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photoreal/対象を正確に再現するトレーニング

 俊平くんの手がかりを探していたとき、鞄の中から携帯が出てきた。  誰かに連絡を取るどころではなかったからか、およそ2、3ヶ月ぶりに発掘された携帯は、すっかり機嫌を損ねていた。何故かバッテリーと本体が離れている状態で発見されたそれを、また使えるように充電することにした。  べつに、誰と連絡を取りたいわけでもない。でも、鞄の中で放置されていたそれが、まるでオレのように、色のない空間に取り残されているように思えてならなかったからだ。  不思議なことに、オレの気持ちはまた、変わりつつある。  聡一郎に下されたペナルティのほかにも、俊平くんたちと一緒にごはんを食べ始めたからだろうか?  その空間を穢してしまわないだろうか。オレがいることで、まったく別の雰囲気になってしまうんじゃないだろうか。  はじめはそんな懸念があって、俊平くんたちとリビングでごはんを食べることに抵抗を覚えていた。  俊平くんと一緒にお茶をするのも、話をするのも、なんの抵抗もない。けれどそこに朔夜くんや聡一郎がいることで、オレの中にあるなにかが変わっていることに気付いた。  その気持ちがなんなのかは解らない。でも、なんだかオレはそこにいてはいけないような気がして、気が進まなかった。  けれど、朔夜くんも俊平くんも、オレがリビングにいることに違和感すら懐いていないように、いつもとおなじように物事を展開している。  まるで異なる色彩のはずなのに、交じり合いも、相殺もしない。ただその空間に存在しているだけ。なんだ、そんなにオレが気にすることでもなかったのか。そう思ったからなのか、みんなと一緒にいるのが苦ではなくなった。  リビングの時計は、そろそろ13時を回ろうかというところだ。朔夜くんは幼稚園で、俊平くんはまだ来ていない。  誰もいないリビングはとても静かで、テレビだけがしゃべっている。  お天気お姉さんが、そろそろ桜の蕾が綻んできたと言っているのを聞きながら、オレはキルケゴールの著書を読んでいた。  聡一郎がベストセラーの小説を貸してくれたけれど、漢字ばかりでよく解らないから、せめて英文のものにしてくれと言ったら、オレが聡一郎の家に置きっぱなしにしていたこの本を出してきてくれた。  哲学の本は暇つぶしに丁度いい。大昔、頭のよい暇人が暇つぶしに考え出したのが哲学だといわれるくらいだから、普段の生活にはあまり役に立たないと思う。とはいえ、考え方はとても頷けるものがあるから、オレにとってはおもしろいけれど。  ソファに寝そべって、黙々とその本を読み進めていたときだ。テレビの声を遮って、聞きなれないメロディが鳴った。  それは、数ヶ月ぶりに電源を入れた、オレの携帯からだった。  着信があったことに驚いて、思わずスライド式のそれを開いた。  最近、俊平くんや聡一郎たちとは、極自然に話しているからだろう。弾みで電話に出てしまったのは。  受話器の向こうから聞こえたのは、片倉さんの声だった。 「やっと電話に出たな」  元営業マンらしい、人当たりの良さそうな声が聞こえる。  けれどその声はやはり耳に馴染まない。じりじりと耳に違和感だけが残った。  片倉さんの声に、オレはなにも返さない。それなのに、片倉さんは一方的に話し始めた。 「いまは園山のところにいるんだって? 戻ってきたなら教えてくれればいいのに」  何故片倉さんはオレがここにいることを知っているのだろう? 片倉さんがオレ宛に電話をかけてきたときに、聡一郎が気を利かせて言ったのだろうか? いや、確かあのときは、大阪に帰っていると言ってくれたはずだ。 「由樹、もう一度話がしたいんだ。一方的に辞めるなんてらしくないし、なにか思うところがあるなら改善する。戻って来てくれないか? おまえほどの才能を生かせるのはうちしかない。園山のところにいたって淘汰されるだけだ。現に、うちのお偉いさんにはシセローネやCDに対する敵対意識がありすぎるほどだからな」  片倉さんの声は真剣そのものだ。だけど話が噛み合っていないように思える。  オレが前の会社を辞めたのは契約が切れたからだ。継続して欲しいと言われはしたけれど、断った。  第一片倉さんとは仕事上一緒になることが多かっただけで、こんなに心配される筋合いなんてどこにもない。  たまに一緒にごはんを食べに行ったりする程度の付き合いで、決して仲が良いと思ったことはなかった。  今頃は新しいデザイナーと仲良くやっていると思っていたのに、何故オレに声を掛けてくるんだろうか? そう思ったらなんだかモヤモヤしてきて、溜息が漏れた。 「今更、なにを話せと?」  自分の声が、やけに刺々しい。ただ一言発しただけなのに、喉がカラカラに渇いている。 「俺はなにがあったのかを知りたいだけだ。半年だったけど、由樹のことは良いパートナーだったと思ってる。だから突然辞めたのが気になって」  アナタには関係ない。そう言おうと思ったけれど、言葉が出て行かなかった。  やっぱし聡一郎とも、俊平くんとも違う。  確かにオレは、退職する際に片倉さんには“辞める”としか言わなかった。説明不足だったことも認める。でも、二人ならこんな追及はしてこないはずだ。  心臓がドキドキとうるさいくらいに鳴っている。なんだか怖い。  片倉さんのことはよく知っている。たった半年だけれど、ほぼ毎日一緒にいた。それなのに、まるで全然違う人と話しているときのように、身体が震えている。  オレはこんなに臆病だっただろうか? 電話が怖いとか、人と話すのが怖いとか、感じたことはなかったのに。  それはいままで、オレが携帯の電源を切っていたり、家の電話に出なかったからなのかもしれない。自分が気付かなかっただけで、ずっとこんなふうに、まったく知らない人と話しているかのような感覚に見舞われて、壊れたラジオのように途切れた音声が耳に入ってくるだけだったのかもしれない。  いつ頃からこうだったんだろう? まったく思い出せない。 「由樹、聞いているのか?」  片倉さんの声が、さっきよりもノイズ混じりになっている。  オレが拒絶しているからなのだろうか。それとも、携帯が壊れているのだろうか。  携帯から耳を離して、テレビの音に耳を澄ます。片倉さんの声を聞いていたからか、やや乾いた音だったけれど、そのうちにいままでと変わらない、クリアな音に変わった。 「その園山のうちにいるんだろう? 17時すぎ、俺の仕事が終わったらそっちに行く」  もう一度携帯を耳に当てたとき、片倉さんはそうとだけ言って、電話を切った。  不快な電子音が耳につく。やっぱりノイズ混じりになるのは、人の声だけのようだ。  電話になんて出なければよかった。  出てもすぐに電源を切ってしまえば、片倉さんと話すことはなかったかもしれないのに。  そもそも、何故片倉さんは、オレが聡一郎のうちにいることを知っているのだろうか? 聡一郎はオレが大阪に戻っていると伝えてあると言っていなかっただろうか? あれから状況が変わったとは聞いていないような気がする。いや、聞いていて覚えていないだけなのだろうか。  片倉さんは聡一郎の家を知っている。以前飲み会の帰りにここに来たことがあると話していたからだ。いまさら来なくていいともいえないし、家主が不在なのに片倉さんを招き入れるなんて不躾だともいえない。  時計を見上げると、14時を回っていた。あと3時間もすればうちにくるのか。  聡一郎はいない。17時過ぎれば俊平くんが朔夜くんを連れて戻っているだろうけれど、俊平くんに助けを求めるわけにはいかない。  居留守を使おうかとか、片倉さんに電話をかけて、ここには来るなと伝えようかとか、いろいろ考えた。けれど片倉さんにこちらからかけても、きっと上手く話せないだろう。あの一言を搾り出すのでさえやっとだった。オレがいつも以上に緘黙なことを不審に思って、世話を焼きに来るかもしれない。どちらにしても逃げようがなかった。  3ヶ月以上髪を切っていないから、ボサボサだ。オレが前以上に話さなくなっていることも、身なりに気を使っていないことも、片倉さんから突っ込まれるに違いない。アレコレ詮索してきて、面倒くさいことこの上ない状況になりそうだ。  そう思ったらうんざりする。オレは盛大に溜息をついて、とりあえずシャワーを浴びようとバスルームに向かった。  外を見れば、3月に相応しいほど、よく晴れていた。自然な光が暖かいとさえ思える。それなのに、部屋の中はとても冷たいし、空気が重苦しかった。  こんな時、聡一郎だったら『悩んでないで行け』と問答無用で言ってくるだろう。でも、俊平くんだったら、――。俊平くんなら、どういうだろう? 聡一郎とおなじだろうか? それともきちんと答えてくれるんだろうか?  そんなことを思いながら服を脱いで、バスルームのドアを開けたら、バスタブを掃除している俊平くんがいた。  まさかいるとは思わなくて、唖然とする。  それは俊平くんもおなじだったらしい。かなりの沈黙の後、俊平くんは慌ててオレにバスタオルを差し出した。 「す、すみません、まだ掃除が終わっていなくて」 「あ‥‥、いえ。オレこそ、気付かなくて」 「す、すぐ、終わります」  言って、俊平くんはバスルームのドアを閉めた。  なんだか耳まで赤かったような気がする。おなじ男だし、べつに驚かなくてもいいのに。  閉められたドアの向こうからする水音を聞きながら、オレはニットガウンを羽織って、床に敷いたバスタオルの上に座った。  膝を抱えて、溜息をつく。自分がしたことだから仕方ないと思う反面、やはり納得のいかない部分がある。  今更なんの用があるんだろうか? もしまた『一緒に働こう』と言われたら、どう断ればいいんだろうか?  片倉さんのことは嫌いじゃない。けれど、もうあそこに戻るつもりはないし、聡一郎の仕事を手伝うつもりもない。  オレにはもう無意味だし、きっとあのときのことを思い出して、ナーバスになるだけだ。  頭のなかがモヤモヤして、どうすればいいのかが解らない。なんだか歯痒くて、ぎゅっと拳を握ったときだった。 「どこかにいかれるんですか?」  不意に水の音がやんで、俊平くんの声がした。 「こんな時間にお風呂なんて、珍しいなと思ったので」 「前の、会社に」  ポツリと呟くようにいえば、俊平くんから納得したような声があがる。  オレはそれ以上なんていえばいいのか解らないし、俊平くんに言ったところでこの状況が打開できるわけでもないから、黙っているつもりだった。 「どうすればいいのか、分からないんです」  それなのに、オレの口は独りでに、まるで俊平くんに助けを求めるかのように話し始めていた。 「昔の同僚から、電話があったんです。17時にここに来る、って。話がしたいって。でもオレ、誰とも話したくないし、会いたくない」  自分の声が震えている。こんな声はひさしぶりに聞いた。  片倉さんに会って、どう思われるのかが、なにを言われるのかが解らなくて怖い。そんな理由じゃないのは分かる。  けれどこんなふうに思うのは初めてだし、どうしてか解らない。その答えになんとなく気付いてはいても、認めたくなかった。  暫く沈黙が続く。こんなことを俊平くんに言ったところでなんの意味もない。たかが愚痴に過ぎないな。そう思ってそのセリフを取り消そうと、俊平くんを呼んだ。 「玖坂さんは、どうされたいんですか?」  オレの声を包み込むように、俊平くん。それはいつものトーンとまったく変わらなくて、その声を聞いた途端、すうっと緊張が解れていくのに気づいた。 「こんな言い方をしてしまうのは失礼だとわかっています。  でも僕は玖坂さんが欲しい答えを持っていません。探せと言われても、当てこすりをいう程度のお役にしか立てないと思います。  “どうするべきか”も、“どうしたいのか”も、玖坂さんの“答え”の一部なんじゃないでしょうか。  行きたくないのなら、会って話すべきと思われているのなら、どちらも結論になるのかと」 「オレが、どう、したいか?」 「僕はこの程度のことしか言えません。あとは玖坂さんの行動が物語っていると思います。  “行きたくはない”けど、迎えが来るからとお風呂に入る。つまり、そういうことじゃないでしょうか」 「‥‥頭では、わかってる。一度きちんと話しておくべきだ、って。でも、怖い」  なんだか、少しずつ胸の痞えが取れていくのを感じた。  自分の本音を誰かに話したことなんて、小さい頃以来だ。聡一郎にも言ったことがない。でも俊平くんになら不思議なほど素直になれる自分がいた。  膝を抱えていたオレの耳に、ドアが開く音が入った。かと思ったら、俊平くんがオレの隣にゆっくりと腰を下ろした。 「いいんじゃないでしょうか、それで」 「え?」 「僕も極力誰かに弱みを見せたくありません。それが自分を知っている人であればなおさら。  でも、弱みと弱音は違うと思うんです。僕にはいろんな悩みを聞いてくれる友達がいた。園山さんがいた。だからいまの自分があると思っています」 「そんな、単純なもの‥‥でしょうか?」 「単純に見えて複雑だし、その逆然り」 「‥‥よく、わからない」 「もし、僕でよければ聞きますよ。玖坂さんの悩みでも、愚痴でも、なんでも。  誰かに話すという行為そのものが、自分の心の中の自浄作用に繋がると本で読んだことがあります」 「カタルシスの、こと?」  そう言ったら、俊平くんはにっこりと笑った。この年代の男の子がカタルシスを持ち出してくるなんて、と思う。この子は性格だけでなく、頭までいいらしい。単に読書家なのかもしれないけれど、すんなりと諭された感があるというのに、腹も立たない。なるほど、そういうものなのかと思いながら頷くと、俊平くんがバスルームのドアを開けた。 「さあ、風邪をひかないうちにお風呂にどうぞ。着替えも出しておきますね」  言って、俊平くんは脱衣所から出ていった。  本当、不思議な子だ。傍にいてくれるだけでオレの中の不安や恐怖を取り除いていってくれる。  話をすれば、どころの問題ではないのに、あんなことを簡単に言ってしまえる俊平くんは、歳に合わない大人びた考え方をしているのだと思う。  オレなんて怖いと思うだけで行動に移さない臆病者だ。  本当は全部わかっている。俊平くんの言うとおりだ。ただ、誰かに答えを示して欲しかっただけ。自分の行動に責任を持たずに済むから。そんなずるい考えは捨てないと。  解っているのだから次は行動に移せばいい、オレにとっては難しい、けれど当たり前のことだ。俊平くんの足音が聞こえなくなったのを確認して、オレはバスルームに入った。

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