13 / 21

002

 聡一郎に言われたことが気になって、とうとう一睡もできなかった。  いつもなら2、30分はうとうとしているのに、それすらもない。  ただベッドに横たわって目を閉じていただけだというのに、カーテンの隙間から入ってくる朝日がやけに眩しく感じた。  いつも以上にぼんやりしている頭をむりやり目覚めさせて、ベッドに座る。あくびを噛み殺しながらニットガウンを羽織っていたら、部屋のドアがノックされた。  すぐに聡一郎の声が聞こえる。いまさら寝たふりをしても間に合わない。レバーハンドルが動くのを横目に溜め息を吐いた。 「なに?」 「朔夜の調子が良くないから、今日は幼稚園を休ませる」  言いながら、聡一郎がオレにクロワッサンと午後の紅茶の紙パックを差し出してくる。  不思議に思ってそれを眺めていたら、すこし渋い顔をして、逡巡するように言葉を紡いだ。 「今日は大事な商談があって休めないんだ。だから代わりに俊が病院に連れて行ってくれることになった。それで‥‥」 「‥‥今日は一日家にいるの?」 「そう。まあ、お互いに気を使いそうだから朔夜は下で休ませるよう言っておいたよ」  昨日は不自然なほど彼のことをフォローするなと思っていたけれど、やっぱり彼を一番気に入っているのは聡一郎じゃないか。  聡一郎のセリフが煩わしくて聞こえないフリをしていると、小さな溜め息が聞こえたあと、ベッドが軽く沈んだ。 「あんな性格だから鈍いとか思うかもしれないけれど、あまりいじめてくれるなよ。いま俊がいなくなったら困るんだから」 「‥‥姑に嫁をいびるなって言っている旦那のにおいがする」 「どこで覚えてくるんだよ、そんな言い回し」  聡一郎が苦笑する。オレはそのままなにも言わなかった。  俊平くんが今日一日ここにいるのなら、オレが部屋を出ようとしなくなることも聡一郎は知っているはずだ。 「じゃあ、仕事に行ってくる」  ややあって、聡一郎が立ち上がった。なにも言わないオレの肩にぽんと手を置いた。まるで先程の言葉に念を押しているかのように思える。  ドアが閉まる音が聞こえたあと、部屋のなかには再び静寂が訪れた。  ドアにシャットダウンされて外部の音は聞こえない。オレだけの空間。まるでオレの心の中を現しているかのような妙な静けさだというのに、ホッとする自分がいた。    太陽が傾きはじめるまで、オレはベッドの上で、ハードカバーの書籍を読みながら過ごした。  聡一郎が貸してくれたベストセラーのミステリー小説は、おもしろいともおもしろくないともつかないものだった。漢字が多すぎてよく理解ができないけれど、時間を潰すには持って来いだ。  その本を読んでいる間は、なにも考えずに済んだ。気を紛らわせるには丁度よいと思っているのに、目を休める為にときどき休憩をしていると、朔夜くんのことが気になった。  昨日は元気そうだったのに朝になって調子悪くなるなんていうことは子供にはありがちだし、朔夜くんはああ見えて身体があまり丈夫ではないから、聡一郎も心配だろう。  けれど下に俊平くんがいると分かっているのにわざわざ降りていくようなことはしたくない。彼と鉢合わせしたくないという気持ちのほうが勝ってしまった。俊平くんを跳ね付けてしまったことへの罪悪感がどうしても拭えない。  聡一郎が持ってきてくれたクロワッサンを齧りながら、ふと思う。けれどあの場面ではああするほか逃げ道がなかった。そう正当化する自分と、そうでない自分とが対峙している。まるで第三者の論争を見ているかのような現実味を帯びていない疑問だ。  一日中閉めっぱなしにしていたカーテンを分け開いて、眩しく光る窓の外に視線を向ける。二階の窓から彼が洗濯物を取り込んでいるのが見えて、すぐにベッドまで戻った。  元々人嫌いだけれど、こんなにも嫌な気持ちになった記憶はない。近付いてはいけないような、触れてはいけないような、形容しがたい気持ちが内側から溢れてくる。  べつに俊平くんになにかされたわけではないというのに、悪感情を持ってしまう。心理的抵抗とまではいかないものの、近いものはあるだろう。彼の姿を見るだけで、まったく異なる感情がドッキングしているような不思議を感覚する自分がいる。  この部屋の中にいるかぎり、彼はオレに近付きはしないと思う。そしてオレも、彼がいるかぎり部屋から出たりはしない。拒絶でもなんでもない。そもそも関わりがない状態なのだから、彼を罵倒する状況下にも、そして彼がオレに声を掛けてくる状況下にもない。けれど一歩でも部屋の外に出てしまえばその状況は一転するような気がしてならなかった。  もしそうなってしまったら、オレは心を正常に保つ自信がない。  あの雰囲気に、やわらかさに、堅く閉ざしてきたものを脆い氷のように溶かされてしまうんじゃないか。だからこんなふうに彼を拒絶して、顔を見ないようにしているんだと自分に言い聞かせるようにして、オレはまた、その書籍に目を落とした。 * * * * * 「朔夜くん、少しは元気になった?」  自分の部屋のドアにもたれて座っていたオレを見たせいか、聡一郎が驚いたような顔をした。オレが廊下に出ているなんて、想像すらしていなかったんだろう。聡一郎は濡れた髪をタオルで拭きながら、オレに手を差し出した。 「まあ、熱は随分下がったみたいだけど」  言いながら、オレの手を引いて立ち上がらせる。聡一郎がお風呂に入っているということは、きっともう彼は帰っているんだろう。  玄関にあるポールハンガーに彼の鞄が掛かっていないことを確認していると、聡一郎に軽く頭を小突かれた。 「俊ならもう帰ったよ」 「あ、そう」 「あれに風邪をひかせたらうるさいのが約一名いるからな。遅くなってしまったし、さっき送ってきた」  それで聡一郎の帰りが遅かったのか。心の中で納得をして、口ではそうと素っ気なく告げる。オレは本当に素直じゃないと思う。もっと自分の気持ちに素直にならなければいけないと思うほど意固地になってしまう。 「俊に謝れとも、きちんと話せとも言わないよ」  まるでオレの気持ちに気付いたかのように聡一郎が言った。弾かれたように顔を上げたオレの目に映るのは、やっぱりかとでも言いたげな顔の聡一郎だ。 「いまはナオがそう気にしてくれるだけでいい。俊だって子どもじゃないんだ。自分が余計なことをしたんじゃないかって言っていたし、お互いに悪気があったわけじゃないだろう」 「それは、そうだけど」 「だったら、それでいい。急いては事をし損じるという諺があってな」  まるでいたずらっ子のように聡一郎がにかっと笑う。小学生の時、オレが珍しく朋と大ゲンカした時に見せた顔と同じだ。諺の意味は解らないけれど、いまはなにを言っても自分を正当化させるための理由に思えて無駄だと思う。素っ気なく聡一郎に言い捨てて、部屋のドアを開けた。 「あの子は、悪くないから」  オレの言葉は聡一郎に届いただろうか。贖罪のための言葉だったかもしれない。けれど聡一郎に言っても無意味だ。逆に聞こえていないほうがいいかもしれない。そんなふうに思いながら、ドアを数センチほど開けた状態にして、ドアストッパーを噛ませた。  次の日も、その次の日も、朔夜くんの熱は下がらなかった。毎朝のように聡一郎から『今日は1日俊がいるからな』と警告される。オレが1階に降りないことを悟っているかのように、朝ごはんのクロワッサンとミルクティーを持参までして。  1階にはベッドルームがないし、朔夜くんの着替えは2階にある。ある程度はリビングに持って降りているだろうけれど、彼が2階に上がってくる可能性がまったくないわけではなかった。  でも朔夜くんのことが気になって、部屋の中でうろうろしていた。こんなに長い間熱を出すなんて珍しい。彼に任せっきりで仕事に行ってしまう聡一郎に対する腹立たしさのようなものも混じって、落ち着かない。  病院に連れて行くっていったって、俊平くんの足では限界があるだろうし、きっと車の免許も持っていないはずだ。  例の“保護者”が乗せて行くのかもしれないけれど、そこまで甘えてしまってもいいものなんだろうかと考えてしまう。聡一郎は交友関係も広いし、もしかするとそのコネで彼を雇っているのかもしれないけれど、それにしても彼に対しては頼りすぎだと思う。  軽いとはいえ朔夜くんを抱っこするのも大変だろうし、看病するには中腰になることも多い。聡一郎が仕事を休んで病院に連れて行くか、オレがタクシーでも呼んで病院に連れて行くか、どちらかのほうが良い気がするのに。  そんなことを考えながら、部屋のドアを開けて1階からする音に聞き耳を立てた。距離があるからほとんど声も聞こえない。どうしたものかと考えていると、隣の部屋のドアが開く音がした。  俊平くんだ。手には朔夜くんのパジャマとコートらしきものを持っている。いまから病院に連れて行くつもりなんだろう。  彼はオレの姿を確認するなり、ぺこりと会釈をした。 「おはようございます」  言って、彼はオレの部屋を通り過ぎて、階段へと向かった。  この間見たときよりも足を引き摺っているような気がする。この最近寒いからだろう。あの人も無理をしたり、寒い日が続いたりすると、いつも以上に足を引き摺ったり、痛みを堪えていたのを思い出した。 「あ、あの」  恐る恐る話しかけると、俊平くんはもの問いたげな顔で振り返った。  さっきまでは俊平くんの身体が心配で、手伝うことも視野にいれていたのに、いざ俊平くんの顔を見てしまうと言葉が出てこない。しどろもどろになりながらなんとか言葉を紡ごうとしたのに、声の出し方を忘れてしまったかのようだ。 「朔夜なら、昨日よりはすこし良くなりましたよ」  俊平くんが言った。オレの気持ちに気付いているかのように、穏やかな笑みを携えて。  前のことは気にしていない。そんな顔をしている。でも、なんとなく、以前に比べてよそよそしさを感じた。  それはそうだ。きっと、学校に行けばいいとか、俊平くんにとっては地雷にも等しい言葉だったんだろうから、避けられても不思議ではない。オレは「そうですか」と、やっとの思いで絞り出した声で返す。俊平くんはそれ以上はなにも言わず、オレに軽く頭を下げた後、1階に降りて行った。  なんだろう。妙な感じだ。オレが俊平くんを避けようとしていたのは、負い目を感じているからだ。彼を傷つけるようなことを言ってしまった。逆に、俊平くんがオレに負い目を感じることはなにもない。それなのにそこには薄い壁があって、オレと俊平くんとを隔てている。  オレだけが彼や朔夜くんが彩っている空間とはまったく違う空間にいて、そこに取り残されているような感じがして、警告色なのか暗色なのかわからない曖昧なもので心が塗りつぶされていくような、そんな錯覚に見舞われた。  俊平くんに対して懐いてしまった感情の意味を、オレには理解できずにいた。  朔夜くんといるときも、聡一郎といるときも、なにも感じない。それなのに、その空間に俊平くんが入ってきただけで、オレの中に眠っていた得体の知れない感情を刺激されて、内側からすべて暴かれてしまうんじゃないかという錯覚に見舞われる。  それは決まって俊平くんがいるときだけだから、彼に対する感情が、“嫌悪感”だとか、“警戒”だとか、マイナスのものでしかないと思っていた。  オレは自分の好きなことになると夢中になって、感情的になることもままあるほうだ。けれど出会って少ししか経っていない俊平くんに八つ当たりをしたことに、自分でもビックリしている。  溢れ出た感情が抑えきれなかった――と、一口に言ってしまえば、そうとも言える。確かにあの時、オレは自分で自分がコントロールできない状態にあったから。  俊平くんをまとう色がオレを塗り替えてしまいそうだ。そう思ったら、本当に妙な、言いようのない感覚がオレを襲ってきた。  試行錯誤した上でだした結論が、俊平くんを避けること。そして、近付かないようにすること。  あの雰囲気はオレの“気持ち”をすべてなかったことにしてしまう。  あの目が、声が、表情が、雰囲気が、モノクロの世界に光を注す。  モノクロの世界に留まりたいと願うオレの気持ちを踏み躙るように。そう思うのは間違いなのだと諭すように。  意図的に避けてきたのはオレだ。嫌な態度を取ったりするよりも、会わないほうが自分のためだと、その道を選んだのはオレだ。それなのに、俊平くんの態度がいつもと少し違うことに対して、オレの中でなにか得体のしれない、もどかしい感情がふつふつと産声を上げていることに気付いた。  夕日が足元まで差し込んでいるのをぼんやりと眺めながら、考えた。  けれど考える度に何故だか腹立たしくなってくる。  そもそも俊平くんは何故ここにいて、聡一郎は何故彼を雇っているのだろう?  そんな考えしか浮かんでこなくて、俊平くんの顔を見たら真っ先にそう言ってしまいそうだった。  頭の中では、そんなことを言ってしまったら、もう取り返しがつかないと解っている。ただでさえ、学校に行けばいいとか、とても失礼なことを言ってしまったのだから。  まるでこどもの癇癪みたいな感情だと思う。どす黒いものが一気に渦巻いてきて、コントロールすることが出来ない。自分の中にはこんなにもたくさんの感情があるのだと今更ながらに気づいた。 「ナオ、入るぞ」  聡一郎の声にはっとする。  慌てる間もなく部屋に入ってきた聡一郎と目が合ったとき、なんだか不思議そうな顔をされた。 「今日、早いね」 「ああ、朔の様子が気になったからね」 「‥‥そう」 「なんだよ、どうした?」  聡一郎に『なんでもない』と返しながら、ムートンのルームシューズを脱ぎ捨てる。そのままベッドにあがったとき、聡一郎が思い出したように口を開いた。 「知耀の友人が、イギリス土産で紅茶をくれたらしい。ぜひ由樹にと貰ってきたんだが」 「俊平くんは?」 「もう帰ったよ。今日はまた朔の調子がよくなかったから朝からいてもらったし、夕飯まで作ってもらったら申し訳ないからな」 「未成年だし?」 「うん、まあ‥‥そうかな」 「じゃあ辞めさせればいいじゃない」  そう言ったとき、一瞬聡一郎の顔が曇ったような気がした。  2,3日前に、聡一郎が『いま辞めてもらったら困る』と言っていたばかりだ。  聡一郎が前からかなり無理をして仕事をしているのを知っているのに、どうしてこんなことを言ってしまったんだろうか。慌てて口を噤んでももう遅い。部屋の中をほんの数秒沈黙が包む。 「やけに突っかかるな」  会話の口火を切ったのは聡一郎だった。 「嫌いなら嫌いで構わないが、6歳も年下の子に対して大人気ないぞ。ペースを乱されるのが嫌なら会わなくていいと言ったじゃないか」 「知ってる、だから気を付けてた」  自分の口調が徐々に投げ遣りになってくるのが分かる。  いままではそうでもなかったのに、また赤と黒で雑然とした感情が込み上げてきた。 「そもそも、どうしてオレをここに連れてきたの? ここに来なければあの子に会うことはなかった。オレが嫌な気持ちになることはなかった」 「ああ、そうだな。そうすればナオが俊に懐く感情に振り回されなくてよかったよ。  けれどそれは現実的なセリフじゃないだろう。自分がどこでなにをしようとしていたかも覚えていないヤツにそんなことを言われる筋合いはない」  聡一郎の声色にほんの少しだけ赤が増してくる。 「オレがどこでなにをしようと、オレの勝手でしょう?」  彼を庇う聡一郎が気に食わないのか、それとも聡一郎のセリフが引っ掛かるのかはわからない。けれど一度堰を切った言葉はもう止めようがなかった。 「死ぬつもりだったとか、そうじゃないとか、そんなもの聡一郎に関係はない。  あの子に会わなかったら、あの雰囲気に触れなかったら、こんなことを考えなくてもよかったのに!」  ああ、こんなことが言いたいんじゃない。一向にコントロールされてくれる気配のない天邪鬼な自分に舌打ちをしたとき、聡一郎が焦れたように壁を叩いた。 「いい加減にしろ。いまのナオは自分の感情が定まらないのを人のせいにしてやり過ごそうとしているだけじゃないか。それが大人気ないって言うんだ。いまでこそああだけど、俊だって‥‥」 「そんなのオレには関係ないよ!」  自分の声に驚いた。聡一郎も唖然としている。  これは只の癇癪だ。自分の気持ちが定まらないことを、相手のせいにしてやり過ごそうとしている。  辞めさせればいい? そうじゃない。彼が進んでやっていることだ。それをほんの少しだけ手を抜けばいいと言いたいのだ。  聡一郎は彼の変化に気付いていない。だから責めるのも、突っかかるのもお門違いだ。それなのに、どういえばいいのかがわからない。うまく言葉にならないし、どう表現していいかがわからない。 「ああもうっ、嫌いとかいやだとか、そんなんじゃない! 俊平くんのせいにしたいわけでもない!  あんなに足が痛そうにしてるのに、なんで気付いてあげないの!? 大丈夫って、強がってるだけかもしれないじゃない!」  そうだ、オレが引っかかっているのはここだ。痛くないわけがない。日によって足音だって違うし、いつかは洗濯物を干し終えた後にソファーに座り込んだまま、暫く動けなかった。聡一郎はそれを知らない。俊平くんは言わない。言うはずがない。だって言ったら聡一郎は絶対心配するし、迷惑をかけるってわかっているからだ。 「オレがこんなんじゃなきゃよかったのに」  視界が歪む。ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちるのが分かる。自分の感情が全く定まらない。オレが泣くなんて変だ。聡一郎の前でこんな姿を見せるのは絶対に嫌だったのに。 「いつも、燻ってばっかり」  涙を堪えても次々に溢れて零れ落ちていく。それをパジャマの袖で拭っていたら、聡一郎の手が俺の頭に置かれた。 「おまえのせいじゃないよ、ナオ」 「でもっ、オレがちゃんとしてたら、あの子にばかり負担を掛けなくて済んだのに」  聡一郎の手が俺の頭をわしわしと撫でる。暖かい。それが余計に涙を生む。 「そこまで解っているならそれでいい。おまえがするのは、他人の心配もそうだけど、まずは自分の気持ちを落ち着けることだ」 「自分の、気持ち?」 「そう。突然そうやって気持ちが吹き出すのは、気持ちが落ち着いていないなによりの証拠だろ?」  俺の頭の上で聡一郎がぽんぽんと手を弾ませる。 「俊に対する気持ちはよくわかった。俺からも無理をしないように言っておく。心配させて悪かったな」  ああ、伝わった。そう思ったら、ホッとした。また涙が出てきた。 「泣くなって。本当に変わらないな、おまえは」  さっきまでのものとは違う。おなじ涙でも違う。ぐすぐすと鼻を啜りながら涙を拭っていたときだ。俊平くんの澄んだ声が聞こえたような気がした。 「ああ、俊か。どうした?」  やっぱり聞き間違いじゃなかったらしい。オレは自分が泣いていることに気付いて、とっさに布団の中に潜り込んだ。俊平くんは見せたくなかった。恥ずかしい。 「すみません、朔夜の薬をお渡しするのを忘れていて」  そう言った俊平くんの声は、なんのひずみもないものだった。  今朝聞いたものと変わりない、穏やかな声。ゆったりとした特徴的な話し方もそのままだ。息を潜めて二人の会話に耳を済ませていたけれど、聡一郎は気を使ったのか、彼と共に階段を降りていった。  途端に室内に静けさが押し寄せてきた。静寂というよりも寂寞めいたそれがオレを包んでいく。  さっきまであれほど『俊平くんがここに来なければ済むことだ』と思ったのに、足元から一気に冷めたくなってくるような錯覚にみまわれた。  なんだか本当に、自分がなにをしたいのかわからない。  自分を渦巻くこの感情が、なにを意図しているのかも。  オレはただ、俊平くんが一人でこの家のことを色々やらなきゃいけないのが大変そうだなと思っただけなのに、――。俊平くんに対して、どうしてこんな感情にとらわれてしまうのかが解らない。まるで、透明に隔たれた場所にいる別のオレが、塗り替えることの出来ない現状に腹を立てて、癇癪を起こしているんじゃないかと思うくらいに。  そう思ったら、なんだか胸の奥がざわついてくるのがわかった。  なんだかとてもモヤモヤするし、息苦しい。自分がうまく言えないことに対するものなのか、それとも、――。  そこまで考えて、オレは考えるのをやめた。そんなはずがないという、自分の心への抵抗の為に。  今日はもう、なにも考えたくない。話が終わったら、きっと聡一郎は二階に上がってくるだろう。オレは布団に潜り込んだまま、溢れる涙を拭っていた。

ともだちにシェアしよう!