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Seventeen(6)

 ただもうひとつ、可能性がある。“あの人”が死んでいなかった場合、二コラを手放すことで思い出すんじゃないかとも思った。あの時の後悔とおなじ後悔を味わったら、思い出せるんじゃないか。  どうしてそうまで執着するのか、自分でもわからない。リアム公のことは王様のおかげでわかった。自分が知らなかったたくさんのことを教えてくれて、新たな感覚を付けさせてくれた人だからこそ、だから思い出したいのか、それともその人が仄暗い闇の中で自分と同じように後悔のはざまで藻掻いているような気がしたからなのか。  違法薬物を摂取させられて意識がなかったときに、自分は闇の中にいた。寸分先も見えない闇の中だというのに、不思議と恐怖もなにもなかった。風も、音もなにもない、死後の世界かと思った、あの仄暗い空間にいた時、どうせ何も見えないし、このまま眠ってしまおうと目を閉じた時、ふと体に違和感があった。どこにと言われると分からないけど、たしかに別の人の感触だった。  だから、思い出さないと。自分が忘れている、覚えていてはいけない記憶を、取り戻さないと。その一心だった。  不意に名前を呼ばれて顔をあげた。そこには二コラがいた。言いようのない表情をしているのが見える。なんていう表情なんだと言いたくなるほど、見たこともないような、悲痛な表情だった。 「なんていう顔をしているんだ」  大きな手が頬に触れる。自分だって、ひどい顔じゃないかと言いたいけれど、二コラが戻ってきたことに驚いて、二の句を継ぐことができなかった。溜息を吐かれる。二コラが持っていたフォルムラ語の辞書を入り口にあるチェストボードに置いた。 「戻ってきて正解だった。なにかを思い悩んでいるような気がしたんだ」  「なにかあったのか?」と、二コラが尋ねてくる。 「なにもない」  本当に、なにかがあったわけじゃない。逆になにもなさすぎる。少し前のことが嘘みたいで、自分の中で整理がつかないだけだ。 「大丈夫、寝たら忘れる」  二コラの手を取って離そうとしたら、両方の手で両側から頬を掴まれた。少し上を向かされる。「なに?」と尋ねようとした言葉は、二コラの目に吸い込まれた。 「なにもないわけがないだろう。寝たら忘れるなんて、嫌なことがあったと言っているようなものだ」  サシャのことがあったときと、同じ顔をしている。そう言われて、二コラの手を振り払った。俯いたまま首を横に振る。 「なんもない。考え事をしていて、答えが出ないからムカついてただけ」  投げやりなセリフだった。二コラが小さく息を吐くのが分かる。 「前にも言ったが、何故こういう時に自分ひとりで解決しようとする? もっと周りを頼ればいい。俺では頼りにならないかもしれないけれど、少なくとも、他の人たちよりは、分かっているつもりでいる」  言われて、ちょっとイラついた。分かってないと即座にその言葉を否定する。 「わかってたら、戻ってこない。そも、本当にわかってくれているんだったら、さっきだって話をしたいなんて言わない」  語気を強めて吐き捨てた。二コラが自分の思いどおりに動かないことへの八つ当たりだ。本当にわかっているなら、なんで自分がいまこんなにも得体のしれない感情に振り回されているのかくらい、察してくれるはずだ。 「ノルマなんか嫌いだっつってんのに、引き寄せようとすんな」 「おまえ、自分がむちゃくちゃなことを言っていると気付いているか?」  心配そうな声色のなかに、いつもの呆れではなく静けさが混じる。愁いというほど重くもなく、かと言って軽くもない。二コラはなにかを言い淀むようにしていたが、少ししてまたユーリを呼んだ。 「不本意な選択をして、なにが変わる?」  不本意と言われて、自然と眉根が寄る。不本意とは、なにを指す? 交わらない選択をしたことが不本意というのか、それともいまのもどかしさを飲み込んでいるのが不本意だというのかによって、答えがまったく違ってくる。ほぼ等しいわけでもなく、むしろ等しくない。 「平行線は交点がないから交わらないって点を、物理的にセックスで埋めても埋まらないってドン・ナズマが言ってた。平行線は二つの直線と交わる直線の同じ側の内角の和が二直角より小さいならば、二つの直線を同じ側に伸ばしていけばいつかは交わる」  おいと二コラが突っ込んできたが、無視だ。 「でもその状態は平行線じゃないし、諸々考えたら平行線の公理の証明が間違ってるだけで、本当はちゃんと交わるんじゃないかって、それを考えてた。平面で考えるから平行線は平行線なわけで、球体や凹凸などの面で考えたらその限りではない。常識は別の角度から見たら非常識だ。平行線の三角形の内角の和が180度より大きくなったり、長方形の4つの角が等しくならなかったりと角度を変えれば、いずれそれは交わるし、理論が破綻している証明になる」  さらにと継ごうとしたら、また両方の手で顔を挟まれた。 「おいコラ、聞け。別の話にすり替えて論点をずらすな」  絶対に違うだろうがと二コラが言う。違うに決まっている。適当に言ったんだと内心しつつ、二コラを睨む。 「平行線の交わりを証明したいということは、つまりそれは交点を持たないはずのものと交点を持ちたいという意味にもなるが」 「ンなこと言ってない、蒸し返すな」  本当に無茶苦茶なことを言っている。二コラは呆れたように眉間にしわを寄せて、ユーリの顔を少し上げさせた。 「前から言おうと思ってたんだが」 「言わなくていい」 「人間は数字や数学では推し量れないし、理解をするには至らない。そもそもその理論で証明することが可能なら、何故人間は争う? それこそ証明の失敗から生じたものであると仮定できるが?」 「争うって意味では証明できてんじゃねえか」  二コラが舌打ちをした。ああ言えばこう言うと両側から頬を軽く引っ張られる。すぐさまそれを振り払った。 「人間は証明理論では証明に至らないからこそ、哲学等の思想や発想が発展した。ただそれは物の見方の角度を変えただけのすり替えでしかなく、物事の本質を突いたものではない」  二コラが反撃するかのように言ってきた。二コラのくせに小声で言いながら睨むと、面倒くさそうに眉を顰められた。 「おまえと話しているとなにが言いたいかがわからなくなった」  そのつもりでいつもどうでもいいことを矢継ぎ早に言っている。それに引っかかっている時点で自分のことをちゃんと理解できていないじゃないかと突っ込みたい。 「手放したくないものを手放すのは、理論として破綻していると思わないか?」  思わず眉根が寄る。いつもなら面倒くさがって躱すのに、今日はやけに突っ込んでくる。 「俺なら手放さない。たとえそれが双方の最適解ではないにしてもだ。最適解などそもそも人間の中には存在しない。仮定することも、逆比で求めることもある程度は可能かもしれない。だけどそれはあくまでも理論上、数式上のことであって、人間には感情がある。だからこそあらゆる想像をする。その想像を一つ一つ潰して、自分にとっての最適解を求めるには、人間には時間が足りなさすぎる」 「なにそれ、反論か?」 「反論ではない。提案をしている」 「提案?」  言っている意味が分からない。なにが言いたいの? と反抗な態度を崩さない。絶対にこの壁だけは崩さないと決めている。二コラがこちらを注視する。ほかのノルマよりも清浄で、濁りのないように見えるジャスパーグリーンが自分を捕らえて離さない。この目に見られると、なぜか自分の中でごまかしがきかなくなる。目を逸らそうと思っても、できなかった。 「種族間の関係や、生育環境などの因子は、平行線の証明に似ている。一見交わることがない。でも、ユーリが言ったように線の角度を変えれば、逆側では交わりが生じる。これは、物を見る角度を変えることで、或いは概念を持たないことで決して交わることのないものを交わらせることができるという証明のひとつだと思う」  二コラのいう意味が分からないほど子どもではない。でもそれは自分が言うのもアレだけどただの詭弁だ。 「つまりだ。最適解を求めるためにせよ、交わることのないものを交わらせることができると証明するためせよ、共にあることでそれが可能なのではないか……と言いたい」  と言いたい、と言われても。二コラが言っていることが意想外すぎて、素で答えてしまった。どういう意味? と尋ねる。要約してくれないと分からない。聞き取れたし、言葉は理解できるけれど、真意を理解ができない。二コラがううんと唸る。 「ユーリが本当に、心から壁を作ることを望んでいるのなら、それはもう仕方がないと思った。起こったことが大きすぎる。もうノルマと関わりを持ちたくないと思うのも、俺を含む軍部の人間とも、政府の人間とも関わり合いになりたくないと思うのも、無理はない。  でもその壁は、いずれ自分を追いこむ。いま、答えが出ず、理解ができず、藻掻いているのがなによりの証拠じゃないのか?」  二コラのくせに、今日はいやに勘が鋭い。いや、そうじゃない。いつもはわかっていて踏み込まなかったのだと悟る。いつもなら、未来なことなんて考えないとは言わなかった。新しいことが好きだし、いろんなことに触れたい。好奇心の塊だというイル・セーラの性質を二乗三乗したようだと揶揄されるくらい、学ぶことが好きだ。だけどフォルスに帰ってなにをするかと聞かれた時、なにも思い浮かばなかった。フォルスには帰りたい。でも、ここにもいたい。フォルスに帰りたいのは本音だけれど、ここにいたいと望んでいるのに、居場所じゃないからと避けようとしてきた。それは、自分が最も後悔したことを繰り返そうとしているのではないか。  ああ、本当に、なにもかもが破綻している。自分の本音がどこにあるのかがわからない。すべてが本音なのか、すべてが嘘なのか、自分でもうまく説明ができない。 「理由などあとでさがせばいい。人はだれしも自分自身を理解しているわけではないし、自分自身でもわからないことがたくさんある。例えば、俺はユーリのことを友人であり、同僚であると思っているが、仕事だからという理由で近付いたわけじゃない。最初は本当に知らなかった。でも保護対象だと言われ、ドン・クリステンの指示に従った。  結果、それがおまえを大きな渦に巻き込んだのではないかと思った。エリゼたちも、少数民族はノルマといるよりも同族でいるほうが安心できると言っていたし、そうすることでおまえが心から落ち着けるのであれば、それがいいと思った。だから、おまえが敵の懐に飛び込もうとしたときに、行くなと言えなかった」  ドキリとした。視界が滲む。薬で鈍磨させられていた感情がまた溢れ出ていくのを感じた。自分はどれほどいろんなことを押し込められてきたのだろうか。どれだけのものを失ってきたのだろうか。たったひとつの大事なものもつなぎとめることができないほど、人がいなくなることなんて当たり前だと思っていた世界が間違っていたのだとあの一日で気付くほど、本当はずっと一緒にいたかった。二コラは簡単にそれを言えてしまうのに、自分はこのたった一言が言えなかった。 「言わずに後悔するくらいなら、言って後悔をしたほうがいい。普段のおまえならそうするだろうに、そうしなかったのは、自分のことが相手の重荷になるのが嫌だと感じたからこそ、自分が我慢をして引く選択をしたからではないのか?」  一字一句間違っていない。そうだ。連れて行ってと言えなかったのは、向こうにも立場があるし、自分みたいな奴隷の子どもを連れていては、きっとあらゆる危険が伴うと思ったからだ。二コラのこともそうだ。本人は気にしていなかったし、差別主義者を逆差別する勢いで理解ができないと言ってのけるくらい感覚が取っ散らかっているから、気にすることはなかったのかもしれないけど、自分と一緒にいることで敵が増えるのが怖いと感じた。人のうわさは怖い。悪感情が広まるのはすぐだ。 「なんでこういう時ばっか気付くんだよ?」  涙に濡れた声だった。二コラが苦い顔をする。 「普段鈍感なくせに」  本当にそうだ。いつもなら絶対にさっさと帰ってしまって、睡眠不足でふらふらしているユーリに、不摂生だのなんだのと文句を言う。それに対して試験勉強していたとか、アルテミオの書庫におもしろい本があって読み漁っていたとか、適当な言い訳を返す。自分がちゃんと試験勉強や課題をこつこつとヤッているのは、卒業の為でもあるけれど、自分が付いた嘘の整合性をとるためでもある。

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