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perspective/遠景、または眺望
雨の中、傘も差さずにうろうろしていたせいで、オレは風邪をひいてしまって、この数日間寝込んでいたらしい。
らしいというのは、聡一郎からそうなのだと聞かされたからで、オレ自身はそのことを覚えていない。昨日の夕方、漸く目を覚ましたそうだ。オレがあまりにも目を覚まさないから、近くの病院にオレを担いで連れて行き、事情を話して点滴を打ってもらったのだと聞いた。その証拠に、オレの左腕には真新しい注射の跡が残されている。保険証がどうのこうの、差額を返還がどうのこうのと言っていたが、正直よく聞いていない。ただでさえぼんやりしているのに、いまは風邪をひいていて、しかも数日目を覚まさなかったのだから、脳が正常に働いていなくても仕方がないと思う。
布団の中で寝返りを打って、半分ほど開けられたカーテンの隙間から、外の様子を窺う。数日前の雨が嘘のように晴れていた。だから数日前とは違い、暖かい。それにいまは布団の中にいるし、聡一郎が気を利かせて暖房をいれてくれている。あの日は気温が5度を下回るほどの寒さだったらしい。それなのにオレは、厚手のニットにスキニーパンツなんていう薄着でうろうろしていたのだ。コートも着ず、手袋も、マフラーもせずに。
オレは元々人より寒がりだ。普段は間違っても薄着で外に出るなんていうことはしない。だから聡一郎が、『3月の上旬なんて、暦の上では春でも、どう考えても冬じゃないか』と揶揄してきたのは仕方がないと思う。でも、あのときのオレは、寒いとも、冷たいとも、なんにも感じなかった。それはオレの周りがまるでキアロスクーロ(ここではモノクロと同意で、一色か二色で描かれた絵のようという意)のようだったからかもしれない。
けれど、彼に出会って、単調ではないほかのものが発色し始めると、不思議なことに、様々な感覚がオレの中で目覚め始めた。
たとえば、聴覚や視覚。触覚もそうかもしれない。彼に出会った後から、耳はやけに精度がいい。窓の外から聞こえる人の声が耳障りなほどだ。
つい数日前までは、無声映画のスクリーンに取り込まれてしまったんじゃないかと思うほど、無音の空間に包まれていた。周りはいつも、ステイ先で見た無声映画のような静けさだった。モノトーンの風景。オレに纏わりついてくる空気も、なんとなく濁っている。目に見えるはずのないそれが、オレの指先に絡んできて、煙のようにするりと消えていく。もしかするとオレがこの世界には不釣合いで、いつか見た映画宛らこのまま砂になって消えてしまうのではないだろうか。そんなふうに思っていた。
でも、違った。オレはまだ、ここにいた。あの桜とおなじように、息吹いていた。
あの公園で彼に出会った後、――いや、彼の手に触れた後、さまざまな感覚が蘇ったかのようにオレに触れる。オレの周りにあった霧のような、靄のようなものが晴れて、視界がやけにクリアになったのも、同時期だ。いままでのように、霞んではいない。
ベッドサイドにあるナイトテーブルの上には、綺麗に畳まれたスポーツタオルが置いてある。それはオレが、公園であの男の子に借りたものだ。
のそりと手を伸ばし、そのタオルを握ってみる。手にはふわりとした、柔らかな感触が伝わってきた。
いつごろからか覚えていないが、オレはかなり長いこと聡一郎の家に居座って、引きこもっている。いつ、どうやってここに来たのか、覚えていない。気が付いたらここにいた。その経緯を聡一郎が話してくれているだろうけれど、オレの記憶にはない。
いくつか覚えていることはある。それはいままで以上に誰かの顔をまじまじと見ることができなくなったことと、空想と現実が入り混じっているかのような感覚にさいなまれていたことだ。いつごろからかは覚えていないが、幻覚や錯覚の類がひどくて、誰かに話しかけられたはずなのに、そこには誰もいなかったりしたことが何度もある。
だから、公園で出会った彼も、そのクチじゃないかと疑って掛かっていた。でも何度瞬きをしても、目を擦っても、そのスポーツタオルはそこにある。オレはゆっくりと体を起こして、スポーツタオルを両手に持った。
ここは現実だ。もし桜の木の前で出会ったあの男の子が“向こう”の子だったとしたら、このタオルがここにあるはずがない。穴が開くんじゃないかと思うほどタオルを見つめたあと、オレはそれをナイトテーブルの上に戻した。
なんだか不思議な気分だ。彼に出会う前は、こんな気持ちになることはなかった。固まっていた気持ちが綻んだような、ただ単にホッとしているような、穏やかとも、和やかともつかない気持ちだ。こんなのはいつぐらいぶりだろう。気持ちが解れたのを感じたと同時に、いままで死んでいるんじゃないかと思うほどに静かだったおなかの虫が、ぐうっと鳴いた。
ベッドサイドに置いてあるマグカップを手に取り、半分ほど入っているココアを一口、また一口と飲み下す。まったく味気なかったはずのココアは、ほんのりと甘い。唇についたそれをぺろりと舐めとって、マグカップの中を覗き込む。なんの変哲もない、普通のココアだ。くんくんと嗅いでみると、甘い香りがした。数日前とは違う感覚たちが、オレにたくさんの情報を運んでくる。甘い香りに誘惑されたかのようにまたおなかが鳴った時、部屋のドアをノックする音がして、ドアが開いた。聡一郎だ。
「目が覚めたみたいだな」
仕事から帰ったばかりなのだろう。スーツ姿に黄色いくまのマスコットが付いたスリッパを履いているのは、なんともいえずアンバランスだ。
小さく頷いたオレを見て、少しホッとしたような顔をする。聡一郎はこちらに近づいてきて、ベッドの足元に腰を下ろした。同時に、オレの首に手の甲を押し当ててくる。
「うん、随分熱も下がったじゃないか。これで食欲さえ出ればいうことなしだが」
言って、聡一郎はオレから手を離し、ちらりとベッドサイドを見遣った。なんとなく気まずい。聡一郎が今朝置いて行ったメロンパンが、セロファンに包まれたままで、ぽつんとそこにいる。
すこし小さくなって、冷めたココアを飲んでいると、聡一郎が盛大に溜め息をついた。
聡一郎の声をまともに聞いたのも、いつくらいぶりだろうか? 周りの人の声はいつも、ノイズがかっていて、まるで見えない壁をひとつ隔てた場所にいるんじゃないかと思うほど、くぐもっていた。機械をとおしたかのように無機質だった。それなのに、彼の声は、はじめからオレの耳に“声”として入ってきた。とてもクリアだった。彼に触れたのをきっかけに、聡一郎やほかの人や物の声も、あれから一度も無機質なものに変化していない。どこか遠くから聞こえてくるようだった感覚も、いつのまにかなくなっていた。
「ココアだけじゃ風邪が治らないぞ」
オレがマグカップを持っているのを見て、聡一郎が声を掛けてきた。
「そのメロンパンはお気に召さなかったか?」
「‥‥そ、そうじゃ、ない」
たどたどしく答えると、聡一郎はまた小さく息を吐いて、ナイトテーブルに置かれたままになっているメロンパンを手にした。
「じゃあ1/4でもいいから食べろ。ただでさえマッチ棒みたいな体型なのに、これ以上痩せたら待ち針みたいになるぞ」
ベッドサイドに置かれたままになっていたメロンパンをオレに手渡しながら、聡一郎。ずいぶん心配させたらしい。少し疲れたような表情だ。おなかは鳴るし、食べたい気持ちはあるのだけれど、なんとなく、欲しくない。反論はせず、メロンパンのセロファンをいじってみる。それは、メロンの果肉入りクリームが入っているものらしい。甘いものが好きなオレは嬉々として飛びつくはずだけれど、そうしないのが、聡一郎の心配の種なんだろう。
「仕方ないな。ただでさえ風邪をひいているんだし、いつも以上に食欲が減退していても不思議じゃないか」
「‥‥うん、ごめんね」
「まあ、よかったじゃないか、相変わらずの“バカ”で」
「‥‥バカは風邪ひかないんだよ」
「バカだからひいたんだろうが。気象予報士でも極寒だと言っていた日の夕方に軽装備で特攻していくヤツがバカじゃないという世界を見てみたい」
ニヤリと笑って、聡一郎。ナチュラルに嫌みなことを言ってくれるとムッとしていたら、すっかり乾いた冷えピタを勢いよく剥がれた。
「い、痛いよっ。少しは優しくしてくれたって‥‥」
「充分すぎるくらい優しいだろう。粉末状も錠剤もダメなナオに合わせて甘いシロップの風邪薬を買ってきてやったんだ」
「そういえば、朔夜くんのお迎えは?」
オレの記憶が正しければ、確か今日は木曜日だ。いつも仕事帰りに朔夜くんを幼稚園に迎えに行っていたように記憶している。まあ、記憶しているだけで自信はない。なにせまだ少しぼんやりしていて、記憶を引き出すのに時間がかかる。
オレのセリフを受けて、聡一郎がニヒルに笑った。
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