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Epilogue

 翌朝、ふたりして始業開始時間の数秒前に会議室に滑り込んだ。  理由は至極簡単だ。あのあと、ああでもないこうでもないと言い合って、ぎゃあぎゃあ言い合っていたら見回りの当直の人にちょっと怒られた。仕方がないから二コラを部屋に招き入れ、お互いに冷静に話し合おうという話になった。  それで暫くは本当に冷静に話をしていたのだけれど、その均衡を破ったのは二コラだった。いつもは自分だ。でも、二コラからだった。  イル・セーラが親の名を継いだら前の名前はないも同然だというのを誰かから聞いたのか、それとも自分が言ったのかはわからないけれど、唐突にそれを尋ねられた。 ――「お前の本当の名前は?」  そう言われて、どきりとした。  自分の本当の名前は、家族しか知らない。言ってはいけないという決まりになっている。  サシャには言っていないけれど、一度だけ、自分の昔の名前を教えたことがある。その人の前でだけは、自分でいたかったからだ。ずっと“ユーリ”の名前が付き纏う。銀髪のイル・セーラだということが付き纏う。それを抜きにして、ユーリとしてではなく、自分を見て欲しかった。  あの人が戻ってこなかったのはそのせいかもしれない。過去の名前だ。自分の名前だけれど、自分の名前ではない。家族以外の誰にも話してはいけないと言われて、でも約束を破った。その人の家族になりたかったからだ。ずっと一緒にいたかった。  サシャもだ。その名前を呼んだせいで、あんなことになった。あの名前は外では使わないほうがいい。そう判断して、自分の本当の名前はミカエラにも言っていない。もちろん、ニコラにも言うつもりがない。  理由は伏せて、「それだけは勘弁」と言ったら、喧嘩になった。なんでそこで大人しくわかったと言ってくれないのか。相手が独占欲の権化たる二コラだからだ。「察しの悪い男は嫌いだ」と言ったことを皮切りにバトルになって、口では勝てないと思ったのか、二コラにキスをされた。  あとはもうそのままなし崩しだ。「さっきまでのしおらしさはなんなんだ」「てめえマジでふざけんな!」と、本当にセックスの最中なのかと思うようなワードが飛び交った。罵倒をしてもやめない二コラは本当にマイペースだし、空気を読まない。逆に二コラが空気を読んでいたさっきまでがやっぱりエラーだったのだと内心しつつも、本当にやめる気配のない二コラに好きなようにされた。本当に、気が済むまでいいようにされてやった。  不思議と嫌じゃなかったし、自分がなんで二コラに初めて抱かれた時に『恋人同士のように愛でられて素で泣いて嫌がった』のかもわかった。    本当に薄情だ。それがユリウスの目的だったのかもしれないけれど、二コラに抱かれながら不意に思い出した。あの人に初めて抱かれた時に、収容所のゲストたちにされるようなこととは全く違って驚いた。本当に慈しむように触られたし、痛いと感じるようなことはなにもされなかった。その感覚を教えてくれた人と、同じような触れ方をされて、あの人とは違う人から、同じような感覚を味わうのが嫌だったのだと思う。  あの時はまだしも、今回は腹の立つことに嫌ではなかった。そしてあんなに人をいいようにしておいて、二コラは結局最後までしなかった。  なのになぜ、朝が起きられなかったのか。ずっと睡眠不足が続いていたせいか、大体いつも6時前には目が醒めるというのにびっくりするほど寝てしまった。そして二コラはユーリが6時くらいに起きると言っていたことをあてにして、目覚まし時計を掛けなかったのだ。ふざけているにもほどがある。  歩いて数メートルの距離を大声で文句を言い合いながら来たせいか、ドアを開けた瞬間に視線がこちらに向いているのに気付いた。二コラを睨んでどんと足を蹴る。 「あんたのせいだっ」 「人のせいにするな」  自分が起きなかったんだろうと、二コラが言う。そんなことを言ったら、一緒にいたのがバレバレだ。もう一度二コラの足を蹴って、先に会議室に入った。  自分はいつものことだけれど、二コラは意外過ぎる。そもそも二コラは遅刻などしない。昨日と同じネクタイなのに気付いたのか、ドン・ナズマがそれはもういいおもちゃを見つけたとばかりにニヤニヤ笑っていた。 「おやおやー、二コラくん、ユーリくん、お早いご出勤で」  ムッとしてドン・ナズマを睨む。ユーリの反論を阻止したのはリュカだった。 「入り口に辞書を放置したの誰? 貴重なものなんだから」  どうせユーリだろと、リュカが言う。辞書? と首を傾げたら、リュカがこちらに近付いてきながら見覚えのある辞書を片手に軽く揺らした。 「出したら直せよ。子どもでもわかるように、管理番号を振っておいてあげようか?」  冗談めかした口調でリュカが言った。ぽんと辞書を手渡してくる。フォルムラ語の辞書だ。そういえば、あのあとで散々言い合ったせいですっかり忘れていた。俺じゃないと言おうとしたら、二コラが気まずそうに軽く右手を上げた。 「申し訳ない、俺です」  二コラが言った途端、全員の視線がこちらに集まった。みんな驚いたような顔をしている。ざわざわという表現がふさわしいほどざわついている。「ニコラが忘れた?」とか「Sig.カンパネッリでも置き忘れとかがあるのか?」とか、みんなが口々に言っている。それがおもしろくて口元を手で隠して笑う。普段クールぶっているくせに抜けているし、むっつりスケベだし、仕事の時には適切な判断をするのにいつもはマイペースな鈍感だ。みんなの中の「Sig.カンパネッリ像」を粉々に崩してやりたい衝動に駆られる。 「ニコラくん? どうしたの? 悩みでもある?」  ドン・ナズマがいつものふざけた口調ではなく、真剣に問う。 「きみが時間に遅れたり、物を置き忘れるだなんて、これはもう事件だよ」 「本当に大丈夫? まだ毒の影響が残ってるんじゃ?」  リュカも心配そうな面持ちで二コラに尋ねている。堪えきれずに笑うユーリの足を二コラが蹴った。 「いえ、ただの置き忘れで」 「置き忘れ!!?」  嘘だろ! あのSig.カンパネッリが!? と会議室がざわつく。  大変だ、なにかが起きるぞ! と、昨日ドン・ナズマの隣にいた人――Sig.リディオが声を上げた。みんなが口々にいろんなことを言っている中で、アルテミオまでもが悪乗りする。 「あれだな、一番嫌なのはオレガノ側と拗れる」  一瞬室内に静寂が訪れた。そりゃそうだろう。ミカエラがいる。それを分かってアルテミオは言っているのだ。 「ボス、滅多なこと言わないくださいよ!」 「そうだよ、そもそもこんなことになったのはあなたがミカエラを怒らせるから!」 「ひどいな、俺のせいじゃないよ。あの腹黒貴族が全部仕組んだことだったって説明しただろう」 「オレガノと拗れた場合、コマンダンテはどっちに付くんですかね?」  Sig.リディオはアルテミオとおなじ愉快犯だ。ちらりと視線を向けられる。 「俺?」  えー、どうしよっかなーと言いながら、状況が飲み込めないミカエラに近付く。ミカエラは不思議そうな表情で顔をあげて、眼鏡をはずした。 「どちらでも構いませんよ、この一年半はあくまでもミクシアの補佐官ですから」  ミカエラが言う。意外なセリフだ。火の海にしますとは言わなかった。ユーリはミカエラを見下ろして、うーんと声を出す。 「どっちにもつかない」 「本国を攻めるとして、ミクシア側から見るとどこが弱点かがわかるいいチャンスなのに」  ミカエラが真顔で言う。それを聞いていたSig.リディオが瞠目するのが見えた。ミカエラはこういうやつだ。本当に拗れた時のことを想定してここに入り込んでいるに違いない。 「オレガノと拗れるよりも怖いのは、唐突にフィッチが攻め込んでくることじゃない? 俺が向こう側ならそうするし、第一その“腹黒貴族”はそれを見越したうえでオレガノに行ってるんでしょ?」  みんな黙ってるけど、騙されないよと笑みを深める。一応は機密事項だ。二部のコマンダンテと言ってもあくまでも学生の身分だし、国家機密に関わる重要事項等はこちらにはおりてこない。だからミカエラが普通に入り込んでいるという背景がある。おそらくは監視等の様々な役割があるはずだ。「スパイ楽しそう」とキアーラが言っていたし、本人も珍しく楽しそうに「こういうのをやってみたかったんです」と言っていた。本当に似たもの夫婦だと思う。 「まあもし本当に拗れることになったら、オレガノに派遣されたミクシア側からの特使がなにかをやらかしたという以外はないだろう」  アルテミオが明朗に笑う。ブラックジョークが過ぎるとドン・マルケイに叱られているのに視線をやったあと、ユーリはまたミカエラに視線を戻した。  ミカエラがきょとんとしているのがわかる。何故急にみんなが騒ぎ始めたのかの理由がわからないらしい。そりゃあそうだ。自分はうわさでは聞いたことがあったけれど、本当にここまで二コラがいじられキャラだとは知らなかった。  「ニコラが物を置き忘れるということはないに等しいから、天変地異の前触れだとみんなが騒ぐ」と小声で伝える。ミクシアでひと騒動あったときにも、二コラがレナトに逆らってまでユーリを保護しようとしたことを「国が亡びるんじゃないか」と誰かが冗談で言ったあとにパンデミアが起きたものだから、「あれはSig.カンパネッリの呪いだ」と冗談で言われていたらしいとも告げると、ミカエラが「ああ、なるほど」と冷静な声で相槌を打った。  みんながざわざわと話しているなか、ミカエラはまたデスクに視線を落として黙々と仕事をしはじめた。 『最年少が仕事をしているのに、おじさん連中はにぎやかだな』  フォルムラ語で、ミカエラにだけ聞こえるようにいたずらっぽく言ったら、ミカエラがふふっと小さく笑った。ミカエラが笑うなんて珍しい。 『不思議なほど自分でも違和感がないと思っていたのですが、オレガノの執務室もこんな感じですよ。ただただうるさい』 『うるさいの?』 『うるさいですよ。アレクシスとイザヤが大体なにかを揉めています』  「騒がしいとは思うけれど、平和な証拠ですよ」と、ミカエラ。年少者からこんな揶揄を受けているとも知らずにわいわいやっている人たちを見ていたら、笑えてきた。 「そういや、ベアトリスは?」  いつも隣にいるのに、今日は姿が見えない。よくよく部屋の中を見渡したら、いつものメンツの半分しかいない。 「ベアトリスはウォルナットです。なんでも、緊急招集だとかで」 「緊急招集?」  ユーリが声を出したからだろう。アルテミオが時計を見上げ、パンパンと手を叩く。 「昨日の帰り際に話したとおり、今日はウォルナットから助っ人を連れてくることになっている。地下街への入構許可証は既にSig.ベルダンディが手配済みだ」  だから昨日は遅くまで残っていたのかと思う。なにも言わないから知らなかった。 「ここにいない方々は現在秘匿任務中。数週間以内には戻ってくる手はずだから、それまでの間は割り振った隊が業務サポートをしてほしい。  病院勤務がある者は、この計画に関わらなくていい。“もしも”があってはいけないからね。ただ、どうしても協力をしたいという場合には申し出てくれてもいいよ。執務というプレゼントをあげよう」  アルテミオが明朗な口調で言ったら、また笑いが起きた。 「ドン・フィオーレはすぐサボろうとする」 「ボス、それって自分が楽したいだけでしょう?」 「俺はユーリに着いて地下街に降りるのだから、当然でしょう。ああ、楽しみだなあ。子どものころからの夢だったんだよね」  地下街に降りるのが? と、ユーリが目を瞬かせた。上流階級の人たちは、やっぱりどっか飛んでいるなと思う。自分が見聞きしたことのないものに触れるのは確かに楽しいけれど、実際に過酷な経験をした人からしてみれば、楽しくはない。  アルテミオが言っているのは、たぶん遺跡のことだ。趣味で考古学を学んでいたと言っていたし、地下街は治外法権でスラム街の住人たちのアジトになっていたから、長らく手が付けられなかったのだと話していた。職権乱用だ。 「ユーリくん、あとでスタンバトン貸してあげるから、ボスが『帰らない』ってごねたらバチっとやっちゃっていいからね」 「え、スタンバトン触っていいの?」  前から触ってみたかったんだと声を弾ませる。 「ドン・ナズマ、ユーリに変なことを教えるなと言ったでしょう」 「スタンバトンくらいいいじゃない。なにもあげるとはいってないし」 「分解したら危ない? てかどんな仕組みになってんの? 一回分解したらもう使えないやつ?」  最初にもらった小っちゃいやつ、じつは分解して壊しちゃったんだよねと声を弾ませたら、二コラが大げさな溜息を吐いた。 「ほら、出た。ユーリの分解癖」 「ああ、すごい既視感だ。ユーリくん、きみちっとも変わっていないね」  Sig.ベルダンディのほうが大人じゃないかと、ドン・ナズマ。ミカエラがどこか意想外な顔をして、眉間にしわを寄せた。 「あれを分解されたのですか?」 「そう、した。絶縁対策甘かったから超痛かった」  でもあの電圧じゃ気絶はしないよと、何食わぬ顔で言ってのける。収容所の体制が変わる前は出力最大のスタンバトンでぶん殴られることも多々あった。だからミカエラがなにを気にしているのかがまったく分からない。 「ドン・ナズマ、コマンダンテに分解可能なものを与えないように」  与えないようにとか、犬扱いかよと突っ込む。ミカエラはしらっとした表情で「そうは言っていませんが、一歩間違えれば感電事故を起こします」と冷静に言ってのける。 「俺が話の腰を折っておいてアレだけど、話を戻すね。  こちらに残った者は通常業務でいい。ドン・マルケイが“会議をやっている”と見せかけてくれるそうだ。政府と軍部からは、軍医団は当面の間スラム街の事後処理と下流層街の土壌調査及び改善をするようにとお達しがあった。  それで、今回スラム街に赴くのは、最少人数にしようと思う。  ウォルナットからはチェリオ含む元スラム街の住人たちが、こちらからは俺とユーリ、そしてベアトリスくん」  ベアトリスくんは一足先にウォルナットの人たちを迎えに行っているよと、アルテミオが継ぐ。 「ニコラは念のためにスラム街へは立ち入り禁止。向こうで温泉水を必要量を採取して来たら、一旦こちらでどのようにして蒸留するのか等をレクチャーしてもらう。  それが終わったら、仕事が終わった人たちから順番に、みんなで楽しい実験大会でもしようか」 「実験って?」  ユーリが目を輝かせる。リュカがすぐに「ここからはぼくが」と手を挙げた。 「政府を黙らせるのに少し時間がかかってしまったのだけれど、無事にソルプレゾンの改良版の許可と、カナップの使用許可を出させてきたよ。それからほかのグレーからほぼブラックにゾーニングされていた薬草に関しても、オレガノの薬草学者を招聘したということにして、ラカエルに手伝ってもらって使用許可を出させた。政府はまあまあの及び腰だったけれど、ぼくの全権力を使って嚇しておいた」  全権力という言い方が怖い。 「さすがにブラックなものはダメだよ。王宮の使いからは、国民の安全が保障されるのであれば、デティレの使用も可としてもらった。  ただね、ユーリ。きみが軍医団に来てから提唱した“あの”薬草だけはダメだって」  あの薬草と言われて、きょとんとする。なに使ったっけ? とミカエラに振ると、ミカエラもどうもピンときていないらしく、首を傾げた。 『デスグヴォラのことでは?』 『ああ、あれか。毒見頼まなかったっけ?』 『絶対に嫌だと申したはずですが』  ああ……と、遠い目をする。未だに苦味に対する感覚が戻ってこないから大体ミカエラかニコラの舌を犠牲にするのだけれど、それを抜きにして提出したのかもしれないと思う。 「王様にごめんなさいって言っておいて」  王様の体にもいいと思ったんだけどと継ぐ。でも不味いものは不味いし、味ばかりは改良の使用がない。 「アンナがきみの特性含めて説明してくれているから、大丈夫だとは思うよ」  リュカがユーリに視線をよこし、「彼はね」と含みのある言い方をする。 「ああ見えて強かで抜け目がないから、みんなも騙されないように気を付けたほうがいいよ。  『中和剤がつくれない』とか『もうなにもしたくない』とか『打つ手がない』とかぼやきまくったり、研究に煮詰まって変なもの食べるみたいな一見アホみたいな行動をとっていたのは全部、ウォルナットの住人には何故ファントマやアルマの感染者がいないのかを確かめていただけだった」  いつ聞いても聞こえのよい歌うようなしゃべり方だと思う。流暢に告げるリュカに横槍を入れる。 「ひどい言い草だなァ。『中和剤を作るなんて俺には無理』ってしょげてたことも付け加えて」  泣きの演技巧かったでしょと、ユーリが余裕ありげに笑う。リュカは心底呆れたような顔をして、ホールドアップした。 「まあそのおかげで、ウォルナットでは海藻をよく食べることと、ウォルナットの住人の水源となっているものが地下街の例の水源と同じなのではないか……ということが分かった。でもあくまでも仮定だ。調べることは不可能だし、隠されたものを暴くことはもうしないほうがいい。  だから、地下街に行って例の水をとって戻ってきたら、みんなでカナップの蒸留水を作ろうかなって思ってるんだ」  カナップの蒸留水と聞いて、一番先に反応したのはドン・マルケイだった。 「本当に政府は許可をくださいましたか?」 「ご安心を、ドン・マルケイ。製造方法等は軍医団が厳重に管理し、人体に影響のない部分を使用する旨をお伝えしてあります」  ミカエラが冷静な口調で言う。オレガノ側がそうおっしゃるならと、ドン・マルケイ。 「大丈夫だと思うよ。カナップの安全性はオレガノが証明してくれた。根や茎をあぶって使ったところで、少量なら影響が出ないらしい。  だからこの過程を取りまとめて、政府と軍医団長、団長とそれらを作る施設の許可が出たら、晴れていままでよりも安全な薬品の出来上がりだ」  ミカエラを見下ろす。ミカエラが協力してくれたとは思わなかったからだ。ミカエラが発言の許可を得るために小さく左手を挙げた。 「ああ、そうか。どうぞ、Sig.ベルダンディ」  アルテミオに促され、ミカエラが立ち上がった。正式な会議ではないから立たなくてもいいのにと思っていると、その場で軽く頭を下げた。 「本来でしたらオレガノはここまで介入するつもりがなかったので、多少窮屈な思いをさせてしまっていたら申し訳ありません。  ですが、Sig.オルヴェの一件でオレガノ軍の“ものぐさ”がやる気を起こし、フィッチ攻略のための糸口を探りに行きました」  オレガノ軍のものぐさと聞いて、浮かび上がるのはアレクシスだ。だからレナトと一緒にオレガノに戻ったのかと思う。 「ミカエラ、そんなことまでしゃべっていいの?」 「構いません。同盟国ですし、わたしがここにいる時点で秘密は共有されてしかるべきだと思います。  自分の補佐官を悪く言うつもりはありませんが、彼は能力こそあれど明確な目的がなければ動かない主義です。そんな彼が動くということは、交渉の余地を見つけたか、仮にフィッチが攻めてきた際にミクシア軍との連携があれば、抑え込めるのではないかと考えたのではないでしょうか。  ミクシア政府に対する干渉は聊か過干渉だったと自省の念に駆られる部分もありますが、薬草に関する許可を政府に出させたのは、オレガノからみなさんへの謝辞代わりです」  なるほどと思う。ミカエラは言いたいことだけ言って、また椅子に座った。二コラ以上の超マイペースだから、周りが騒いでいようがお構いなしらしい。本当にユーリよりも大人だとか、人ができているとか、ムカつくことを言われているこっちの身にもなってほしい。 「ま、そういうことなんだよね。  ということは、だ。朗報だよ、みんな。いままで政府が散々渋っていた薬草の研究もし放題。こっちにはユーリもいるし、Sig.ベルダンディ、そしてSig.パーディもいる。政府が『薬が売れなくなる』って青くなるほど、好きに研究をしちゃってくれ。ただし、ブラックゾーニングされたものはダメだよ。使ったら即刻収監だからね」  「Sig.リディオ、ユーリ、特に気を付けるように」とアルテミオが笑う。Sig.リディオが苦笑を漏らすなか、ユーリはひとり目を輝かせていた。薬が売れなくなると困るなら、薬も売れるように改良してしまえばいいのでは? そう考えたのが分かったのか、ミカエラが小さく咳払いをした。 『余計なことをなさらないように』  小声で、ぴしゃりと言われる。バレていたらしい。 『既存の薬の改良をして、より安価なものを作ったら、民間療法が好きな人も、医療に頼りたい人も、win‐winじゃない?』  そう言ったら、ミカエラから冷めた視線を向けられた。 『ダメです』 『なんでだよっ?』  ミカエラのケチと詰ったら、ふいと視線を逸らされた。 『そんなことを提案したら、一生ミクシアから出られませんよ』  それは困る。うげっと嫌な顔をして、軽くホールドアップした。 『やめとく。とっととフォルスに帰りたい』 『でしたら大人しくしておいてください。ぼくがここに残されたのは、あくまでもあなたのサポートと監視ですから』  はっきりと告げられて、ユーリは「はぁい」と素直に返事をした。  アルテミオが各自業務に移ってねと、なかなかにラフな締め方をする。それを聞きながら、ユーリはふとリュカから渡された辞書を持っていたことを思い出した。  随分古い辞書だ。フォルムラ語の辞書なんて、オレガノが作ったものだから20年どころではないほど前のものだろう。ぱらぱらと捲って、小さく笑った。文字の横にノルマ語で訳が書いてある。丁寧な字だ。くせがなくて、流れるようなそれを見て、なぜだか急に懐かしくなった。  辞書の見返し部分に文字がある。フォルムラ語と、あの“言語”で、「レオネ」と書かれている。レオネと口の中で呟く。じわりと視界が滲む。それを手で拭って、指先でその文字をなぞった。 「どうされました?」  ミカエラが尋ねてくる。なにかを察した二コラが近付いてきた。 「なんか、すごく懐かしい気がして」  なんだろうと思う。いま、自分がミクシアに来て、一番安心している気がする。 「レオネ……。ドン・クリステンのことでは? あの方はドン・フィオーレの母方の姓を使って、『レオネ・ジョス・クリステン』と名乗っていただろう」 「あァ」  確かにと言ったあとで、もう一度その文字をなぞる。レナトに初めてであって、その名前を初めて聞いたときに、懐かしいと思った。響きが似ていると思った。そう感じたのは、気のせいじゃなかったようだ。  どうしてそんなふうに思うのかが分からない。だけど妙に胸が暖かい。「ねえ」とアルテミオを呼ぶ。アルテミオが不思議そうな顔をする。 「これ、俺にくれない?」 「フォルムラ語の辞書をかい? いいけど、きみは喋れるだろう。本棚にしまっておくよりも、きみが使ってくれるなら、そのほうが本が喜ぶかもしれないが」 「これがいい。くれるんだったら、ちゃんと言うこと聞く」  二コラが自分を手放したくないと言った意味が、いまならわかる。この辞書を書庫に帰したくない。またじわりと涙が滲む。アルテミオが慌てたようにこちらに駆け寄ってきた。 「どうした?」  わかんないけどと、小さく首を横に振る。 「なんか、やっと出会えたって、そんな気がするんだ」  その古びた辞書を涙で濡らさないように、ユーリはその辞書をしっかりと胸に掻き懐いた。

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