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Zero(2)

 ユーリが研究室に戻ると、その姿を見つけたキアーラがすぐさま抱き着いてきた。あまりの勢いに古ぼけたドアと、キアーラとドアに挟まれたユーリが短い悲鳴を上げる。 「ごめんね、ユーリ。わたしのせいで」  いつもは鈴の音のように綺麗なキアーラの声は涙に濡れている。宝石のように美しく、自身の純粋な性格を表しているかのような澄んだ瞳が潤んでいて、この状態で学長室に召喚されなくてよかったと心底思う。穏やかな表情か、ユーリに対して少し厳しめに注意をするような眉を顰めた顔しか見たことがないというのに、こんなに泣かれてしまってはバツが悪い。はっきりとした二重に乗っている控えめなアイシャドウはすっかりとれているし、メイクをしていてもしていなくても、高級な人形のように長い睫毛には涙が乗っている状態だ。元々ナチュラルメイクしかしていないというのに、頬には涙の痕がはっきりと残っている。ユーリはすっかりしょげているキアーラを複雑そうな表情で見下ろした。 「だぁから言ったろ、あんたのせいじゃない」  もう泣くなと大きな目からこぼれる涙を指先でぬぐってやり、やわらかいダークブロンドの髪を撫でた。手入れが良く施されている美しい髪だ。ふわふわとよく指になじむ。キアーラはくすんと鼻をすすった後でユーリの胸に顔を埋めた。 「ごめんなさい、スラムがあんなに危険なところだと知らなかったものだから」  キアーラの身体は少しだけ震えている。ユーリは困ったように眉を下げ、キアーラの頭をぽんぽんと叩く。罪悪感がないと言えば嘘になる。なにも知らないキアーラがスラムに関わるきっかけを作ったのが自分だからだ。ユーリは少しの間キアーラの髪を撫でながら言葉を探していたが、妙な遠慮をしたところでキアーラには伝わらないと思い口を開く。 「あんだけ人を罵倒して無理やりスラムに着いてきたくせに。俺が怪我した程度で後悔するくらいだったら最初から着いてくるな」  辛らつな物言いだがユーリは別に怒っているわけではない。二人はこういう軽口をたたきあえるほどの仲なのだ。 「だってあと少し傷の位置がずれていたら取り返しがつかなかったのよ」  キアーラがユーリの首元に手を伸ばしてくる。ユーリはやや罰が悪そうな表情をそのままに、血のにじむガーゼに触れようとするキアーラの手を払いのけた。 「俺のことはどうでもいいんだよ。患者も救われたし子どもも無事だった、それでいいだろ」  ユーリの言葉が強すぎたのか、それとも手を払いのけられたからなのか、キアーラのうるんだ瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始める。ユーリは思わずぎょっとした。普段のキアーラにはない反応だからだ。眉間にしわが寄ったかと思うと俯いて静かに泣き始めてしまった。 「昔はあんなの日常茶飯事だったんだ、全然気にしなくていいから」  それは彼女が欲しいセリフではなかったようだ。キアーラは堪えていたものがあふれたように泣きながらギュッとユーリにしがみついてくる。  キアーラの言いたいことはわかっている。奴隷解放宣言が律されて早4年も経っているというのに、未だにイル・セーラの立場は弱く、挙句に法律とは裏腹に多くのノルマ族が態度を改めようとはしない。キアーラはそれをまるで自分のことのように受け止めている。ユーリはうんざりしたように眉を寄せた後でがりがりと頭をかいて、声を押し殺して泣くキアーラを抱き寄せた。 「わかった、わかったよ。俺が悪かった。もうあんたに心配かけるような無茶はしないし、奴隷だったから平気だなんて言わないから」  だから泣くな。念を押すように言いながらぽんぽんと背中を叩いてやる。 「本当に気にしなくていい。キアーラが協力してくれなかったらあの子どもは助からなかった。いろいろあったけど結果だけ見ればなにも悪いことはない」  言いながらキアーラの頭を撫でる。キアーラは涙をぬぐいながらユーリを見上げた。心配そうな表情だ。まるで自分が怒られたかのように泣いてくれるほど、キアーラはユーリのことを気に掛けている。 「軍部から召喚状が届くようなことはない?」 「あー、たぶん、な。偶然通りかかったピエタの警邏隊が質のいい連中だったらしくて、向こうで処理してくれたみたいだ。学長からもそのことは聞いてない」  キアーラはくすんと鼻をすすりながらうなずいた。なんともないからもう泣くなよとキアーラの髪を撫で、離れるように指示する。キアーラは上品そうな細い指で涙を拭い、ユーリと少し距離を置いた。先ほどとは違って不安げな表情が目に入る。ユーリは気まずそうな表情でもう大丈夫だからと念を押すかのように告げた。 「学長はペナルティーのことをなにか仰っていた?」  ややあって、キアーラが尋ねてきた。キアーラが最も気にしていたのはそこなのだろう。軍部はともかくとして、学長は側から見るとユーリに対する態度が厳しすぎるように映るのだ。 「さあなあ。ほとんど聞き流してたから、なにを言われたやら」  神妙そうなキアーラとはまるで場違いなほどおどけた口調でユーリが言う。 「でたでた。そんなんだから学長に目をつけられるのさ。“元”奴隷は大人しく学長の言うことを聞いていれば厄介なことにならないのに」  冷めた口調で辛辣なことを言ってのけるのは、ユーリの一年後輩にあたるリズだ。ニコラやキアーラと同じノルマ族ではあるものの、身長が低く、小柄である。華奢でいてニコラよりもさらに色白であるせいか、インドア派という印象を懐かせる。ショートカットがよく似合っていて、やや目つきが悪いせいかかわいらしいというよりは小生意気な少年のような風貌だが、年齢はユーリと1歳しか変わらない。いつも冷めたような表情をして、小ばかにしたような態度を取ってくるが、ユーリと仲が悪いわけでも、そしてイル・セーラであることを差別しているわけでもない。  スパツィオ大学は元々中流階級以上の人間が入学対象だったが、イル・セーラの奴隷解放が行われた4年前から入学規制が解け、下流階級の入学も認められるようになった。リズは入学規制が緩和されたあとのスパツィオ大学卒業者だ。歯に衣を着せぬ言い方をするのは物怖じしない性格の為だが、その性格ゆえに他チームの研究医たちから反感を買っており、ユーリともどもニコラによく叱られている。ユーリとは軽口を叩きあう仲だ。  最早嫌味としか受け取れないリズのセリフを慣れていると言わんばかりに鼻で笑うと、ユーリは近くの椅子を引き出し背もたれのほうを前にして腰を下ろした。 「しょうがないだろ、“元”奴隷だから権力にはどうしても抗いたくなるんだよ」  一種の習性のようなものだと、ユーリ。リズは声を出して笑って、キアーラを呼んだ。 「ほらね、言ったろ。ユーリが学長にどやされる程度でしょげるわけがないし、どうせ軍部からの召喚状が届いたところで前みたいにガン無視するに決まってるよ」  からからとリズが笑う。ガン無視したことをばらすなとユーリが語気を強めた。キアーラだけだからいいが、二コラに知られたらそれこそ学長以上に長い説教を食らう羽目になるとユーリは大げさに体を震わせた。 「それより、キアーラはしばらくスラムに近づかないほうがいい。万が一あんたの立場を知っている奴に出くわしたら大問題だし、近づかせたことがバレたら今度こそ文字通り俺の首が飛ぶ」  言いながら自分の首をとんとんと叩いて見せる。キアーラは複雑そうな顔をしたが、目を伏せたままうなずいた。ユーリの性格と多少似通っている部分があり、自分が危険な目に遭うことには無頓着だが、ユーリの立場を引き合いに出すと割と素直に応じてくれる。あのときはさすがに緊急事態だったこともあり無理やりついてきたが、自分が無理な行動をすればユーリにしわ寄せが来ることが身に染みたのだろうと思いたい。 「でもさあ、ごろつきたちはなんでユーリとキアーラがトレ地区にいたことがわかったんだろうね」  不意にリズが切り出した。それに関してはユーリ自身も不審に思っていたところだ。 「リズも不思議に思った?」 「そりゃあね。ノーヴェ地区で襲われるならわかるけど、ウーノ地区の近くなんてピエタがごろごろしてる場所で襲ってこないでしょ」  ぼくがごろつきならまずしないねと、リズが言ってのける。  スラムは東西南北共通して1から10までの区域分けがされている。東側のウーノ地区は北側のスラムとの境の門が構えてあることから、東側のなかで一番治安が良く、次にドゥーエ地区、トレ地区、クワトロ地区、チンクエ地区、セーイ地区、セッテ地区、オット地区、ノーヴェ地区、ディエチ地区、そしてディエチ地区の最下層である地下街の順に治安も住人の質も下がっていく。そして東側のスラムに限り、オット地区、ノーヴェ地区、ディエチ地区、地下街の4つを併せてデリテ街(掃き溜めの意)と呼ばれるほど治安が悪い。ユーリが診療所を設けたのは、デリテ街に含まれるノーヴェ地区の中心部だ。  そして今回ユーリとキアーラが暴漢に襲われたのはトレ地区だがピエタの派出所があるウーノ地区にほど近く、リスクを冒してまでユーリたちを襲うメリットが見当たらない。ユーリもそれを不審に感じていたが、下流層街に住んでいることもありユーリよりもスラムに精通しているリズが言うのだから信憑性が増す。 「最初から狙いはユーリだったんじゃない?  そもそもあの時間は警邏隊が交代の時間だから派出所が手薄になる。それを見越してごろつきたちの息がかかっているピエタが警邏していないタイミングを狙ったんだとしたら、それはそれでエグイっていうかさ。  それも普段通らないトレ地区とウーノ地区の堺で襲い掛かってきたとなると、ピエタが気付かなくてもなんら不自然ではないよね」  言って、リズは真剣な目でユーリを見た。  リズの言うとおりだ。ごろつきたちは東側の奥地にあるノーヴェ地区ではなく、東側のスラムの駐留所に程近いトレ地区とウーノ地区と堺で襲い掛かってきた。どこのスラム街も奥地にいくほど治安も人の質も悪くなるため、ノーヴェ地区で襲われていたなら助けはもっと遅くなっていただろうが、比較的助けが来やすい場所だったということも幸いした。  考えれば考えるほど不自然だ。いつもならトレ地区とウーノ地区の堺は危険地帯だから通らないのだが、その日はドゥーエ地区とウーノ地区をつなぐ橋が壊れたとかで通れなかったためにトレ地区を経由した。ごろつきたちの情報網は広く、ユーリがトレ地区などいつもは通らないことくらい知っていただろう。そちらに誘導されたと考えられなくもないのだ。 「仮に軍部からピエタが責められても、交代の時間で手薄になっていたから知らなかった、わからなかったと詭弁を弄することでお咎めなしを狙っていたのかもしれないし、ごろつきたちも見逃してもらえる体で動いていた可能性もなくはない」 「それに関しては同感だな。本当にドゥーエ地区とウーノ地区をつなぐ橋が壊れていたとしたら、住人がもっと騒いでいたと思う」 「だろうね。配給の量ひとつで暴力沙汰に発展する奴らが多いんだ。交通の便が悪くなったなら騒ぎ立てないわけがない」  うんうんと頷きながらリズが言う。ほんの少しの間をおいて、リズが目を眇めてユーリを見る。 「橋が壊れたってのは狂言で、トレ地区とウーノ地区の堺に誘導したかった理由があるのさ。トレ地区とウーノ地区の堺になにがあるか知ってる?」  ユーリはきょとんとした。スラムに初めて降りたのは半年ほど前のことだ。ひとりで行くことも度々あったが、危ない目に遭いたくはないから探索をしたことがない。ユーリの反応にリズが満足げに笑みを深める。尋ねてこいとばかりの表情を隠さない。 「俺元奴隷だからスラムの詳細知らないの。教えて、リズちゃん」  ユーリが首を斜めに傾けて、わざとらしく言ってのける。リズはわざとらしく面倒くさそうに眉を顰めた後で『元奴隷のために教えてやろう』と、デスクに置いていた紙に簡単な地図を描き始めた。 「あくまでも噂だけど、中流層街にある港と、トレ地区とウーノ地区の堺にある地下水道がつながってるらしいんだよね」  このあたりねと、リズがざっくりした図で示す。 「地下水道はボート程度の大きさの船しか通らないけど、人ひとり運ぶなら問題ない。つまりだ」 「つまり、あそこで俺が捕まっていたら、そのボートに乗せられて連れ去られていた可能性がある……ってことか?」  さすがにそれは突飛すぎるだろうとユーリが言う。けれどリズは持っていたペンを振り、あながち間違っていないと念を押すように言ってきた。 「油断は禁物だよ、ユーリ。下流層街を取り締まっているピエタが言っていたのを小耳にはさんだけど、フィッチがイル・セーラを欲しがっているらしくて、特に“教育された”イル・セーラは相当な高値で売買されるんだってさ」 「相当な高値」 「リズ、そんなふうにユーリを怖がらせるようなことを言うのはよくないわ」  ユーリの声色が変わったのを聞いて、すぐさまキアーラがリズを諌める。けれどリズは冷めた視線をユーリに向けた。 「いやいや、この顔のどこが怖がってるように見えるのさ」  リズが呆れたように言う。ユーリは怖がるどころか目を輝かせている。まるでどのくらいの値が付くのかと胸躍らせているような表情だ。 「国ひとつ買える値段なら売られてやってもいいな」  ユーリのセリフをリズが馬鹿じゃないのと大袈裟に非難するような声で遮った。 「言っておくけど、フィッチとミクシアは国交断絶状態の上に休戦中だから、フィッチに降り立ったが最後、ミクシアには戻れないからな」 「マジか」 「マジだよ。なかには密売を目的に秘密裏に行き来している連中がいるっていう噂もあるけれど、それはあくまでもノルマ族間での話。  ユーリ、きみのその馬鹿なのか馬鹿じゃないのかわからない発想は嫌いじゃない。だけど本当にそろそろ“無謀なふり”は改めるべきだ。スラムのマフィアたちの味方をしているのがピエタのどの隊かを探っているつもりなのかもしれないけど、それを突き止めたところで軍部の上層部とつながりでもない限り、どうすることもできないよ」  説教がましくリズが言う。ユーリは流石に気まずそうな顔をして、ひらひらと片手を振ってみせた。リズは鋭い。口は悪いしつっけんどんな態度をとることもあるが、頭の回転の速さと想像力に関しては、ユーリが舌を巻くほどだ。 「ご親切にどうも」 「冗談で言ってるんじゃないからね。スラムで売買されている違法薬物は、フィッチで作られたものだっていう噂だよ」 「あんな粗悪品が? じゃあフィッチの奴らぼろ儲けじゃねえ?」 「だから気をつけろって言ってるんだ。粗悪品を売りつけていたってことをスラムの住人が知ったら、ごろつきたちと軋轢が生じる。その矛先がフィッチに向かえばいいけど、自分があくどいことをしたっていう意識のない奴らは挙って『ユーリが悪い』って都合のいい責任転嫁をするよ。フィッチからもスラムからもマフィアからも目をつけられたらどうするのさ?」 「それをそっくりそのまま捕まえたら、軍部からいくら報奨金もらえると思う?」  ユーリが再度目を輝かせた。リズが思いきり嫌そうな顔をして大きな舌打ちをする。ユーリはわざとリズを怒らせるようなことを言っているのだが、リズはそれに気づいていない。 「危ないことをするなって言ったよね!? 言った先からそんなぶっ飛んだこと思いつくなんて馬鹿なの!?」  くっくっと意地悪くユーリが笑う。それを見て自分がからかわれたのだと気づいたのか、リズは眉間にしわを寄せて席を立った。 「二コラに告げ口してやる」  怒るなよと笑いながら言った後で、ユーリははたと二コラがいないことに気が付いた。 「そういえば、ニコラは?」  昼下がり、いつもなら自分のデスクで日誌をつけている時間だ。それなのに姿が見えない。そういえば今日は朝から顔を見ていない気がする。研究室の中を見渡すが、ソファーでうたた寝をしている様子もない。 「気付くの遅くない? ニコラならピエタに呼び出されてるよ。よかったね、軍部にもピエタにも顔が利く相棒がいて」  リズの嫌味が今日ほど的を射ていると思ったことがない。本当になと返すと、リズは意想外な顔をした後で唇を突き出した。 「スラムの診療所はどうするの? ぼくとキアーラは近づかないほうがいいだろうから、スラムに降りない代わりにスラムの現状を軍部に報告しようか?」  そのくらいならできるよと、リズ。リズは下流層街に住んでいることもあり、スラムの現状をよく知っている。だからこそスラムに診療所を作ることを最後まで反対していた。けれど、たまたま二コラとリズが同行してスラムの診療をしていた日、母親の風邪が治らないと助けを求めてやってきた少年がいた。彼女はただのシロップを風邪薬だと偽って買わされていたようだ。それに気づいたのはリズだ。風邪が悪化して肺炎になりかけていたこともあり、彼女を北側のスラムの診療所に連れて行き、事なきを得た。スラムでの診療は無報酬だし、続ける義務もない。でも助けを求めている人が大勢いることをリズは知っているのだ。 「そうだなあ。なにか対策を講じないと、やみくもに危険な場所に身を置くだけになる。  護衛を頼みたくてもどうせいまのピエタに期待は出来ねえし、かといって軍部のお偉いさんに依頼するわけにもいかない。一人でスラムに出向かないってことくらいしか妥当なコマがない。でもそうすると手遅れになるケースも出てくるだろうしなあ」  困ったと言いたげにユーリが眉を顰める。 「診療所を閉鎖するという選択肢は端から持たないんだな」  聞き覚えのある声がした。ニコラだ。バスバリトンの特徴的で落ち着きのある声色がいつもと違う。ユーリはすぐにニコラの機嫌がよくないことを察した。   「俺のお目付け役にでも任命されて不機嫌なのかよ? 別に俺はおまえに守ってもらおうだなんて」  微塵も思っちゃいない。その言葉は最後まで口から出ていかなかった。ニコラの後ろにいたのは、ピエタの制服に身を包んだ青年だったからだ。左腕には雄々しい獅子が模られた紋章が付いた腕章をしている。ピエタの警邏隊であることを悟って、ユーリは背筋がぞっとするのを感じた。 「さすがのおまえもピエタを前にしたら減らず口を叩けなくなるんだな、初めて知ったぞ」  絶句したユーリを見て気を良くしたのか、ニコラが珍しく声を上げて笑った。ニコラはユーリよりもさらに長身で、体格もいい。かぶっていたパトロールキャップを脱ぎ、アシンメトリーのかなり特徴的なウルフヘアーに指を突っ込んで髪型を整える。基本的には白衣さえ羽織っていれば私服でいいはずなのだが支給された制服を着こんでいるあたりが二コラの律儀でまじめな性格を反映している。 「ニコラ、誰それ? 何しに来たの?」  ユーリが今いちばん問いたかったことを代弁するようにリズが問う。するとニコラの後ろにいた青年が穏やかに笑ってパトロールキャップを脱いだ。 「俺はナザリオ・アリオスティ。ピエタ警邏隊の隊長を任されています。以後お見知りおきを」  言って、ナザリオを名乗った青年が頭を下げる。ユーリよりも数センチ背が低く、警邏隊にふさわしくないほど細身の男だ。けれど体にフィットした制服からはしっかりと鍛えられているのが伺える。人受けのする顔をしており、目が細いわけではないが笑うと目がかぎ状になる。ピエタといえばみんな旧軍隊上がりのいかつい男ばかりだという印象しかなかったが、ナザリオのように一見頼りなさそうで、且つ肩まで伸びた髪を後ろで束ねた髪型をしているのは初めて見た。  ユーリはぽかんとしたままナザリオから目が離せなかった。記憶違いでなければ、数日前にユーリを助けた警邏隊にいなかっただろうか。ユーリをまわしたのは4人だが、彼らをガードするかのように10数名近い暴漢に囲まれていた。それでもユーリが比較的軽症で済んだのは、ナザリオたちがあまりにも強かったからだ。鮮やかな手つきで次々と捕縛し、誰一人取り逃さなかった。そのおかげでごろつきたちが隠ぺい工作ができなかったと言っても過言ではない。 「警邏隊なんかがここになんの用? まさかユーリの取り調べとか言うつもりじゃないだろうね?」  いつになくケンカ腰にリズが言う。リズは基本的には面倒なことに首を突っ込まないタイプだが、相手がピエタなら正当性を主張しておかなければとんでもない目に遭うことをよく知っている。それ故の行動だったが、二コラからまあ待てとけん制された。 「後輩たちが失礼な態度をとって申し訳ない。いまの小柄なのがリズ、そこの女性はキアーラだ。もうひとり、サシャというユーリの兄がいる。彼は今日は夜勤明けだから、派出所近くのアパートか旧病棟の仮眠室で眠りこけていると思う。ユーリのことは知っているな」  二コラに促されるとナザリオがええと返事をする。ナザリオとユーリの視線がぶつかった。ユーリは反射的に視線をそらして顔をそむけた。 「ちょっと待ってよ。もしかしてピエタと組むっていうの? 本気?」  リズが怪訝そうな顔で言った。ユーリもまた反論したい気分だったが、腹の奥が重く胃がキリキリと締め付けられるような不快感を覚えて黙っていた。 「これは学長とピエタ、そして軍部からの命令だ。ユーリが東側の診療所を続けるというのなら、彼を警護につけることを条件とするそうだ。学長はあれでユーリのことを気に掛けておられるようだからな」  いい意味でも悪い意味でもと、ニコラ。ユーリはふんと鼻で笑って鋭く睨みつけた。 「冗談だろ、俺にピエタと一緒に街を歩けとでも言いたいのか?」  やっとの思いで絞り出した声は震えていた。ニコラはユーリがピエタを嫌っていることだけは知っている。その理由を伝えたことはないが、ピエタの中でも最も苦手とする警邏隊だ。彼は比較的質のいい相手だと分かっていても、経験上制服を見るだけでも身震いがする。  ピエタの警邏隊はそのほとんどが旧軍部上がりで構成されており、居丈高でプライドの高い隊員ばかりで、旧体制の悪質さが罷り通っている。奴隷解放宣言が出されて間もないころに数回、数か月前も身に覚えのない罪で収監され、取り調べを理由にまわされたのを思い出す。あの制服を見ているとその時のことがフラッシュバックしそうになり、ユーリはすっと視線をそらした。  嫌な汗がじっとりと滲んでくる。カラカラになったのどを潤そうとつばをのもうとしたがままならない。あからさまに表情に出さないようにするだけで精いっぱいだった。 「仕方ないだろう、毎回俺が着いていってやるわけにはいかないからな。  リズとキアーラには当面こちらの仕事を頼む。俺がいない時はセストが代わりに診療所に顔を出せないかと頼んでいる。セストは知っているだろう」  セストというのは2年前までニコラと同チームに所属していた軍医だ。顔立ちはもちろんのこと、考え方も典型的なノルマ族で、ニコラのようにイル・セーラへの理解がない。学長よりもさらにストレートにユーリたちイル・セーラを奴隷だと言い放つ。そんな男が本当に診療所を守ってくれるのだろうかと疑問に思う。 「セストからはまだ返事がないから、どうなるかはわからない。セスト以外の適任がいるのなら、そちらに頼め」 「俺に誰か知り合いがいるとでも? ミクシア出身っつっても郊外の遥か西に住んでいたわけだし、収容所を抜けてからこっち、ずっと大学にいるんだぞ」 「だから言っただろう、セスト以外の適任がいるのなら、とな」  ユーリはあからさまな舌打ちをして、怒りを振り払うように大きく息を吐いた。 「診療所を閉鎖するつもりはない。だけどピエタや軍部に協力を仰ぐ気はもっとない」 「殴られたせいで理解力のなさが更に破壊的になったのか? 拒否権を与えるとは一言も言っていない」  ニコラをじろりと強く睨む。視線をぶつけたがニコラがひるむ様子はない。冷めた視線がユーリに向けられる。 「これは自衛だと思え。権威に屈したわけでもなんでもない。事が起これば患者が危険に晒される可能性も拭えない。スラムで活動をするということは、そういう危険も常に付きまとうということだ。まさかそれも考えずに無鉄砲に診療所を開設すると言ったわけじゃないだろう」  そんなつもりはない。危険も重々承知していた。けれどスラムはユーリの想像以上に腐っている。人の善意を善意とも思わない人間が多い。学長やほかの研究医たちがスラムの現状を見て見ぬ振りをしていたのは単に彼らが薄情だからだと思っていた節もあったが、ふたを開けてみればそれもまた彼らにとっての自衛なのだと思い知らされた。  患者を危険に晒すつもりはないが、かといってピエタや軍部を安易に信じられない。彼らは言葉巧みに寄ってきて、半ば無理矢理にユーリを食い物にしてきた。一人だけじゃない。何人もだ。いまさらそんな連中を信じるわけにはいかないのだ。 「少し時間をくれ。そいつらに頼らなくてもいいような人間を捜す」  リズがええっと素っ頓狂な声を上げた。 「学長からの条件を退けるつもり? ますます立場が悪くなるだけじゃないか、そんなに意固地にならなくたって」 「そっちにそっちの事情があるように、こっちにもこっちの事情ってもんがあるんだよ。腹の内もわからないやつを連れて歩く趣味はない」  そう言い切って、ユーリは白衣を掴んで部屋を後にしようとした。すぐさまニコラに腕を掴まれる。邪魔をするなと言わんばかりにニコラを強く睨んだ。 「まあ事情をきちんと話していない俺も俺だけど、長いこと付き合ってて俺がなにを一番嫌ってるかを知ってるあんたがピエタに俺のおもりを頼むとは思わなかった」  離せとニコラの腕を振り払い、部屋を後にする。キアーラの声が聞こえた気がするが、無視だ。学長の条件をのまないと自分の立場が悪くなる。それは分かっている。それが嫌なら大学を辞めればいいのだが、ユーリはまだ目的を果たしていない。学長の言うことを聞いてピエタを護衛につければ済む話なのだろうが、それはそれで気が置けない。元々警戒心が強いユーリにとって、知らない人間が隣にいることほど不快なことはないのだ。

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