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allover/全面を覆う

 あの夜を境に、俊平くんは2,3日バイトに来なかった。オレにとってはその時間が自棄に長く感じた。昼食用にと、聡一郎がオムライスを作ってくれていたけれど、なんとなく味気ない。俊平くんが作るものに慣れ過ぎてしまっているのもどうかと思いながら、口にした。  俊平くんが来なくてつまらないと思っているのは、朔夜くんもおなじだと思っていた。それなのに今朝はやけにご機嫌で、オレにプリンをくれた。プリンは朔夜くんの大好物なのに、だ。べつに、なにがあるわけでもない、木曜日だ。お弁当デーでも、佳乃さんの病院に泊まる日でも、なんでもない。  それなのにご機嫌だということは、今日は俊平くんが来れるのかもしれない。  今日こそはきちんと謝ろう。そう心に決めて、覚悟をする。そうしていないと、またへんなことを言ってしまいそうだから。  朔夜くんが幼稚園に、聡一郎が仕事に行ってしまったあと、オレはベッドに寝転んで本を読んで暇を潰していた。  どのくらい経っただろうか。ベッド脇にあるナイトカウンターの上で、時計のアラームが時間を告げた。  ああ、もう17時か。心の中で呟いて、ぼんやりと眺めていた本を閉じたときだ。『ただいま』と、下から朔夜くんの元気な声が聞こえてきた。  オレの部屋はドアを締め切っていると言うのに聞こえてくるなんて、よっぽど機嫌がいいんだろう。こどもは気楽でいいな。そんなことを思いながら、音を立てないように、部屋を出た。  二階は吹き抜けになっているから、廊下から玄関がよく見えるようになっている。オレはバルコニーの壁に隠れて、見つからないように玄関を見下ろした。  上から様子を見ていたら、朔夜くんはきちんと靴も揃えてあがって、鞄も玄関にほったらかすんじゃなくて、玄関の鞄掛けに掛けた。  こういうところは聡一郎には似ていないらしい。小学校のとき、聡一郎は家に帰ったら玄関にランドセルをほったらかして即遊びに行くタイプだったから。  朔夜くんは、聡一郎が2年間男手ひとつで育てたにしては聞き分けの良い子だと思う。この生活が始まってから、最初は『ママに会いたい』って殆ど毎日駄々を捏ねていたらしい。  聡一郎が彼といつ出会ったのかは知らない。けれどオレと同レベル、もしくはそれ以上の人見知りをする朔夜くんが懐いているんだから、俊平くんとは付き合いが長い証拠だ。  悔しいけれど朔夜くんが懐くこと自体が、俊平くんの性格の良さを表すバロメーターでもある。どんなに優しい幼稚園の先生でも、一ヶ月くらいは口をきかないこともあって苦労したと聡一郎が言っていた。  父親はあんなにも怖いもの知らずで人見知りのない、超楽観気質だというのにと思いながら、下を覗き込んだときだ。  鞄を掛けて真っ先にリビングまで走って行った朔夜くんを見ていたはずの俊平くんと、ばっちり目が合った。  瞬間、どきりとする。  どうしていままで朔夜くんを見ていたはずなのに、急に顔を上げたんだろう。  オレがじっと見ていたから、その気配に気付いたんだろうか? 「こんにちは」  案の定、俊平くんが話しかけてきた。  どうしてあんなに眺めていたんだろう。  俊平くんは目が合ったら、いや、姿を見ただけで警戒心なく話しかけてくるような人じゃないか。初対面のオレに傘を貸すような、超お人よしだ。こんな状況で、気付かないフリも、無視もするはずがない。  どうしようと思っていると、俊平くんは『お邪魔します』と継いで、オレに軽く会釈をした。そしてオレの予想とは裏腹に、朔夜くんの後を追って行く。  なんだ、構える必要もなかったな。そう思ったら、少しだけホッとした。 * * * * *  ――結局オレはあのあと部屋からでなかった。というのも、朔夜くんが俊平くんの様子を教えに来てくれたからだ。  べつにオレが訊ねたわけじゃない。オレが階段付近をうろうろしていたのを朔夜くんが見つけて、親切にも教えてくれただけだ。  4歳児に気を使われるのはほんの少し情けないような気がするけれど、八つ当たりしてしまった手前合わせる顔がない。話す理由がない。そうやって自分に言い訳をしてやり過ごしてしまうのはいつものことだ。  だからこうして俊平くんのことを避けている。そうしている自分を情けなく思うし、どこかで憤りすら覚えている。でも、どうしてもその一線を越えるのが怖くて、出来なかった。  自分の中にある、最後の壁がなし崩しになってしまったら、きっと、――。 「ナオ、入るぞ」  オレが返事をするよりも早く、部屋のドアが開いた。  いつの間に帰って来たんだろうか。ナイトテーブルに置いてある時計に視線をやると、20時を回ったところだった。 「そう睨むなよ」  なぜか、聡一郎に対してまで妙な感情が渦巻いてくる。  ジロリと睨むオレを見て、相変わらず苦笑を浮かべたまま、ベッドの足元に腰を下ろした。  片倉さんに会ったあとから、何故か気持ちが不安定だった。  聡一郎とも、俊平くんとも、冷静になって話すことが出来ないのは、きっとそのためだ。 「なんの用?」  聡一郎を睨んだまま、まるで威嚇でもするかのように訊ねる。聡一郎は少し困ったように肩を竦めて、オレを見た。 「俊と、片倉氏のこと」  言って、オレの肩をぽんと叩いた。 「会いたくないと全面拒絶した片倉氏と話をつけたことは褒めてやろう」  相変わらず上から目線だなと小声で呟いて、もう一度聡一郎を睨んだ。  不思議と、片倉さんに触れられたときとは違う感覚だった。怖くないし、不快でもない。 「ナオが片倉氏を嫌いなのは分かる。極力避けておきたいのも、干渉されたくないものね。  でも、自分がけりを付ける為に片倉氏と話したのに、俊に八つ当たりするのは頂けないな。片倉氏と会うのを俊が勧めたとしてもだ」 「‥‥あの子から聞いたの?」 「いや、俺の勘」  淡々とした口調で言ってのける聡一郎の言葉に、オレは呆れてしまった。  俊平くんが告げ口めいたことをしていたらもっと怒りようがあったのに、完全にその逃げ道すら塞がれてしまったようで、なす術がない。  オレの眉間に皺が寄ったのが解ったのか、聡一郎は鼻の先で笑って、続けた。 「ナオには俊に対して暴言を吐くつもりがなかったのに、勢いで言ってしまったんだろうっていうのは分かる。  でもさ、もう少し言い方と態度ってものを考えてやれよ。俊はまだ18だぞ。考え方はすげー大人びてるけど、繊細なお年頃なんだから」  聡一郎は言葉を選びながらオレに話しかけてくる。言葉と言葉に間があるのが、オレに妙な遠慮をしている良い証拠だ。  けれどオレだって腑に落ちない。聡一郎はただ自分の憶測でオレに文句を言いに来ているわけだ。もし俊平くんからなにか聞いているならまだしも、そうじゃないなら余計にでも引くに引けなくなってしまう。  そう思っていたのが解ったのか、聡一郎はなにかを考えるように少し上を見て、「うーん」と声を出した。 「片倉氏にすげー剣幕で捲くし立てたのも、どうせ俺か俊のことをバカにされたかなんかだろ?」 「な、なんで知ってるの!?」  思わず声を上げた後、しまったと思った。まさか聡一郎から的確に指摘されるとは思ってもいなかった。驚きの色を隠せないオレをよそに、聡一郎はやれやれといった表情で、頭を掻いた。 「あのエロオヤジ、ろくなこと言わないしな。知耀なんかいいよな、『彼氏はいるのか?』ってしつこく聞かれても、『セクハラで訴えられたいですか?』の一言で黙らせられるんだから」 「‥‥じゃなくて、なんでオレが片倉さんに怒鳴ったことを知ってるの?」  そう訊ねたら、聡一郎は事も無げに『外にいたしな』と言った。 「あの日、書類を忘れていたのと、佳乃のことを俊に伝えるつもりで、一旦家に帰ったんだよ。そうしたらガレージの辺りですでにナオのすげーキレてる声が聞こえてきてさ。こりゃ俊にマジギレしてたら俊のメンタルに尋常じゃない被害が及ぶわと思って玄関まできたら、頭から水ぶっ掛けられてしょげてる猫みてーな片倉氏が出てきた」 「‥‥ふ、ふうん」 「で、玄関に入ったらナオはドスドス音立てて2階に上がってるし、俊はリビングでいまにも泣きだしそうな顔で固まってるし。わざわざ状況を聞かなくても大体分かるだろ?」  オレは『そうだね』としか言いようがなかった。  なんだか解せない。片倉さんに怒鳴りつけたあと、何故か気持ちが治まらなかった。片倉さんに会うように、俊平くんが勧めたわけじゃない。オレの行動と気持ちの乖離について諭されただけだ。片倉さんに家に来るなと言わなかったのは、オレだ。客間に案内したのも、片倉さんの神経を逆撫でしたのも。  あれは八つ当たりだ。自分ができなかっただけなのに、それを誰かのせいにしてやり過ごそうとしただけだ。たまたまそこに俊平くんがきたから。  俊平くんにきちんと謝らなきゃいけないという気持ちだけはある。話したくないわけじゃない。なにを話せばいいのか、どう反応すればいいのか、ただ単に、それが解らなかっただけだ。  いまの、自分でもよくわからない不安定な状態で、自分が気にしていることを言われたら、一生立ち直れないかもしれない。  それは単なる詭弁か、体のいい口実でしかないことも解っている。  だけど、――。 「聡一郎は、オレがあの子を気に入ると思ってる?」  そう尋ねると、聡一郎が苦笑した。 「まあ、片倉氏のお節介にイライラするくらいだから、俊がもしナオの“テリトリー”に踏み込んだら、罵詈讒謗するんだろうなーとは思ってるよ」 「質問の答えになってない」 「じゃあ、はっきり言おう。そんなことはないって言ったら指差して笑ってやるつもりでいるくらい、馴れると思ってる」  すでに胃袋掴まれたろと、聡一郎が揶揄するように言う。 「おまえが風邪ひいたときの梅味のお粥だって、俺じゃなくて俊が作ったものだしな」 「‥‥えっ?」 「ばくばく食うから、こっちがビックリしたわ。人間って弱ってる時でも、うまいものに対する欲求が消えないんだな」  言って、聡一郎が笑う。あの梅味のお粥は、確かに聡一郎が作るものの中では一番おいしいんじゃないかと思うくらい、格が違うくらいおいしかった。‥‥なるほど、聡一郎じゃなく、俊平くんが作ったからあんなにおいしかったのかと、いまさらながらに納得する。 「オレはあの子と馴れ合うつもりなんてない」  納得しながらも、どこか釈然としない。こんなことが言いたいわけじゃないのに、変なところで意地っ張りなオレの口が勝手に言ってしまった。聡一郎はそれを解っているのかどうなのか、ふんと鼻で笑った。 「馴れ合うもなにもない。俊の“アレ”は計算もなんもないただの天然だから」  唖然とした。“アレ”というのは、人受けのいい態度のことだろう。いい子ぶってできることじゃないから、あれはあの子の素なんじゃないかと思ってはいたけれど、改めて言われると破壊力倍増だ。 「大人不審で、誰かの目に晒されることを本気で嫌ってたのに、あそこまで立ち直ったんだ。18歳とは思えない高潔さを身につけたのだって、防衛本能だと言ってしまえばそれまでだが、並みの大人でさえあそこまでできない者だっている」 「どうして聡一郎は、あの子をそんなに買っているの?」 「どうして? おまえこそ、なんで妙なところで意地を張るんだよ?」 「‥‥ほっといて。あの子はオレのじゃないもの。距離を置いたって不自然じゃないじゃない」  ベッドに突っ伏しながら、聡一郎に向けて吐き捨てる。自分で言っている意味が解らなかった。どうしてこんなにも不機嫌なのか、自分でもわからない。オレは彼を気に入っているのだろうか? そもそも、彼はオレのじゃなく、園山家の家政夫で、オレの世話を妬いてくれるのはついでのようなものなのに。  オレの背後で聡一郎がくっくっと笑っているのが聞こえた。なんとなくイラッとして睨んだら、聡一郎は笑いながらオレの頬を摘まんだ。 「鈍いな、お前。そんなんだから知耀にフラれるんだ」 「‥‥もー、ほっといて。人の傷に塩を塗り込むなんて最低。誰が佳乃さんとの仲を取り持ってあげたと思ってるの?」 「ん? 俺の幼馴染で大親友だが、少なくとも俺の目の前で腐っているチビじゃないことだけは確かだ」  にやりと聡一郎が笑う。とっとと立ち直れと言いたいのだろうけれど、その言い分に腹が立つ。だから「フラれればよかったのに」と嫌味がてら言ってやったら、聡一郎が盛大に笑った。 「佳乃が俺を振るなんてありえねえ」 「聡一郎って、びっくりするくらいの自信家だよね」 「おまえに較べたらな」  聡一郎には口で勝てそうにない。「うるさい」と聡一郎に吐き捨てて、頭まで毛布を被った。 「まあ、そう構えるな。俊はなにか悟っているようだったぞ。6歳も年下の子に気を使わせて‥‥と言いたいところだが、気を使うのはアイツの趣味みたいなもんだ。気の使いすぎが気になるなら言ってやればいい。俊なりに改善してくれるよ」  そう言って立ち上がると、聡一郎はドアのほうに歩いて行った。  聡一郎の言っている意味が解らない。たしかに、なんだかんだ言って俊平くんのことが気になる節もある。けれど、だからといって積極的に話したいとは思わない。寧ろその逆だ。  オレはオレのテリトリーを侵されないように壁を作っているというのに、俊平くんはその壁すらなかったかのように、オレの中に入り込んでくる。  それが怖いのか、嫌なのか、それとも本当は助けて欲しいのか、解らない。  様々な感情が綯い交ぜになっていて、どうしたらいいのか、自分でも解らなくなっていた。  突き放してしまえば楽になれる。そう思っていたというのに、聡一郎の言うとおりというべきか、なんだか心の奥が痛む。  一体どうすればいいんだろうか? オレは聡一郎の背中を眺めながら、答えを探していた。

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