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 オレはぼんやりと、雨の声を聞いていた。  なんだか悲しげに泣いている。土に還りたいのに、それを傘に阻害されているからだろうか。  あちこちにできている小さな水溜りや、街灯に照らされ乱反射する滴が、目の錯覚のせいか、パピエ・コレのように見える。  そういえば、こんなにも音に包まれた世界に触れたのは、ひさしぶりだな。  そう思った時だ。 「ナオ!」  どこかで、誰かに呼ばれたような気がした。  声のしたほうに視線を向ける。そこには、慌てた様子の聡一郎がいた。  数段しかない階段を駆け下りて、オレのほうへと走ってくる。オレはどこか冷静に、こんなに慌てている聡一郎の顔を久しぶりに見たなと思っていた。  どうしてこんなに慌てているのだろう。聡一郎から視線を逸らさず、けれど目を合わさないまま、聡一郎がこちらへ来るのを待った。 「どこをほっつき歩いてるんだ、お前は!」  聡一郎はオレのほうに走ってくるなり、そう怒鳴った。  今朝までの、ノイズ交じりのものとは違う、クリアな声だ。  それがあまりにも煩くて思わず耳を塞ぐと、「生意気な」と吐き捨て、頭を叩かれた。 「どこに行くつもりだった?」  まるで気持ちを落ち着けるかのように溜め息を吐いて、聡一郎。  どこへ行くつもりだったかなんて、こっちが知りたい。  オレは聡一郎の言葉には答えず、まだ蕾をつけていない桜の樹を見上げた。  オレがここに来た目的。それを考えて、自嘲気味に笑う。どうしてここにきたのか、自分でもわからないのだ。覚えていない。記憶にない。そのどちらも違う。本当にわからない。気が付いたらここにいた。そんなことを言ったら、きっと聡一郎は怪訝な顔をするだろう。  聡一郎は傘も持たずにオレを探し回っていたらしい。服がびしょびしょに濡れている。おもむろに傘を差し出してやると、溜め息のあと、オレの頭にぽんと手が置かれた。  大きな手だ。暖かいはずのそれが、すっかり冷たくなってしまっている。なんだか申し訳なくなって、聡一郎を見上げると、困ったように笑って、言った。 「まあ、無事でなによりだ」  帰ろう。そう言って、聡一郎が歩き出す。  オレは小さく頷いて、聡一郎の後ろをついて行った。  聡一郎は相変わらずだ。必要以上に責めてこない。オレがなにも言わないことを解っているからかもしれない。遠慮がなさそうでいて不用意に立ち入ろうとしないところは嫌いじゃない。  けれどきっと、気の強そうな目に赤を宿らせて、きりりと整った眉の間に深い皺を刻んでいただろう。ワックスで立たせた、ウルフヘアに近いベリーショートの黒髪に指を突っ込んで、豪快にがしがしと頭を掻きながら。困ったときや、説教をする前の、聡一郎の癖だ。  家路を辿りながら、オレは虚ろではあるが、少しずつ家を出たときのことを思い出していた。  朔夜くんの部屋でぼんやりしていたとき、不意に桜の木を見たくなった。どうしてかは覚えていない。ただ、そこに行きたかった。  そしてそこで出会った彼が、無音だった世界を引き裂くように訪れた、繭の中にいるような空間が、オレの中に広がる黒を、少しずつ融解していくものだったことは確かだ。  オレが家を飛び出たとき、聡一郎は家にいただろうか? 覚えていない。聡一郎が会社から帰って、オレがいないことに気付いて、こうして捜しにきたんだろうか? もしそうだったら、却って迷惑を掛けているな。そう思って聡一郎を見上げたとき、ぴんと額を指で弾かれた。 「また迷惑かけたって顔してる」  そんなことはない、とは言えない。オレが眉を顰めると、聡一郎は薄く笑った。 「お前に迷惑掛けられるのなんて、慣れてるよ。ガキの頃からの付き合いだしな」  敢えて聡一郎のセリフに、言葉を返さない。  確かに幼馴染ではあるけれど、迷惑を掛けられ慣れるというくらいに、オレは聡一郎に迷惑をかけていただろうか。 「少しは、怒ればいいのに」  唇を尖らせて、不満を漏らしてみる。すると聡一郎は鼻で笑って、湿ったオレの髪をわしわしと乱した。 「自覚があるならいい」  聡一郎は、それ以上は言わなかった。  だからオレも、なにも言わない。  あの公園に向かうまでは、黒に染まった森の中を無我夢中で走って、漸く光の兆しを掴んだような感覚でいた。  隣に聡一郎がいるからだろうか。それとも、彼に出会ったからだろうか。モノクロに包まれて右も左もわからなかった世界は、ほんの少し色づいていて、妙に懐かしい街並みに変わっていた。

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