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Nine(2)
どのくらい現実逃避をしていただろう。
最初はミカエラとアレクシスがなにかを尋ねてきていたが、なにを言っても反応しないと思ったのか、黙ってしまった。アレクシスがなにか癇に障るようなことを言ってきたような気がするけれど、それは最早別の言語だとすり替えた。自分の耳に入るのはステラ語――第一言語のみと暗示をかける。
第一王族だの失われた第一言語だの、小説の読みすぎか、そうでなければイカれてんだろと口の中で毒づいて、ふつふつとこみ上げてくる様々な怒りを飲み込む。感情を荒らげたらこいつらの思うつぼだ。
長い間沈黙していた。ミカエラなど眼鏡をかけて自分の執務を始めている。アレクシスは相変わらずだが、ミカエラの目がない分警戒に余念がない。意思の疎通がなにも言わなくても成り立っている。相当訓練されているのが分かるうえに、手段を択ばないこの二人は危険だ。
均衡を崩したほうが負けだと思う。自慢じゃないが、こうみえてだんまりは得意だ。意地でも一言も発するかと思っていたら、アレクシスが急に立ち上がって伸びをした。
「あー、めんどくせえ。だぁから最初っから向こうに任せときゃよかったんだ」
アレクシスがミカエラを非難するように言う。
「そもそも、なんで、こんな面倒なことを引き受けてきやがった」
ミカエラのデスクにバンと手を突いて、アレクシスが責めるような口調になる。
「ミクシアに任せておいて、地下街が無事だったと思うか?」
冷静な口調で言いながら、ミカエラがなにかの資料に目を通しながら、片方の書類に文字を書き加えていく。万年筆の動きから見ても、おそらくサインだろうと思う。
「あそこが破壊されては困る。だからあちらの出方に乗った。そもそも任されたのは私だ、おまえに口出しをする権利はない」
「だけど! っああもう、じゃあおまえが尋問しろよ! 俺はもうごめんだ!」
マジで殴りそうとアレクシスが乱暴な口調で言うと、ミカエラが白けたような表情で「殴ればおまえの首が飛ぶぞ」と冷静に言ってのけた。
「そもそも、我々が頼まれたのは、彼らの保護だ。尋問や拷問の類は引き受けていない。資料の件は、言語が異なるがゆえに解読不能であり、それをこちらが引き継ぐのは不可能だとお伝えするのが筋だろう」
「聞き入れていただけませんでしたけど?」
「おまえなら話すか?」
「あ゛っ!?」
「オレガノが本当に自分の味方か否かの区別がつかぬうちに、核心に触れることを話すのか、と聞いている」
アレクシスが言い淀む。「言わんわなあ」とかなりの間をおいて言ったら、ミカエラはアレクシスを見ようともせずに「そうだろう」と返し、資料をデスクに置いた。
「そもそもイル・セーラは疑り深い。同族であると雖もオレガノとミクシアのイル・セーラに接点はないうえ、私なら『わけのわからないことをいう同族』にはなにも話さない」
たとえそれが、手術を施した相手でも施された相手でもと、ミカエラが継ぐ。
「おまえ、絶対そうやって地雷踏んだんだって。胸に手ぇあてて考えてみろ。性感帯が同じか知りたいなら確かめてみろって言ったし、たぶんおまえのそのやたら丁寧な敬語が耳障りだとか、絶対思ってるって」
いや、違うだろと突っ込みそうになったのを、寸でで堪えた。
ミカエラとアレクシスのやり取りを遮断していたが、聞き慣れた足音が近付いてくるのがわかった。やや早足で、普段は足音をあまり立てないように気を遣っているが、かなり乱暴かつ踵からタイルを踏みつけるような規則正しい靴音。
ああ、これは相当怒っているぞと判断して、ユーリは両手で耳を塞いだ。バタンとドアが開かれると同時に、足音の主が入ってくる。ずかずかと近づいてくる気配がしたあと、勢いよく胸倉を掴み上げられた。
「こんのどたわけが!!!」
耳を塞いでいるというのに、きんと耳鳴りがするほどの怒声だ。さらに強く耳を塞ぎ、目を閉じて抵抗するユーリの胸ぐらから手が離れたかと思うと、耳を塞いでいた両手を掴んで耳から手を離された。
「どれだけ心配させたら気が済むんだ、おまえは! 出てこいと言われたら素直に出てこんか!」
くそ野郎がとパラロッチャでおもいきり罵られた。ニコラが普段使わなさそうなセリフの上、人前で、しかもおそらくニコラよりも立場が上の人間がいる前でこんなセリフを吐くとは思わず、吹き出しそうになる。
「人の話を聞け!」
ユーリはもう既にニコラの話すら聞く気がない。完全に顔を背けている。おいこらと聞こえたかと思うと両手を片手に纏められ、おもいきり顔を掴まれた。
「ユーリ!」
二コラと目が合う。心配していたというのは本当だろう。でもそれは怒りと自分自身への劣等感……いや、もっと別の、黒い感情に飲まれている。冷静なはずの二コラがここまで感情を波立たせるということは、なかなかにドン・クリステンが動いてくれなかったか、或いは自分ができないことをドン・クリステンやミカエラたちがあっさりとやってのけてしまったことへの苛立ちか。
ユーリは二コラからすいと目を逸らしたが、顔を掴む手を退けてくれそうにない。
そもそも、自分が大学を離れると決めたのは、一体誰のためだと思っているんだ。ちゃんと伝えたはずだ。……いや、言っていなかったかもしれない。でもそのくらい、察してくれてもいいじゃないか。
そう思ったら、だんだん腹が立ってきた。
ミカエラは、自分たちが使うステラ語を読めないと言っていた。地下街に放置されていたあの書物の字体が第二言語なら、確かに性質が異なる。発音からなにから、似ていてもおそらく違う。第一言語を話すこちらからは第二言語のニュアンスを察しやすいけれど、逆はうまくいかないように工夫してある。それはなぜかわからないけれど、こうなったら二コラを使って本当に彼らが第一言語を聞き取れないのか、理解ができないのか、諸々確かめてやると画策した。
ユーリは「話を聞け!」と声を荒らげる二コラを無視して、すうっと深呼吸をしたあとで、ニコラの足を勢いよく踏み付けた。
『黙れ、むっつりスケベ!』
できる限りどすをきかせた大声で吠える。
『大体あんたが嫌だっつってんのにキスマークつけたり、浅いところで何度もナカイキさせたり、散々奥でイカせたりするから、ずっと奥が疼いて仕方がなかったんだ、くそ野郎! ドスケベ! 10インチ!』
怒っているふうを装って大声で捲し立てた。
言語が理解できていたら別の反応が得られただろうが、二コラも、ミカエラも、アレクシスも、三者同様にぽかんとしている。ユーリがなにを言ったのかがまったく聞き取れていない様子だ。
なるほど、本当に理解ができていないらしい。文句を言ってちょっとスッキリした。
ユーリは苛立ちまぎれに二コラの足をもう一度踏みつけて、テーブルに両腕を組んで顔を伏せた。
「あ、あの、いまのは?」
ミカエラが尋ねてくる。
「俺はなにも知らない、父親から聞いたこと以外なにもわからない、なにも覚えていない、俺に聞くな」
大嘘だが、ミカエラが納得する。
「申し訳ありません、本当にまったく聞き取れず」
そのようだなと口の中で呟く。理解ができていたら二コラに大被害が及んだところだけれど、本当にリスニングすらできていないようだ。
二コラが俺に八つ当たりをするなと困惑した声色でぼやくのが聞こえたが、無視だ。なんならもう一度踏んでやるとばかりに踏みつける。
ミカエラたちがステラ語を理解できないのなら、なぜエリゼはエドと普通に会話をしていたのだろうかと思う。エドとユーリが使ったのは、ミカエラたちでいう第一言語とやらだ。ユーリたちにとっては極々当たり前の共通言語だが、失われたと言われても普通に使っているんだが……と考える。やっぱり、エリゼは得体がしれない。ノルマだと言っていたけれど、絶対にノルマじゃない。
そういえば、“ユーリ”はユリウスの前ではステラ語を使っていなかったのではないかと思いだす。いつもノルマ語で話していたように記憶している。家族間ではステラ語やエトル語、もしくはクリプトで、一族以外の対イル・セーラに使用する言語があるとすれば、自分がまだ幼かったために教えてもらっていない可能性もある。サシャに聞けばわかるのだろうが、肝心のサシャがいない。ユーリは少し顔をあげてミカエラを見た。
ミカエラと目が合った。全く動じる気配はないが、瞬きの数が増える。ユーリは溜息を吐いてすぐにまた突っ伏した。
手がかりがあるとすれば、エリゼだ。でもエリゼが手放しで教えてくれるわけがないし、あれ以来一度も顔を合わせていないせいか少し気まずい。せめてエドがいれば……。
「おっそいすわ、Sig.カンパネッリ。こいつマジでなにも話さないつもりなんですけどっ?」
どういう教育してんですか、おたくはとアレクシスが言う。元々軽い口調だが、二コラに対しては更にフランクだ。ミカエラに睨まれたのか、アレクシスがわざとらしく口笛を吹く。
「申し訳ない、いやに強情なうえに一度疑うと意地でもしゃべらない悪癖があり」
「疑われるような真似は……したな」
「そういやしたわ」とアレクシスがあっけらかんと言う。ユーリは顔をあげてアレクシスを睨み、「くそ野郎」と吐き捨てた。
「チェリオは? あいつらになにかあったら、絶対になにもしゃべらない」
「あいつは無事。向こうの部屋に閉じ込めてある。問題は地下街にいるそちらの仲間。抵抗したら射殺していいって言ったから、どうかなー」
ユーリはムッとして、今度はミカエラを見た。ミカエラの表情自体は変わらないが、やはり瞬きが増える。
じっとミカエラを見つめて観察をする。本当に同じ顔だ。視線が合ったが、こちらから逸らしてたまるかとじっと見つめてやる。ややあってミカエラが視線を逸らした。アレクシスの言葉が本当なら、ミカエラはもっと居丈高にいるはずだと考える。抵抗しなければと言っていたから、彼らが手を出してさえいなければ無事だと思う。そもそもあそこには民間人しかいない。武器を持つ相手にすら交戦権がなければ手を出さないと言ってのけるくらいだ。武器を持たない民間人や女性や子どもに手を出しはしないだろう。
ドン・コスタ隊の連中はああ言って煽ってきたが、ふたりの冷静な対応から察しても、地下街に潜伏している人たちも、そしてオレガノ軍の人たちも、無事なのだろうと推測する。
「私もステラ語やもうひとつの言語を全く理解できていませんが、彼の兄も同様の言語を使って論文を書いていました。ノルマ語と、その二つの言語のどちらか、そしてフォルムラ語の三種類の言語で書かれた同じ資料があるはずです」
冷静な口調で二コラが言う。バラすなと言わんばかりに二コラを睨む。二コラがユーリの耳元に顔を寄せた。
「オレガノは悪いようにはしない。ドン・クリステンが交渉してくださったんだ。おとなしく言うことを聞け」
「処刑するならとっととしてくれ、時間の無駄だ」
ニコラのセリフを遮るように、ケンカを売るときのような露骨に嫌な言い方をして捲し立てた。アレクシスがおいおいと困ったような声を出す。
「なんでそんな死にたがりなんだよ? こっちはずいぶんな人員を割いてだなあ」
「中腹の遺体や緊急時とはいえ承認されていない薬を使った頃諸々、罪状なんていくらでもある。処刑しないなら軍部の収監所にでも放り込んでろよ」
「マジで話聞かねえな、こいつ」
「申し訳ない。絶対に話を聞きたくないときに、こうやってつらつらと別の話題を振ってくるのもこいつの悪癖でして」
二コラの口調から察するに、オレガノの軍部というより、ミクシアの軍部内でも二コラよりも階級が上なのだろう。ユーリがあまりに会話に応じないから、一番懐柔可能な人物を連れてきたつもりでいる。残念ながら二コラを振り回すのは得意中の得意だ。
「ユーリ、もうひとつの言語はなんという言語かを答えてくれるだけでいい」
絶対に言うか。ふいと顔を逸らす。
「オレガノが諸々精査したら、無罪放免も有り得るんだ。協力しろ」
「オレガノもノルマも信じない。絶対に信じない。どうせ安心させたところでひっくり返す」
むくれたように言う。アレクシスが怪訝な顔をしてユーリを指さしてくるのが分かった。「こうなるまえに少々トラブルがありまして」と困ったように二コラが言うのを聞きながら、ユーリはふたりが視界に入らないほうに向いた。コレットの花が花瓶に活けられているのが見えた。中流階級層街では育たなかったけれど、北側では育つのかと思う。
南側の仲間たちも無事ではないのだろうし、この包囲網を掻い潜って逃げるなんてきっと無理だ。そもそも処刑をされることは確定だろうし、無罪放免なんてありえない。それを引き合いに出して交渉カードとするなんて、二コラはやはり感情の機微を察せない交渉下手のただのドスケベだ。
資料を閉じて眼鏡をはずし、ミカエラが近付いてくる。
「エヴェラルド・バローニはご存じですか?」
「誰それ?」
知らんとぞんざいに言ってのける。「大体そんな長ったらしい名前なんて覚えられない!」とヒステリックに言いながらも頭の中は冷静に違うことを考える。エヴェラルド・バローニだとアレクシスにもう一度言われる。
「知らんっつったら知らんわ!」
大体無理やりここに連れてきたくせになんなんだと喚く。
「聞きたいことがあるから連れてきただけなら、あんな茶番なんて要らないだろうが。こっちは本当に驚いたし、殺されるかと思った。それなのに第一言語だ、第一王族だ、オレガノが知らないものを、フォルスから出たこともない、収容所に連れて行かれた時にはまだこどもだった俺が、そんなもの知るかよ!」
ユーリの言い分も尤もだと思ったのか、ミカエラが穏やかな口調で「日を改めましょう」と言う。そうだ、そうしてくれ。その間になんとしてでもこいつらの目的を探ってやると考える。お言葉ですがと二コラが口を挟んできた。
「Sig.ベルダンディ、こいつはこうやってわがままな風体を装いつつ、別の手を考える常習犯です。ユーリが別の手を考え付く前に詰めるのがよろしいかと」
ユーリが苛立って二コラの足を踏もうとしたが、今度は避けられた。顔をあげて、くそ野郎と罵る。
「誰がくそ野郎だ、このどたわけ!」
耳を引っ張って怒鳴られる。またきんと耳鳴りがする。やはり二コラには見透かされるかと思いつつも、諦めの悪いユーリは頭の中で様々な手を考えた。このまま自分たちが第一王族の末裔だなんていううわさが流れたら、ますます面倒なことになる。
ミカエラを呼ぶ。ミカエラは少し姿勢を正し、はいと返事をする。地下街での迫力とは大違いのあどけなさだ。
「俺が第一王族の末裔だとしたら、オレガノの王族よりも立場が上ってことだよなァ?」
「そうです。ですので本国の意見としては、あなたを招聘し、さまざまな知識を拝借したいと考えております。あなたのご要望にはできる限りお答えします」
「じゃあ不敬罪でこいつを懲罰房に入れてくれ」
二コラを指さして、ユーリが焦れたように言う。
「なんだとっ?」
「こいつは俺が嫌だって言っているのにそれはもうしつこく内腿やしりに」
キスマークを付けるの『キ』まで言いかけたところで二コラに口を塞がれた。アレクシスがなにかを察したようにははーんと笑う。ミカエラだけがなにもわかっていないような顔をする。
「そりゃあ不敬罪ですな。許せんやつだわ」
「だよな、イル・セーラ同士ならわかってくれると思った」
人懐っこい笑みを浮かべ、ユーリが言う。イル・セーラが相手にキスマークを付けるのは恋人同士というよりも伴侶に限定される。相手の体に傷をつけることはマナー違反にあたり、伴侶として死を分かつまで傍にいる証として互いに交わす行為だからこそ、無暗にしてはいけないと収容所にいた時にエドから言われたことがある。だからユーリからは付けたことがない。
相手にされるのはまあ『仕事』だからと割り切ったが、征服欲の強い男は数日消えないような噛み痕を付ける者もいた。そういう輩はイル・セーラに対してではなく、娼館に対する営業妨害として出禁にされるのが常だった。
アレクシスが二コラを見やり、にやにやと笑う。
「そらいかんわ、Sig.カンパネッリ。イル・セーラにとっちゃある種儀式なんで、今後はお控え頂きたく」
二コラが気まずそうに眉を顰めて「失礼した」と唸るように言う。ユーリはいい気味だと言わんばかりに悪戯っぽく笑った。
「まあ二コラのことは冗談だとして、ミクシアに住む俺に危害を加えたノルマを全員殺してくれって言ったら、そうしてくれるわけ?」
首を斜めに傾けて、挑発的にユーリが尋ねる。交戦権がないと言っていたし、さすがにこれは否定するだろうと思ってのことだった。
「そう望まれるのでしたら、いますぐにでも」
真顔で物騒なことを言う。ミカエラは冗談と本気の区別がつかないタイプのようだ。
「そもそもピエタから押収した資料に記載があった、あなたへの暴行を働いた者は、既にそのほとんどが収容されています」
「え、マジでっ?」
「それ以外ってなると、政府と軍部? いいねえ、ちょうどこっちも政府のやり方に鬱憤がたまっていたところだったんだ」
アレクシスも話が分かるようでそうでもない。下手なことをいうと冗談が現実になりかねない。だったらと、ユーリは机に突っ伏したまま顔だけをミカエラのほうに向けた。
「そうすると、あんたらが俺にしたことも超不敬じゃねえ? 俺はここに来るまでの間、銃を突きつけられてガラスのハートに傷がついたし、猿轡もかまされたし、水攻めも食らった」
「先ほど無礼をお許しくださいとお伝えしましたが」
「それで済むと思うか?」
ミカエラがアレクシスに視線をやる。ユーリはすいと目を細めた。
「アレクシスの意見は求めてない。“あんた”に聞いているんだ」
「お坊ちゃんは自分の意見をお持ちでないか?」と意地の悪い笑みを浮かべる。二コラから態度が悪いと言われたが、無視だ。
「それは我々のあなたに対する無礼を帳消しにするために、あなたがしたことも帳消しにしろ、と仰りたいのですか?」
ミカエラが顔色ひとつ変えずに言う。まるでユーリがなにを言おうとしていたかに気付いていたかのようだ。なんとなくおもしろくない。
「帳消しというか、そもそも俺は違法行為を働きたかったわけじゃない。たまたまあんたの執刀を担当したのが俺だった。学長からはあんたを殺すな、最善を尽くせと言われたから、自分にできうることをしたまでの話だ。追われる謂れはねえよ」
ミカエラが思案顔で左胸に手を当てた。まだ違和感でもあるのだろうか? 放って出てきたとはいえ、アンナやフレオのサポートがあったし、ここまで動いているこということは予後が悪かったということはないはずだ。
「そういや、さっきのコスタ隊だっけ? あいつらが絡んできたときのミカのキレっぷり、痺れたわぁ。おまえあんなに怒れたのな。普段ぼーーーーっとしてほぼほぼ無表情で少々の挑発にも乗らないのに」
そういえばと言って、ミカエラがもう一度左胸を触る。
「なんとなく」
「なんとなくでキレられちゃかわいそうだったな、あいつ。しばらくはベッド生活だ。あとで差し入れ持ってってやろ」
「あー、かわいそう」とアレクシスが揶揄するように言う。ミカエラの表情はかわらないが、すこし戸惑っているようにも見えた。
「確かに、あのときは無性に腹が立って。どうもこの方を前にすると調子が狂う」
ユーリが二コラに視線をやる。人差し指を軽く動かす。ハンドサインだ。二コラは事情を話していないというように小指を曲げて、ノーのサインを出してくる。ミカエラにはサシャのことが伝わっていないらしい。アンナたちにも口止めをした。軍部やピエタたちが騒ぎ立てていた噂を耳にしてさえいなければ、なにもわからないだろうと判断する。
「さっきも言ったように、俺は無実。手術をしたことを咎められているのなら、緊急時マニュアルを読み返せと政府の薄ら馬鹿どもに言っといてくれ。オレガノの医師免許と国医免許を持つアナスターシャ・ジェンマ、フレオ・アルヴァン両名と共に執刀した。ルール違反じゃない」
「なるほど。でしたら政府の判断は不当と見做し、罪状そのものは撤回できます。これを政府と軍部に掛け合えば良いのですか?」
「うーん、もう一声ほしいなァ」
ユーリが甘えたような声で言う。
「ユーリ、いい加減にしろ」
ニコラから強い口調で叱責されたが、ミカエラはふむと顎に手を当てて考えたあとで、ユーリに視線をよこした。
「地下街の住人たちはすべて無傷であなたにお返ししたうえで、チェリオ・ベルナスコーニの罪状も取り消しとしましょう。
あなたの研究はそのままあなたが続けるべきであると嘆願書を認め、大学からの除籍も撤回し、再度栄位クラスへの編成をと掛け合ってきます。
あなたの研究は、言語の異なるわたしが引き継いだところで翻訳にも時間がかかるでしょうし、翻訳に協力をするならと交換条件を突き付けてくるおつもりでしょう?」
「わかってるじゃないか」
「わたしがあなたの立場でしたら、そうします」
そう言って、ミカエラは軽く息を吐いて左胸を触った。
「あなたのその表情を見ると、少し落ち着きませんね」
ざわざわすると小声で言う。ユーリがうまく丸め込んだ時に見せる人を食ったような笑みだからだろう。サシャはユーリがそうやって笑っていると、いつも苦言を呈してきた。
「大学の除籍の撤回と、栄位クラスへの編成は除外していい」
二コラがユーリを呼ぶ。ユーリは敢えて聞かないふりをして、続ける。
「そもそも医師免許はもうあるし、それが撤回されなければいい。特例で国医免許くれって言っておいて」
「ユーリ、意地を張るのはよせ」
「張ってない。あそこには戻りたくないんだ。嫌でも思い出す」
ついでにあんたの顔ももう見たくないとミカエラに告げる。ミカエラはわかりましたと表情ひとつ変えずに端的に答えた。
問題ないと自分に言い聞かせたつもりだったけれど、無性に腹立たしくなってくる。変に同情されたくもないし、感謝もされる筋合いがない。どうせ交わることのない世界に生きているのだから、もう二度と会うこともないだろう。
「疲れたから寝たい。でっかいベッド貸して」
椅子にふんぞり返った状態で言う。二コラが怒りと呆れの両方を懐いたような顔で見ているが、無視だ。気にしない。無礼で申し訳ないと二コラが言う。ユーリはもう完全に話す気などないと言わんばかりにそっぽを向いた。あからさまに子どもっぽい態度は普段初対面の人間にはあまり見せないが、なんとなくこういう態度に出てしまう。目の前にいるのがミカエラでありながらサシャでもあるからなんだろうか。
すぐに用意をさせますとミカエラの声がする。ステラ語――ミカエラたちで言う第二言語が飛び交う。ところどころ聞き取れる。休息、入浴、食事、それから死守。ピエタといいオレガノ軍といい、いったいなにが起きているのだろうか。それぞれの思惑でユーリを手に入れようとしているのは、いったいなぜなのだろうか。
「あーあぁ、だから俺が補佐官に着いたってのに。やっちまった」
アレクシスがさして残念ではなさそうな表情で、残念そうに言う。腕ごと身体を伸ばして近くの椅子に腰を下ろす。もう一度ユーリに声をかけてきた。
「なあ、本当にエヴェラルド・バローニを知らないのか? エリちゃんの資料にはそう書いてあんだけど」
エリちゃん? おそらくエリゼのことなのだろうが、アレクシスはそんなにエリゼと仲がいいのだろうかと思う。
「南側のスラム街にいた、エヴェラルド・バローニ。31歳。エリちゃんの協力者」
「エドのこと?」
そういえば、ユーリはエドの本名を聞いたことがなかった。みんなエドと呼んでいたし、それが本名なのだとばかり思っていた。
「じゃあエドでいいか。ミカももう少し駆け引きを覚えたほうがいいぞ。
エヴェラルド・バローニの命と引き換えに……って、嚇す方法もあったろ」
アレクシスがニヤリと笑う。不敵極まりない表情でユーリを見やる。
命と引き換えに、ということは、エドは生きている? いや、それすらブラフの可能性もある。いくらエリゼの協力者とはいえども、本名を曝すようなことはしないはずだ。エドもまた理由はわからないがフォルスに来るまでは幾度も命を狙われてきたと話していたのを邂逅し、無反応を貫き通す。アレクシスはユーリの反応を見たあとでどこかきまりの悪い顔をした。
「めんどくせえな。俺こういう手合い苦手なんだよな」
意地でも本音を言わないタイプだとアレクシスが言う。二コラが申し訳ないと、肩身の狭そうな声色で言うのを聞きながら視界の端でミカエラを観察する。アレクシスよりもミカエラのほうが少しわかりやすいからだ。レザーホルダーに挟まれた上質そうな紙に、万年筆でなにかを認めている。アレクシスがあーあと大袈裟な声を出した。
「本国にどうやって報告しよっかなー。ミカが勝手に決めちゃいましたって言っていい?」
さらりと話題をすり替えたような気がした。元々ユーリを揺さぶるつもりもなかったのかもしれないが、すべてが嘘くさく映る。ドン・クリステンがこの茶番の発案者だと言っていたけれど、肝心の本人が姿を現していない。
「好きにしろ。嚇して協力をしてくださるような方ならそうしていたが、そうすることで軋轢を生む。
本国への報告にはすべての結果を見てから判断しろと追記しておくように」
万年筆のキャップを閉め、なにかを認めた紙を丸めてアレクシスに突き出しながら、ミカエラが言う。やたらとミカエラが勝気な表情だ。勝算があるとでも言っているような、――。
「えらい強気だな、ミカ。なにか勝算でも?」
アレクシスもまたしたり顔でミカエラに問いかける。ミカエラは几帳面にテーブルの上のものを片付けた後で、木製のトレイのうえに万年筆を置いた。まるでチェスのボードのような、ぱちんという軽快な音が鳴る。
「勝算というほどのものでもないが」
そう言ったあとで、ミカエラがこちらを見た。ばちりと目が合う。先ほどのように打つ手を考えているというものではなく、明らかにこれが最適解だと分かっているような顔だ。
「チェスの局面は最後まで見なければわからないものだ」
たとえゲームの局面で窮地だとしても、最後に勝てばいいわけだろうと、ミカエラが言う。それはミカエラの常套句なのだろう。アレクシスが「本国には“ミカ本体は無事だけど頭が無事じゃねえ”って報告しときますわ」と心底呆れかえったような声色で言ってのけた。それに対してミカエラがなにか苦言を呈すわけでもない。この二人はいつもこの調子のようだ。辛らつに見えてそうでもない。互いに信頼があるからこそのやりとりなのだろうと感じる。まるで自分とサシャとのやりとりを見ているような気分になってきて、ユーリはもう一度思考を遮断した。
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