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Seventeen(3)

 アンナが言ったように、サシャとちゃんと別れを告げることができたことで、気持ちが落ち着いたか……と言われたら、微妙だ。いままで以上にフォルスに帰りたいという気持ちになっているし、正直に言ってこの雰囲気に慣れない。興味はある。でも、知りたくないという気持ちと、思い出したくないという気持ちが半々だ。これは誰にも言っていない。二コラですら知らないはずだ。  自分は自他共に求めるリアリストだし、大半のイル・セーラが言っていることは迷信だと思っている。でも、サシャとミカエラのこともそうだし、自分がいま軍医団に関わるようになったのは、もしかすると、たくさんの人たちの思いがそうしてくれているのかもしれないとも感じる。本当に、解せないけれど。  キアーラも、あの至近距離で腹部に銃弾を受けて、普通なら無事じゃない。でも、処置が良かったこともあったかもしれないけれど、サシャとユーリが誕生日プレゼントに送ったあの髪飾りのレリーフが粉々に砕けていたというのを聞いて、正直に言ってぞっとした。昔からサシャは勘が鋭い。そして発言が大体現実になる。サシャに滅多なことを言うなと言っていたのはそのためだ。本人はそれに気付いていない。フォルス出身者は総じて古代イル・セーラの血が濃い。だから、サシャがキアーラのために込めた思いが通じたのかもしれない。  キアーラがウィルのことをアルテミオに話しているのを話半分に聞きながら、ぼんやりと海を眺めた。  オレガノも、フィッチも、あの海の向こうだ。オレガノはいいところだと、みんな口をそろえて言う。じゃあ、フィッチはどうなのだろう。ずっと気になっている。レナトがオレガノに戻ったのは、考えすぎなのかもしれないけれど、フィッチがどう動くか、どう出るかを見極めるためなんじゃないだろうか。  戦争ばかりの国だというが、好きで戦争ばかりしているわけじゃない。きっとその戦争を終わらせることができるきっかけがある。ユーリがそう思うのは、ずっと忘れていたあの人の影響もあるだろう。  ウィルの容疑に関する聴取の際に、キアーラは自分に対する誘拐及び監禁に関しては、咎めないでほしいと言ったらしい。アルテミオが驚くのを耳の端で聞く。確かに彼は解放するときに自分を撃ったが、それ以外にはなにもされなかった。あそこに連れ込まれたのも、自分が撃たれるその日のことで、それまでは近くの村にいたらしい。ウィルの女中が世話をしてくれて、なにひとつ不自由がなかった。ただ、あの村は住人同士の結束が強く、逃げることは適わなかったらしい。  きっと自分を殺すつもりはなかったのだと、キアーラ。アルテミオもまた、ウィルがあの至近距離で急所を外すはずがないと言った。キアーラがイル・セーラや少数民族を保護するために動いていたことを覚えていたのかなんなのかはわからないけれど、あんなふうに錯乱状態に陥ることは度々あっても、あそこまでひどいのは初めてだったというのが聞こえてくる。  それはたぶん、ユリウスが盛った“爆弾”が関係している。ウィルが定期的に摂取していた薬との相性を見て、自滅するのを待っていたような気もしないでもない。もしかすると二コラが言っていた、アルマに感染して亡くなった人たちの遺体にあった謎の傷は、ウィルの仕業なのかもしれないと考える。異様に血に執着していたし、臓器を収集するということは、当然血液も出る。なんのためだったのかはもう考えたくもないけれど。  被害の多さからはとても減刑を乞えはしないし、ミクシアでの裁判が終わればオレガノに移送される。オレガノでの裁判が終わったら、双方の意向をもって処刑が決まると話している。やっぱり、どこの国も手順大好きなんだなと思う。すぐに処刑にできない背景があるのはわかるし、彼の立場がそうさせるのもわかる。それが庶民なら、一発アウトだろうと思ってみる。 「貴族様はいつ如何なる時でも恵まれていらっしゃる」  ぼそりと、アルテミオたちのほうを向かずに言ってやる。守られない立場もあるというのに、不公平だ。貴族にしても、奴隷にしても、なにも変わらない。どちらも守られる側は守られて、守られない側はなにひとつ守られない。 「面倒だから、もうその辺から全部ひっくるめて変えればいいじゃん。貴族だから立場が守られるのなら、貴族が犯罪を犯しても見て見ぬふりをしなきゃいけなくなる。王様たちのことだってそうだ。前王がしたことは、本人が暗殺されたことで報いというならそうかもしれないけれど、でもその被害に遭った人たちにはなにひとつ保証されていない。自分の家族に手をかけてまで、地位にしがみ付きたいなんて、ただの独裁者じゃないか。それをおかしいと思わないほうがおかしい」  ああもうと言って、立ち上がる。 「絶対に、誰がなんと言ってもフォルスに帰らせてもらう。こんなクソみたいなところにいられるか」 「ユーリ、何故あなたが軍医団にと推薦されたのか、聞いていないの?」  キアーラが目を丸くさせた。なにそれ? と怪訝な表情でキアーラを見下ろす。推薦をされた理由なんて、なにも聞いていない。ドン・クリステンにリナーシェン・ドクの資格が欲しいならということを聞けと言われ、要求を飲んだらこうなった。掻い摘んで話すと、キアーラがすぐになにかを察したように、眉根を下げた。 「伯父様は相変わらず気に入った相手には意地悪だわ」  そう言ったあとで、キアーラがミカエラに視線をやる。キアーラの視線の意味に気付いたのか、ミカエラもまたやや気まずそうな表情になったのに気付く。なにを言われるのかと警戒するユーリをよそに、キアーラがころころと笑った。  ここにいるのは、あくまでも1年半。ただそれは、大学卒業のための臨床研修と、リナーシェン・ドクの臨床研修期間が含まれている。  リナーシェン・ドクの臨床研修に関しては、レナトが地下街にいる間のことも、ウォルナットにいる間のことも、研修扱いとしてくれた。あとは座学的なものをクリアして、最終試験に合格すれば、晴れてリナーシェン・ドクを名乗ることができる。それも、大学のカリキュラムと同じで、早めようと思えばいくらでも早めることができる――と、キアーラから説明された。  正直、リナーシェン・ドクの資格取得がそんなに面倒だとは知らなかった。茫然としているユーリを見て、キアーラが上品に笑いながら、「わたしも子どもの頃に、よく本当なのか嘘なのかわからない冗談を言われたのよ」と言った。  意味が分からない。 「ああ、なるほどね。意趣返しか」  アルテミオが声を上げて笑った。「彼らしいけれど、これはひどい」と、楽しそうな声色で言うのを聞いて、ユーリは不満げに眉間にしわを寄せた。 「なにそれ? 俺が散々ごねたことに対する仕返しってこと?」 「そうだろうね。仕方がないこととはいえ、きみはあまりにも“ジョスの苦労を顧みていない”」  意味深な言い方をする。それではまるで、王族同士だけじゃなく、軍部も分裂していたみたいじゃないか。根回しに時間がかかったとか、ドン・ヴェロネージに散々振り回されたと恨み言を言っていたけれど、こんな仕返しをされるとは思わなかった。 「まあ、俺もジョスとリアム伯父上の命令で収容所に入っていたしね」  はっ!? っと声が上がる。確かに、アルテミオは収容所の診療医だった。週に2回ほどだけれど、アルテミオの処置は的確だったし、なにを盛られたのかを的確に見抜いて、正確な毒消しを塗ってくれたのを思い出す。エドたち強制労働組もだけれど、どんな小さな傷も見逃されなかったと言っていた。 「リュカくんも言っていただろう。みんな、もどかしさを抱えていたんだよ。前王の力は絶対的だ。それに倫理に反したことも平気で行う。親族ですら平気で手に掛けるし、ジョスの母親も、前王に苦言を呈したせいで殺されたのではないというもっぱらの噂だった。  だからジョスはオレガノ行きを志願したんだ。あの時のジョス、おもしろかったなあ」  くすくすと笑って、アルテミオがユーリを見上げた。 「言葉遣いだけは上品な“あの”ジョスから、『あとでどうなってもいいから、オレガノ側からミクシア政権を瓦解させて、絶対にあの独裁者を引きずり降ろしてやる』なんて言葉を聞けるとは思っていなかった。感情的にならないのが彼のいいところなのに」  だからジョスの補佐官は、オレガノとの交渉をせざるを得なかったんだよと、アルテミオ。そうしなければ必ず親子で衝突して、どちらか――おそらくはジョスが死ぬことになると懸念した補佐官たちが、長期計画をオレガノ側に持ち掛けたんだと話してくれる。  ただ、その長期計画は本当に長期になり過ぎたんだとアルテミオが言った。本当にそうだと思う。19年間だ。あと半分短かったら、“ユーリ”も死ななくて済んだ。そうも思うけれど、それは結果論だ。引き合いに出すだけ無駄だし、ないものねだりの子どもじみた発想だと思う。冗談めかして「もっと早く出してくれればよかった」などとブラックジョークを言うことはあっても、心底そう思ってはいない。 「たぶん、貴方に知ってほしかったんだわ。伯父様はなにも仰らないけれど、オレガノ側からずいぶんイル・セーラ解放のために動いてくださっていたみたいなの」  アルテミオの言葉に呼応するかのように、キアーラが口を開いた。 「でも、あの時にはまだ強大な力と権力を持つ故レジ卿がご存命だったことと、先代のドン・アゼルの影響力も衰えていなかった。だから奴隷化宣言から19年もなにもできなかったし、オレガノも立場があるから、表立って動けなかったの。それはわたしも初めて知ったのだけれどね」  ミカエラが驚いたように「そうなのです?」とキアーラに問いかける。キアーラは頷いて、「伯父様が仰っていたわ」と告げる。  違和感に気付く。キアーラが言う、「伯父様」にはずっと引っかかりを覚えていた。その伯父様とやらは、もしかしてふたりいるのか? と尋ねようとした時だ。 「ジョス伯父様とクレス伯父様が、いまのドン・アゼルが前王暗殺やエディン王子の暗殺に絡んでいることを見抜いて捜査をしていたしたのだけれど、明るみになったときにはそれはもう驚くほどの高笑いをなさっていたわ」  ジョス伯父様と、クレス伯父様? 一瞬間、ぽかんとした。クレスはわからないけれど、ジョスという名前には聞き覚えたある。アルテミオが言っていた、あの……? 「え、待って!? レナトってキアーラの伯父さん!?」 「ええ、そうよ」  言っていなかったかしら? と、キアーラが言う。レナトは現王の異母兄、クレス伯父様ことアレヴィ大元帥はレナトの生母のきょうだいの子どもで、ディアンジェロ家もそうだと告げられる。そう言われても、唐突過ぎて頭の整理がつかない。ミカエラが真顔で「そういえば」とぽつりと口を開いた。 「お伝えするつもりでいたのですが、Sig.オルヴェの行動があまりにも予想外で、失念していました」 「おまえかよ!」  おい、ふざけんな! と声を荒らげる。「ご本人からお伝えされているかと」とミカエラが真顔で言った。キアーラとアルテミオがまた上品に笑うのを見て、ユーリは大袈裟な溜息を吐いた。  気に入った相手のお願いには弱いだの、どこまで着いてこられるか試す節があるだの、レナトの性質に関しては何度か耳にすることがあった。アンナにも自分のお気に入りだと言っていたし、そういうことなのかと思う。 「もしかして、これもお聞きでないのですか?」  不意にミカエラに言われて、ユーリは思いきり眉を顰めた。嫌な予感しかしない。待って! と耳を塞いだ。 「それって俺が心の準備しなきゃいけないやつ?」 「イル・セーラたちへの処遇に関することです」  ユリウスとか? と尋ねると、ミカエラが頷いた。 「Sig.オルヴェが教えてくださった解毒剤で事なきを得て、ユリウス・ヴァシオ・シャルトランは現在は療養を兼ねて、ウォルナットでガブリエーレ卿が面倒を見ています。  罪状に関しては、オレガノ側は証拠不十分で不問としました」 「不問としたのかい、自国の王子に関することなのに?」  アルテミオが驚いたような声を上げた。 「ええ。そもそも、本当に絡んでいたかすら怪しいのです。わたしは詳細を知りませんが、アレクシスとイザヤが当時の資料をもう一度精査した結果、当時の捜査官が差別主義者だったことから、ユリウス・ヴァシオ・シャルトランに罪を被せようとした可能性がある、と」  淡々とした口調で、ミカエラが言う。それだけで不問ということはないだろうと思い、「おい」とミカエラを呼ぶ。 「絶対に取引しただろ?」 「取引ではありませんが、ウィルフレド・レゼスティリの証言で『ミクシアに旧王朝の末裔がいる』という噂が一般に広まらないようにと、『彼に対しても記憶の操作を行った』と証言させました」 「虚偽じゃねえかっ!」 「それが強ち虚偽でもないのです。彼は本当にウィルフレド・レゼスティリに対して記憶の操作をしようと仕込んだらしいのですが、悉く“効かなかった”と。もちろんそのことは伏せさせましたが」  効かなかったと言われて、ユーリはもしかしてと口の中で呟いた。ウィルに対して薬の効果が出にくかったことが気になっていたけれど、二コラに渡した薬の効果ではなく、“ユーリ”の血を飲んでいたとしたら、――。  ノルマにその効果が出るとは考えにくいけれど、血清の注射分とは言わず相当量口にしていたなら、イル・セーラほどとはいかないものの、毒の代謝ができていたのかもしれない。本人の性質もあるだろうけれど、だからこそ錯乱状態の時もあれば正気に戻るときもある。それに焦れたユリウスが仕掛けた“爆弾”が作用したとなれば、本人は真実を言っているつもりなのに、とあるキーワードで暗示状態を作り出すことができる。そのキーワードがなんだったのかはユリウスにしかわからないだろうが、たぶんそのことだ。 「ですので、オレガノ側はユリウス・ヴァシオ・シャルトランの容疑に関しては不問とし、国外追放も監視付きではありますが撤回させました。  ミクシア側も彼には情状酌量の余地があるということで、彼の体力の回復を待ってから改めて議会に掛けるとのお答えでした」  淡々とミカエラが告げる。確かにそのことは聞いていないけれど、ユリウスのことかとホッと胸を撫で下ろす。それともうひとつと、ミカエラが継ぐ。 「ウォルナットにいたイル・セーラたちは、周辺住民も含めてみんなフォルスへと無事に戻られました」 「えええっ!!!?」  素っ頓狂な声が上がった。信じられない。また騙されたと声を荒らげたら、キアーラが「伯父様ひどいわ」と非難するような声がした。 「なんでっ!!? ねえ、俺はっ!!? 俺だってフォルス出身のイル・セーラなんですけどっ!!?」  聞いてない、ただの詐欺だろ!! と叫ぶ。アルテミオもまた、「ジョスは相変わらず質が悪いなあ」と苦い顔をした。 「これは俺の行動まで見越したうえでの“嫌がらせ”だな」  ぼそりと言ったかと思うと、アルテミオがすっと立ち上がった。ユーリの手首をがしりと掴む。 「Sig.ベルダンディ、彼女のことを頼むよ。俺はジョスの“挑発”に乗りに行ってくる」  そう言って、アルテミオがミカエラの答えを待たずにユーリを引っ張っていく。ユーリはもう抵抗しなかった。粛々と課題を終えて、研修期間を終えたら、絶対にフォルスに帰って、強固な壁を作ってノルマ進入禁止にするんだとぶつぶつ言いながらアルテミオに引っ張って連れて行かれる。土壌の無毒化ができるのなら、その逆然りだ。いつか復讐してやると唸っていたら、自分たちが抜け出てきた入り口の鍵をアルテミオが開けた。  アルテミオから珍しく不機嫌なにおいがする。階段を二段飛ばしで上がっていくのに着いて行きながら声をかけたが、無言だ。階段を上り切った先にあるドアの鍵を開けて、アルテミオが先に出る。ユーリが出たあとできちんと鍵を閉め、また手首を掴まれた。アルテミオがユーリを連れてきたのは、会議室だ。ちゃんと出る気になったのかと思っていると、会議室のドアをノックし、開いた。  ざわつくのが分かる。アルテミオが時間内にやって来るなんて、この二週間ほぼなかったからだ。いま、まさに会議を始めようとしていたのか、二コラが驚いた表情なのが分かる。アルテミオは自分がいつも座る場所ではなく、発言者が立つ壇上にやってきた。そこでユーリの手を離す。自分を落ち着かせるというよりは、冷静さを取り戻すように息を吐いた。 「遅くなり申し訳ない。先ほど二部のコマンダンテと打ち合わせをしていた際に発覚したのだけれど、どうも“軍医団長の前任”が彼に大事なことを言い忘れていたようだ。  ユーリはまだ学生の身分でもあるから、彼にはスラム街の土壌改善に関する情報を開示してもらい、それをリナーシェン・ドクの資格取得のための研修と、大学卒業のための臨床研修に補填する。その研修及び座学を中心に行ってもらうことに決めた」  そんな話はしていないと思いつつ、アルテミオを見やる。横槍を入れる隙も無いほど流暢に言葉を紡ぐアルテミオに、あの人の面影が重なった。 「難民扱いされているスラム街の元住人たちの治療に関しては、手術を要するようなもの以外は任せていい。それ以外は、二部所属の者、或いは手が空いている者が担うように。  それから、こういう会議は辞めよう。段取りや意見のすり合わせが必要なのはわかる。でもそれは『軍部のように』足並みが揃っていない相手がすることだ。  軍医団は彼らとは違う。上に立つ者の考えを推し量れる者が揃っているはず。もし会議が必要だと思ったら、申し訳ないが庶務担当の部隊でそれを担い、情報を開示してほしい。貴方がたが良識と常識のある、物の分別が付く紳士であると思っているからこそ任せたい」  アルテミオの視線は、いつも会議会議とうるさいおじさんたちのほうを向いている。少しざわつく中、アルテミオが「亡き大事な上司の――リアム公の頼みだと思って、聞いてほしい」と語気を強めた。 「我々は政府と軍部に逆らって、イル・セーラの奴隷解放と故郷に帰す運動を推進したが、叶わなかった。そのために犠牲になった者は数多くいる。それを知っているくせに、軍医団長のあの質の悪い前任は、ユーリがフォルスに帰れないように謀った」  質の悪い軍医団長と言ったことで、笑いが起きる。本当にそうだと思う。アルテミオが少し表情を崩して、二コラに視線をやった。 「きみが心酔する相手を腐して申し訳ないが、あれは平気でそういうことをする。ユーリがここにいる利点を考えたんだろう。ミクシアにとってはユーリがここにいることで先代の知識を得られるし、オレガノに睨まれなくて済む。  でも、ユーリをサシャと共に、フォルスに帰してやりたい。一刻でも早く、それを叶えてやりたいんだ。だから、その間だけでもいい。こうして皆で集まって時間を費やす暇があるのなら、その時間はスラム街の土壌改善や環境整備のために使いたい。  俺は軍医団長という立場だけれど、ユーリに危険がないよう傍で見守りたいし、フォルスに送り届けるのがいまの最優先事項だと思うから、そっちを優先する。病院勤務やその他の仕事がある者はそちらを優先してくれていい。それを許してもらえるなら、手は抜かない。俺はジョスと違って『約束を守る』」  アルテミオが軍医団でどういう評価だったのかは知らないけれど、軍部や政府からは事なかれ主義だと言われていた。もしかすると、軍医団でもそうだったのかもしれない。会議大好きおじさんたちが唖然としている。上流階級の中でもさほど位が上じゃないから団長とは縁がなかったと聞いていたけれど、かなり場慣れしているのではないかと感じた。  やっぱり、どことなく似ている。ユーリはぼんやりとアルテミオを眺めていた。こうやっていろんな会議を介して、思いどおりにならないことも、気に入らないことも多々あっただろうに、あの人は決して自分の前ではそういう顔を見せなかった。約束を破ったのは、あれが最初で最後だ。  ややざわついている中、ユーリは踵を返して、壇上の後ろにある黒板に向かった。チョークを手に、土壌汚染をしている毒物の化学式、中和と無毒化に関する薬剤の化学式や効能、それに使用する薬草の薬効等を黒板に羅列する。最初からフォルムラ語になっているのに気付いたけれど、いまさら書き直すのも面倒だからと、書き連ねる。あっという間に黒板いっぱいに文字が詰まる。上下式の黒板を入れ替え、続きを書く。カルケルの採取場所、蒸留方法、どの薬草と混合させるか、配合率や1m四方に撒く適切な量など必要なことを一気に書いた。書き終わって、チョークを置く。振り返るとアルテミオがぽかんとしているのが見えた。 「これは、ちょっと」  短期間では無理だなと、ぼそりと言う。 「無理なの!? フォルスに帰してくれるって言った先からそれかよ!?」 「無理だね。きみは気付いていないかもしれないけれど、途中からフォルムラ語でもなんでもない」  言われて、黒板を見る。本当だ。土壌汚染をしている毒物の化学式のあとから、数字もすべてフォルムラ語ではなくて、結局最後まで“何語”か教えてもらえなかったものだ。なんでこの文字を書いたのだろう。あの人もここにいたのかと考えていたからなのだろうか。 「誰か、見たことある人」  アルテミオがふざけた口調で言ったが、誰も手を挙げない。基本的にみんな博識だから、誰か知っているかと思ったが、みんな知らないらしい。ベアトリスならなにか知っているのではと思って視線を向けたが、ベアトリスも知らないというように肩を竦めた。 「その言語とフォルムラ語を教えてもらえるなら、うちの隊貸しますよ」  ドン・ナズマの横にいた、やや小柄な人が興味深そうな表情で言った。 「あれ、珍しい。俺以上の“ものぐさ”が動いてくれるなんて」  「今日の夜から雪でも降るか?」とアルテミオが言ったら、ほかの人が「いやあ、もう降ってきましたよ」と笑うのが聞こえてきた。 「では、我々は暫し軍部を抑えてきますか」  いつも会議の司会進行役をしている人が不意に言った。ドン・マルケイ。軍医団の一番の古株で、軍部の中枢とも親交が深いのだと紹介された気がする。 「ドン・フィオーレ、先ほどのお言葉をお忘れなきよう」 「ジョスのように途中で逃げはしない。あくまでも彼が戻って来る間の“代理”だ。事が済めば、アナスターシャが継ぐか、他の誰かが継ぐかのお達しがジョスからあるだろう。それまではよろしく頼むよ」  どうせアレはオレガノからこちらを動かす気満々でいると、アルテミオ。ドン・マルケイはそれを分かっているかのように眉を下げて笑った。 「『リアム公の頼み』なら仕方がありませんな。あの方はいつも立場などあってないようなものだと仰っていた。不要な会議は時間と税金の無駄であると、我々から申し入れをしておきましょう」  「もちろん、軋轢を生じさせるような言い方は致しません」と、ドン・マルケイが立ち上がった。軍部とは違うというのは、本当らしい。  軍部には何度申し入れに行ってもあんなに動いてくれなかったのに、軍医団の人たちは驚くほどにスムーズだ。もしかして、ドン・アゼルの締め付けと監視があったせいで思うように動けなかったのだろうかと考える。ドン・マルケイたち会議大好き勢は、くせ者だらけだというイメージしかなかったけれど、意外なほど受け入れがいい。王様の弟――リアム公がそれほど慕われていたという証拠なのかもしれない。  やっぱりアルテミオのあのやる気のなさとひょうひょうとした感じは、手の内と爪を隠していただけだったようだ。外で言っていた「ジョスの“挑発に乗る”」というのは、立場云々で藻掻いていないで動くときには動けと尻を叩くための抜擢だったのだと思う。それにしてはと思いつつアルテミオを見ると、両手でわしわしと頭を撫でられた。やめろと手を払いのけると、どこか挑戦的に笑っているのが見えた。 「さあ、これであとはきみが事を済ませれば、いつでもフォルスに帰ることができる。俺は“環境を整える”まではしてあげるけど、そのあとのことは知らないぞ。こんな複雑な言語を覚えられる頭があるのなら、リナーシェン・ドクの最終試験なんて簡単にパスできると思うけどね」  まあ頑張ってと、アルテミオ。ほかの人たちが、会議がないのならと次々に挨拶をして出ていくのを横目に見ながら、ユーリは不満げに眉根を寄せた。 「研修が大変なだけなんじゃん」  ぼそりと言うと、アルテミオが不思議そうに首を傾げる。二コラがこちらにやってくるのを横目に見ながら、「どういう意味だい?」と尋ねてきた。 「去年と一昨年の過去問解いたけど、余裕で合格点以上だった」  アルテミオが呆れたような表情で溜息を吐いた。二コラもまた不審そうに眉を顰めているのが見える。 「俺の本棚を見たな?」 「だって夜暇だったし」  「きみには“世俗の常識”から教えないといけないようだな」と、アルテミオが言う。見てくださいとばかりに置いてあるのが悪い。反論するユーリに、二コラが「暇だとなにをするかわからないので、夜も監視員をつけたほうがいいですよ」と冷静に言ってのけた。

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