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002
――オレはいつのまにか眠っていたらしい。目が覚めたら、朝の9時を回っている頃だった。
今朝は聡一郎も朔夜くんもオレを起こしに来なかったようだ。
オレはガシガシと頭を掻いて、溜め息を吐いた。
昨日‥‥いや、今朝まで掛かってレジュメを隅々まで見たけれど、俊平くんの名前はどこにも見当たらなかった。
昔、オレがアトリエをデザインした画家の卵の男の子がいた。その子はオレのことを知っていたから、随分話をしたし、アトリエの細かな部分には彼のアイデアを取り入れたりもした。
だからもしかするとその子じゃないかと思ったけれど、よくわからなかった。
きっと彼のことだと勝手に思っていたのに、なんだかガッカリする。俊平くんがオレのことをよく知っているように話すのはそうなんだと思ったのに。
けれどあのレジュメを見ていたら、なんとなく、公園やこの家以外で俊平くんと話した記憶があるような気になってきた。
俊平くんは忘れていても仕方がないという雰囲気をにおわせていた。ということは、もしかすると彼自身がクライアントではない可能性もある。そう考えるとますます範囲が広がってくる。2,3年ほど前でなければ、もっと前? それとも去年の初めごろだろうか?
いつものオレなら、こんなことにこだわりはしない。どうでもいい。気にする必要なんてない。そう思って考えることを辞めてしまうだろう。それなのに今のオレは違った。頭の中にあるキャンバスに掛けられた、透明なくせになにも透さないカバーを跳ねのけてしまいたい。そんな気持ちが強い。まるでオレ自身を取り戻したいみたいだ。だから“うやむや”にしてしまいたくはない。
紅茶を飲んでリフレッシュしたら、もう一度洗い直してみよう。そう思って、オレはリビングに降りた。
「おはようございます」
リビングのドアを開けてすぐに目に入ったのは俊平くんだった。相変わらずの穏やかな顔で話しかけてくる彼を前に驚きを禁じ得ない。
なんで朝から俊平くんがいるんだろう。そう思ったのが解ったのか、俊平くんが微笑んだ。
「本当は今日は休みなんですが、園山さんが急な仕事で出る事になったみたいで」
「‥‥そう」
「すみません、朔夜を宥めるのに時間がかかったから‥‥。もしかしてうるさかったですか?」
「べつに、そうでも。紅茶飲もうかなあと思って、降りてきた、だけで」
そこまで言って、オレははっとした。
一体なにを言っているんだろう? 馬鹿正直に言わずに部屋に戻ればよかったものを。
そう思っても後の祭りだ。俊平くんはふわりと笑って、言った。
「いま用意しますね」
ああ、これでもう逃げられない。なんだか鼻歌でも奏でそうな様子の俊平くんを見たら、今更いらないなんて言ってはいけないような気がした。
どうやって逃げようかと考えていたら、俊平くんが紅茶を持って戻ってきた。
トレイの上にはマカロンも乗っている。ここまできたらもう後には引けない。オレはパジャマにガウンを羽織っただけなんていう正に“寝起き”の格好で、リビングの一人がけソファに腰を下ろした。
「食べ終えたら、そのまま置いておいてくださいね」
そう言って、俊平くんはテーブルにお皿を置くと、奥のソファで眠っている朔夜くんを抱えて二階へと上がっていった。
なんだか拍子抜けしてしまう。
俊平くんはきっと、いつものようにオレのペースを崩してしまうのだと思っていた。無意識のうちに作っている壁をないことにして、極自然にオレの内側に入り込んでくるのだと。
俊平くんがオレの事よりも朔夜くんや聡一郎を優先してしまうのはわかっている。
それが羨ましいとは思わない。だけどなんとなく腑に落ちなくてドアを見つめていた。
どうしてこんな風に思うんだろうか? 自分の気持がよく分からない。
俊平くんにとって聡一郎は雇い主で、オレは園山家の居候。まともに顔を合わせたのだってこの半月くらいのことだ。距離があって当然じゃないか。
ばかばかしい。
一瞬間湧き上がった得体の知れない気持をそう一蹴して、自嘲気味に笑ったときだ。
ガチャリと音がして、リビングに戻ってきた俊平くんとバッチリ目が合った。
「どうかされたんですか?」
きょとんとした顔で俊平くんが訊ねてくる。オレは何事もなかったように装って、首を横に振った。
オレは自分のことが良く分からなかった。
どうしてあんなふうに思ったんだろう? まるで俊平くんに構ってもらいたいみたいじゃないか。そう思ったら、なんだか気が重くなった。
別にそんなことはないと思う。
人と関わるのなんて好きじゃないし、どちらかと言うと打ち解けるまで何年も掛かってしまう。聡一郎はああいう性格だから、だからいまだに一緒にいられるんだろう。
オレが仲良くなるのは基本的にリードしてくれるタイプの人だ。イタリアとイギリスにいた頃の友達だってそんなタイプの人ばかりだからか、超がつくほどの筆不精のオレでも、いまだにメールのやり取りをしている。
ちらりと俊平くんの姿を目で追うと、テラスに洗濯物を干しているところだった。
そういえば、今日は晴天だと天気予報で言っていた。晴れている日に外に出るなんて、なかなかない。
部屋のカーテンはいつも締め切っているから、日の光なんて久しぶりに見た。そう思いながらも俊平くんが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。
その間、俊平くんは特にオレにかまうこともなく、洗濯物を干したり、お皿を洗ったりしていた。
2年位前から家政夫をしているということもあってか随分手馴れているような気がする。オレは聡一郎から、『ナオが皿を洗うと1回に3枚は割れる』と言われるほどの不器用なのだけれど、俊平くんは違うらしい。
本当にシフォンケーキやベーグルを俊平くんが作ったのだとしたら、料理のレベルも聡一郎とは雲泥の差だ。
料理だけじゃない。もしかすると俊平くんは、聡一郎よりもオレのことをよく解っているかもしれない。
聡一郎はオレが構って欲しくないときでも関係なく構ってくるのに対して、俊平くんはオレが距離を測っているのを知っているかのように話しかけてこない。
構って欲しいタイミングも、そうでないタイミングも、何故かすべて見抜かれているような気にすらなる。
俊平くんが用意してくれたマカロンを食べながら様子を窺ってたときだ。また、ばっちりと目が合った。
自分でも珍しいと思うくらい、今日はよく話したし、きちんと顔を見ている。いつもは目を合わさないようにすらしているというのに、だ。
オレが好きな紅茶のブランドや好きなお菓子を知っていて、それを持ってきただけで態度を変えるなんて現金だとでも思われただろうか。
なんだかネガティブなことしか浮かばなくて、どう取り繕おうかと考えていたときだ。俊平くんはやんわりした表情になって、破顔した。
「お口に合ったみたいで良かったです」
「え? あ、あの‥‥美味しかった、です」
言って、ものすごく恥ずかしくなった。
極々自然な会話だというのに、こんなテンポさえ懐かしく感じる。随分長いこと誰も寄せ付けないようにしていたからか、とても緊張する。
そんなオレの胸中に気付いているかのように、俊平くんはオレからお皿とティーカップを受け取っただけで、それ以上はなにも言わなかった。
「あの」
恐る恐る声を掛けると、俊平くんが不思議そうな面持ちで振り向いた。
話しかけたことを少し後悔した。
だけど、どうしてマカロンがオレの口に合ったとわかったのかが気になって、つい、だ。
次の言葉がなかなか出てこなくて、俯いたまましどろもどろになってしまう。頭の中でいろいろ考えていたら、頭上でくすりと笑う声がした。
「いいんですよ、無理しなくて」
「え?」
「僕ね、周りからは“そうは見えない”って言われるんですけど、結構人見知りなんです。
だから慣れない人と話すのに緊張してつい構えてしまうし、うまく言葉にならない。だから、玖坂さんもそうなのかなあって、なんとなく」
「‥‥だから、“つい”話しかけた、って、言ったんですか?」
「あの公園でのことですね。いつもなら話しかけたりしないんです。どうしたのかなと思うくらいに気に留める程度で、踏み込まないと思います。でも、玖坂さんによく似ていたし、懐かしいって思ったら、つい」
言って、キッチンまでお皿を持っていく。
オレは俊平くんの足元ばかり眺めて、黙っていた。
このクセはずっと昔から、聡一郎にも、片倉さんにも指摘されている。もちろん、茉紀さんからも。
いつもはすごくうろたえるのに、仕事のこととなると人が変わったようになる、とも。
それはもちろん自分が好きで、得意なことをしているときだからだろう。だけど人と話すのはオレが最も苦手なことだ。はじめて会った人や、慣れない人には特に。
だけど俊平くんはそんなタイプではなさそうだ。そう思っていたら、少しの間を置いて俊平くんが継いだ。
「園山さんから『自分の緊張は相手にも伝わる』って言われました。だから深呼吸をするなり気持ちを落ち着けて話せ、って。
最初はそれでも緊張していたけど、“自分”も相手のことを知らないけれど、“相手”も自分のことを知らないんだから、妙に気構えるほうが失礼かなと思っていくうちに、自然と平気になりました。と言ってもやっぱり緊張するものはするんですけど」
「‥‥オレも、よく言われます。話すときは相手をきちんと見ろとか、いろいろ」
「じゃあ、僕と似ていますね」
そう言われて、なんだかホッとした。
人見知りだと聞いて意外に思ったけれど、確かに俊平くんのいうとおりオレは俊平くんのことをなにひとつ知らないし、俊平くんもオレのことを知らないだろう。
知らない人間同士が手探りで会話の糸口を探しながら関わるんだから、そこに“緊張”が存在しないほうがおかしい。
ただその見方を変えるだけで気持ちが変わるなんてどこかの啓発本に載っていそうな言葉だけれど、なるほど理に適っているなと思う。
「ところで、なにかを言いかけていましたけど」
不意に、俊平くんが訊ねてくる。
一瞬なんのことかと思ったけれど、すぐに自分が気になっていたことを思い出した。
「あ、あの‥‥。どうして、マカロンがオレの口に合ったって、解ったのかな、と」
そう言ったら、俊平くんは『ああ』と言って、微笑んだ。
「嫌いじゃなかったんだなと思っただけですよ」
「え? で、でも、どうして?」
「シフォンケーキに入れたパインが残っているのを見て、なんとなく。2回目は全部食べたと園山さんが言われていましたし」
「‥‥すみません、偏食だから」
「朔夜に合わせて作ったし、誰にでも好き嫌いはありますから、気にしていませんよ。
僕だって酢豚のなかのパインは好きじゃないので、自分で作るときしか酢豚を食べないですから」
俊平くんはやっぱし不思議な子だと思う。
高校生くらいに見える割には落ち着いているし、家事全般得意そうだ。
ずっとどこかに下宿しているんだろうか? そう思ったけど、訪ねはしなかった。
なんとなくこの空気に慣れてしまっている自分がいる。
俊平くんは嫌いじゃない。傍にいてホッとする。けれど、だからといって自分の“内側”には入って欲しくない。
そうこうしているうちに、俊平くんは買い物に行くからと出て行ってしまった。オレはそれを見届けて、2階に上がった。
***
夕方、仕事から戻ってきた聡一郎から『1階で一緒に夕食をとらないか』と誘われたけれど、おなかが空いていないからと断った。
ほんの少しだけ開けているドアの隙間から、美味しそうな香りが入ってくる。
聡一郎のうちに来る前も、ごはんはずっと独りで食べていたから、なんだか慣れない。
聡一郎は『気が向いたら降りてくればいい』と言っていたけれど、きっと気が向かないだろう。
じつは昼間に俊平くんがこっそりチャーハンを作ってくれた。テレビでやっていた、ふわふわ卵のチャーハンがすごく美味しそうで、ぼやいただけなのに。
俊平くんが作ったチャーハンはとても美味しかった。普段食欲がないからと言って朔夜くんとおなじくらいの量しか食べないオレが、ふつうのお皿に盛りつけたものを全部食べたから、相当だ。俊平くんがすこし嬉しそうだったのは、もしかするとオレが無心にそれをむさぼったからかもしれない。
それもあって、全然おなかがすかない。おなかが空いたら食べようと思って持ってきていたクロワッサンが、明日の朝食に回りそうなくらいだ。
20時を過ぎて、俊平くんがうちに帰る前に挨拶に来た。オレは少しだけドアを開けて、「気を付けてね」と告げる。すると俊平くんは嬉しそうに笑って、「はい」と答えた。
階段を下りる姿を眺めながら、なんとなく、違和感に気付いた。今日は足の調子がよくないのか、いつもよりもリズムが乱れている。なんとなく心配になってきて、オレは俊平くんが玄関から出て行ったのを確認した後、急いでリビングに降りた。
「ねえ、俊平くん、足大丈夫?」
リビングのソファでコーヒーを飲んでいた聡一郎に言ったら、聡一郎は意外そうな顔をして、ぽかんとした。朔夜くんは珍しく、聡一郎の膝の上で眠っている。
「いつもより、引き摺ってない?」
聡一郎の返答を待たずに、オレ。すると聡一郎は困ったように笑った。
「たぶん寒いからだろう。痛いとは言わなかったけれど、確かにいつもより足を引きずっている感じはあったかな」
言いながら、聡一郎がコーヒーカップをテーブルに置いた。
そうかと誰に言うともなく呟いて、オレは聡一郎の隣に腰を下ろす。オレが俊平くんのことを気にしたのがそんなに意外だったのか、聡一郎はくっくっと笑って、朔夜くんを抱えなおした。
「朔を寝かせてくるから、ちょっと待ってろ」
言って、聡一郎が朔夜くんを抱えたまま、立ち上がった。そのまま聡一郎がリビングを後にする。どうもオレが言いたいことがあることに気付いてくれたらしい。なんとなく釈然としないながらも、オレは聡一郎が戻ってくるのを待った。
聡一郎がリビングに降りてきて、オレはすぐに歩き癖の弊害について力説した。きっと足腰が悪いのはあの歩き方が原因で全身が歪んでしまっているからだと言ったら、聡一郎は苦い笑顔を浮かべて俊平くんを庇うようなことを言っていた。曖昧に濁した言葉。煮え切らない態度。すぐになにかを隠しているのだと分かった。
だからといって踏み込むほどデリカシーがないわけではない。オレはただ俊平くんの足が気になっただけだと弁解をする。そこに立ち入る気もなければ、どうしてそうなったのかを追及するつもりもない。けれどもただせるものならばただした方がいい。そういったニュアンスのことを繰り返して言っているのは、俊平くんのことを気に入っているから気になるのだと聡一郎から突っ込まれないための牽制のつもりだった。それなのに、聡一郎の苦い顔はどんどん意地の悪い笑みに変わっていく。オレは真剣に言っているんだと語気を強めたら、聡一郎が吹き出した。
なんで笑うの!? と抗議する気にもならないほど笑いこけている。こんな聡一郎を見たのはどのくらい振りだろうか。あぜんとその様子を眺めていたら、聡一郎はしばらく笑った後、目尻に溜まった涙をぬぐいながら、すまんすまんと震える声で言った。
「俊にもう一度言っておく。だからそんなに心配しなくてもいい」
大丈夫なのかといったところで、俊平くんは大丈夫というだろう。無理をするなと言われても、きっと彼は無理をする。そういう性質だ。そう思ったけれど、オレはきちんと伝えてねと言うだけにとどめた。
リビングを出て、部屋に向かいながら、オレはどうしてあんなに必死になったのだろうと考えた。冷静になってみたら、オレが俊平くんのことを言えば言うほど気に入っているという気持ちの裏返しなのだと思われてしまいそうだ。
気に入っていなくはない。作ってくれるごはんは美味しいし、嫌味がない。オレは人見知りだから牽制はしたが、寧ろ心地よいとさえ思うときがある。穏やかで和む雰囲気はとても独特だから、陽だまりにいるみたいで気持ちがいい。それで妙に馴染んでしまうんだと思っている。日当たりのよい場所はオレのお気に入りスポットだからだ。
けれどそうやって納得する反面、心の微妙な変化に怖気づいている自分がいる。オレは部屋に戻って、ベッドに突っ伏した。
俊平くんに触れた左手がまだ熱いような気がしてならない。そんなことがあるわけなどないのに、じんわりとそこから熱くなってくる。
あの時俊平くんに出会うまでは、モノクロの世界に居続けたかった。けれどなにかがそうさせなかった。オレはここにいて、モノクロの世界からカラフルな世界に戻っていて、いつも周りと自分とを隔てていた透明な壁も、なにも考えさせまい、見させまいとするかのように記憶のキャンバスに掛かっていたカバーも、どういうわけなのかいまはどこにもない。文字通り影も形もだ。
オレはいま、どうすればいいんだろう? どうしたいんだろう? そんなふうに考えて、ふと自分自身はこの世界で生きたいんだって、そう思った。だから迫りくる黒い気持ちに抵抗をしていたのだ。頭でも、心でも、本当はこんな世界なんてどうでもいいと思っていたのに、そうではなかったのだろう。
死んでもいい。本当にそう思っていたのに。ぼそりと呟いた時だ。ドアが開くような、小さな音がした。誰だろう? 視線だけをドアに向けるけれど、誰もいない。
不思議に思って体を起こすと、聡一郎が飼っている猫が入ってくるのが見えた。正確にはオレが東京に来てから拾って、聡一郎に預けた猫だ。白と黒のまだら模様が印象的なその猫は、オレの姿を見るなり一声鳴いて、軽々とベッドに飛び乗ってきた。
動物は人の気持ちが分かるなんていうけれど、本当にそうなのかもしれない。オレが聡一郎のうちに来たときから、まるで慰めてくれるかのようにそばにいてくれることがある。猫に慰められるなんて少し悔しいけれど、でも不思議と聡一郎には言えないことでも、ソメになら言えてしまうことも事実だった。
「なんで、かな」
ソメの頭を撫でながら、ぽつりと呟く。
自分では理解できない。どうしてあの子が“霧の外”にいないのか。
いつもなら、初めて見る人はみんな霧の外にいて、自分のペースを乱させないよう予防線を張っているのに。それなのに彼はなぜかオレの内側にいて、ずっと昔から知っている人のように、それもオレの弱い部分を見透かしているかのように、極自然と触れてくる。
「オレ、あんなに死んじゃいたいって思ってたのに」
言いながらベッドに横たわる。聡一郎には言えないけれど、いろいろ考えた。確実に死ねる方法を考えている自分が怖くなって、閉じこもっていた時期もあった。マイナスの感情だけが自分を取り巻いて、どこにも発散できる場所なんてなくて、このまま燻っていたらいつか思っていることを実行してしまいそうだななんて思いながらも、頭の中で奇妙なことを囁く自分にすべてを任せていたら、気がついたら聡一郎の家にいた。
もう一人の自分はオレを死なせるつもりだったのか。それとも救うつもりだったのか。それ以前に、本当にもう一人の自分がいたのかどうか。それさえ分からない。誰に話しかけられても、誰を見ても、手を伸ばしたいなんて思いもしなかった。それなのにオレは、俊平くんに手を伸ばした。無意識だった。あの子をあのまま行かせてしまったら、もう二度とオレはこちらに戻ってこれないんじゃないかと思ったのかもしれない。つまりそれは、オレ自身がこちらの世界で生き続けることを望んでいるということになる。
そもそもこれはオレの決断だ。誰に言われてそうしたわけでもない。だから落ち込むのも、嘆くのも、本当ならお門違いだ。それでもそうなってしまったのは、少なからず後悔を懐いていたからではないのか。そう自分を叱咤すれば叱咤するほど惨めになってきて、なにもかもがどうでもよくなってしまった。何度も何度も自問自答して、自分が潰れてしまいそうなほどだったというのに、いまはなぜか、自問自答する気持ちもない。
それよりも、こんな気持ちになったのは久々だった。オレは猫の頭を指で撫でながら、ふうと息を吐いた。
不思議な感覚だった。別に彼が話しかけてきても、どことなくいやな気持ちにならない自分がいる。それよりも、むしろ、ホッとする。けれどやっぱり、それが彼だからだとは認めたくはなかった。
そうしてしまうときっと、あのときのことをすべて白紙に戻してしまうような気がした。忘れてはいけないから、二度と誰かを好きになんてなりたくないから、だからこそ自分は誰もいないところへ、あの場所にいかなければならない。
はじめは、そんなふうに思っていた。けれど、彼に出会って、いつぐらいからだろうか? そんなことを思わなくなった。自分の中にはなくなっていた感覚が、どんどん蘇っているような気さえする。しばらくの間、太陽の光も、雨の冷たさも、街の喧騒も、マトモに気にしたことがなかった。いろんな感覚が鈍麻していたんだろう。
正直、いまの自分が怖い。自分がいままで見てきたはずの世界がすべて、この何週間かでガラッと変わってしまっているのが、すごく。
さっきだって、一緒に食事ができればいいなんて、一瞬でも思ったくらいだ。ずっと一人で食事をすることに慣れていたのに、今更誰かと食事だなんて、冷静に考えるととても怖い。
でも、そんなふうに思うこと自体、自分にはありえない変化だった。
ほんの何週間か前までは気にもならなかった聡一郎の言葉が、いまはやけに、一言一言が応える。ほとんど無音に近かったはずの家の中が、妙にざわついて感じる。
チャイムの音も、車がとおる音も、近所の子どもたちが遊ぶ言葉も、すべてが耳に入ってくる。あんなにもいろんな音が溢れていたんだと思うほどに。
きっと自分で意識していなかっただけなんだろう。
そうでなければ感じようとしなかっただけだろう。
あまり周りに気をやると自分の世界が穢されてしまうような気がしたからだ。
いろんなことを考えているつもりなのに、なぜか頭の中に彼のことばかりが浮かんでしまう。
「オレ、へんなんだよ」
ぽつりと呟いて、ソメの背中を撫でる。
「もう、誰にも近付かないって、そう決めたのに。
なのに、あの子が隣にいると、ホッとするんだ。聡一郎や朔夜くんとは違う感じがして、身体の奥が暖かくなる。あの子の言葉や表情に包まれているみたいに」
『すごく、こわい』――搾り出すように言ったら、ソメがオレの顔をぺろりと舐めた。
ソメの言葉はわからないけれど、大丈夫と言われているような気がする。
この感覚はきっと、普通に生活している人ならば当たり前のものなんだろう。
だけどオレにはそれが怖い。誰かのことで怒ったり、笑ったり、心配したり、いろいろ考えたりするのが。
本当、それが当たり前だというのに、その感覚を取り戻すのが怖い。
当たり前の生活に戻るのが怖い。オレはずっと白と黒の狭間にいて、どの色にもある陰の部分で、ただ独り、あの人を待っている。
迎えに行くことはできないから、こうやって人との距離を置いて自分の内側に誰も寄せ付けないことがあの人への誠意だと思っていた。
でも、それは違うのかもしれない。俊平くんを見ていたら、そんな風に思う。
俊平くんが言っていたように、相手は自分のことを知らない。そして自分も相手のことを知らない。
だからそこに溝があって、お互いに距離を測りつつ関係している。でも、その距離を測ることをしなくなったら、オレのように誰とも関わろうとせず過ごすだけになってしまう。
それは本当に自分が望んでいたことなんだろうか? オレが思い出さないといけないことは、やらないとけないことは、もっと別のことじゃなかっただろうか?
頭の中の霧が徐々に薄れてから、そんなふうに考えていた。
余計なことばかり考えてしまうし、そんな自分が怖い。いろんなことを思い出すあまり、大切なことを忘れてしまいそうで。
たくさんのことを一度に考えられるほど器用じゃないから、いろんなことがありすぎて、頭がパンクしそうだ。
だけどひとつだけ、分かったことがある。
オレはいつのまにか、俊平くんの笑顔を見たいと思うようになっていた。オレがごはんをちゃんと食べると、俊平くんが喜んでくれる。朔夜くんも、聡一郎もだけれど、俊平くんに懐くそれとは少し違う。誰かが喜んでくれるから、笑ってくれるから、だからこうしよう。ああしよう。そんなふうに思うようになったのが、正直に言って信じられない。
でも、嫌じゃない。そばにいてくれるだけで、なんだか泣きそうになってしまうくらい穏やかで、暖かい笑顔を携えているのは、俊平くんだ。いつのまにか、自分の中のイメージとは変わってしまっていた。前ほど頑なに、気持ちを修正しようとは思わなくなっている。それは心理学でいうところの、ルサンチマンの超越なのかもしれない。受容でも、諦めでもない。そんなことを考えなくてもいいくらいに自然とそうなってしまっているから、あとはそこに自分の気持ちを添わせるだけだ。
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