5 / 21

image/心象、または形象

 聡一郎が買って来てくれたこども用のシロップのおかげか、翌日にはすっかり熱が下がっていた。  ほんの少しだけど、頭の中がすっきりしているように思う。殆んど熟睡できない日々が続いていたけれど、この2,3日はしっかり眠ったからかもしれない。  夕方に聡一郎が作ってくれた梅味のお粥はかなりおいしくて、自分にしては珍しく、お茶碗に二杯も食べた。結構食欲が出たなと聡一郎が笑うのを無視したけれど、おいしいものをおいしいと感じる自分がいることに驚いてもいた。今まではなにを食べても味気なかったのに。そんなことを言ったら、聡一郎がうるさいだろうから、敢えて言わない。オレはほうじ茶を啜りながら、慌ただしく準備をしている聡一郎の姿を眺めていた。  今日は日曜日なのに、聡一郎と朔夜くんは、佳乃さんが入院している病院に泊まるらしい。朔夜くんの部屋をオレが借りているから、お泊りのときにはいつも、クローゼットに仕舞ってある子供用の布団を聡一郎が取りに来るのだ。ごそごそとクローゼットを漁り、布団を取り出すと、聡一郎はそれを担いで、オレを見た。 「病院に泊まって、そのまま仕事に行くから。戸締りはしておく。一階のリビングには一応電気を点けておくからな」 「‥‥わかってる。冷蔵庫にチョコプリンがあるんでしょ? さっきも聞いたよ」  いちいちうるさいと聡一郎を突っぱねるように言いながら、お湯のみをサイドテーブルに置いて、ばさりと布団をかぶる。すると聡一郎はオレの腰のあたりを足で踏みつけてきた。 「聞いているんなら返事くらいしろ」  言って、ぐりぐりと煙草の火を踏み消すように足を動かす。オレは布団をめくって聡一郎を睨んだ後、足を叩いてやった。 「いじめっこ。ちっとも変わってない」 「うるさい、ロリショタ。薬もちゃんと飲めよ。腹が減ったらさっきのお粥がまだ下にあるから、それを食べてくれ。レンジでチンしすぎて火傷するなよ」 「心配しなくても、そのくらい自分でできるよ」  うるさいなと言いながら、また布団をかぶる。聡一郎は小さく息を吐いて、「明日の夕方には戻るから、大人しくしておけよ」――なんて、まるでこどもに言い聞かせるみたいに言った。  今日の聡一郎は、珍しくやや不機嫌だ。たぶん、本当なら今日は病院には泊まらない予定だったのに、朔夜くんがあまりにもごねたからだろう。下から朔夜くんが大声で泣く声が聞こえてきた。  朔夜くんは4歳児にしては聞き分けがいい子だ。賢いし、言ったことは大抵理解する。けれどそんな朔夜くんが大泣きをするくらいだから、よっぽどのことがあったんだろう。それで、聡一郎の手には負えないから、佳乃さんの力を借りると言ったところか。  オレは布団を少しめくって、聡一郎の様子を伺った。聡一郎は朔夜くんの布団を抱えて、部屋を出るところだった。ちらりとオレの方を見たあと、なにかを言いかけたけれど、そのまま部屋を後にした。  きっと聡一郎は、オレを放っておくと、また数日前のように飛び出してしまうんじゃないかと思っているんだろう。あのときよりは気持ちが落ち着いているから、大丈夫なのに。  布団から顔を覗かせて時計を見遣ると、21時を過ぎた頃だった。はちみつの壷のモニュメントの真ん中に時計が埋め込まれ、それを黄色いくまのマスコットが抱いているそれは、朔夜くんのお気に入りだそうだ。  そのためか、聡一郎のうちは、そのキャラクターグッズがそこらじゅうにゴロゴロしている。なんでも器用にこなす聡一郎が、ゲームセンターのゲームでとってきたものもそれに含まれているだろう。  あのお粥を二杯も食べたというのに、なんとなくおなかがすいたような気がする。ぐるぐるとおなかが鳴った。そういえば、昨日は結局、聡一郎が作ってくれた卵粥を朔夜くん用のお茶碗一杯分ほど漸く食べられたくらいだったというのに、この回復具合はどうしたものかと自分でも思う。急に食べると、胃が痛くなるかもしれない。そう考えていたけれど、またぐるぐるとおなかが鳴った。  寒いし、面倒だけど、ココアでも飲みに行こうかな。  そう思って、オレは動物の足を模ったブーツ上のスリッパを履いて、部屋を出た。  聡一郎はもう家を出ただろうか? オレがいつ一階に下りてもいいように、電気だけは点けていくと言っていたから、よくわからない。  階段を降りながら、オレはチョコプリンを食べるか、バウムクーヘンを食べるかを考えていた。階段を降り切って、廊下を突っ切り、リビングへと続くドアを開ける。  バウムクーヘンとチョコプリン以外にも、オレの夜食用になにかお菓子を買ってきたと、聡一郎が言っていた。それを思い出して、いつもお菓子が入っている戸棚のほうに視線をやったときだ。人影が見えて、オレは思わず後ずさった。  自慢じゃないが、オレは裸眼だと近くのものしか見えない。今日は眼鏡もコンタクトもしていないから、人影がある程度にしかわからない。けれどそれが聡一郎ではないということははっきりとわかった。大きさが違うからだ。その人影を目にした途端にサアッと血の気が引くような感覚がオレを襲った。 「お、お邪魔しています」  影の主が声を掛けてくる。その声を聞いた途端、オレは脱兎の如くリビングを後にして、階段を駆け上がった。  自分の部屋の前にたどり着いたはいいものの、いきなり走ったからか、かなり息切れがして、目の前がくらくらする。  下にいた人から逃れたことに安心したのか急に力が抜けて、床にへたり込んだ時、隣の部屋のドアが開いた。 「なんなんだ、いまの音は?」  床にへたり込んでいるオレを見て、聡一郎が不審そうに言う。 「し、した、したっ」 「した?」 「し、し、下に人がいたっ!」  息が詰まりそうになりながら、やっとの思いで訴える。聡一郎は至極面倒くさそうに髪を掻き乱して、言った。 「いったいなにをやってるんだ、お前は」  そして呆れたような面持ちのまま、溜息を吐く。完全に腰が抜けてしまったオレの身体を軽々持ち上げると、朔夜くんの部屋のドアを開け、ベッドまで連れて行ってくれた。 「下に人がいたことに驚いて、腰抜かしたって?」  どんだけチキンなんだと、オレをベッドにおろしながら聡一郎が突っ込んでくる。  誰もいないと思っていたのに誰かがいたら、誰だってビックリする。況してやオレは本当に極度の人見知りだしと、しどろもどろになりながら弁解する。  ふと顔を上げると、呆れ顔の聡一郎がいた。そのまま小さな溜め息をついて、オレの隣に腰を下ろす。下にいた不審者はどうでもいいのかと突っ込もうかと思っていたら、ややあって、聡一郎が口を開いた。 「あのな、ナオ。たぶんお前が見たの、うちのカセイフ」 「‥‥えっ?」 「今日はちょっと遅くなったから、これから送っていくつもりだったんだ。それで、リビングで待ってもらっていた。  まさかお前が部屋から出るとは思わなかったから言わなかったけど、あと5分ここで待っていたら、遭遇しなかったんだぞ」  と、聡一郎がまるで言い聞かせるかのように言ってくる。  なんだ、カセイフさんだったのか。  一瞬間ホッとしたけれど、オレの中に新たな疑問が浮かんだ。一言だけ声を聞いたけれど、明らかに女性の声じゃなかったような気がする。  世の中には見た目が女性っぽくて、声もそこまで低くない男性がいることを自分で実証しているから、その逆も否めない。でも、朔夜くんが料理もおいしいと言っていたし、リビングの片付き様からみても、カセイフさんは女性で間違いないと思う。オレが怪訝そうな顔をしていたからだろう。聡一郎はそうかとひらめいたように声を出した。 「カセイフっていっても、女性じゃないからな」  ふえっ!? っと、妙な声が上がった。聡一郎はやっぱりかと言わんばかりに苦い顔をしている。 「この男所帯に女性なんて入れたら酷だろうが。帰りだって遅くなる可能性があるし。そもそもお前という危険人物がいるのに、女性に頼むわけがないだろ。イタリア人に染まって無類の女好きじゃないか」 「し、失礼なっ」 「驚かせたのは悪かった。でも彼はちゃんとやってくれているよ。いい子だし、朔夜が懐いているしな。まあ、今回はそれが裏目に出たんだが」  困ったような顔で、聡一郎が言う。オレが分からないという顔をしたからだろう。聡一郎はこっちのことだと言って、続けた。 「彼にはちゃんとフォローしておくよ。ナオは極度の人見知りで猫気質だから、なにか妙な行動をしても暖かい目でみてやってくれってな」  言って、聡一郎は「急ぐから」と、部屋を後にした。  それにしても、驚いた。まさか誰かがいるとは思わなかったとはいえ、2ヶ月前からここにいるのに、まだ一度も遭遇していない家政夫さんに、挨拶をするどころか、失態を見せるだなんて、恥ずかしいことこの上ない。  次に顔を合わせたとき、話し始めるまでのハードルを自分で引き上げてしまったような気がして、急に情けなくなってきた。  なんだってオレは、こんなにも人見知りなんだろうか。たしかに昔から引っ込み思案なほうだったけれど、誰かと話すのに、関係を築くのに、ここまで妙な不安感を懐くことはなかったように思う。そう思ったら、溜め息が漏れた。  それとほぼ同時に、おなかがなった。そういえば、ココアを飲もうと思って降りたんだっけ?  今度は車のエンジン音を聞き届けてから降りよう。そう思って、布団を被った。  目を閉じて、エンジン音が聞こえるのを待っていたオレの耳に、階段を上ってくるような音が聞こえてきた。それから少しして、部屋のドアがノックされた。けれど、ドアノブの音が聞こえない。聡一郎だったらノックのあとすぐに入ってくるのに。  もしかして、聡一郎じゃないんだろうか? ちらりとドアのほうに視線をやると、ドアの外で、物音がした。 「あの、驚かせてしまってすみません」  ノックをしたのは、家政夫さんだったらしい。下で聞いたのとおなじ声がする。  慌てて布団の中に潜り込んだけれど、踏み込んでくる気配がない。ベッドの上で身体を起こしながら、ドアの向こうの様子を窺う。彼はオレの返事を待たずに、言葉を紡いだ。 「ココアを淹れておきました。あと、お夜食にバウムクーヘンも。廊下に置いておくので、よかったらどうぞ」  さっきの物音は、彼がトレイを置いた音だったらしい。ふわりと甘い香りがドアの隙間から入ってくる。鼻腔をくすぐる香りに酔いしれていたら、またおなかがなった。 「それと、食べられたら、また廊下に置いておいて下さい。明日、僕が洗いますから。  勝手なことをしてすみません。お邪魔しました」  彼は、その言葉と、足音を残して、階段を降りて行った。  徐々にその音が遠くなる。でも、オレはまた、そこに違和感を覚えた。  なんだろう? 妙に耳につく。聡一郎のときとも、オレのときとも、リズムが違う。  彼はなにか重いものを持っているんじゃないかとか、高いところが苦手なんじゃないかと思うほど、不自然な足音だ。  足音が消えて、玄関のドアが閉まる音がする。車のドアが閉まる音が、ふたつ。それから、車のエンジン音を聞き届けて、オレは部屋のドアを開けた。  家政夫さんが持ってきてくれたココアには、オレの好きなマシュマロが浮かべてある。バウムクーヘンも、食べやすいように一口サイズにカットしてあった。随分気の利く性格らしい。だからこそ聡一郎の気に入っているのかもしれない。  オレはトレイごとそれを部屋に持ち帰って、ナイトテーブルに置いた。  なんとなくだけれど、小さなことは気にしない人なのかもしれない。もしオレが家政夫だったら、顔を見た途端にダッシュで逃げた人のところに、夜食なんて持ってこようとは思わない。聡一郎の言うとおり、いい子なのかもしれないなと、家政夫さんに対する先入観を少しずつ改善しながら、バウムクーヘンを口に放り込んだ。

ともだちにシェアしよう!