69 / 108
Twelve(4)
ようやくウォルナットに戻ることができたのは、明け方のことだった。
ベアトリスが調合してくれた薬が効いたのか、いまのところあの時のような息苦しさや頭痛はない。ただそれは一時的なもので、薬の効果が切れたらまたいつ同様の症状が現れるかがわからない。だからこそカーマの丸薬は怖いのだとベアトリスが言う。
リュカからも安静にしておけと言われ、そろそろ丸2日経過している。ベッドでぼんやりとしているのも飽きてきたけれど、リュカから賄賂をもらった怖い怖い監視官がユーリを見張っている。アレクシスやニコラより遠慮がない分、シャワー室にもトイレにも付いてくる。いまもふわふわたまごのパニーニを美味しそうに頬張っているジジを横目に、マジで飽きたとぼやいた。
「Sig.オルヴェ、動いちゃダメ」
言って、ジジがくんくんと鼻を動かす。
「コチアのにおい」
やはりジジの鼻はごまかせないらしい。ジジを呼び、ベアトリスたちには内緒と告げるが、わかっているのかいないのか、きょとんとしている。ふとジジが立ち上がって、面倒なのがくるとぼやいて窓から出て行った。
部屋のドアがノックされた。気のない返事をする。失礼するよと言って入ってきたのは、アルテミオだった。ジジは足音で気付いたらしい。ミカエラから攻撃するなと強く言われたからか、敢えて顔を見ない戦法のようだ。
「大丈夫か、ユーリ。リュカくんに薬を作ってもらわなかったのかい?」
ベッドに横たわったままで、大丈夫と答える。リュカからは必要ならカルマを使えと、いままで自分が使っていたものを手渡されていた。けれどそれを飲む間もなく気分が悪くなったものだから、使えなかっただけだと説明する。アルテミオは申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「悪かったね、怖かったろう」
ユーリは首を横に振った。
「おかげで、思い出したことがある」
「思い出したこと?」
頷く。ユーリはごそりと身体を動かして、ピルケースをポケットから取り出した。手を伸ばし、それをアルテミオに受け取らせる。
「これは?」
「ユリウスを問い詰めたらいい。カルマと偽って、俺に嘘の薬をくれた。おそらく俺の記憶を混乱させるためのものだろうって、ベアトリスが」
コントラリオとかパニシェに近いものだと思うと答える。敢えてのごまかしだ。脳裏に浮かぶあの映像を見たあとから、無性にノルマに対する嫌悪感と恐怖心がぬぐえない。アルテミオはほかとは違うと分かっている。分かってはいるけれど、手放しで信用できない。してはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。アルテミオは怪訝そうに腕を組んだ。
「ユリウス・ヴァシオ・シャルトランは出国はしていないものの、行方不明だ」
今度はユーリが怪訝そうな顔をした。
「いつだったか、ナザリオとチェリオが捕らえて収監したが、釈放されたんじゃなかったかな。ジョスの命令でーーといっても、本物のね」
ユーリが眉根を寄せた。ドン・クリステンはなにを考えているかわからないが、ユリウスを釈放させた意味があるのだろう。
「彼はサシャが手に入らないのならと、殺すつもりでいたようだ」
ユーリの表情に影が落ちたからか、アルテミオが声を潜めて言った。シリルが言っていた、赤い目のイル・セーラを信用するなというのは、やはり裏切るという意味だったのだろうか。ユリウスのような髪と目の色を持つイル・セーラはフォルスではあまりみたことがない雰囲気だったが、オレガノでも一般的ではないようだ。もしかすると、そこに王政復権を望む理由があるのだろうか?
「結果的にサシャは亡くなったけれど、脅威に晒されることはなくなったのではないかな。准将殿は強いし、まだ経験がない故の荒さもあるけれど、本人も言っていたように体調が万全なら、西側で起きたようなことはもうないはずだよ」
静かに頷いた。そんなことが二度もあってもらっては困る。ユーリはゆっくりと体を起こしてベッドの上であぐらをかいた。ユーリとアルテミオが呼び、下を指差す。腰にあるリボンベルトを締めるタイプのナイトガウンを羽織っているだけだから、はだけているといいたいらしい。別に気にすることでもないのにと思いつつ、ガウンの裾を整える。
「ユリウスはサシャに助命嘆願をしに行って戻って来なかったことを咎められていた。最初はサシャがユリウスのことを嫌いすぎて責めているだけなのかと思っていたけど、サシャはユリウスに対して明確な怒りと、それから恐怖を抱いていたように感じた」
「その件で准将殿がオレガノにきみたちの助命嘆願を認めたものが届いているか確かめたら、そのような書面はないと。また、彼が言っていたとされる引き揚げ船も海が荒れていたために出航できず、オレガノへの出国を止められ、収監されたという事実はないそうだ」
眉を顰める。なぜそんな嘘をつく必要があったのだろうか? やっぱり、ユリウスは最初からフォルスを売るつもりでいたのだろうか? 何のために? そしてなぜ”ユーリ”はユリウスを頼ったのだろう? どこに接点があったのだろう? 確かめようにも、もうサシャはいない。エドならなにか聞いていないだろうか?
ユーリはゴソゴソとベッドを降り、スリッパを履いてドアまで向かった。内開きのドアを開けて廊下に人がいないかと確認するが、珍しいことに誰もいない。いつもなら見張りがいるというのに、屋敷の中は静まり返っている。
ステラ語でジジと呼ぶ。返事がない。もう一度、今度は声を張って呼んだ。少しして階下からドアが開く音がした。軽快な足音が近づいてきて、折り返し階段の手すりをひらりと飛び越えるようにしてジジがやってきた。
『お呼びですか、Sig.オルヴェ』
『エドがどこにいるかわかるか?』
そう尋ねると、ジジはエドと呟いて視線を彷徨わせた。思い出しているのだろうが、心当たりがないという顔をしている。
『イル・セーラの子どもと、声を出せない女性といる』
ジジがハッとしたような顔をして、頷く。
『ふたりなら、隣の館に絹を紡ぐ手伝いをしに。
その人は多分、裏の畑だと思う。連れてくる』
言って、ジジが廊下の窓を開けて軽やかに階下に飛び降りる。チェリオもそうだけれど、いつ見ても軽快でいい動きをする。リーチがない分身軽さで勝負ができるのはある意味で利点だ。
「だいぶ上手に彼を手懐けたものだね。初めて会った時とは全く違うじゃないか」
感心した面持ちでアルテミオが言う。二度も襲撃されかけたのだから、至極当然の意見だ。
ジジは食べ物、寝ることなどの本能的欲求にしか興味がない。むしろそれでしか動かない。それなら、問題に正解しないと食べ物を与えない、睡眠時間を与えないというある種調教のようではあるけれど、特定の刺激が他の刺激と結びつくことで、無意識のうちに反応が起こることを目的とした条件反射を誘い、ジジが戦いよりも安眠できることや満腹まで食べられることを優先するように仕向けた。もちろんいままでどおり怪しいにおいのするやつは襲えと仕込んであると告げる。アルテミオはなるほどねと微苦笑を漏らして肩を竦めた。
「きみ、案外上官向きなのでは?」
「本で読んだことを実践しただけ。
まあ、ある意味で収容所にいたイル・セーラも同じように調教されたのだと思う。素直に足を開いてさえいれば、労働しておけば殺されない、食べ物ももらえる、安眠できるってね。そうしていても無駄なこともあったけれど、大体はそれで躱せた。俺がいたところでは看守を誘惑して向こうが乗ってくれればふかふかのベッドで眠ることもできたしね。看守っていう抱き枕付きだけど」
アルテミオが抱き枕ねと苦笑したが、なかには手を出さない変わり者もいたくらいだ。同じくらいの歳の子どもがいたり、兵役経験のない看守にあたれば、夜な夜なバカみたいな話をしたり、他の看守たちへの愚痴を聞いたりと割と仲良く過ごしていた。ほかのイル・セーラはそれが気に入らないという態度に表す人もいたが、看守たちはあくまでもイル・セーラが大人しく従い、且つ安全にその日の仕事が終わればそれでいいわけで、わざわざこちらからなにかを仕掛ける必要がない。時々ゲストが放つ媚薬のにおいや、プレイ中の声に触発され、イル・セーラをおもちゃのように扱う看守もいたけれど、基本的には御法度だ。収容所を管理する部隊が替わってからそうなったと聞いた気がする。
「彼らはきみを抱いたのか?」
「うーん、積極的にきたのはひとりくらいかなァ。
あとはみんなこっちが誘わない限り手を出してこない。商品だし、替わったばかりの管理者ってのがすんごい変わり者らしくて、いままでの管理者は自分もおこぼれをもらっていたけど絶対にそれは許さないーーみたいに言いはじめて、俺たちをおもちゃ同然に扱っていた看守は次々にどっかに飛ばされたりいなくなったりしたんだ」
おかげでこっちは寝る時間が増えて助かったけどと言ってのける。それは良かったとアルテミオが微苦笑を浮かべる。その表情を見て、ユーリは少し首を斜めに傾けて口元に笑みを描いた。
「その管理者って、もしかして、アルテミオとか、あんたの息がかかった人だったりした?」
アルテミオがまさかと言いながら首を横に振った。当時自分にはそんな権限もなかったが、軍医として収容所に診療に訪れた際の現状を上司に報告し、イル・セーラに対する扱いの改善を再三訴えたことはあると告げる。ユーリは笑みを深めてアルテミオの首元に腕を絡めた。
「やっぱり。あんたの手、覚えてるよ。診療医だけじゃなく、客の誰よりも優しかったし、あんただけは毎回ちゃんと毒消しを塗り込んでくれた。
だからあんたに処置されたあとはへんなふうに腹が疼かなくて、朝食を吐きに行かなくて済んでた」
「どういう意味だい?」
「誰かが食事を摂らなかったら連帯責任でみんなが食べられなくなるんだ。だから半ば無理やり押し込んでた。
他のイル・セーラからはあまり聞いたことがないから、俺はあそこで使われていた薬物が体に合わなかったのか、効き過ぎていたんだと思う」
アルテミオが居た堪れないような顔をして、ユーリの頭に手を置いた。なにも言わずに撫でられる。前々からうっすらと感じていたが、どうも自分はサシャや“ユーリ”たちのようにこうして甘やかしてくる相手に弱いらしい。
アルテミオにしなだれかかりながらマーキングするように胸元に顔を埋めていたら、下からエドの悲鳴にも似た声が聞こえた。開けっぱなしの広めの窓からエドを横抱きにしたジジが入ってくる。連れて来たと素っ気なくいい、まるで狩って来た獲物を子猫に渡す母猫のように、ジジがエドをユーリの前にぽいと落とすようにおろした。へなへなとエドがその場に座り込む。ユーリはアルテミオからパッと離れ、エドの前に座り込んだ。
「大丈夫か?」
エドが頷く。頷くが、微妙に顔色が悪い。おえっとえずいたあとで片手で口元を覆った。エドは昔から高いところが苦手で、子どもの頃に度胸試しでやっていた滝壺に飛び込む遊びにだけは頑として参加しなかった。あれはサシャが得意で、恐怖で絶叫というよりも歓喜の声を上げて喜んで飛び込んでいたなと邂逅する。
『ジジから、話があると聞いたけど?』
ここではアレだからと、エドとアルテミオをベッド横の椅子に座らせ、ユーリはいつものようにベッドに座ってその上であぐらを掻いた。アルテミオに指摘される前にガウンの裾を整える。
「ノルマ語で話せる?」
エドが頷く。ユーリは、サシャがユリウスを嫌っている理由を尋ねた。エドは難しい顔をして、アルテミオに視線をやる。この人は大丈夫と暗に視線に意味を込めるようにしてエドを見ると、エドが小さく頷いた。
「収容所でユーリが初めて客を取った後のことを覚えているか?」
薬の量が多すぎてオーバードーズしたせいでユリウスにせがんだ…という話だろう。頷くと、エドは部屋の隅にいるジジに視線をやった。
「彼はまだ子どもだよな?」
「ポポリで性奴隷として売られていたらしいから、それなりに知識はあるっぽいぞ」
「そ、そうなのか」
ジジはなにも気にしていない素振りで、いつものようにいつものソファーに身体を預けて目を閉じている。
「あのとき、俺もそばにいたわけではないから定かではないんだが、ユリウスは決して治療目的ではなかったし、意識のない状態のユーリを抱いたあとで、裂傷がひどいからと別の場所に移送させようとしたんだ。
でもたまたまユリウスがユーリを抱いているところをシリルが見ていて、嘘をつくなと騒ぎ立てた。サシャも強制労働から帰って来たタイミングで、ユーリを抱えているユリウスを激しく罵倒したんだ。サシャが大声を出すなんてまずないから、シリルが看守長を呼んで診療医を変えてくれと訴えてことなきを得たが、あのまま入院だなんて言われて連れて行かれていたら、今頃はどうなっていたかわからない」
ユーリはきょとんとした。そんなことは聞いたことがなかったからだ。そうだったっけ? と尋ねると、エドは苦い顔をして「薬のせいで2日目覚めなかったんだぞ」と肩を竦めた。
目が覚めたら身体が重くて、吐き気と頭痛に襲われたのは覚えている。じゃあユリウスを誘って抱かれたのは、その後の話なのだろうか? それともそれすら、あの薬で記憶が混乱するように仕向けらえたのだろうか?
その一件があって以降、サシャとシリルがユリウスを警戒するものだから、ほとぼりが冷めるまでユリウスは別の収容所に行かされていたらしい。でもどうしても診療医が足りない時、シリルやサシャがいない時間帯を見計らってC区にも訪れていて、そのときはユーリもだけれどゲストに手酷く抱かれた仲間たちの処置をしていたとエドがいう。
もちろん中には同族であることを理由にユリウスに治療をされることを望む人もいたし、その逆もいた。サシャがドン・フォンターナに囲われ始めたのは同時期だから、ユリウスに触れられるのを嫌って自らドン・フォンターナに飼われることを決意したとも考えられると、エド。
なぜそこまでユリウスを苦手としていたのだろうか? よく家に訪れていたというイメージしかない。
「“ユーリ”やクロードと揉めていたのをみていた、とかかな?」
「どうだろう? 村の入り口付近に住んでいた、レイナを覚えているか? レイナはユリウスのことを気に入っていたから、たびたび家に招くこともあったみたいだ。フォルスが攻め込まれた時に殺されてしまったのか、それともいまだにユリウスと付き合いがあるのか、彼女はどの収容所にもいなかったそうだよ」
レイナという名前には覚えがある。覚えがあるけれど、顔が思い出せない。
「村の入り口って、小川の方?」
「いや、ストーンヘンジがあるあたりの」
ユーリはあァと声を上げた。フォルスに住むのはほとんどが親戚関係だけれど、レイナは確か崖下の集落からやってきた。だから彼女の一族はユーリたちとは違う髪の色をしていて、上品そうというよりは気前のいい姉御肌の人だったと記憶している。オレンジゴールドの髪色で、確か目の色はユーリたちと似たコバルトブルーだった。
「ねえ、シリルが言っていた、『赤い目のイル・セーラを信用するな』ってやつ、どういう意味なんだと思う?」
それは単純にユリウスを信用するなという比喩なのか、それとも赤い目を持つイル・セーラ全般を指すのか。エドはアルテミオに視線をやった後で、本当に大丈夫なのか? とクリプトで、口元を動かして尋ねてきた。大丈夫だと頷く。
「これはあくまでも噂だけれど、赤い目を持つイル・セーラは、イル・セーラだけれど『違う種』とされている。アンリ王を裏切り、彼が処刑されるきっかけを作った一族で、アンリ王を処刑したノルマと番ったために烙印を押された、と」
昔話のようなものだと思うがと、エドがいう。ユーリは少し顎を上げて天井を見ながら考えた。仮に本当にそうだとして、イル・セーラの王政復権を望む理由はなんなのだろう? 自分たちが滅ぼしたという罪から逃れるため? ミカエラたちが追っている貴族たちと結託し、ノルマを滅ぼそうとしている? いずれにせよ考えることもやることもまともじゃない。
ユーリはわからんと一言言って、ごろりとベッドに横たわった。
やることが飛んでいる相手に正攻法は通用しない。本当に王政復権を狙っているのなら、ユーリとエドを確実に取り込もうとしてくるだろう。イル・セーラの……というよりは、既に継承者と共に王政を取りやめた場合、王政復権には同族の王族の承認が必要になって来る。イル・セーラの場合は、つまりオレガノだ。オレガノはイル・セーラが統治する国で、そして自分は本来ならその王族をも統治する血筋なのだという“仮定”が、もしも“仮定”ではなかった場合、ユーリ自身も、そしてオレガノをも揺さぶるために必要なのは、ーー。ユーリはがばっと身体を起こした。
「ミカエラはオレガノに戻っているんだっけ?」
「そうだよ。理由は言っていなかったけれど、直接調べたいことがあるからと」
「オレガノまでのアクセスって、船しかないんだったよね? 航路とかわかる?」
「いや、流石にそこまでは。旅客船と違い軍艦で帰還するだろうから、ルートが異なるんじゃいかな? 襲撃に備えてそうしているはずだよ」
アルテミオの説明を聞きながら、ユーリは口元に手を宛て、考えた。
正直に言って、接点が見当たらなかった。でももし、自分だったら、確実にオレガノ側を掌握するために、相手に対して憎悪、または異常なまでの執着心を懐いている相手を焚きつけ、オレガノの生命線、或いはオレガノにとって都合の悪いものを狙う。現状、オレガノとミクシアが抱えているのは国交問題と、たぶん、キアーラとミカエラの婚姻問題。前者に関わっているのは、オレガノ側と、ドン・クリステン。後者に関わっているのはオレガノ側と、ディアンジェロ家。そしておそらくアレヴィ大元帥。あの人には会ったことがないし、ふたりの婚姻に関してどう思っているのかは知らないけれど、ドン・クリステンをオレガノからこちらに帰還させ、同時にディアンジェロ公爵を特使としてあちらに派遣したということは、少なからず国交正常化をしたい派なのだろう。
ミカエラは確か、西側はドン・アゼルの息がかかっている者が多いと言っていた。ドン・アゼルに関してはきな臭さと胡散臭さしか感じない。たびたび収容所に訪れていたことは知っているけれど、イル・セーラを買いに来るというよりは、抱く権利を買っておきながら触れもせず、ただ別の相手と密談をしていた。ユーリがノルマ語を完璧に理解していることを知らず、なにかを話していた。そのなにかははっきりとは覚えていないし、毎回かがされる薬のせいでおぼろげだけれど、“アメディオ”という相手に対するディスりだったのは覚えている。収容所から出たあとで知ったが、そのアメディオというのはキアーラの父親のミドルネームだ。
リュカはこのパンデミアが計画されたものだと言っていたし、もしもそれが収容所で行われていた密談の内容だったのだとしたら、毎回のように薬を嗅がされ酩酊状態にされてから抱かれる理由にもなる。言葉を覚えられると困るからだ。収容所のイル・セーラたちは、そのほとんどがノルマ語を理解できなかった。言語形態の違いもあるが、書物のようなものは一切与えられなかったうえ、強制労働組は命令程度はわかっていても、看守たちの会話はわからない。わからないように、彼らだけが使う独特の言語があった。
当然、サシャとユーリはそれを知っていた。収容所に連れて行かれた時に、ユーリは身体の傷とショックから高熱を出してしばらく別のところで療養させられていたのだけれど、そのときに“フォルムラ語をしゃべる相手”から、その言葉を覚えさせられた。だからそれをサシャに教えた。周りに気取られないように、ふたりだけしかわからない言語で。その相手が誰だったのかはわからないけれど、声の雰囲気や甘さがアルテミオに似ているような、そんな気がしていた。
だから、この人は大丈夫だと思ったのかもしれない。だけどやっぱり、ノルマはノルマだ。そしてミカエラが同族だと雖も、きちんと線引きをしておかなければ、きっと容易にひっくり返される。
イル・セーラは単純で、駆け引きが下手で、扱いやすい。本当にノルマがそう思っているのだとしたら、やはりオレガノ軍をつついて情報を引き出すのがベターだ。
「オレガノの駐屯地、確か三箇所あったよね? アレクシスとベベはともかく、もうひとつのところは手薄なんじゃ?」
「もうひとつはベアトリスくんがいるところにほど近いし、医療班が待機している場所だから、手薄といえばそうかもしれないけれど」
「ジジ!」
ユーリの声に反応し、ジジががばっと身体を起こす。ふすふすと鼻息を荒くして命令を待つ。ユーリはジジにオレガノの駐屯地を三箇所偵察してくるように告げた。なにかトラブルがあるようならアレクシスたちに手を貸すように。ジジは頷いたあとで敬礼をした。
『Si,Sig.』
ジジは軽快な足取りでユーリの部屋を出て、開けっぱなしの窓から階下に飛び降りた。あっという間に見えなくなる。木から木へと飛び移って移動する様は、ある意味でチェリオよりも動物的かもしれない。
「オレガノの駐屯地がどうかしたのか?」
「あくまでも“可能性”の話。俺ならこの局面でオレガノ軍をつつく」
「准将殿が不在の時を狙うということは、駐屯地になにかが隠されていると踏んでいる……と?」
「オレガノ軍はわりときっちり仕事をするほうだし、ミカエラを見ていたら庶務が多い。日誌も書類もきっちりつけているとしたら、どこでなにが行われたか、そして“ドン・クリステンの偽物”が捜していた、俺がどこにいるのかを探るとしたら、そちらをつつくほうが早い。
ミクシア軍をつつくと困るなにかがあるのではないかと踏んだ。たとえば、ネズミの中にさらにネズミが紛れ込んでいる、とかね」
アルテミオに視線をやる。彼は表情を変えることなく、椅子の背もたれに身体を預けた。
「ウォルナットはガブリエーレ卿の領地だ。ジョスの偽物がここに訪れていたとしたら、きみがここにいることはわかっているけれど、手を出すことができない。ならばよりガードの固いオレガノ軍の駐屯地にきみを移送させるために、オレガノ軍の駐屯地のことを探っていた……とも考えられるね」
「さあ、わからないけど。でも、王制復権を望む理由をいくつか考えていたときに、もしもその理由がブラフだとしたら、真の目的はオレガノのイル・セーラとミクシアのイル・セーラを分断させることなんじゃないかと考えた。王制復権をしてしまえば、オレガノのイル・セーラはこちらに従わざるを得なくなる。
俺の生命線となるサシャがいないいま、狙われる可能性があるのはキアーラと二コラとエド。キアーラは生死不明だし、ユリウスはたぶんエドたちが生きていることを知らないし、二コラは軍医団の一員で、怖い怖いドン・クリステンの傍にいるから、直接的に襲われることはまずない。
だとしたら、キアーラは殺されずにどこかに監禁されているんじゃないかって思った。それに相手がどこまで掴んでいるのか知らないけれど、キアーラと同等の家柄の相手――元老院? だっけ? そこに所属している相手が絡んでいるとしたら、キアーラの婚姻相手がミカエラだってことが分かる。つまり、キアーラはミカエラ――オレガノにとっての生命線でもある」
「彼女は嫁いだとはいえディアンジェロ家の令嬢だ。もしその身になにかがあれば、公爵がだまっていないはず」
「その公爵様すら黙らせることができる血筋が、一つだけあるだろう」
アルテミオが眉間に皺を寄せて舌打ちをした。珍しくパラロッチャでくそっと声を上げる。
「だとしたら、やはり王家が絡んでいるのか」
「前からキアーラも似たようなことを言っていた。ドン・クリステンも、王の首を挿げ替えでもしないかぎりこの国は変わらない、ともな。
アンナの死んだ友だちって、第二王子のエディンのことだろ? リュカの古文書コレクションの中にあった」
「ちょっと待ってくれ、イル・セーラの王政復権を、ノルマの王族が望んでいるってことか?」
「そうじゃなくて、小説とかでよくある話。傀儡政権っていうの? 誰かが裏で操って、イル・セーラの王政復権とともに国家転覆、つまりはノルマの王族を消そうとしているってこと」
アルテミオがやれやれと言わんばかりの顔をした。どうもきみは余計なことに頭が回りすぎると声色を低くする。
「ずっと気になっていたんだけど」
ふいにエドに話しかけたとき、エドがなにかを警戒したように見えた。いつもの穏やかな雰囲気にほんの少しだけ緊張が乗る。
「エドはアルテミオには警戒心がないようだけど、なんで?」
ノルマだし、軍部の人間なんて、一番嫌いそうじゃんと何食わぬ顔で言ってのける。ユーリ自身が懐いているからという理由ではないことくらいはわかる。
「収容所によく来ていた軍医だし、足の怪我を診てくれたのは彼だ」
「あー、なるほど」
それにしてはとは言わなかった。アルテミオにはこちらに対する敵意がない。だからといって警戒心を緩めるほど、エドは単純ではない。エリゼはノルマではなくプロエリムだし、ナザリオに懐いているふりをしていたのは『生きていくため』だ。いまのところなんの関わりもないであろうアルテミオの前で、エドが落ち着きのある態度を見せるのが不思議だった。
「それと、ここのノンナたちの往診もしてくれている」
ノンナと聞いて、ヤギの飼い主一家のことを連想する。彼女はエドがよく手伝っている裏の畑の所有者らしい。なるほどと内心する。
「リュカじゃないんだ」
「リュカくんはあくまでも『ここの領主』という立場を貫いている。ここでは大学も、医師も関係なく、ただの自分でありたいようだ」
納得したような余計に疑問が増えたような声でふうんと言った。リュカはなんでも器用にこなしそうだと思ったからだ。ドン・クリステンほど太々しくはないけれど、立ち回りが巧い。そもそも、権威なのに有事に大学にいないことが気になっていたけれど、リナーシェン・ドクなら最期の砦だし、大学の研究室よりもここで研究をしたほうが捗るとか、リュカならそう言ってしまいそうだ。
ここに来てリュカが黒幕だ……なんてことはないだろうと思いつつ、いくつか気になる点がないこともない。
「そうそう、あのあとジジとチェリオがジョスの偽物のにおいを追って地下通路に入ったそうだ」
アルテミオが言う。そうなの? と意外そうに声を弾ませると、でもねとアルテミオが肩を竦めた。
「やはり相手も馬鹿じゃない。においを撹乱するための薬を散布されていてジジの鼻は役に立たなかったようだけれど、彼は夜目も利くようで、ところどころ残る血の跡を追って、逃げ込んだ場所が判明したそうだ」
どこだと思う? と、アルテミオ。
オレガノ軍の駐屯地付近には、ディアンジェロ家所有の迎賓館がある。それ以外の大きな建物は大体が下流階層街の住人の所有物だし、そのまま地下通路を抜けて中流階級層街に逃げた……とかだろうか。
「まさか迎賓館ってことはないだろうし、スラム街に逃げたか、中流階級層街に逃げたとしか」
「中流階級層街の、ピエタの派出所だ」
ユーリが眉を顰める。
「ジョスがいないことをいいことに、彼は何食わぬ顔で指示を出しに行ったようだ。オレガノ軍の駐屯地付近に不審者が出没するらしいという報告を受けて、数名の下部組織が洗いに来たと中尉殿が言っていた。だからきみがオレガノの駐屯地にいることがバレることを懸念して、早急に引き上げさせたようだよ」
さすがにオレガノ軍は勘が鋭いねとアルテミオが笑う。
「でもオレガノは100年以上どことも戦争をしていないって言っていたのに」
何故あんなに強いんでしょうねとエドが言う。
「軍事演習もしているって言っていたけど、流石にそれだけじゃ感覚は身につかないよな」
「オレガノ軍の厳しさは、周辺国では随一だからね。それに特定の病気を持った国民以外は全員徴兵され訓練される。といっても、基本的な闘い方と、解毒や治療に使う薬草の調合法法の指導、それから有事の際の退避の仕方等を叩き込まれるらしいよ」
マジかとユーリが口の中で呟く。あの人たち、あんなにわちゃわちゃしているのに、ちゃんと仕事してるんだとユーリが言うと、アルテミオが困ったように笑った。
「彼らはオレガノ軍の精鋭部隊だけれど、上には上がいる。『あの』准将殿でも数十回に一度しか勝てない相手が3人いるらしい」
「あんなに簡単にジジをねじ伏せていたのにですか?」
エドが驚いたような顔をする。どうやらエドも見たことがあったらしい。どこで見たの? と尋ねると、Sig.カンパネッリをダガーで襲ってクソほど怒られていたと答えた。むちゃくちゃ見たかった。そんな騒ぎが起きていたなんて知らなかったと、ユーリ。たぶん自分が眠りこけていた間の出来事だろうと推測する。
「今度ジジにニコラを襲えって言っておこう」
「どうだろうね、准将殿をボス認定しているから、飼い主はきみでもボスは准将殿だ。この間のように、天秤にかけて言うことを聞かないのでは?」
「え、また食べ物に負けたりするやつ?」
おそらくねとアルテミオが笑う。
「それ、敵に食べ物をちらつかされて寝返ったりしないんですか?」
エドが不安げに言う。ちょっとそれは気になっていたけれど、ジジはそのあたりはちゃんと躾けられているようで、ボスや飼い主の敵には絶対に尻尾を振らない。つまりジジが興味本位で攻撃を仕掛けようとするだけならいいけれど、飼い主やボスの危機に攻撃を仕掛ける相手は敵のリスクが高い。
そう説明して、引っ掛かりを覚えた。最初にアルテミオがこちらにやってきたときに例の発作が起きた時、ジジはアルテミオを攻撃しようとしていなかっただろうか。あれは突然のことに驚いたのだと思ったけれど、もしそうじゃないのだとしたら、ーー。
そう思い、アルテミオを見上げる。相変わらず敵意もなにもない。穏やかな笑みを向けられて、そんなわけないかと気持ちをきりかえた。
ともだちにシェアしよう!

