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「残念、今日は土曜だから休みだ」 「え?」 「ナオ、言っておくが、お前は2日間目を覚まさなかったんだぞ」 「そ、そう、なんだ。朔夜くんは?」 「朔は知燿と一緒に佳乃のところに行ってる。急に出勤することになったから、預けたんだよ。いつも朔の面倒を見てくれる子がいるんだけど、今日は出られないらしくて」  聡一郎が苦笑する。聡一郎は本社が大阪にある会社・シセローネの子会社を任されているうちの一人だ。港区にある東京支社の五階フロアの一角のなかにオフィスがあり、オレも何度か取引をしに行ったことがあるけれど、かなり忙しくしていた。聡一郎を含め、スタッフは4人。聡一郎が一番奔走しているような印象がある。オレは元パートナーの陰に隠れてひっそりと、ぬくぬくと仕事をしてきたから、休日出勤とは無縁だったけれど。  オレはふうんと相槌を打って、また冷めたココアを啜った。 「知耀がさ、ナオは元気になったかってうるさいんだ。久々に会ってみるか?」  そう問われて、オレは少し考えた後、首を横に振った。知耀さんには見られたくない。髪だってぼさぼさだし、以前に比べて痩せていると聡一郎がいうくらいだから、知耀さんはきっと、口うるさくごはんを食べろだなんだと言ってくるに違いない。 「ま、そういうだろうと思って、安定の引きこもりっぷりだと言っておいた」 「余計なこと言わないで」 「事実だろ? ナオが知耀を避けたがる理由はわかるよ。あいつ、サバサバしているくせに、すっげえ洞察力だからな。昨日俺が疲れた顔してるからって言って、朔の面倒を買って出てくれたんだ。この二年朔の面倒を見なかった日はないってくらい気張ってんだから、そろそろ気を抜け‥‥だとさ」 「‥‥そりゃそうでしょ。オーバーワークは体を壊す元だし」  逆らったら一生恨まれるよと、ぼそりとつぶやく。すると聡一郎は眉を下げて笑った。 「そうそう、だから厚意を無にしなかったんだよ。知耀を怒らせるのは勘弁だわ」  「小さい頃のスカートめくりで凝りた」と、聡一郎が言う。そういえば、昔聡一郎が初めてケンカで負けたのが知耀さんだった気がする。知耀さんは綺麗な顔をしているけど、近所のお兄さんの影響で少林寺拳法を習っていてかなり狂暴だった。いまはそれなりに落ち着いていると思う。オレはその時のことを思い出して、ふんと鼻で笑った。 「聡一郎が悪い」 「死ぬかと思ったよ、マジで。言うこと聞かなかったら、また急所蹴り上げられそうだから、大人しく言うことを聞くのが得策だろ」 「‥‥さすがにいまはしないでしょ」  こどもじゃないんだからと、聡一郎に冷めた視線を浴びせながら。オレはそのまま聡一郎を見ずに、ココアを啜った。なんとなく、嫌な感じはしない。拒絶を織り交ぜたオレの心の中を反映しているかのように、そこにあった透明な壁は、もうない。聡一郎の空気が触れる。数日前のオレなら、拒絶反応を起こしても不思議ではないのに、なんともない。ちらりと聡一郎を見ると、聡一郎はナイトテーブルの上にある時計に視線を移している。少し難しい顔をした後、頭を掻いた。 「やばい、忘れてた」 「‥‥なにか、あるの?」 「俺一人なら普通にどこかで外食するけど、引きこもりの居候がいるからな。買い物に行かないといけないけど、いまから行ったら混むから面倒だと思っただけだ」  「主夫は大変なんだ」と、聡一郎が言う。オレはまたふうんと相槌を打つだけにとどめ、マグカップをベッドサイドに置いた。  オレを纏っている感覚は、正常なものなのだろう。いままでがどこかおかしくて、これがふつうなのだ。聡一郎ともこんなふうに他愛もない話をして、おなかがすいたらごはんを食べて、眠たくなったら寝る。それが“ふつう”。それはわかっているのに、なんだか不思議な気分だった。彼と別れたあと、聡一郎のうちに着いたら、一晩眠ってしまったら、朝になればまたあの靄がかかった世界に引き戻されるのだとばかり思っていた。でも、どうやらそうではなかったらしい。 「まだ、こっちにいるんだ」 「ん?」 「‥‥ううん、なんでもない」  あっちとか、こっちとか、きっと聡一郎に話しても解らないだろう。なんとなくといったニュアンスでは返してくれるかもしれないけれど。そうはぐらかしたオレをよそに、聡一郎がそういえばと切り出した。 「そこのタオルと傘、誰に借りたんだ?」  聡一郎が尋ねてくる。洗濯をして畳んでくれたのは、聡一郎なんだろう。オレはどう言おうか迷ったけれど、素直に答えることにした。 「お人よしが置いていった」 「ふうん。ずいぶん奇特な人だな」 「本当だよ。貸して欲しいなんて言ってないし、使ってって、手渡された」  断るのも失礼だしと言い訳がましく継ぐと、聡一郎は「そりゃそうだ」と笑って、オレの頭にぽんと手を置いた。 「元気になったら、公園を見回って相手を探さないとな」 「‥‥会えるかわからないよ」 「そうだけど、借りたままってのはなんかこう、落ち着かないっていうか」  聡一郎がもどかしそうに言う。これは性格なんだろう。オレは返せる機会があったら返せばいいと思う。また会える可能性は限りなく低いだろう。彼があの公園を頻繁に通るのなら別だけれどそんなものはわからない。 「もらっておけばいいのに」 「いや、相手が困るだろ」 「‥‥しらないよ、そんなの。だったら貸さなきゃいい」  オレがぼそりと言ったら、聡一郎は「元気になったらでいいから」と、まるで念を押すかのように言った。そう言っておかなければ、オレがまた勝手に出て行ってしまうとでも思ったのだろうか。オレは小さくうなずいて、ベッドに横になった。 「さて、と。買い物に行ってくる。お粥作るから、大人しく寝ておけよ」 「うん、ありがとう」 「なんだよ、自棄に素直だな」  苦笑混じりに言って、聡一郎が部屋を出た。  なんだか不思議な気分だ。静かなのに、とてもざわめいている。騒々しいのに、やけに心地よい。  こちらの世界はこんなふうに音や声に溢れているというのに、透明な壁の向こう側は静寂しかない。音や声はかなり遅れて聞こえるし、ボリュームを絞ったオーディオのように小さかった。  それはきっと、透明で、厚いのか薄いのかさえ見当がつかない壁のせいだったのだろう。靄のような、霧のようなそれも邪魔をして、こちらの世界の情報を攪乱してしまう。まるで、あちらに行ってはいけないと言っているかのように。  でも、それは違った。  拒んでいたはずのこちらの世界は、やはり尊いものなんだろう。怖いとも奇妙だともつかない。自分好みのアンティークを見つけたときのような高揚感とも違う。こちら側の音、声、色に触れる度に、気持ちが凪ぐのがわかる。  彼が公園を去ってから、傘を叩く雨音が徐々にフェードアウトしていくのを感じていた。けれど不思議なことに、消えない。いままでとおなじ夜の暗闇も、黒に混じったほかの色が主張している。それはこの家に帰ってからもおなじだった。  それは、一瞬にして無色の壁をなかったことにしてしまった彼の仕業なのだろうか。  ぬくもりと淡く優しい色を帯びている声に引き摺られ、モノクロの世界からこちらの世界へ誘われたせいか、戻り方が解らなくなった。  築いていた壁も、固守していた気持ちも、すべてわからなくなった。黒よりも深い色に塗り替えられてしまったかのように無防備になってしまったような気がした。  だからか解らないけれど、聡一郎と話すのに、何年ものブランクがあるように感じて、いやに緊張した。聡一郎のことは嫌いじゃない。幼馴染だし、寧ろ好きだ。性格は正反対だけどそれなりに仲も良いと思う。  オレは人見知りが激しいし、なかなか人に心を開かない。それは自分でも欠点だと思っている。20年近く付き合いがある聡一郎に対してもこうだ。前の職場の人とも結局最後まで馴染めなかったし、プライベートの話をしたことがある人は、ひとりくらいしかいない。そもそも、聡一郎のうちにきている家政婦さんの顔すらみたことがない。何ヶ月もこの家にいるのに、だ。  それなのに、あの男の子のことは、自分でも信じられないほどすんなりと受け入れてしまっていた。いつもなら絶対に人から物なんて借りないし、無視をするか突き返すかで終わってしまうのに。  なんで‥‥なんて、考えなくても分かる。あの雰囲気が、笑顔が、柔らかな声が、オレと周りと隔てている透明な壁を“なかったこと”にさせてしまうからだ。  いや、寧ろそれ以上に、“現実”へと引き戻してしまう。そしてこんなふうに、人を寄せ付けまいとしているオレのこころに、深くなにかを刻み込んだ。  傘の柄を介して触れた彼のぬくもりが、まだ左手に残っているような気がしてならない。  オレはここにいる。そして”彼”もここにいる。それが揺らぐことのない真実であり、現実。  あの日から止まってしまっている――いや、自ら止めようとしていた時間を、少しずつでも進めなさいと、そう言われているような気がする。そのために彼に出会ったのではないか。  だとしたら神様は残酷だ。一番助けて欲しかったときには手を差し伸べてさえくれなかったというのに、今になって“答えて”くれるだなんて。  これが本当に導きなのだとしたら、彼との出会いがなにを言わんとしているのか、オレがどうするべきなのか、認めたくはないけれど、なんとなくは分かる。でもまだ、少しだけ時間が欲しい。気持ちを整理する為の時間が。  明日、目が覚めたら、オレはまたモノクロの世界に戻っているんだろうか? それとも、神様が、あの人がくれた光を辿って、この世界にいられるだろうか?  そんなことを考えながら、オレはまだほんのりと暖かい左手を、ギュッと右手で握り締めていた。

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