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valeur/色彩の相対関係、色

 なんか、最近太ったような気がする。今朝、頬を摘まみながら切実に言ったら、聡一郎から盛大に笑われた。  1日1食は必ず食べるようにしているからだろう。元々が食べなさすぎだったのはわかる。けれど、俊平くんが作るものがおいしくて、妙に食欲をそそるのだ。  病的に痩せているんだから、太ったくらいが丁度いいだろうと、聡一郎は言う。けれど普段動かないオレにとって、カロリーを消費する場所がない。  仕方がないから、オレは聡一郎たちが出かけた後、本を読むようになった。そうすれば頭を使うから、少しはカロリーが消費されるだろう。ほんの少しだろうけれど。  オレがいつも寝ている朔夜くんの部屋に本棚はない。本は大抵聡一郎の部屋か、リビングの一角に置いてある。いちいち本を持ち運びするのが面倒だという理由で、オレは最近、昼間にリビングにいることが多くなっていた。  夕方になると俊平くんと朔夜くんが戻ってくる。それでも、堂々とリビングのソファに寝転がって、本を読む。ある意味で進歩なのかもしれない。けれどそれはきっと、単なる慣れだ。  そう思うのには理由がある。オレがリビングで俊平くんを初めて見かけた日から、帰り際、ドア越しにではあるけれど、オレに声を掛けてくるようになった。もちろんオレは返事をしない。けれど毎日毎日、どんなに急いでいる様子でも、必ず言葉を掛けてくる。いままでは二階に上がってくることはあっても、オレに声を掛けることはしなかったから、はじめは驚いた。でもその声はとても自然で、牽制すまいと思ったくせにまだ牽制しようとしている自分を情けなく思うには、十分すぎるものだった。  以前から思っていたことだけれど、俊平くんの声や言葉はなんの混じり気も跡もない、とても自然なものだ。  朔夜くんを寝かしつけに隣の部屋にやってきたときに、壁越しに聞こえてくる彼の声は、どことなく心地よささえ覚えた。  温かいし、柔らかい。  彼の雰囲気がそれを助長しているのだろうけれど、彼のいる周りだけ、空気が違うようだとさえ思える。そんなふうに思うようになったのは、彼がここにいることへの慣れなのだ。  最近はオレがリビングに降りていることを知っているみたいで、オレの好きな紅茶やジュース、それに合わせたお菓子が置いてあることがある。置いてあるものが殆ど毎日ちがうから、ささやかな楽しみにもなっていた。決して食べ物で懐柔されているわけじゃないが、明らかに手作り感を醸し出すみたらし団子を食べた時には、それこそ頬が落ちるんじゃないかと思うほどおいしくて、俊平くんに思わずおいしかったと声を掛けたほどだった。  昨日は聡一郎がシフォンケーキがあるけど食べるか? なんて尋ねてきた。シフォンケーキはオレの好物のひとつだ。オレになにかを食べさせるための作戦にしてはあからさますぎる。けれど数日前に聡一郎が差し入れてくれたあのシフォンケーキは相当おいしかった。朔夜くんの大好きなパインが入っていたのがちょっとだけ不満だったけれど、クリームの甘さもスポンジのやわらかさも申し分ない。どこで買ってきたのかを聞いても『秘密』と教えてくれなかったのは、オレに教えたらフラフラと買いに行って、そのまま迷子になりそうな予感がしたからかもしれない。  渋々了解した態度を装いながらリビングに降りたら、数日前と同じシフォンケーキがテーブルの上にいた。アッサムの良い香りが漂うなかでのシフォンケーキの存在感はすさまじい。オレは自分が渋々降りてきたという設定をすっかり忘れて、好物を前にした朔夜くんよろしくソファーまで小走りで向かって行ってしまった。すぐに自分が墓穴を掘ったことに気が付いたが聡一郎は特に気にしているそぶりも見せず、「今回はパイン入りじゃないぞ」とどこか解りきったような口調で言っていた。  あのシフォンケーキをどこで買ったのか。もう一度尋ねたが、聡一郎はあいまいにごまかした。オレの予想ではあれは買ったものじゃなく手作りだ。独特のふわふわ感がそう思わせた。  オレの好物を作らせて懐柔するつもりなのか。聡一郎に意地の悪いことを言ってやろうかとも思った。けれどおいしそうなシフォンケーキを前にしたら、そんな気持ちも吹っ飛んだ。食べられる物を食べればいい。そういうつもりでシフォンケーキを作ってもらったのかもしれない。  そう考えて、ふと気付いた。オレは以前に比べるといくらか気持ちが穏やかになっているんじゃないか、ということに。おなかがすかない以前に食べたいとも思わなかったが、シフォンケーキを見たらぐうっとおなかが鳴って、早く食べさせろとばかりに催促をした。こんなことはいままでになかったと思う。聡一郎のうちに来てからは、あの梅味のおかゆ以来だ。  いや、『知耀さんが作ってくれた』というベーグルもそうだ。お気に入りだったメロンパンだって半分食べられたらいい方だったというのに、チャイ・ラテの効果もあったからなのか、ふたつも食べた。聡一郎も驚いていたけれど、それ以上に自分自身が驚いた。いつもならば我を張って食べなかっただろう。でも、嘘を吐くことが嫌いな聡一郎がわざわざオレに嘘を吐いてまでなにかを食べさせようとしていることが居た堪れなくなった。そう思えるようになっただけで進歩だと思う。  聡一郎はあたかも本当のように『知耀さんが作った』と言っていたが、嘘だ。すぐにわかった。知耀さんは料理上手だけど、パンは作るより買ったほうがおいしいからなんて言って、いままで一度も作ったことがない。ベーグルを取り出すのをこっそり見ていたけれど、きちんとウィンドーボックスに入っていて、しかも丁寧にベーキングシートに包まれていた。それを見て確信した。絶対に知耀さんが作ったものじゃない。何故ならオレと同じO型の知耀さんは、オレに食べさせるだけならそんな手の込んだことをするわけがない。いつだったかオレに作ってくれたクッキーは、サランラップでラフにコーティングされていた。  聡一郎はオレになにかを食べさせようと躍起になって、嘘まで吐いた。ただでさえ仕事や佳乃さんのことで考えることがいっぱいなのに、そこにオレが参戦して悩ませていたら、いつか聡一郎が倒れてしまうんじゃないか。そんなふうに思ったら、頷かずにはいられなかった。  オレの予想だけれど、ベーグルも、シフォンケーキも、作ったのはきっと俊平くんだ。そんな気がする。食感からも舌触りからもどこかのお店で買ってきたものだと言っても通用するほどおいしいものを作れる人は、聡一郎の周辺では俊平くんくらいしか思い当たらない。  いままでの自分にはないことだらけで、少し戸惑っている自分がいる。その反面で、ただ水に浮かんでいるかのようにたゆたう気持ちがある。その気持ちはどうしたいのか、どうなりたいのか、まったく悟らせない。ぼんやりとしたそれはオレを包みこもうとしてはすうっと消えていく。それがいったいなんなのか、未だにわからない。  ふと壁時計を見上げると、17時を回っていた。そろそろ朔夜くんと俊平くんが帰ってくる時間だ。  オレはサイドテーブルに置いていた読みかけの哲学書を開いた。ブックマーカーがはさんであるページは、不安の概念のことが記されている。不安から抜け出すには『自分自身に対して真摯であるしかない』そうだ。  オレは自分に対して真摯であっただろうか? いつも逃げてばかりで、鑑みないように思える。真摯に‥‥とは、ずいぶん難しいことだと頭の片隅にその言葉を置きながら、それを読み進めた。  どのくらい経っただろうか? 玄関の鍵が開く音が聞こえた。ドタドタと慌ただしい足音が近付いてきて、リビングのドアが開いた。 「あー、なおちゃんが降りてきてる!」  朔夜くんの元気な声がする。それに続いて『こんにちは』と聞こえてくる。俊平くんだ。  オレは軽く頭を下げて「お帰りなさい」と継いでから、哲学書に視線を戻した。  漢字があまり読めないから、実のところはなにが書いてあるかがよく分からない。英語と日本語を照らし合わせ、勝手に解釈していると、オレがテーブルに置いていた空のティーカップを手に取りながら、俊平くんが言った。 「その紅茶、お好きなんですね」 「‥‥そう、だけど」 「玖坂さんといえば紅茶のイメージが強いですから」  言って、俊平くんが笑う。確かにオレはイギリスにいたから紅茶が好きだ。コーヒーよりも紅茶派だから、コーヒーにはアホほどこだわる聡一郎とはあまり好みが合わないかもしれない。 「オレ、紅茶が好きだって、言ったっけ?」  少しの間を置いてそう訊ねると、俊平くんはきょとんとした。 「違いました?」 「そ、そうじゃ、なくて‥‥。どうして、オレが紅茶が好きだって知っているの? ベルギーワッフルのことも、シフォンケーキのことも」  甘いものと一口に言っても、そのなかにも優先順位がある。数日前に俊平くんが持って来てくれたベルギーワッフルも、シフォンケーキも、オレが好きなものの中のトップ5に入っているものだ。けれど、オレはそれを誰かに話した記憶がない。  俊平くんは少し眉尻を下げて、笑った。 「偶然ですよ。お好きなものを聞いた記憶はないですから」  そう言った俊平くんが少し残念そうな顔をしているように見えた。その表情を眺めながら、オレはぼんやりとした記憶をたどる。  いつ、こんな子に出会っただろう? かなり印象に残るタイプの子だというのに、全く思い出すことができない。  本当にオレと会っているんだろうか? もしかしたら、オレとよく似た別の誰かと勘違いしているんじゃないだろうか?  前に較べると随分記憶がハッキリしてきたとはいえ、オレの記憶に俊平くんはいない。いるのは彼によく似た雰囲気を持つ、あの人だけだ。  自分で自分が怖い。以前の記憶が曖昧なのは、疲れているせいで頭が働かないんだと無理に思い込んでいたけれど、徐々に意識がはっきりしてくるにつれてその異様さに気付いていた。  俊平くんがオレを知っているふうなのも、似たような雰囲気を持った人に出会ったような記憶があるのも、勘違いじゃないか。そう思ったら、それ以上踏み込めなかった。  あんな態度をとったオレのことをあまり気にしていない感じだったのが、本当にオレのことを知っているからだとしたら、――。  オレは俊平くんを見ながら暫く考えていたけれど、馬鹿馬鹿しくなってやめた。 「‥‥少し疲れたから、部屋に帰るね」  そう言って、オレはリビングを後にした。  俊平くんが嘘を吐くメリットはどこにもない。玖坂という苗字は珍しいし、考えてみればオレのことを取材に来た物好きな新聞社があったから、それで“知っている”だけなのかもしれなかった。  でも、もしかすると、――。ひとつだけ、心当たりがあった。  そういえば、オレは俊平くんの苗字を知らない。名前を聞いたのは、朔夜くんからだ。俊平くんから自己紹介をされたかどうか覚えていないのも問題だけれど、その“もしかすると”が、正解だったりするのかもしれない。  そう思ったらいても経ってもいられなくて、オレは急いで自分の部屋に向かった。  部屋に帰って、オレはクローゼットに入れっぱなしにしていたボストンバッグを引っ張り出した。その中身を床に放り出してみる。  CJにいたときにオレ個人が担当した案件のレジュメファイル。スケッチブックと画材。通帳やカードが入ったポーチ。まっぷたつになったスライド携帯。たったそれだけしかなかった。  それは大阪から東京に戻ってきたときのままなのか、それともあの部屋から出てきたときのままなのか、わからない。そのあたりの記憶はまだ、曖昧なままだ。  大阪で出会った人なら、たくさんいる。オレは茉紀さんの勧めで、東京と大阪を行き来しながらデザイン関係の仕事をしていたからだ。東京のときの知り合いより、大阪にいたときの知り合いのほうが、自然にしゃべっていたから、オレの好きなもののひとつやふたつは話しているかもしれない。  でも、きっとそれはない。俊平くんは関西圏の人間じゃないことだけは分かる。関西人はいくら標準語を話そうとしても、関西弁の独特なイントネーションがなかなか抜け切らなくて、ナチュラルな標準語を話すのが苦手だからだ。  だからきっと出会ったとしたら東京なのだろうけれど、こっちにきてからは前の会社に縛り付けられてほとんどほかの仕事をしていなかったから、余計に分からない。クライアントに会うのはオレじゃなく営業の片倉さんだったし、オレはニーズに副ってレジュメを作っていただけだった。  とすると、――。オレはレジュメファイルを手にとって、開いた。  もしかするとここに手がかりがあるかもしれない。オレはレジュメを一枚一枚捲って、俊平くんの名前を捜しはじめた。  仕事の関係で彼に関わっているのでなければ、どこで出会ったのか、見当がつかない。だから先ずここから当たろうと思いたった。オレが東京に来るようになったのは6年前だ。6年も前といえば、彼はまだ中学生か小学生くらいだろう。だからこそ妙な信憑性があり、期待が膨らむ。2,3年ほど前、当時中学生くらいだった男の子の為に仕事をしたことがあるのだ。  数十枚分あるレジュメと見取り図の隅っこにあるクライアントの名前を確認し、その頃の記憶を辿る。  下を向いているせいで髪が頬に掛かって煩わしい。それがだんだん面倒くさくなって、オレはがしがしと頭を掻いた。  何ヶ月も切っていなかったせいで肩まで伸びているクセのある髪を、ボストンバッグの持ち手に着けていた熊手クリップで纏める。こうしていると数ヶ月前まで仕事をしていた頃の自分に戻ったような気がする。  もうあんな仕事に触れたくもないと思っていたのに、やたら必死になっている自分がいる。どういう心境の変化だと自嘲しながら、オレは再びレジュメに視線を戻した。  随分長い間、レジュメとにらめっこしていたような気がする。なんだか目が疲れてきて、ベッドにうつ伏せになった。  聡一郎が夕飯の誘いに来たけれど、寝たふりをしてやり過ごした。部屋の中でゴソゴソ音がしていただろうから、きっとバレている。  自分が何故俊平くんの名前を探すことに躍起になっているのかがよくわからない。そんなに記憶を取り戻したいんだろうか。それともただ、ハッキリさせておきたいだけなんだろうか。俊平くんのことが分かったからと言って、この状況が変わるわけじゃない。それは解ってるのに、どういうわけなのか気になって仕方がなかった。

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