからだ。鮮やかな手つきで次々と捕縛し、誰一人取り逃さなかった。そのおかげでごろつきたちが隠ぺい工作ができなかったと言っても過言ではない。 「警邏隊なんかがここになんの用? まさかユーリの取り調べとか言うつもりじゃないだろうね?」  いつになくケンカ腰にリズが言う。リズは基本的には面倒なことに首を突っ込まないタイプだが、相手がピエタなら正当性を主張しておかなければとんでもない目に遭うことをよく知っている。それ故の行動だったが、二コラからまあ待てとけん制された。 「後輩たちが失礼な態度をとって申し訳ない。いまの小柄なのがリズ、そこの女性はキアーラだ。もうひとり、サシャというユーリの兄がいる。彼は今日は夜勤明けだから、派出所近くのアパートか旧病棟の仮眠室で眠りこけていると思う。ユーリのことは知っているな」  二コラに促されるとナザリオがええと返事をする。ナザリオとユーリの視線がぶつかった。ユーリは反射的に視線をそらして顔をそむけた。 「ちょっと待ってよ。もしかしてピエタと組むっていうの? 本気?」  リズが怪訝そうな顔で言った。ユーリもまた反論したい気分だったが、腹の奥が重く胃がキリキリと締め付けられるような不快感を覚えて黙っていた。 「これは学長とピエタ、そして軍部からの命令だ。ユーリが東側の診療所を続けるというのなら、彼を警護につけることを条件とするそうだ。学長はあれでユーリのことを気に掛けておられるようだからな」  いい意味でも悪い意味でもと、ニコラ。ユーリはふんと鼻で笑って鋭く睨みつけた。 「冗談だろ、俺にピエタと一緒に街を歩けとでも言いたいのか?」  やっとの思いで絞り出した声は震えていた。ニコラはユーリがピエタを嫌っていることだけは知っている。その理由を伝えたことはないが、ピエタの中でも最も苦手とする警邏隊だ。彼は比較的質のいい相手だと分かっていても、経験上制服を見るだけでも身震いがする。  ピエタの警邏隊はそのほとんどが旧軍部上がりで構成されており、居丈高でプライドの高い隊員ばかりで、旧体制の悪質さが罷り通っている。奴隷解放宣言が出されて間もないころに数回、数か月前も身に覚えのない罪で収監され、取り調べを理由にまわされたのを思い出す。あの制服を見ているとその時のことがフラッシュバックしそうになり、ユーリはすっと視線をそらした。  嫌な汗がじっとりと滲んでくる。カラカラになったのどを潤そうとつばをのもうとしたがままならない。あからさまに表情に出さないようにするだけで精いっぱいだった。 「仕方ないだろう、毎回俺が着いていってやるわけにはいかないからな。  リズとキアーラには当面こちらの仕事を頼む。俺がいない時はセストが代わりに診療所に顔を出せないかと頼んでいる。セストは知っているだろう」  セストというのは2年前までニコラと同チームに所属していた軍医だ。顔立ちはもちろんのこと、考え方も典型的なノルマ族で、ニコラのようにイル・セーラへの理解がない。学長よりもさらにストレートにユーリたちイル・セーラを奴隷だと言い放つ。そんな男が本当に診療所を守ってくれるのだろうかと疑問に思う。 「セストからはまだ返事がないから、どうなるかはわからない。セスト以外の適任がいるのなら、そちらに頼め」 「俺に誰か知り合いがいるとでも? ミクシア出身っつっても郊外の遥か西に住んでいたわけだし、収容所を抜けてからこっち、ずっと大学にいるんだぞ」 「だから言っただろう、セスト以外の適任がいるのなら、とな」  ユーリはあからさまな舌打ちをして、怒りを振り払うように大きく息を吐いた。 「診療所を閉鎖するつもりはない。だけどピエタや軍部に協力を仰ぐ気はもっとない」 「殴られたせいで理解力のなさが更に破壊的になったのか? 拒否権を与えるとは一言も言っていない」  ニコラをじろりと強く睨む。視線をぶつけたがニコラがひるむ様子はない。冷めた視線がユーリに向けられる。 「これは自衛だと思え。権威に屈したわけでもなんでもない。事が起これば患者が危険に晒される可能性も拭えない。スラムで活動をするということは、そういう危険も常に付きまとうということだ。まさかそれも考えずに無鉄砲に診療所を開設すると言ったわけじゃないだろう」  そんなつもりはない。危険も重々承知していた。けれどスラムはユーリの想像以上に腐っている。人の善意を善意とも思わない人間が多い。学長やほかの研究医たちがスラムの現状を見て見ぬ振りをしていたのは単に彼らが薄情だからだと思っていた節もあったが、ふたを開けてみればそれもまた彼らにとっての自衛なのだと思い知らされた。  患者を危険に晒すつもりはないが、かといってピエタや軍部を安易に信じられない。彼らは言葉巧みに寄ってきて、半ば無理矢理にユーリを食い物にしてきた。一人だけじゃない。何人もだ。いまさらそんな連中を信じるわけにはいかないのだ。 「少し時間をくれ。そいつらに頼らなくてもいいような人間を捜す」  リズがええっと素っ頓狂な声を上げた。 「学長からの条件を退けるつもり? ますます立場が悪くなるだけじゃないか、そんなに意固地にならなくたって」 「そっちにそっちの事情があるように、こっちにもこっちの事情ってもんがあるんだよ。腹の内もわからないやつを連れて歩く趣味はない」  そう言い切って、ユーリは白衣を掴んで部屋を後にしようとした。すぐさまニコラに腕を掴まれる。邪魔をするなと言わんばかりにニコラを強く睨んだ。 「まあ事情をきちんと話していない俺も俺だけど、長いこと付き合ってて俺がなにを一番嫌ってるかを知ってるおまえがピエタに俺のおもりを頼むとは思わなかった」  離せとニコラの腕を振り払い、部屋を後にする。キアーラの声が聞こえた気がするが、無視だ。学長の条件をのまないと自分の立場が悪くなる。それは分かっている。それが嫌なら大学を辞めればいいのだが、ユーリはまだ目的を果たしていない。学長の言うことを聞いてピエタを護衛につければ済む話なのだろうが、それはそれで気が置けない。元々警戒心が強いユーリにとって、知らない人間が隣にいることほど不快なことはないのだ。

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