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Seventeen(2)

 本当に、フォルスに帰りたい。あそこに帰って、のんびりしたい。あと一年半もあるなんて、長すぎる。その間にスラム街の事後処理等をやれということなのだろう。提唱したのは自分だけれど、そもそれは自分がやらなければならないことなのか、と自問自答する。  東側に雨が降ったのは、なんとなく思い当たる節がある。  ――アンナに罵倒され、二コラに促され、ようやく一度大学に戻った。フレオと学長に状況説明をしたら、「こちらのチームに戻って来い」と言われて、脊髄反射で断った。目的は、これではないからだ。  サシャの遺体は一旦軍部に保管される運びとなったが、あまりに負傷者が多いことを理由に、サシャがよく仮眠室に使っていた部屋に戻されたと聞いた。「絶対に泣くから行きたくない」とごねる自分の両腕を、片方を二コラが、片方をアンナが引っ張ってその部屋まで引きずっていく様は、さぞ滑稽だっただろう。  部屋の前に着いて、有無を言わさずに部屋の中に押し込まれた。アンナは本当にひどい奴だと思う。両方の意味で。「オレガノに恩を売れるから」と言っていたけれど、ユーリ自身がエンバーミングに興味を持つと思ってやったに違いない。  アンナが自分の母親が亡くなったときに、気が済むまで一緒にいた――と言っていたのが気にかかっていたけれど、こういうことかと内心する。極力動かさなくていいようにするためだろう。少し浅めの棺に入れられたサシャは、あの日とまったく変わらなかった。少しも傷んでいない。丁寧にエンゼルケアを施されたのが分かる。  フォルスでの葬儀の時とは違って、着心地のよさそうな白いシルクのブラウスに、リボンタイが装着されている。服装はリズチョイスだろうか。割と肌触りにうるさいサシャが気に入っていたシャツが上にかぶせられていた。  ふわりと甘く、ほのかな優しい香りがする。キリロフとコレットのにおいが混ざっているようなそれのおかげで、サシャの身体が傷まなかったのだと察した。コレットの花を使うなんて、偶然かよと口の中で呟く。返事がないのはわかり切っている。でも、どうしてもサシャを呼びたくて、エトル語でサシャの名前を呼ぶ。  至福者の丘で、復活の儀ができるなら、――。そうも考えたけれど、たぶん、倫理に反する。古代イル・セーラがその方法を隠したということは、そういうことだ。二度目の死を与えることになる。生体移植が古代イル・セーラの伝承を元に作られたのだとしたら、誰かの犠牲の元に成り立つ方法だからと、封じられたのではないか。そんな気がした。そう考えると、これは代償でもある。封じられたそれを紐解き、医療に転用したのは“ユーリ”なのだろうけれど、もしそのことが発端だったとしたら、“ユーリ”自身があとでその可能性に気付いたのだとしたら、ノルマには施さなかった理由がわかる。  サシャが入った棺がある台の脇に椅子を持ってきて、そこに座る。手は触れなかった。触れたら壊れてしまいそうなのと、目の前にいるのに、本当にもういないのだと実感するような気がして、触れられなかった。  誰にも聞かれたくないから、エトル語で話す。“ユーリ”のこと、アマーリアのこと、キアーラが無事だったこと、チェリオたちのこと。そして、あのとき自分たちを助けてくれたのは、王様の弟だったこと。しゃべりながら、自分の頬を涙が伝い落ちるのが分かった。  後悔しているのに、後悔できない部分もある。いったい自分はどうすればいいのかがわからない。手元に残ったのは、サシャが持っていた懐中時計だけだ。「あのとき、サシャのいうことを聞いていたら」も、「エルン村の派遣に応じなければ」も、結果論だ。それに関わらなかったとしても、別の方法で、或いは直接襲われていたかもしれない。  でも、本当にただ、静かに暮らしていきたかっただけなのに、“ユーリ”の子どもだからとか、第一王族の末裔だからとか、そんなものが常に付きまとって、そのせいで巻き込まれたのだとしたら、この鬱憤はどこにぶつければいいのだろう。サシャならきっと「突かなくていい藪を突いたからだ」と言ってくる。だけどスラム街の救済がこんなに大きな話になるだなんて、誰も想像なんてできない。  ユーリはしばらくの間、そこにいた。時々思い出したように話しをする。返事も、相槌も、穏やかで諭すように話す声も、揶揄するような笑い声も、なにも聞こえない。それでも、いままでにあった出来事を、サシャに話した。  こんなにも長くサシャと離れたことなんて、一度もない。ベアトリスの発言には否定したが、自分の名前の由来になっているあの花に別の薬効を付与するために仕込んだもので作った薬を服用したら、あの毒で死ねるのではないか。そう思ったのに、やっぱり、本当に死ねなかった。  救世主であり、ある意味禁忌。肝心な時に咲いていなくて、サシャを助けてくれなかったのに、なにが救世主だと思う。アンリ王の弟も、同じ気分だったのかもしれない。でも、あの時、サシャが庇ってくれなかったら、――。もし自分が逆に死んでいたら、サシャはどうなったのだろう。  ぼんやりとサシャを眺めながら感情を整理する。サシャと意見の食い違いがなかったら。もっと、ちゃんと話す時間があったら。病室ではそれこそ他愛のない話をしていたけれど、サシャは血筋のことも、秘密のことも、なにひとつ教えてくれなかった。知らなかったのなら、ユリウスをあんなふうに退けるはずがない。“ユーリ”の意向だったのか、それともサシャ自身の判断だったのか。知りようもないことだ。  文句の言いようもない。知らないほうがいいと言うのは、サシャの口癖だ。でも、事情を知っていても、知らなくても、結局は巻き込まれているんじゃないか。自分がスラム街に手を差し伸べたことがきっかけなのではなく、最初から仕組まれていたことなのだとレナトには言われたが、それでも、言いようのない悔しさともどかしさが込み上げてくる。ユーリは零れ落ちる涙を拭りながら立ち上がって、サシャの棺が乗っている台を蹴った。  音がしたからか、誰かが入ってきた。続けざまに台を蹴る。すぐさま後ろから羽交い絞めにされたが、更に蹴りを入れた。 「ユーリ」  二コラだ。足が届かない位置まで少し引きずられて、距離を取られた。息が上がる。言いたいことはたくさんある。でも、言葉が出て行かなかった。裏でどんな暗躍があろうと、選択をしたのは自分だ。自分が悪い。その選択を人のせいにしてやり過ごそうとするのは弱い人間のすることだし、あくまでも個人的な感情なのだから、人にぶつけようがない。強がりでもなんでもない。そういう結果を招く可能性のあることを、自分が選択したのだ。  強くあらなくてはいけないと思ったのは、そう思い込んでいたのは、“ユーリ”の名前を継いだからだ。あの人ならそうはしない。その思い込みや概念は、結果的に自分を押し殺して、感情の出し方も、なにもかも、分からなくなってしまって、あのときも、サシャのときも、本音を出さなかった。だから、二度とおなじことが起こらないように、自分の中にある不安や、ぽっかりと空いた穴を消してしまえるのなら、いまだけは、“ユーリ”の名前を継ぐ前の自分でいさせてほしい。 「マジでなんなんだよ、自分はこっちが約束破ったらクソほど怒るくせに!」  また台を蹴ろうとしたからか、二コラから強い力で押さえ込まれる。 「サシャが……、サシャが二度とノルマと関わりたくないっていうから、だからそうなるようにいろいろ仕込んでたんだ! なのに、サシャがいなきゃ、やってきた意味がなんもないじゃないか!」  「黙ってないでなんとか言えよ」と罵るように言った自分の声は震えていて、言葉になっていなかった。返事がないことなんてわかっている。泣きすぎて息が上がっているせいか、身体を押さえ込む二コラの力が少し緩んだ。  収容所にいた頃からずっと押さえ込んでいたものの反動だと思う。仲間が殺されても、泣いたことなんてなかった。薬で感情や思考を麻痺させられていたこともあるだろうし、本当に小さい頃からそれが“当たり前”だったからだ。カーマの丸薬の離脱症状が起き始めた頃から、本当に情緒不安定だ。サシャからも、エドからも、怖がりで泣き虫だったと言われていたが、それはまだ収容所に行く前の小さい頃の話だと、そう思っていた。でも、そうじゃない。この感情は、サシャに向けるものだけじゃなくて、自分の中でずっと引っ掛かっていたものでもある。  王様の目を見て、思い出した。どうして自分はほかのイル・セーラよりも、ノルマに対して抵抗がなかったのか。王様の弟だけじゃない。そのあとにも、似たような雰囲気の人に会った。だからアルテミオにも不思議なほど抵抗がなかったのだと思う。  どうして忘れていたんだろう。知られては困ることは、このことでもあったのかもしれないと思う。本当に、自分たちがまったくなにも知らないときから、事象が動いていた。長いときをかけて仕込まれていた。ウィルの執着がそれほどだと言われればそれまでなのだけれど、一個人の恨みだけでできることじゃない。いくら地位のある貴族だとしてもだ。  急に身体を反転させられたかと思うと、二コラに抱き締められた。まるで自分を落ち着かせるかのように、深い息を吐くのが分かる。ユーリは縋るように二コラのシャツをぎゅっと握りしめた。  二コラの父親だって、ウィルの被害者だ。それなのに、二コラからはそのことに関する愚痴をなにひとつ聞いたことがない。一度尋ねたことがあったけれど、そのときに言っていたのは、「亡くなる前日に様々なことを語り合った」かららしい。  国医は特性上、命の危険が付き纏う。優遇されることも多いし、大学病院にいるよりも自由が利く。なにより、狭い世界にいるよりも様々なことを学ぶことができると、そう聞かされたのだそうだ。ただ、二コラには国医にはなるなと言った。亡くなったのはそのあとだ。  だから二コラは国医にも、リナーシェン・ドクにも興味がない。自分が母親や姉妹を守らなければならないし、サシャと同じでミクシアから出たくないと言っていたのを思い出す。 「こうなったのは、ユーリのせいじゃない」  言いながら、二コラの腕の力が強まっていく。 「こういうとおまえは怒るかもしれないが、おまえの窮地を救ってくれたような気がする。サシャ自身が、すべて身代わりになることで、裏で糸を引いていた相手の企みを退け、准将殿を救うことができた。それがなければ、いくらSig.ジェンマが優秀でも、いまのようにオレガノが手を貸してくれたとは思えない」 「誰も身代わりになってくれなんて言ってない」 「それでも、ユーリを怒らせてでも、真実を知らせないことで脅威から守りたかったのではないか? 同じようなもどかしさを抱えていたからこそ、なんとなくだけどサシャの気持ちがわかるような気がする」  兄貴面すんなと二コラの胸を殴る。溢れる涙をそのままに、二コラの腕をほどこうと藻掻く。二コラの腕の力が弱まったのを見計らって、その体を手で突っぱねた。 「ノルマなんか大嫌いだ。いままで約束を守ったことなんて一度もない。それなのに、いつも説教めいたことばっかり言いやがって」  泣きすぎて声が震えている。ここまで泣きじゃくる様を二コラに見せたことがない。あのとき、アンナの前で泣いた理由は自分でもわからなかったし、薬の離脱症状のせいだと思い込んでいたけれど、いまならわかる。目の奥の 嘘を吐けない感じや、言葉こそぶっきらぼうで全然違うけれど、でも自分のことを心配して言ってくれている感じが嫌というほど伝わってくる声の甘さが、あの人に似ているからだ。  二コラを避けていたのは、そのせいだ。もう一度失うのが怖い。手に入れることが怖い。 「どうせあんただって、守るって言っておきながら、大丈夫って言っておきながら、いなくなるんだ。だからもう、ノルマなんて信じないし、関わりたくない」  荒い呼吸を整えながら、涙を拭う。二コラはやっぱり、自分のことをよくわかっていると内心する。わかっているからこそ、距離を置いたほうがいい。サシャが自分を庇った理由くらい、分かっている。だから本音で文句を言えなかった。自分が藪を突いたせいもあるし、サシャの合図に気付いていたら、こんなことにはならなかったと、本気で思っていたからだ。  二コラはなにも言わなかった。ただ、ぽんぽんと頭を叩かれる。 「気が済むまで、何度でも文句を言ってやれ。俺もサシャに言いたいことがある。こんな聞かん坊の問題児を置いて行くな、とな」  ふざけんなと、二コラの足を踏みつける。二コラはいつもの皮肉そうな言い方ではなかったが、ユーリはその声色の意味を考えなかった。さすがに自分の扱いをよくわかっていると思う。慰められたところで、意地を張るのをよく知っている。ユーリは自分のなかにある鬱屈した気持ちと、出しても出しても涙となって込み上げてくる感情を振り払うように、大きく息を吐いた。何度も、何度もそれを繰り返す。何度目かの息を吐き切ったところで、涙を拭った。 「もういい」  ぼそりと言って振り返り、もう一度サシャが寝かされている台を蹴る。二コラがおいと突っ込んできたが、無視だ。  言いたいことは山ほどある。だから、気が済むまで文句を言えなんて言ったら、このままずっとサシャがここにいることになる。サシャはずっとフォルスに帰りたがっていた。文句を言うだけなら、あとでもできる。それがいま、自分にできる、サシャに対するただひとつの恩返しだ。  ユーリはサシャの棺に近付いて、その顔を目に焼き付けた。微細な部分にも気が付き、気を遣うアンナだからこそなのか、サシャの表情からはいつもあった不安げなものが消えている。眠っているときのサシャは、穏やかで、安らかで、でも少し儚げで、眠っているときも心底安心ができていないような、そんな表情だった。元気なころのサシャを見たことがないはずなのに、アンナはサシャの心のうちに気付いていたらしい。  また涙が溢れてくる。亡くなったあとでその不安や言い表せられない感情から解放されている姿を見て、こんなにも余韻のある感情と感慨深さを噛みしめることになるとは思わなかった。オレガノでエンバーミングが盛んなのは、たぶんイル・セーラが写真を残す習慣がないからだろう。故人を偲ぶために星送りをするし、死者に対しての儀式のほうが多い。でも、生前のことをあまり気にしていないのは、ドライと言われても仕方がないように思えた。  サシャとノルマ語で呟いたあとで、ふうと息を吐く。  エトル語で、サシャの本当の名前を呼ぶ。記憶にあるのはたった一度だけだけれど、フォルスで亡くなった人を偲び、送ったあとに告げる言葉を記憶の中から手繰り寄せた。自分自身が、母親代わりだったあの女性に告げた言葉だから、間違いはないと思う。もう一度、あふれる涙を拭う。必死にそれを堪えて、落ち着いたところで、サシャがいつも太陽みたいだと褒めてくれていたように笑みを手向けた。  愛しい人よ、姿かたちが変わっても、来世でまた会おう。

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