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Seventeen(7)

「鈍感なのは認める。でも、いつもにない顔をしていたり、普段言わないことを言ったりしたら、誰だっておかしいと気付く」  普段別れ際におやすみなんて言わないだろうと、ニコラが神妙な声で言った。言ったっけ? と思う。涙を拭いながら記憶をたどるけれど、よくわからない。無自覚だったのか、他所事を考えていたのか。  ミカエラは気付かなかった。アルテミオもだ。一番気付きそうな二人には隠し通せたのに、こういう時に限って二コラは嫌に敏感だ。 「気付かないふりくらいしろよ」 「そうすると、後悔すると思った」  二コラが淡々とした口調で言う。でも、そこにはいつもうっすらとあった迷いがなかった。 「この感情の正体に気付きたくないから、だから突き放したのに、なんであんたはそうやって、簡単に俺の中に入ってくるんだよ?」  言いながら、涙が溢れるのが分かった。ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。たぶん、自分はこの感情の正体を知っている。知っているけれど、忘れていた。いや、忘れようとしていた。あの時と同じだ。嫌というほどわかる。 「俺が好きだった人たちは、みんないなくなる。“ユーリ”も、アマーリアも、サシャも。みんなおれのせいで死んだんだ」 「それは違う。大きな渦に巻き込まれただけで、なにもユーリが引き起こしたことじゃない」  違うと言われても、自分がそう思っているのだからそうなんだと、もう子どもの我がままかと思うような言い分を吐き捨てた。ウィルに毒が付着したダガーで傷を付けられたあとで、ベアトリスたちに「王様の気分を味わいたかった」と冗談めかして言ったけれど、あながち冗談でもない。  アンリ王が何故旧王朝を崩壊しようと思ったのか、そして何故第二継承者が先んじて四方を海に囲まれたオレガノで国を作り、発展させたのか。それはなぜかと思っていたけれど、いまならわかる。  リュカがオレガノとの取引で自分の血液サンプルをオレガノに提出したことで発覚したが、ミカエラと自分では、毒の代謝の速さがまったく違うと分析結果が出たらしい。それはつまり、ユーリ自身が本当に第一王族の末裔だと証明されたことになる。そしてその時点でオレガノの第二王子とは別人だということにもつながる。だからそれ以上の検査結果は知らないとミカエラが言っていた。  第一王族はあらゆる毒の血清を体内で合成できることから、常に戦火に追われ、山や地下に国を作った。侵略されないように、或いは見つからないように。  その毒の獲得の仕方は非常にシンプルだ。“毒を摂取させ続ければいい”。“ユーリ”が毒物を見つけては喜んでいたのはそれだ。ただ、記憶にないだけなのかもしれないけれど、“ユーリ”は自分とサシャにその毒物を摂取させたことは一度もない。一度もないのだけれど、ウィルが言っていたように、小さい頃に自分に毒を飲ませたということが本当なら、あれからすべてが変わった。  自分が熱を出したせいで、サシャがクロードの家に預けられていたというのは嘘だ。本当は当時の最年長者が、毒を飲まされたユーリに“細工”をするようにあらゆる毒の獲得をさせたのだと思う。イル・セーラは年長者の発言権のほうが強い傾向にある。いまはそうでもないし、フォルス外の住民にはさほど根付いていないかもしれないけれど、フォルスの文化は古いし、固い。  ミカエラが持ってきた、ネスラミルクで作るデザートを食べた時に、アマーリアの膝に乗せられてあれを食べた記憶が浮かんだ。あれは自分にとってはアマーリアを思い出せる唯一の記憶だったのだけれど、別の日に夢で見たのは、笑顔ではなく泣いているアマーリアだった。  自分の血のせいで、そういう小さな思い出すらも奪われるのなら、もういっそのこと死んでしまったほうが楽だと思った。たぶんそれは、アンリ王も同じだったと思う。争いが起きるたびに仲間が死ぬ。自分たちはただ静かに暮らしていきたいだけなのに、その血の伝説や、銀髪のイル・セーラのうわさを聞き付けた人たちが国内外から訪れて、国民を攫って行く。  だから堅牢な壁と城を築いたが、今度はその城を狙って争いが起きる。それならいっそ、王朝そのものを潰し、すべてを隠ぺいしてしまえばいいのではないか。  そのあとでアンリ王そのものが死ねば、誰かがオレガノの存在に気付かない限り、種族そのものは保たれる。それがアンリ王の判断だったのだと、自分ならそう解釈する。  だけどイル・セーラは自死ができない。自死はできないけれど、毒物の代謝も無限にできるわけではない。代謝しきる前に別の強い毒物を摂取させられたら、いずれはオーバーフローを起こす。でもきっと、100年以上も前の人だから、いまのイル・セーラよりももっと古代イル・セーラに近いから、それでなかなか死ねなかったのだと思う。  孤独だっただろうし、自分の判断のために結果として同族に手を汚させる結果になったことを、きっと嘆いていると思う。ミクシアに残った王族の末裔たちがどこまで知っているのかはわからないけれど、オレガノの王族たちは言われた通りに本当にそれを隠ぺいした。だから第一言語と第二言語で書かれたあの本がある。オレガノが守られているのも、発展しているのも、たぶんだけれど、アンリ王と第二継承権を持つ人の忠告をきっちり守っているからだ。  だけどオレガノの第一王子、第二王子と続いて、ミカエラまで死にかけたのは、たぶんオレガノがその一線を破ったからだ。アンリ王は血筋のことで同族が争いに巻き込まれないようにと自ら幕引きをしたというのに、19年以上前に、ミクシアのイル・セーラをオレガノに移送しようとしたことをはじめ、同族保護のためとはいえ、争いの火種に手を貸したからだ。  たしかに、自分は悪くないと言われれば、そうだ。自分だってそう思った。だけど、自分自身がいなければ、生まれてこなければ、子どもの頃に毒で死んでいれば、こんなことに人を巻き込まずに済んだ。  なにか他所事を考えていると悟ったらしい二コラが、「話を聞け」と語気を強めた。 「おまえは否定するだろうけれど、その判断で多くの人が救われているのは事実だ。俺だってそうだ」 「でも死にかけたじゃないか」 「だけど、ユーリのおかげで助かった」  言って、二コラに抱き締められた。ふわりと甘い香水の香りがする。あの人が訪れるときに付けていた、あの香りとおなじ。覚えていないのに、表情も、声も二コラとは全然違うということだけはわかる。ただ、自分に向けられるその感情は、似ている。同じではない。同じではないけれど、ほぼ等しい。 「じゃあなんであの人は帰ってこなかったの?」  不意に口を突いて出た。 「また来るって言ったのに、なんで?」  名前すら思い出せないのに、感情だけははっきりと思い出せる。行ってほしくなかった。もう二度と会えないような気がして、引き止めたかったけれど、あの人の仕事だからと割り切った。どこかべつの国にいるのか、それとももういないのかもわからない。名前も顔もわからないのだから、確かめようがない。ただ、王様とよく似たサマーグリーンの、人柄が表れているような、暖かさと穏やかさを持った目の感じだけはよく覚えている。瞳の色は違うけれど、敵意のない、そして正直で噓の吐けない目は、二コラとも似ている。  二コラはなにも答えなかった。ただ、抱き締められる腕に力が籠る。何度も、何度も頭を撫でられる。これが答えに困ったからではないことくらい、わかる。理由なんて、ふたつしかない。それが分からないような自分ではないし、あの時はまだ子どもだったから、その理由が分からなかった。来てくれると言ったのに、来なかった。嘘は吐かないと言ったのに、嘘を吐いた。たぶん本当にあの人がいることが嬉しかったのと、来てくれることが楽しみだったからこそ、人に裏切られることの辛さを思い知った。  見て見ぬふりをしているだけだ。来なかった理由なんてわかっている。あの慌ただしさはなにかがあったと言っているようなものだった。でも奴隷にはなにも知らせられなくて、あの日を境に、あの人だけじゃなく、自分たちに優しかった看守たちも、いつも横暴な態度を取っていた看守たちも少しずつ来なくなって、やがて収容所が解放された。  解放された時に、イル・セーラたちは一度収容所で全員あらゆる検査と、傷の処置をされた。その時にはもしかして、来てくれているんじゃないかとサシャの目を盗んで探したけれど、見つからなかった。察しが悪いほど子どもじゃない。あのときの軍医団の人たちの顔はよく覚えている。神妙な顔をしている人も、ただただ申し訳なさそうにしている人も、粛々と業務をこなすだけの人も、泣いている人さえいた。それが何故なのか考えたこともなかったけれど、とても大きな感情同士がぶつかり合った、なにかの事件が起きたのだくらいにしか思わなかったけれど、アルテミオの言っていた犠牲になった者というのが軍医団の仲間たちのことをさしているのだとしたら、――。 「ユーリ」  泣きたくて泣いているわけじゃない。それなのに次から次へと溢れてくる涙を堪えようとしていたら、二コラに呼ばれた。返事はしない。 「フォルスに帰るのが望みなら、それでいい」  それでいいとはどういう意味だろう。二コラは本当に、自分が言いたいことや必要なことしか言わない。 「立場上俺はここを離れるわけにはいかないけれど、時々会いに行くことを許可してほしい」  言われて、ユーリは腕の中でふふっと笑った。泣きながら笑えるなんて、人間はなんて器用なんだと思う。そう来るとは思わなかった。やっぱり、二コラは二コラだ。 「許可なんて取る必要ある? 勝手に行けばいいじゃん」 「堅固な壁を作ると言っていただろう」  大真面目に言われて、吹き出した。そのままの状態で笑う。できるわけがない。冗談で言ったことを本気で受け止めているのか、比喩なのか。 「来れるものなら来ればいい。そのときまでに、アレクシス直伝の傾斜と高低差を利用した戦い方を全員に仕込んでおいてやる」  そもジェオロジカ以西はオレガノ領だと言ったら、大げさな溜息が聞こえた。 「本当に、可愛げがない」 「うるせえわ、むっつりスケベ」 「残念ながらそれはおまえ限定だ。自分でも最近知った」  はっ? っと声が上がる。最近もなにも、元からむっつりスケベだろと言ったら、顔に出ないだけだと反論してくる。そういうのがむっつりスケベだっていうんだと揶揄する。 「言っておくが、そうやって話の腰を折ろうとしても無駄だぞ。言いたいことは言わせてもらう」  二コラの腕の中で涙を拭っていると、ふと二コラが言った。やけに食い下がってくると思ったら、そういうことかと思う。 「ユーリがフォルスに戻る際には、俺も一緒に行っても構わないか? 一緒にサシャを弔いたい」  二コラの制服を掴む手に力が籠る。自分が言えなかった一言を、二コラは簡単に言ってしまう。 「前に言うなと言われたけれど、おまえははっきり言わなければわからないだろう。俺はユーリと一緒にいたいし、もっとフォルスや、イル・セーラたちの文化のことを知りたい」  言われて、どうして二コラが急にフォルムラ語を勉強する気になったのかに気付いた。でも、やっぱり二コラは二コラだ。イル・セーラは基本的に多言語を操る。だからあそこでフォルムラ語を理解しているのは、エドがほかの人に教えていなければたぶんエドだけだ。鋭いようで鈍いし、隙がないようで隙がある。 「なにそれ、言葉と行動が逆じゃない?」  自分が仕掛けたとはいえ、そういう言葉もなく何度もヤッている。二コラはそういうのを順序だてて考えるタイプだと自分でも言っていたし、元奴隷の自分には理解ができない。チェリオとも「上流階級と貴族の観念ってようわからんな」とよく話していたのを思い出す。 「可能なら、ユーリを抱きたい」  唐突に言われて、かあっと顔が熱くなった。 「なっ、いきなり、なに言って」 「俺も良くわからんのだが、他の誰にも触れさせたくないし、自分のものにしたいという願望がある」 「俺はものじゃない」 「わかっている。ただの興味や、性欲処理ではなく、繋がりが欲しい」  ストレートな言葉に、こっちが照れる。体が熱くなるのを感じて、ユーリはもぞもぞと小さくなった。 「どうした?」 「あ、あんたが、恥ずかしいことばっかいうから」  耳まで熱い。その熱さは恥ずかしさだけではなく、二コラのストレートな情に触発された自分の欲でもある。繋がりが欲しいなんて言われて嬉しいと感じたのは、二度目だ。 「収容所での価値観は、そこでの価値観だ。いまは自由の身なのだから、これから別の価値観をつければいい」 「クソ真面目」 「俺がこういう質だと知っているだろう」 「嫌ってほど知ってる」  たぶん、だから二コラに懐いたんだと思う。真面目で、仕事熱心で、いつも人のことばかり考えていて、姿かたちは違うのに、まるであの人がそばにいるような、そんな感覚を味わっていたのかもしれない。  不思議な気分だ。手放したら思い出すかもしれないも、二コラが死んだときにすべての記憶が戻るかもしれないも、もしかしたら理論として不適切だったかもしれない。  自分の中にあるぽかりと空いた穴は、どういうわけか少しずつ小さくなって言っているような気がする。もしかしたら、自分にとっての最大のトラウマは、あの人がいなくなったことじゃなくて、――。 「もう、人を好きにならないって決めたんだ」  ぼそりと言う。さっきまでぼろぼろと零れていた涙は止まっている。気持ちが和いでいる。とても穏やかで、ここ最近はこんなにも落ち着いている感覚を味わったことがなかった。 「好きにならなくていい。それでも傍にいたい」  二コラの言葉を聞いて、また体が熱くなる。照れ隠しでドンと胸を叩いた。二コラの腕が身体に絡んでいるのを知っていながら、距離を取るために腕を突っぱねる。離せと言ったら、本当に離してくれた。 「最後まで言わせろよ、鈍感」  ユーリは二コラのネクタイを引いて、その唇にキスをした。触れるだけのキスだ。それだけなのに、何故だか満たされるような気がする。 「人を好きになるっていう感覚が、たくさんあるのだとしたら、俺が二コラに感じているのは、人として好きっていうのでも、友達として好きっていうのでもない。  収容所で初めて、他人のそばにいて安心できるって思った、大好きだった人と、同じ感覚」  ああ、そうだ。あの感情はなんだろうと思っていたけれど、大好きだったからこそ、離れたくなかったし、振り向いてほしかった。 「そばにいてくれるだけで、満たされるような感じがして、なにを言うわけでもなく隣にいてくれるだけでいいって、そう思ってたんだ。サシャがいないと怖くて眠れなかったのに、あの人がいてくれたらちゃんと眠れた。ほかのみんなと同じようなあいさつを交わすだけなのに、胸の奥があったかくなるみたいで、むず痒くて、嬉しいって思えた。  そんな感覚を知らなかったから、たぶん、あの人が来なくなって、不安で仕方がなくて、自分の中に感情ごと閉じ込めてしまったんだと思う」  いままでに何度も似たようなことはあったけれど、あんな喪失感は初めてだった。 「サシャに対する好きとも、キアーラたちに対する好きとも違う。でもそれがなんなのかわからないし、二コラに対する好きも一番じゃないかもしれないけど、それでもいい?」 「かまわない」 「あれ、一番にさせてみせるとか、言わないのかよ?」 「言わない。ユーリの中の大切な思い出や感情ごと大事にしたい」  ぶはっと吹き出した。本当に色気のない会話だと思う。二コラは笑われたことに苛立った表情をすることもなく、いつもの冷静な表情を少し崩して笑みを浮かべた。

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