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composition/構成、構図

 聡一郎に「1日1回はリビングに降りて来い」と厳命されてから、毎朝のように朔夜くんが誘いにやってくる。  朝だけじゃなくてもいいとか、たまには夕飯を食べようとか。正直めんどうくさい。時々寝たフリを決め込んで、朔夜くんのことを無視していたからだろう。今日は珍しいことに、聡一郎がやってきた。 「ナオ、入るぞ」  抱き枕を床に蹴落として体勢を変えたとき、部屋のドアがノックされた。間髪を入れずにドアが開く音がする。  昨日は夜寒かったし、いつものことだけれど眠れなかった。いつもそんなことはないけれど、今日は眠たくて仕方がないし、本当に食欲がない。だから今回も寝たフリをしようと目を閉じた。  聡一郎はオレに用があるかもしれないけれど、オレにはない。どうせ昨日オレが朔夜くんを延々無視したことに対する抗議だろう。親ばかもここまできたら病気だなと揶揄してやりたいけれど、そうしたらオレが意図的に無視していたことがばれてしまうから、言わない。  早くオレが寝ていることに気付いて、出て行かないかな。近付いてくる足音を聞きながらそんなことを考えていたら、くすりと笑う声が聞こえてきて、腰を擽られた。 「わっ‥‥、ばか、なにするの!?」  反射的に飛び起きて、しまったと思う。聡一郎はニヤリと笑っているだけだ。 「ナオは出て行けオーラを出しながら眠れるほど器用だったかなーと思って」  随分挑発的な物言いだ。かといって、怒っているようにも見えない。  じろりと聡一郎を見据えると、失笑しながらオレの足元に腰を下ろした。 「今日は朝から豪勢なものが食べられるぞ」 「え?」 「昨日さ、俊が珍しく寝オチしていたから、泊まって行ったんだ」  そう言って、聡一郎が思い出したように笑った。 「会議も長引くわ取引先との飲み会に狩りだされるわで、連絡できなくてさ。で、急いで帰ったら、俊と朔がリビングのソファで熟睡してた」 「‥‥ふ、ふうん」 「なんだかんだ言っても、俊もまだ子どもだよな。22時過ぎたら大抵眠そうにしているし、起こしても起きないし。しょうがないから2階に運んだんだよ。そうしたら、今朝、めっちゃうろたえてた」  いや、珍しいものが見れたと、聡一郎が笑う。  そのドエス加減に、さすがのオレも苦笑を漏らす。そもそも聡一郎の起こし方は、声かけるか身体を揺するくらいだから、熟睡している人間を起こすには足りないんじゃないかと突っ込みたくなった。 「あのソファ、聡一郎だってよく寝てるじゃない」  人のこと言えないでしょと突っ込むと、聡一郎は「俊がソファで寝るのが珍しいんだって」と反論してきた。 「大体俊は、自分の体のことを考えて、ソファで寝ないようにしているしな」 「どうして?」 「膝と腰が悪いから、ソファで寝ると朝引き攣って辛いんだって」  ふうんと相槌を打って、だからああやって足を引きずって歩いているんだと、納得した。  そこまで思って、オレは自分の中で妙な変化があったことに気づいた。  どうして、冷静な気分でいられるんだろう。あの歩き方や足音で、オレはあちらの世界の狭間からこちらに引き摺り戻されたのに。  いまはカラフルな世界にいるから、気持ちも、考え方も、自分では不自然に思えるほど落ち着いているんだろうか。  目の前にいる聡一郎を引っ掻いたら、それはフェイクで、油絵のキャンバスのように裂けてしまうんじゃないか。一瞬、そんなことを思ってみた。けれどそうしてもし、あちらの――モノクロの世界に戻ってしまったら、もう二度とこちらへは戻れないような気がしてならない。そのせいか、オレにはこの空気を、雰囲気を、一蹴することが出来なかった。 「そういえば、聡一郎が来るの、珍しいね」  敢えて話を逸らすように言ってみる。そうしたら、聡一郎がなにかを思い出したように声を上げた。 「そうだった。CJの古参方が、挙って心配していたぞ」  言われて、自分の眉間に皺が寄ったのが解った。オレが怪訝そうな顔をしたからだろう。聡一郎は、やや逡巡するように言葉を選びながら、続けた。 「携帯に連絡しても繋がらないし、ナオが思いつめていた様子だったから、心配しているらしい」  まるで取って付けたような理由だと吐き捨てると、聡一郎が吹き出した。 「しょうがないだろう。曲がりなりにも、お前と片倉氏はCJのゴールデンコンビだからな」 「辞めた人間に拘るなんて、よっぽど暇なんだね、あの会社。とっとと後続のデザイナーを飼い馴らせばいいのに」 「お前怖いなあ。なんでCJにそこまで辛辣なんだよ? あの鬼みたいに忙しい会社が暇なわけないだろうが」  聡一郎が「俺が昨日遅くなったのだって、CJとの打ち合わせが長引いたからだし」と付け加えた。 「CJに入れただけでもすごいのに、なんでそこまで否定するよ?」 「第一線で活動している人たちとは違う。そもそも、オレがCJを辞めて3ヶ月くらい経っているのに、どうしてまだ連絡をしたがるの? 戻って来いって言っているのが見え見えで腹が立つの。オレが辞めた理由も知らないくせに」  吐き捨てるように言ったあと、オレは少し後悔した。  CJを辞めた理由を、聡一郎は知らない。オレがなにも言っていないからだ。これじゃあなにかトラブルがあって辞めたと暴露しているようなものだ。 「そもそも、なんでオレがここにいることを知っているの?」  話を逸らすように、別の話題を振る。すると聡一郎は少し眉を顰めたあと、オレの額を大きな手で軽く叩いた。 「ナオが行き倒れていた時に、警察が前の会社にも連絡したからだ」 「ポケットに名刺が入っていたからでしょ」 「そう。でも、見つかったのが朋(幼馴染の一人)の管轄内だったから、朋が気を利かせて俺に連絡してくれたってわけだ。本当に社会人か? って、随分疑われたみたいだぞ。朋がフォローしてくれなかったら、大ごとになっていたかもな」 「‥‥失礼な。どうせオレはチビの童顔ですよ」 「そもそもだ。迷子の末の行き倒れなんて、社会人のすることじゃない。傍迷惑とはこのことだ」 「迷子じゃないよっ」 「でも朋はそれで片づけたみたいだぞ。極度の方向音痴だから、方向を間違えて渋谷から世田谷に来たんじゃないかって。朋は署内で信頼が厚いらしく、そういうふざけた言い分がまともに通ったから、笑いを堪えるのに苦労したんだから」 「そんなんで苦労しないでよ」  オレが不満げに言ったからだろう。聡一郎はははっと笑って、オレの頭を軽く叩いた。 「チビの童顔は辛いな。とにかく、朋からCJにいいように伝えてもらっているから、それで俺にナオの様子を聞いてきたんだろう。俺とナオが幼馴染なのは、取引したチームの人なら知っているだろうし」  まるで軽口を叩くように聡一郎が言う。オレは「ふうん」とだけ返して、聡一郎から視線を外した。  なんだか釈然としない。辞めた会社の名刺を持ち歩いていたオレも悪いけれど、どうしてCJに連絡をしたのだろうか。朋に会ったら言っておかないと。  CJを退社したときのことは、じつはあまり覚えていない。そのときには既に、オレの周りはグラデーションの壁のようなものに包まれていた。突発的だったのか、それとも円満退社だったのか、よくわからない。  そもそもオレは契約社員だったし、契約の更新をしないという条件で入社したはずだ。確かに、同部署の人に退社の理由を話していないかもしれない。オレは企画室の人たちと打ち解けていなかったし、そこまで親密な話をする人はいなかった。  それなのに電話をかけてくるような人物は、一人しか思い浮かばない。彼の顔は想像するだけでうんざりする。きっと気の強そうな眉をハの字にして、オレにしか見せないような情けない顔をしているんだろう。 「片倉さん、なにか言ってた?」  溜息交じりに聡一郎に尋ねると、「察しがいいな」と笑った。 「確か引継ぎがどうだとか言っていたな。まあ、片倉氏が俺に直接話す筈がないし、適当に聞き流したからよくわからんが」 「適当って‥‥」 「片倉氏は食えないヤロウだからな」  そう言って、聡一郎が苦い顔をする。  聡一郎は片倉さんのことを片倉氏と呼ぶ。いま、CJと聡一郎の会社とは、連携を結んでいる。元営業トップの片倉さんをCD(carpe-Diemの略)にぶっこんできたのは、どうせ大崎部長からの“新設営業所”への嫌がらせだろう。普通なら、聡一郎が対等に交渉を行える、外注、企画専門の企画二課を選択するはずだ。CJの企画室(本来は企画一課だが、二課と比べ規模が違いすぎる為、社内では企画室と二課という呼び名に分かれており、企画室と二課の所在も別の階にある)は、基本的に建設関連の仕事しか請け負わない上に大企業、もしくは大型施設の企画にしか携わらない。新設店舗の内装、設計や、個展などの企画、インテリアなど、小さな仕事は企画二課に回される。福祉関連も主に二課が携わるのが普通だが、そうでないところを見ると、企画室全体を取りまとめる大崎部長が裏で糸を引いていることは間違いない。  けれど大崎部長の期待を裏切って、聡一郎が片倉さんと対等に渡り合っているようだ。でも狡猾な大崎部長は、聡一郎を苛められないなら片倉さんのメンツ潰しをする方向にシフトするだろう。あの人の性格の悪さは見た目にも、そして言葉の端々にも出ているから、聡一郎は既に大崎部長の陰湿な性格を見抜いているはずだ。  そして、その陰湿な大崎部長と片倉さんとの確執は相当なものだから、企画室との仕事なのであれば、少なからず聡一郎はそれに巻き込まれている。あまり他人に対して辛辣なことを言わない聡一郎が、片倉さんを『食えないヤロウ』と評するのは、そのせいだろう。まあ、その実食えないヤロウなのは確かだけれど。 「‥‥オレは辞めた人間だし、関係ない」  オレの様子を窺うように、聡一郎が視線をよこした。 「面倒だから、取り合わないで」 「言うと思った」  聡一郎が、なにかわかったような顔で笑う。オレがちらりと様子を伺うと、聡一郎は空笑いをしながら、「捕食性と寄生性の争いは尋常じゃないからな」とぼやいた。 「引き継ぎなんて、あってないようなものだよ。オレは後続のデザイナーがやり易いように、自分のケースはすべて片付けてから辞めた。だから、オレの知ったことじゃない」 「まあ、ナオの性格上そうするだろうな。今更連絡をよこすだなんて、ナオに会うための口実にしか聞こえない。片倉氏は相当ナオのことを気にしていると見た」  言って、聡一郎が「昔からヘンなのに好かれるな」と苦笑する。オレは余計なお世話だと一蹴して、聡一郎の身体を蹴った。  片倉さんは、オレがCJで働いていたときから、なにかと世話を焼いてくれていた。企画室のみんなと打ち解けられなければ、半ば強引に飲み会を開いたし、家に帰って食べるものがないといえば、高級イタリアンに連れて行ってくれた。初めはなんとも思わなかったけれど、オレは人の輪に入るのがあまり好きではない上に、面倒くさがりだから、だんだんうんざりしていたのは覚えている。片倉さんにはセクハラ魔というイメージしかないから、会社を辞めたいまでも付き纏われるのは少々、いや、かなり迷惑だ。  オレがあまり良い顔をしなかったからだろう。聡一郎はイタズラっぽく笑って、オレの頭に手を置いた。 「もしもオレが片倉氏に『メシもろくに食わず引き篭もってる』って言ったら、毎日でも世話焼きにきそうな勢いだったぞ。“あの”片倉氏に惚れられるなんてさすがだな」 「冗談はやめて。店屋物のごはんを片手にこられるくらいなら、聡一郎が作る冷蔵庫の余り物チャーハンのほうが数段マシ」 「なんで? 店屋物は好きだろ? 屋台ラーメンとか、活動範囲内を制覇したって自慢してたじゃないか」 「会いたくないから。片倉さんに」  ぼそりと呟いたセリフは、聡一郎にも聞こえていたらしい。『そっちか』と納得したように言った後、ポンと肩を叩かれた。 「そう言うと思って、いまは大阪に戻ってると言っておいた」 「‥‥そう」 「でも、今回だけだからな。次に電話が掛かってきたら、自分で対処しろよ」  聡一郎こそ食えない男じゃないか。オレがどう考えているかなんてお見通しらしい。  片倉さんは、オレがきちんと話せる数少ない相手だった。聡一郎と再会してからもたびたび片倉さんのことが会話に出てきていたから、知っているだろう。  それなのにオレがこんなことをいうのは意外だったに違いない。仕方がないから『分かった』と頷いたら、朔夜くんにするみたいに頭をわしわしと撫でられた。 「子ども扱いしないで」  大きな手を振り払いながら言っても、嫌な顔ひとつしない。なんだかペースを狂わされているように思える。オレは聡一郎を無視して立ち上がり、ニットガウンを羽織りながら部屋を出た。 * * * * *  リビングに降りたら、ふわりと甘い香りが漂ってきた。おなかが空いていないといったのに、その香りのせいか、おなかが鳴る。前から食に貪欲なほうではなかったというのに、条件反射というのは怖いなと嗤笑した。 「おはよう、なおちゃん!」  朔夜くんがおれに気付いて、飛びついてきた。寝起きなのか、髪がぼさぼさだ。オレはそれを手櫛で整えながら、「おはよう」と返した。 「今日はサンドウィッチかフレンチトーストだって」  スープもあるんだよと、朔夜くんが嬉しそうに言う。  なるほど。朔夜くんはそういう朝ごはんが珍しいのか。そう思いながらちらりと聡一郎を盗み見ると、「朝は忙しいから仕方がない」とまるで言い訳するように呟いた。朝は大抵トーストとコーヒーで済ませてしまうのは、意外にも聡一郎は朝が弱いタイプだからだと、オレは知っている。  リビングに入りながら様子を伺っていると、キッチンにエプロン姿の俊平くんがいた。まだオレに気付いていないのか、こんがり焼けたトーストを、お皿に移しているところだった。 「朔夜、お皿をテーブルに持って行ってもらってもいい?」 「はーい!」  俊平くんに呼ばれて、朔夜くんが走っていく。聡一郎が言っていたとおり、相当懐いているなと心の中で思った時だ。俊平くんと目が合った。  なぜか、一瞬どきりとした。思わず逃げ腰になるオレの腕を掴んで、聡一郎がソファのほうまで引っ張った。 「ほら、おまえはここ」  言って、オレにブランケットを手渡してくる。なんだかもう逃げられない雰囲気だと悟って、オレは仕方がなくソファに腰を下ろした。 「おはようございます」  にこやかに、俊平くんが。オレはほんのすこし頭を下げて、すぐに視線をそらした。  なんだか緊張する。俊平くんの雰囲気も、そして人柄も嫌いじゃないのだけれど、聡一郎や朔夜くん以外の人がこの家にいることにどうも慣れない。なにかきっかけでもあればすぐに慣れるのかもしれないけれど、と考えていると、オレの前にお皿が置かれた。 「なおちゃんはフレンチトーストでしょ?」  甘いの好きだからと朔夜くんが言う。 「う、うん、ありがとう」 「なおちゃん、ちゃんと俊兄にあいさつしなきゃ。エミ先生が言ってるよ。あいさつしたら、なかよくなれるんだって」  言って、朔夜くんがオレの膝によじ登ってくる。屈託のないそのセリフに聡一郎が吹きだした。 「無理無理、ナオは全人類敵だから」 「パパひどーい、おれはなおちゃん好きだよ。優しいし、絵本読んでくれるもん」 「‥‥マジで?」 「さ、朔夜くん、言っちゃだめだってば」  恥ずかしいから口止めしていたはずなのに、朔夜くんがさらりと暴露する。オレが慌てて制止したにも拘わらず、「なんで?」なんて、きょとんとした顔でオレを見上げた。  聡一郎がニヤニヤしながらオレを見ている。なんだかムカついてきて聡一郎を睨んだら、コーヒーを啜り、言った。 「さすが俺の遺伝子を持っているだけはあるな。4歳児のくせに子ども嫌いのナオを手懐けるとは」 「‥‥なおちゃんおれのこと嫌いなの?」 「そ、そんなこと言ってないよっ。聡一郎のバカ、朔夜くんが勘違いするでしょ!?」 「朔は好きだけど、基本的に子どもが好きじゃないんだよ。女好きだけどな」 「誤解を招くようなこと言わないで」 「事実だろうが」  それとこれとは別だと言い返して、もう一度聡一郎を睨んだ。  聡一郎がニヤニヤ笑っている。なんだかオレを笑いものにしているようで、おもしろくない。なんだって聡一郎はこうやってオレに絡んでくるんだろうか。ブツブツ言いながら、目の前に置かれていたココアが入ったマグカップを手にしたときだ。遠くのほうから、誰かが笑う声がした。  静かに笑っていたのは俊平くんだった。その穏やかな、やわらかい雰囲気に、どきりとする。  なんだか全然嫌な気分じゃない。むしろ、その逆で、――。  俊平くんを眺めていたら、不意に目が合った。 「仲がいいんですね」  俊平くんが話しかけてくる。 「そ、そんな、こと‥‥」 「そうだな、彼是20年近い付き合いだし」 「そんなに長いんですか?」 「俺がアメリカから帰ってきてからの付き合いだから、4歳くらいから知ってるよ」 「聡一郎はちっとも変わってない」 「バカ言え。お前こそそのロリショタっぽい見た目も、話し方も、引っ込み思案な性格も、まったく変わってないじゃないか」  「イタリアに行ってちょっとはマシになったけど」と、聡一郎が継ぐ。  そのやり取りを聞いて、俊平くんがまた笑う。  優しい表情が、オレの心の中の棘を無くしてしまうんだろうか。なんだかとてもホッとする。  こんなふうに思うなんて、どうかしている。あんなに誰とも拘わりたくないと思っていたのに。聡一郎にすら嫌悪感を懐いていた時期があったというのに。そんなものはなかったことになっているかのように、心の中が凪いでいる自分がいた。 「さあ、冷めてしまわないうちにどうぞ」  俊平くんが勧めてくる。  オレはきちんとカットされたフレンチトーストをフォークで刺して、一口齧った。まるで、俊平くんの性格をよく表しているかのようだ。ふわふわで、上品で、落ち着いた味。たかがフレンチトーストひとつで唸る日が来るとは夢にも思わなかった。

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