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【Azul】trompe-l'oeil/騙し絵
気が付いたら、オレはいつもの公園にやってきていた。
どうしてここにきたのかは覚えていない。確認したいことがあったのか。それとも聡一郎(オレの幼馴染で、いま家に泊めてくれている)とケンカして、飛び出たのか。定かではない。
この公園に来たことで、自分の周りがモノトーンになっていることを自覚した。なんの色もない。薄暗く、冷たい。
でも、この桜だけは違った。そこだけが鮮やかにオレの目に映る。ほのかな暖かさに包まれているかのような錯覚に見舞われる。けれどふいに桜から視線をそらせば、そこはもう、色のない世界だ。
こんなふうになったのはいつ頃からか、覚えていない。ずっと前からこうなのか。つい最近からなのか。
聡一郎の家にいるときも、確かにあまり色を感じなかった。それは自分が薄暗い部屋にいるからだとばかり思っていたのに、そうではなかったらしい。
オレは虚しさを吐き出して、桜を見上げた。
まだなにも纏っていない桜の木は、凛としている。
去年見た、咲き誇っていたときとおなじようなやわらかさで、独特の香りが風に孕んでいそうだった。
ここに来たところで、なにも打開できないことは知っている。
あれから何度こうしただろうか。地面に影を落とさなくなるまで、手足の感覚がなくなるほど冷たくなるまで、まるで縋るようにここで待っていた。
そうしたからといってなにが変わっただろうか。
実際にはなにも変わっていない。それどころか、どんどん袋小路に陥っているようにさえ思える。
自問自答しようにも、さまざまな思考と感覚で構成された海に飲み込まれてしまったかのように、なにも解らなくなる。
オレは両手で顔を覆って、身体を屈めた。
オレの中にある鬱々とした得体の知れない気持ちは、いつまで経っても消えない。
そこから抜け出せないということだけがはっきりとオレの眼前に突きつけられたような気がして、吐き気がした。
溜息を吐きながら空を見上げると、次々と雫が降りてくるのが見えた。
公園の街頭がその光景をやけに神秘的に演出している。滴に光が溶け込んで、とてもキレイだった。
地上に降りてきた雨は土に混じって、たくさんの水溜りを作っている。
晴れた日にはまた空に上がっていって、雨が降ったらまたこんなふうに降りてきて、時は違うかもしれないけれど、またおなじ場所に巡り合うこともできるだろう。
人間にはリセットが利かないから、この雨のように空に還ってしまえるのが羨ましいとさえ思う。こんなにも悲観的になっているのは、きっと――。
そこまで思った時だ。
オレと雨とを、なにかが遮った。
同時に、雨が地面に降りることを阻まれた、小さな悲鳴が聞こえてくる。
いままで聞こえなかった雨の音が、車の音が、うるさいくらいに鳴り響く。
なにが起こったのかわからなかった。
髪を伝って落ちてくる滴が邪魔で、それを手の甲でぬぐったときだった。
「風邪ひいちゃいますよ」
ふわりと、優しい声が振ってきた。
聞き覚えのない、でもどこか懐かしい声だ。
驚いて顔を上げると、そこには男の子が立っていた。高校生くらいだろうか? 随分線が細いし、髪も真っ黒だ。
呆然と彼の顔を見つめる。誰かの顔をまじまじと見たのはどのくらいぶりだろうかと自問したくなるくらい見つめていたと思う。
だからだろう。彼が困ったように笑った。
真っ青な空のように透明で、とても澄んだ目をしている。ほかの人よりも少し茶色がかっているそれからは、何故か目を逸らすことができなかった。
彼の目に映っているオレは、とてもひどい顔だ。
まるで縋るような目だった。オレは自分のその目を見て、自嘲気味に笑った。
なんて顔だ。情けない。オレは自分で決断したんじゃなかったのだろうか。それなのに未だそのことに囚われているだなんて、煮え切らないにも程がある。
いままではとても静かで、凪いでいた心に、赤が孕んだ波が押し寄せてくる。オレは自分の心に生まれた気持ちを握りつぶすかのように拳を作った。
「もうすぐ雪が降るみたいですよ」
けれどそれは、すぐに穏やかな波に変わっていった。
彼がショルダーバッグから出したスポーツタオルをオレに差し出してくる。
これで雨粒を拭けというのだろう。オレに躊躇する余裕さえ与えない。いや、この好意を無にしてはいけないような雰囲気に包まれて、オレは慌ててそのタオルを受け取った。
「あ、ありが、とう」
そのタオルは、彼とおなじでふわふわしていて、肌触りがよかった。おろしたてのものなのか、手入れがしっかりしているのか、ほつれひとつない。
感触を確かめるように拡げて、やわらかいそれですっかり濡れてしまった髪や顔を徐ろに拭き始めると、彼がそっと笑うのがわかった。
顔立ちは幼いけれどしっかりとした顔つきだ。やわらかさと温かさを両手に持っているような、とても変わった雰囲気を醸している。
「傘、よかったら、使って下さい」
「‥‥え?」
「もうすぐ迎えが来るので、なくても大丈夫なんです」
言って、彼が笑う。
とても形容しがたいものだった。
優しいとも、明るいとも、柔らかいとも違う。
その場の空気が、温度が一瞬にして変わってしまうほどの存在感。
それはオレにとってだけなのかもしれないが、ただただ、圧倒された。
オレはその傘を手に取るべきかどうか考えた。彼がオレの方へと傘を寄せてくる。それでも手に取る素振りを見せなかったからだろうか。彼はオレの手を取ると、そっと傘を握らせた。
見ず知らずの人間に傘を貸すなんて、お人よしもいいところだ。そう言ってやろうかと思った。でもオレの口からその言葉は出て行かない。それどころか、二の句を継ぐことすらできなかった。
次の言葉を発せないままに、向かいに停まった車がクラクションを鳴らして彼を呼んだ。彼はオレに一度頭を下げて、車へと歩いていく。
その足取りにオレは目を瞠った。
右足が悪いらしく、引きずるようにして歩いていく。
不規則な音。歩き方。それは、オレの意識を彼に向ける要素にしては十分すぎるほどだった。
オレはとっさに、彼の袖を掴んでいた。
彼が不思議そうにオレを見つめる。
特になにかが言いたいわけではない。けれど、彼がここを去ってしまったら、またモノクロの世界に戻ってしまうんじゃないか。そんな懸念が、オレにそうさせたのかもしれない。
ああ、どうしようもないのに、まだ抗おうとしている。どうすればいいかわからないまま抗ったって、なんにもならないのに。
オレが、オレ自身が解決しなければならないことなのに、なんだっていつもこうして甘えてしまうんだろう。彼にはまったくもって関係ないことじゃないか。
そう思ったら、するりと彼の手を離していた。
彼は一瞬、なにかを言いかけた。けれど急かすように鳴らされたクラクションに誘われて、行ってしまった。不規則な足音だけが耳につく。オレはそれが離れていくのを聞きながら、拳を握りしめた。
そのときに気づいた。傘を持つ自分の左手が妙に温かいことに。
寒さに手が震えている。厚手の赤いパーカーも、色を変えるほどぐっしょりと濡れている。
さっきまで――彼の声を聞くまで、あの雰囲気に触れるまで、気がつかなかった感覚が、徐々に蘇ってきた。
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