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Seventeen

 キアーラの壮絶なる超ゴリ押しと、王様やジルたちの計らいで、結局ユーリは本当にお咎めなしになった。  ミカエラに付き添われながら政府に意見書を持って行ったそうだが、その際にいつものあの笑顔で『レゼスティリ卿に弱みを握られているせいでわたしの救出が遅れた旨を伯父様に喋ってしまおうかしら』等、等、等……諸々と元老院と政府の面子のメンタルをことごとく破壊せんかぎりの静かなる恐喝なんてされた日には、誰も文句を言えなかったらしい。さすがのミカエラも、キアーラがあそこまで強かに立ち回る様を見てちょっと驚いたと言っていた。  スラム街一帯は、土壌の改善等の環境が整い、再び住めるようになるまでの間は閉鎖及び立ち入り禁止。元々そこに住んでいた住人たちは、希望者は下流層街へ、そして町の暮らしに馴染めない人たちは、隣村のシエテや、いまは廃村となっている近隣の村へ、そしてチェリオたちは全員ウォルナットに住むことになったらしい。  あれからロレンたちには会っていない。チェリオは度々オレガノに呼び出されるせいで、ちょいちょい顔を合わせるものの、じっくりと話す機会がない。 「ねーえー、マジでなんで俺だけ髪伸ばさなきゃいけないの?」  相変わらずベアトリスに髪をアレンジされながら文句を言う。仕方ないですねぇと、暢気な声が聞こえた。 「だってそうしないと、みんなあなたと准将殿を間違えてしまうんですから」 「じゃあ俺が眼鏡かける」 「そうしたら准将殿が執務の時に困るでしょう」  わがまま言わないでくださいと、ベアトリスが何度も繰り返されるやりとりに付き合ってくれる。 「はいはい、とっとと会議に出てくださいね、コマンダンテ」  ギッとベアトリスを睨む。気に入らない。本当に気に入らない。あの男、次に顔を合わせたらぎたんぎたんにしてやると闘志を燃やす。部屋の奥から二コラの焦れたような声が聞こえてきた。 「あ、あっちもやってる。今日も相変わらずですねぇ。いい加減諦めたらいいのに。あなたも、彼も」  ベアトリスの言い分には素直に頷けない。ユーリとアルテミオは、『ドン・クリステン被害者同盟』の徒党を組んだ仲だからだ。  ――二週間ほど前、ふたりして議会に呼び出された。オレガノ、ミクシア間の調印式でもある厳粛な場だ。ユーリは場違いだと固辞したが、あの野郎はそれを許さなかった。  『ブラッキアリ家はアナスターシャ・ジェンマを養子に迎えると共に、私は全責務を彼に譲る。そしてオレガノに特使として赴く運びとなったので、軍医団長はアルテミオ・フィオーレに、そして軍医団二部団長はユーリ・オルヴェに任せる』と。ふたりとも、なにを言われているのかがわからなかった。  そしてさらに、ユーリがドン・クリステンに言っていた、フォルス、ヴェッキオ、リーチェ、ジェオロジカ周辺、そしてスラム街一帯はオレガノ領地となり、フォルス出身のユーリは必然的にオレガノ領民となる。とどのつまり、ユーリがミクシアから出たくないとごねたこともあり、ミクシアに居ながらにしてオレガノ領民となった。しかも軍部所属となると、誰も手を出すことができないだろうという、ミカエラとキアーラの口添えプラス、ジルと王様の判断だった。大迷惑だ。  一番得をしたのはオレガノだ。なにもせずに領地を増やした形になる。あの日、ミカエラが「最終局面で勝てればいい」などと言っていた意味が分かった。そして更に、ドン・クリステン――基、レナトも、そうしてしまえばいつでもミクシアを火の海にできるぞと、ミカエラをそそのかしていたらしい。どっちが悪者なのかと言いたい。  ユーリとベアトリス、アルテミオと二コラのこのやり取りは、あれからほぼ毎日のように繰り返されている。 「会議の資料は纏めてあるから、二コラが行ってきてくれ」  うんざりしたような口調で、アルテミオ。二コラはしつこい。その程度で怯むわけがない。だからこそレナトがアルテミオの補佐官に二コラをつけたのだ。 「“今日こそは”出て頂きます。この数日、まともに会議に出ておられないでしょう」 「俺は団長なんて器じゃないよ、そもそも、あの契約書を見ただろう? 俺の字じゃない、ジョスが勝手にサインをしたんだから、俺は知らない。ニコラとアースィムで行けばいいんだ」 「またそのようなことを。俺はドン・クリステンから貴方の補佐官を頼まれているんです」 「もう面倒だよ、先週からずっと同じ会議ばかり。馬鹿なんじゃないのか?」 「引継ぎ等々やることはたくさんあるので仕方がありません」  口々に文句を言いながら、二コラとアルテミオがやってくる。ユーリはそれを恨めしそうに睨んで、バンとテーブルを叩いた。 「ふざけんな、是正を訴える!」  フォルスに帰せ! と声を荒らげた。 「俺だって寝耳に水だったんだ、文句は全部ジョスに言ってくれ」 「あいつどこ!?」 「もう海の上だよ、明日の昼過ぎにオレガノに着くってさ」  はあとアルテミオが遣る瀬無い溜息を吐いた。  そんな横暴があるかと、調印式が終えたあとに文句を言いに行ったら、レナトは爽やか極まりない笑顔で、「私を二度揺さぶっただけならまだしも、三度も揺さぶるからだ」と言ってのけた。相手を選ばなかった自分も悪いけれど、まさかただの貴族じゃなく、王の兄弟だなんて想像もしない。王は順当になるものだと思っていたし、あとからジルに説明をされたけれども、未だによくわかっていない。  前王の正室はレナトの母親だった。同時期に現王の母親を娶り、現王が生まれた。レナトとは3歳違いの異母兄弟で、レナトの母親が病で亡くなったあとで、現王の母親が正室に繰り上がった。そして現王の母親よりも少し身分の低い上流階級から側室を娶り、それがリアムの母親なのだそうだ。レナトとは9歳ほど離れているし、レナトは前王のことが嫌いすぎて、身分こそ一番上だが継承権を破棄し、オレガノに特使として赴くことを志願した。そして4年前にこちらに戻ってくるまで、オレガノにいたそうで、ミクシアよりもオレガノにいるほうが長いのだと言っていた。  リアムは正室の子ではないので、元々継承権がない。だからクリステン家の名を借りて、軍医団にいた。クリステン家は、なんとアルテミオの母親の家の名らしい。リアムとアルテミオは血筋的には従兄弟にあたる。そう聞かされた時、なるほどと思った。  ジルは言った。「伯父上は鋭すぎるので、前王がオレガノに退けたのではないかといううわさすらある」、と。よくわからないけれど、前王は即位前にフィッチと手を取ってオレガノに手を出そうとしたらしいが、オレガノのイル・セーラは戦闘に長けていることもある上に、元々が戦闘民族のネーヴェ族とファロ族がいるのだから、地の利もあり勝てるはずのない戦だった。だからこそイル・セーラを恨んでいたのと、フィッチとは犬猿の仲だったのだと聞かされた。本当によくわからない。  ミクシアを丸め込み、領土を広げおいしい思いをしたのはオレガノだけれど、フォルスがオレガノ領になれば、オレガノの属国であるパドヴァンが守ってくれる。パドヴァンにもイル・セーラがいるし、国境周辺はやや貧困地帯であり農作物が取れにくい場所でもあるから、有事の際に守護する代わりに土壌の改善等々の方法を教えてもらえるとありがたいと、レナトが言った。  「そのくらいの知識ならいくらでも貸すけれど、パドヴァンは本当にそれでよいのだろうか?」という端的なエドの問いに、レナトは「貧富の差を改善するのは、パドヴァン側にとても悪い話ではない。土地柄作物が取れにくいうえに、ミクシアで起きた紛争の余波で、あの周辺はすべて燃えてしまった。それに海が近いこともあり、フィッチから戦火を逃れてきた人たちがあそこには大勢いる」と答えた。そんなことを聞かされたら、ユーリが黙っているはずがないと思ったのか、エドから真顔で「頼むからパドヴァン側には近づくなよ」と念を押された。  念を押されたが、実際こうしてミクシアに缶詰めにされている。エドたちはまだウォルナットにいるだろうし、正直パドヴァンのことも気になるけれど、いまはどう取り計らえばこの状況から逃げられるか、だ。  ユーリとアルテミオに面倒を押し付けて、自分はいまからオレガノに羽を伸ばしに行く気満々の表情で、「愉快、愉快」と笑いながら去っていった。本当に憎たらしい。 「あ、そうだ、ユーリ」  唐突にアルテミオに呼ばれ、ユーリはきょとんとした。 「ニコラ、ちょっとユーリと話があるんだ。先に行くよ」  言って、アルテミオがユーリの背中を押す。 「え、話?」 「そう、大事な話」  いいからいいからと、アルテミオ。きょとんとしたままアルテミオに連れられ、執務室を出る。 「話?」  アルテミオを見上げながら声をかけると、しっと人差し指を立てた。そしてあたりに誰もいないことを確認して、アルテミオが執務室横の謎の扉の鍵を開け、素早くその中にユーリを押し込め、自分も入ってきた。静かにドアを閉め、鍵をかける。扉の向こうにあったのは、階段だった。 「……え、話って?」 「逃げるが勝ちだ、ユーリ。俺はもう会議に出ない。二コラに任せよう」  きょとんとするユーリを引っ張って、アルテミオが階段を下りていく。階段を降り切って、施錠された別のドアのところまでたどり着くと、手早く鍵を開けてほんの少しドアを開けた。外には誰もいない。よしと呟いて、アルテミオがユーリを連れて建物の外に出た。 「ああもう、ジョスめ。戻ってきたら許さないぞ」  手を引っ張られ、どこかへ連れて行かれる。連れてこられたのは、軍部の建物の裏にある、森の中だった。その森の中は、少し抜けると開けた場所があり、そこから海が見えるようになっている。アルテミオはそこまでユーリを連れてくると、手を離して、ごろりと草原に横になった。 「本当に、ろくでもない不良王族だ」  ぼそりとアルテミオが吐き捨てる。概ね同意だ。言い分はわからないでもないけれど、軍医団長が脱走をサポートしていいのかと思う。 「会議、始まるんじゃないの?」 「二コラがうまくやるよ、問題ない。きみだって、どうでもいい話を聞かされるのは飽きただろう」 「そりゃあ、まあ」  手順大好き軍部と詰っていたが、軍医団にもその体制が反映されている節がある。アルテミオ曰く、レナトが戻ってきてからだいぶ重複する作業は減ったものの、未だに無駄な会議が行われていると言っていた。そもそも、二部の団員は基本的に各階層に設けられた病院に所属していることから、アルテミオも普段は大学病院の救急室にいたらしい。まったく知らなかった。  本来ならユーリもスパツィオ大学の研究医に戻ることを勧められたが、固辞した。あそこに戻るくらいなら、リナーシェン・ドクの資格も要らないし、オレガノに寝返ってミクシアを火の海にしてやると、冗談めかして、割と本気で言っていたが、そのせいもあってかこういう結果になった。  誰にも言っていないけれど、手術もできないのにリナーシェン・ドクの資格なんて必要あるのだろうかと、密かに思っている。  サシャの手術の影響なのか、いまだにメスを取ると手が震える。それに気付いたのは、自分で腹の傷を処置しようとした時だ。最初はただ、毒の影響かと思った。でも毒がだいぶ抜けたあとに、ただメスを手にしようとするだけでもそうだった。北側のディエチ地区で処置をしたときには、まったくそんなこともなかったのになあと邂逅する。  ただまあ、慣れればまたどうにかなるだろうと楽観視している部分もある。きっと一時的なものだろうと気にはしていない。オレガノがバックにいるのだから、早々また有事が訪れることもないだろう。 「軍部ってマジで税金泥棒なんだなって思った。何回も同じ会議繰り返しやがって」 「本当だよね。議会を担当しているのが俺よりも目上の貴族だから、なかなか口出しができないんだよ。ジョスめ、これは絶対に嫌がらせだ」 「だろうな。それに俺がいきなり軍医団二部のコマンダンテなんてさ。最悪なんでですけど」  思いの外軍医団の人たちは、ユーリを受け入れてくれた。たぶん、先代に世話になっている人たちがほとんどだからだろう。割と年齢の若い人たちは怪訝な顔をしていたものの、なにかを言われるようなことはいまのところない。  というよりも、正直に言ってギャップに驚いている。どんなところなのかと内心ビクビクしていたが、元々が“ユーリ”を信頼してくれていた人たちが多いせいか、受け入れ態勢がハンパない。たぶん軍医団の割と偉い人であろう人から代わる代わる頭を撫でられるわ、「すぐに出してやれなくてすまんなあ」と頭を下げられるわ、ここは時空が歪んだ魔境かなにかなのかとビビり散らかした。  リュカが言っていたのは、このことなのかと思う。一部の人たちは前王の悪政を快く思っておらず、奴隷解放を推進する運動をしていたし、そういう人たちは淘汰されたらしいが、その人たちに鍛えられた軍医たちがここに残っている。ユーリと割と年齢が近い軍医……といっても、大体が30歳越えの人たちだけれど、彼らはイル・セーラが突然来て戸惑ってはいるものの、おそらくそこまでの差別意識がないと、ドン・ナズマが言っていた。なんと言ってもガブリエーレ卿の教え子だ。「え? 差別? するの? 馬鹿なの? そんなんで国外に行って治療できると思ってんの?」と煽られ、詰られ、鍛えられてきたからこそ、内心「やべえ、あのガブリエーレ卿が言っていたイル・セーラじゃねえか、どうやって扱えばいいんだ」とうろたえているはずだ……とも言っていた。  なんでいきなりここに連れてこられた挙句に、珍獣扱いされなければならないのか。15時のおやつに毎日見た目とトッピングが違うアップルパイとシナモン・ティーが出てくること以外、なにもいいことがない。 「もうリナーシェン・ドクの資格とか要らないからさ、フォルスに帰らせてよ」 「そんなこと言わないで。補佐官様がきっちりフォローしてくれるさ」 「いや、その補佐官が問題なんだ」  ユーリが冷静に突っ込んだ。軍医団二部の補佐官――あくまでも期限付きだが、ミカエラだ。ユーリは軍部の内情に疎いこと、そしてどうせ逃げると行動を読まれたうえでのことだ。もちろん、ユーリ自身が軍医団二部のコマンダンテでいるのも、ミカエラの任期が終えるまでの期限付きだ。なぜそうしたのか、理由があるのだろうけれど、聞いていない。  リナーシェン・ドクのことを引き合いに出されたら、断れなかった部分もある。栄位クラスに戻らないのなら、リナーシェン・ドクの再試験はなし。ただし、こちらの要求をのめば……と言われたら、頷かざるを得なかった。まさかそれが軍医団に所属するはめになるとは夢にも思わなかったが。 「ミカエラの任期が終えるまでの限定とはいえ、マージで気が進まない」 「いいじゃない、二部のコマンダンテ。楽だよ。俺から指示がない限り、ほぼ自由だ。  それに、地下街はオレガノ領地になったんだから、いつでも行きたい放題。きみが入ったって言っていたあの遺跡に入ったって、誰も文句は言わないよ」 「オレガノ領なら、オレガノの許可がいるんじゃ?」 「交渉してみたら?」  交渉? と尋ねた時だ。風に乗って、ふわりと甘い香りが漂ってきた。キアーラのトワレのにおいだ。顔をあげると、キアーラがこちらに気付いて手を振ってきた。  アルテミオを睨む。いまは軍部の診療所に移ってきたキアーラとミカエラがこのあたりまで散歩に来るのを分かっていて、ここに連れ出したのだろうと気付く。わざわざ顔を合わせないようにしていたというのに、こういうところには嫌に敏感だ。 「腹黒野郎っ」 「きみが顔を見せないから、会いたがっていたよ」  知らんわとぞんざいに言って、視線を逸らした。  会いたくないわけではない。でも、なんとなく、気を遣わせそうな気がした。 「ユーリ」  ミカエラに付き添われ、こちらに歩いてくる。ユーリの心配とは裏腹に、キアーラはいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。それを冷めた目で見て、拗ねたように唇を尖らせた。 「っとに、面倒なことをしてくれたもんだ」  貴族様は自分勝手なやつばかりだとぼやく。キアーラは嫌な顔もせずにくすくすと笑った。 「本当はあなたの意見も聞くべきだったんだろうけど、聞いたらきっと反対すると思ったの。  でも、こうすればあなたは自由に出歩けるし、さすがにオレガノの目があったら誰も手を出さないわ」 「どうだか。逆に目ぇつけられたりとかするかもしれないじゃん」  王様は約束通り、故意の殺人罪等重罪人以外のスラム街の人たちへは国民権を復活させてくれた。ただ諸々手続きが必要だからと、難民扱いではあるものの、なにかがあったときにはきちんと医療を受けられるようにと取り計らってくれている。ユーリたち軍医団二部はそれを担うよう告げられた。ハメられた。そう気付いたときには、レナトはもういなかったのだ。  パンデミアが生じた原因等々、すべてテロだったことも各メディアを通じて根回し済みだと言われているけれど、ユーリは未だに一人で出歩かない。まるでサシャのように慎重になっている。自分のなかに”自重”という言葉があったのかと、自分で驚いたくらいだ。 「そういえば、ユーリは制服を着ないのね」  キアーラが不思議そうに言った。アルテミオも、ミカエラも、一応軍医団の制服を纏っている。ユーリだけはいつものシャツにデニム、そしてリボンコード付きのカーディガン羽織っている状態だ。一応制服をもらってはいるけれど、なんとなく着る気になれない。元とはいえ軍医団長から私服でいいと許可を取っている。 「“元”奴隷が軍服なんて着ていたら、なにされるかわからない」 「ご心配なく。オレガノ領内もですが、ミクシア領内で万が一のことがあれば、即刻火の海だと脅していますので」 「こっわ……」  「最悪だろ、コレ」と、アルテミオを見ながらミカエラを指さして言う。自分に対する過激派が増えたように思えてならない。 「ご心配なく……じゃねえわ、心配すぎる」 「大丈夫よ、なにもなければ、ミカだってなにもしないわ」  ちゃんと弁えているのよと、ふわりとした笑顔で、えげつないことを言う。弁えている人間は、ミクシアの軍医団長を前にして「火の海にする」だなんてことは言わない。マジでヤダと溜息交じりに言って、また海のほうへと視線をやった。  不思議なほど凪いでいる。北側から流れてくる風も穏やかで、以前よりも済んでいるように思えた。  毒物汚染の根源である西側のスラム街には、土壌改善及び無毒化するためのものを散々撒いてきた。一応、帰り際に東側にも、北側にもだ。ノンナとハロじいちゃんの墓参りも済ませたし、全然住めるような状況ではないけれど、瓦礫の処理はある程度済ませた。遺体に関しては、どうやら二コラか誰かがちゃんとしてくれていたらしい。  自分の気が済んだからなのか、なんなのか、滅多に雨が降らない東側に、大雨が降った。これがスコールかと思うような雨を初めて体験したその雨は、ユーリが北側のスラムを抜けてもまだ続き、傘も持っていないからびちょびちょのまま下流層街で雨宿りをしていたら、リズに出会った。  リズもまた、雨に降られて帰れなかったらしい。びちょびちょのユーリを見て、心配するどころか笑い飛ばされた。しばらく、そこで他愛もない会話をしていたら、不意に雨が止んだ。リズが「あっ!」っと声を上げて指をさした先には、天使の虹(ダブルレインボーのこと)がかかっていた。フォルスではよくある光景だったけれど、ミクシアに来て初めて見た。割と天体や気象現象が好きなリズは興奮して、暫く放してくれなかった。あれはきっと天使からのメッセージだとか、幸運の証だとか。自分で言っておきながら、リズはユーリに悟られないように目を擦っていた。バレバレだったけれど、なにも突っ込まなかった。  フォルスでは、誰かが亡くなって、葬儀を済ませたあとは、あそこまでの雨ではないにせよ雨が降って、至福者の丘に天使の虹がかかった。それは亡くなった人からの謝礼でもあると言われたのを思い出す。  ふと、リズが「サシャからのメッセージだったりして」と言った。にやりと笑う。リズが次に言いたいことはわかっている。「リナーシェン・ドク不合格おめでとう、だろ」と先に言ってやったら、リズは腹が立つくらい大笑いしていた。  たった2週間前までのことが、嘘のようだ。これは白昼夢で、サシャがいないことも、スラムがあんなことになったのも、すべて現実じゃなければいいのに。海を眺めながら、なぜかそんなふうな考えがよぎった。

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