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Seventeen(5)
言ったらきっと後悔をする。あの後姿を見るたびに、喉元まで言葉が出てきたけれど、いつも押し込んだ。言っていれば、もしかしたら変わっていたかもしれない。いま、自分はあの人のそばにいて、サシャもいて、全然違う環境にいたかもしれない。だけどそれはただの想像でしかない。自分がいたところでなにも変わらなかった可能性もある。そうやって臆病風に吹かれて、言わなかったことに後悔をしている。
行かないでほしい。俺も連れて行ってほしい。一緒にいさせてほしい。そのたった一言が言えなくて、いまもずっと、自分の中に空いた穴は塞がらない。
ニコラに初めてあの空き教室で助けられた時に、目の奥のやさしさと纏う香りがあの人だと思った。本当に助けに来てくれたのだと、そう感じた。でも、実際にはあの人じゃなかった。だけどまるで敵意のないその手に触れられた時、あの人じゃないと分かっているのにどうしても触れたかった。
二コラはあの人じゃない。自分の燻っているものや、ぽかりと空いた穴を埋めるための存在じゃない。そうわかっているからこそ、今度は触れないようにしたつもりだった。
本当に、この感情が何なのか、どうするべきなのか、まったくわからない。薬草のことも、難しい問題も、あの人が教えてくれたことは全部覚えている。人がどう動くのかも手に取るようにわかるのだって、経験則はあるけれど、きちんと顔と名前を憶えて“誰”に“なに”をされたのかを覚えておくようにとあの人から言われたからだ。
でも、この感情のことだけは教えてくれなかった。自分も聞きたかったけれど、聞けなかった。どうするのかがよかったのか、どうすればいまこんなにも後悔せずに済んでいるのか、全く頭のなかに思い浮かばない。
だから手放すことにした。わからないものをわからないままで置いておくのは嫌いな主義だけれど、その感情はきっと自分の選択や判断を誤らせることにつながるし、なにより“弱み”になる。ここにいたいという未練になる。すでに居心地の良さにここにいてもいいかなと思ってしまっているが、ここは自分の居場所じゃないと自分を叱咤する。
だって、ここは“自分自身”を必要としているわけじゃない。自分が銀髪のイル・セーラだから。“ユーリ”のこどもだから。そして第一王族の末裔だから。それで保護され、ここにいる。それは本当に自分の居場所なのだろうかと、最近よく考える。
王様の目を見て、リアム公のことを知って、あれから変だ。ずっと胸が痛い。そもそも、“あの人”とは誰なんだろう。“ユーリ”の子どもだということも、銀髪のイル・セーラだからこということも関係なく、自分自身をちゃんと見てくれた人のことだというのに、本当になにも思い出せない。
カーマの丸薬の作用には、トラウマを抉るようなことが起きた時に暗示をかけることで記憶を書き換えることができるとベアトリスが言った。だからサシャが狙われたのかと考えた。自分の記憶を消すためにサシャが狙われたのなら、それこそ自分を殺してくれればよかったんだとその相手を恨んだけれど、サシャのことは別の目的があっただけではないかと仮定した。
そうすると、自分にとっての最大のトラウマは、近しい人の死。ミクシアで自分がそれなりに信頼を寄せているのは、リュカとドン・クリステンたち、学長、ジャンカルロ、チェリオたちスラム街の人たち、キアーラ、リズ、アリオスティ隊の人たち、そして二コラだ。
そのなかで何事もなかったのは、リズだけだ。ただ、下流層街にも風と雨で土壌汚染が進むよう計算されていたこともあり、まったく無事かと言われたらそうでもない。そもそも、リズと自分にはドン・ナズマやジジが監視についていたらしいから、だから二人でいるときにはなにも起きなかったのだ。税金泥棒と詰ったことがあるけれど、どうもちゃんと仕事をしていたらしい。
そのなかで誰が死ねば一番自分にダメージを与えられるか。みんな好きだし、大事だけれど、自分が相手なら迷いなく二コラを選ぶ。誰が死んでも嫌だけれど、収容所を出てからずっと一緒にいる。毎日ではないにせよ、常に顔を合わせている。あの人以外で見返りもなく自分を助けてくれたのは二コラだったし、イル・セーラに対する偏見もなにもないからと、寮でも同室だった。性格は正反対だし、融通はきかないし、くそ真面目で、過保護で、時々びっくりするほどユーリの考えや行動を悟るような、大事な相棒だ。それにいなくなられたら、一番困る。
それを思ったのは王様に会う前、まだウォルナットにいるときだったけれど、もし、この仮定がただの事実仮定ではなく事実だとしたら、二コラを手放さなければ、二コラが殺されると思った。そう思った矢先に紫斑騒動があって、余計に自分の中で手放すことが正しいと感じた。
近しい人や、自分の大事な人が死ぬことで、トラウマを抉るような記憶の塗り替えがなされ、それを目の当たりにしたことから記憶が戻るようなきっかけにつながるのだとしたら、ユーリ自身が忘れているだけで、誰か大事な人を失っているということになる。
薄々それは感じてはいた。でも、たくさんの仲間が死に過ぎて、誰のことかも、なんのことかもわからなかったのだけれど、アルテミオや王様の目を見て、懐かしい気がした。胸の奥にあった固い氷がじわりと解けていくような感覚と共に、自分の中で失っていたはずの記憶の断片やあの人のことを思い出すようになった。
でも全部を思い出すわけじゃない。もし、全部を思い出すのだとしたら、たぶん、二コラが死んだ時だ。だったら、傍にいないほうがいい。もう危険はないとは言っても、きっと自分がつらくなる。そう思ったゆえの判断だった。
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