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Seventeen(4)

 アレクシスがいないからなのか、ベアトリスは超薄情だ。ミクシアとオレガノ間の国交正常化が成立したし、准将殿は夜中に出歩いても危なくないでしょーと言って、とっとと帰ってしまった。大体みんな17時を過ぎるといなくなる。だから暇で仕方がないのだけれど、今日はまだミカエラがいる。  時計を見上げると、22時を回ろうかというところだ。相変わらず几帳面な字で書類を作っている。課題に飽きたユーリは、またアルテミオの本棚から勝手にアレティア語の辞書を持ち出して勉強していたのがバレて、ミカエラから若干怒られた。課題と言っても、今年のはじめにやったばかりのところだ。合格率2%以下と言いつつ、大した問題じゃないかもしれないと思い、ぺらりとページを捲る。 「ねえ、ミカエラ」  ミカエラがなんでしょうと返事をする。 「これ、わかる?」  ナニコレ? と、困惑したようにユーリが言う。ミカエラは自分の雑務を置いてこちらにやってくると、ユーリが「ここ」と指さしたところを見た。返事がない。不思議に思って見上げると、ミカエラは口元に手を宛がって、なにかを考えているようだった。 「問いにある薬品は、現在では使われていません。なので、取り扱いに関するデータそのものが隠ぺいされています。ミクシアでも、オレガノでも使用されていない古い薬剤ですが、生成は可能なので、選択肢としてはBが適切かと」 「マジ? データが隠ぺいされていたら生成できなくない?」 「騙し問題ですよ。“一般的に”と記載があるでしょう。リナーシェン・ドクの知識は一般的ではありません」 「ああ、そういう」  めんっどくせえとぼやく。合格点以上余裕だったと言ったが、どうせなら満点取って有無を言わせないようにしてやろうと対策を練っている。でもどうもこの手合いの問題を間違ってしまう。 「替え玉にならない?」  ミカエラにわざと言ってみる。冷めた視線を向けられるのを知りつつも軽口を叩いてみたが、ミカエラは興味深そうにユーリが開いている問題集に視線を落とした。 「リナーシェン・ドクの試験問題の作成はセラフの兄上とガブリエーレ卿の管轄らしいので、問題集と資料集をくまなく読み込んだほうがいいですよ。おそらく、本試験では騙し問題が多発します」  うげっと声が出た。 「なんでわかるの?」 「リナーシェン・ドクの本試験の前に、いくつかの課題提出があるそうなのですが、その課題と小テストの結果を見て、その相手が“どの分野を苦手としているか”に合わせて本試験問題が作成されるそうです。ベアトリスが言っていました」  それが本当なら、ひとりひとり問題が違うということになる。マジで? と問うと、ミカエラが真顔で頷いた。 「ちなみに、ベアトリスが持って帰ってきた試験問題をオレガノ軍の軍医たちに解かせてみたら、2/3が撃沈したそうです」 「ベアトリス、まだその問題持ってるかな?」 「どうでしょう? こちらに来てから受けたので、駐屯地に残っていると思いますが」  ベアトリスが捨てていなければ、と、ミカエラが言う。ベアトリスのことだから捨てていそうだ。マジでめんどくせえとぼやいたら、ミカエラが思い出したように「そういえば」と言った。 「セラフとガブリエーレ卿に頼んでみては?」 「キアーラ? 体調大丈夫なの?」 「常々暇だと言っていますし、頼めば快く引き受けてくれると思いますよ」  そう言って、ミカエラは時計を見上げたあとで眼鏡をはずした。 「明日も早いので、ぼくはこれで失礼します。Sig.オルヴェはまだ帰られないのですか?」 「俺? 隣の空き部屋を使っていいって言われているから、いつもそこで寝泊まりしている」  ミカエラが目を瞬かせる。「羨ましい」とぽつりと言った。 「夜更かししたい放題じゃないですか」 「そう。いいでしょ。マニアックな本も読みたい放題」 「ドン・フィオーレの書庫を漁るのはいけませんよ」  ぴしゃりと釘を刺される。大体いつも年下扱いだからというのもあり、リズ以外の年下に怒られるとちょっと傷付く。そろそろ自重しようと、素直にわかったと返事をした。  ではまた明日と、ミカエラが荷物を手に部屋を後にした。ふうと溜息を吐く。なんだか妙な気分だ。一部ややあいまいな部分もあるが、ほとんどの記憶を取り戻してからというもの、収容所での出来事がよく脳裏に浮かぶ。  また明日なんて、いい言葉だと思う。その明日が保障されていなかった。不思議なほど思い出せない。王様と、アルテミオに似ている気はするし、でもリアムという名前ではなかった。その人にも会っていることに違いはない。最初に助けてくれた人と、あとから出会った人とでは、雰囲気のやわらかさと声がまったく違ったからだ。  どうして思い出せないのかはわからない。ユリウスがその記憶を消させたかったからなのか、それともほかの相手の意向なのか。いまは確かめようがないけれど、死んでいないのならそのうちに絶対に吐かせてやろうと思う。  ミカエラが騙し問題と言っていた問題に視線を落とす。自分の弱点がこういう引っかけ系のものだとバレた暁には、間違いなくこれ系の問題ばかり出されそうな気がする。アルテミオの「準備は整えてやった」というセリフが怖い。それはつまり、死ぬ気で勉強して死ぬ気で掛からなければ合格させないぞ……という意味にも受け取れなくはないからだ。  夕方からずっとぶっ通しで課題をやっていたからか、少し疲れた。ぐっと伸びをして、続きは明日にしようと思い、ノートと問題集を閉じる。冷蔵庫にミカエラが作ってくれたハーブウォーターが残っていたはずだと思い出し、それを取りに向かう。ドアを開けて、ウォーターボトルからグラスにハーブウォーターを注ぐ。今日はレモンピールだと言っていたから、ふわりと柑橘系の香りが漂う。あいつは本当にまめだなと思いながらそれを飲んでいると、部屋のドアが開いた。二コラだ。 「まだいたの?」  とっとと帰れと言わんばかりに睨みながら。二コラは怪訝そうな視線をこちらに向けたけれど、なにも言わずに奥にあるアルテミオの執務室に入って行った。あからさまに避けたし、散々文句を言った。だからなのか、嫌に素っ気ない。そりゃああれだけ何度も八つ当たりをしていれば、仕方がないかとも思う。ただ、敢えてこちらからは話しかけるつもりがない。どうせことが済めばフォルスに帰る。未練を残すのは女々しいと思って、自分から断ち切ったのだからと考えを正す。二コラは悪くない。本当に、なにも悪くない。  ハーブウォーターを飲み終えて、洗い終えたグラスを拭いた布巾を専用のランドリーバスケットに突っ込む。こうしておけば翌日その日の担当者が洗濯をしに行くと言っていたけれど、それもなんだか忍びない。暇だし、洗濯もしておくかとランドリーバスケットを持って部屋を出た。  執務室を出て左手に行くと、給湯室がその横に洗濯室がある。廊下は夜勤者が見回りをすることもあり、薄暗いが見えなくもない。洗濯室にランドリーバスケットを持って行って、布巾専用のバケツに水と布巾を入れる。すぐ上の棚に置いてある粉せっけんと重曹を少量振りかけて、攪拌させた。こうしておいておけば汚れも取れるし漂白にもなる。あまり浸けすぎると生地が傷むから、5分程度にしておくことにした。ぼんやりと数を数える。周りが静かだからか、目を閉じていると自分の心音が耳に届くような気がした。  5分ほど経って、一度バケツの中の水を処理槽に流す。水を入れ直しながら揉み洗いをして、泡が立たなくなるまで繰り返した。一度手を洗い、布巾を絞ってバケツを裏返して処理槽に立てかける。布巾はこのまま置いておいたらわからないだろうからと、一度執務室に戻ることにした。  執務室の奥からは、まだ音がする。二コラがなにかをしているのだろう。仕事熱心なことでと内心し、布巾を専用のハンガーにかけた。  ずっと文字を見ていたから目が疲れた。そろそろ寝ようと伸びをしながら仮眠室に行こうとした時だ。二コラが執務室から出てきた。ばっちりと目が合う。  気まずくて目を逸らす。そのままさっさと執務室をあとにしようとしたら、二コラに呼び止められた。 「ユーリ、少し話をしよう」 「話なんてない」  とっとと帰ってとっとと寝ろと吐き捨てて、部屋を出ようとした。ぐっと腕を捕まれた。二コラのことだ。話を聞くまで離す気がない。抵抗するだけ無駄だと感じて、面倒くさそうに息を吐いた。 「なに?」  早く寝たいんだけどと、素っ気なく言ってのける。手を離したら逃げると思われているのか、二コラが手を離す素振りはない。 「フォルスに戻ったら、どうするつもりなんだ?」  フォルスに戻ったらと言われ、ユーリはちらりと二コラを見やった。 「サシャの墓を作る」  べつに変な意味で言ったわけではなかったが、二コラが少し眉を下げた。 「そういう意味ではなく」 「知らねえよ、戻ってみないとどうなってるかもわからないのに」  ちゃんと修復をされているのかどうなのかもわからない。住めるような状態になったからこそ移送されたのだろうけれど、敢えてとぼけてみる。先のことなんて考えていない。ただ、フォルスに帰りたい。もう何事にも巻き込まれず、静かに暮らしたい。サシャがずっと言っていた。その意味が、いまなら痛いほどわかる。  目頭が熱くなってきたのを感じて、ふいと視線を逸らした。 「あんたらと違って、明日が当たり前にある世界に生きてこなかったから、“先のこと”なんて考えない」  ただその日を生きて、生き延びることができたことに感謝をして、眠りにつく。毎日そうだった。次の日には、大体誰かがいなくなる。次の日じゃなくても、数日以内には、必ずのように。  ミクシアは紛争をしていたらしいけれど、二コラは世代的に徴兵もなければ紛争地帯に赴いたこともないだろう。でも、たぶん自分に優しくしてくれる人たちは、紛争地帯に赴いたことがある人や、8年前のことに関わったことがある人、そして“ユーリ”に世話になった人たちだ。ありがたいけれど、でも、いつまでもその名に縋られるのは、少し疲れた。 「だから明日もないし、その先もない。叶わない約束なんてしない。約束とか、誓いとか、嘘つきが自分の嘘を正当化させるために言うことだ」  だからもう信じない。希望を抱きたくない。それが本音だ。 「ではなぜ、リナーシェン・ドクの資格を?」 「興味があったから。それだけ」  本当にそれだけだ。でも、どうして興味を持ったのだろう。サシャは自分が国医になることはよくても、リナーシェン・ドクになることには反対だった。単純な興味、或いは邂逅し、浸りたかったのかもしれない。だからこそ余計に二コラの顔を見れなかった。 「俺には、その知識を得ることで、なにかに触れようとしているように思えたが」  言われて、腕を振り払おうとしたが、敵わなかった。やっぱり、二コラは鋭い。キアーラもそうだ。ふたりはいつもユーリの言いたいことややってほしいことを悟ってくれる。サシャのことで、キアーラはなにも言わなかった。謝り倒されたら文句を言ってやろうと思っていたのに、敢えてなにも言わなかった。蒸し返されるのが嫌いなことも、礼を言われるためにやったわけでもないことを、彼女はよくわかっている。二コラも、本当はユーリ自身がこの空間にいることを嫌うことを分かっているからこそ、気に掛けてくれている。軍医団の制服を見ると、収容所でのことを思い出す。ぽつりと言ったことを覚えていたのか、二コラはウォルナットを訪れるとき、制服を着てこなかった。  心地いいことはわかっている。ひとりでいたところで、なにも生まれないのも、どうせろくなことを考えないのも。だけどそれに触れて、馴染んで、当たり前になってしまったときに、それがなくなってしまったらと考えてしまう。都合がいい言い訳だと思う。明日のことなど分からないと言っておきながらも、未来のことが怖いからと本音に触れずにいる。 「触れるって、なにに?」 「なににと言われると、不明瞭だな」 「曖昧なこと言うなよ。そうじゃなくて、単純な興味だと言ってるだろ」  いいから離せと腕を引こうとするが、二コラが離してくれない。なにかを言い淀むような、逡巡するような声がする。 「どこか感傷に浸っているように見えたから、気になっただけだ」  言って、二コラの手が離れた。返事はしなかった。感傷に浸っているように見えただなんて、人の感情の機微に疎いのに、よく言うと思う。二コラの足音がする。通りすがりにぽんと頭を軽くたたかれた。 「夜更かしはするなよ」 「自分だって。もう22時過ぎじゃん」  ワーカホリックかよと突っ込むと、二コラがふんと鼻で笑った。 「たまたま立て込んでいただけだ。普段はもっと早くに帰っている」  絶対に嘘だ。数日前は日付が変わるまで執務室にいたことくらい知っている。決して仕事が遅いわけではないし、ドン・フィオーレが嫌がらせめかして仕事を残していくわけでもない。なのにどうしてこんなにも遅くまでいるのだろう。ふと二コラを見た時、自分の腕を掴んでいた反対側の手に、本を持っているのに気付いた。フォルムラ語の辞書だ。  目を瞬かせてそれを見る。あんなに発音記号が難読すぎて理解ができないと言っていたのに、なんで急に学ぶ気を起こしたのだろう。チェリオが読むだけなら覚えられたと言っていたから、やる気になったんだろうか。  アルテミオの補佐官をするということは、必然的にオレガノとのやりとりも増える。だから覚えておきたいだけなのかもしれないと思いなおして、そのことには触れなかった。 「おやすみ、二コラ」  ああと二コラが短く言った。  足音が少し遠のいていく。大した距離ではないというのに、どこか遠くに行ってしまうような、そんな錯覚に見舞われる。  あの日もそうだった。別れ際にユーリの頭を優しく撫でて、穏やかに微笑んで、いつものように「おやすみ、いい夢を」と“あの言語”で告げて、去っていく。少し薄暗い廊下を、あの人が歩いていくのを見届けてから、牢に戻る。不思議なほど胸の中があたたかくて、くすぐったくて、この感覚はなんなのだろうと思っていた。あの日、あの人は言った。「また明日」。そう言って、二度と現れなかった。  執務室のドアが開く。少し明るい部屋から、薄暗い廊下へと二コラが出ただけなのに、その後ろ姿が闇に溶けて消えてしまいそうな、そんな気がした。  その後ろ姿を見るたびに、ずっと言いたかった。叶うはずがない。それでも、自分にとってはいままで見聞きしたことがない、触れたことがないものを教えてくれたあの人から離れたくなくて、毎回のように口の中で呟いていたのを思い出す。  サシャと別れを告げた時に決めたはずだ。もう後悔をしたくない。だから自分の中にある言葉を、感情を、きちんとぶつけたほうがいい。そう思っているのに、なぜかそれは口から出て行かなかった。

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