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003
「ナオ」
翌日の夕方、オレがリビングでクロワッサンが入ったダンボールを漁っていたとき、聡一郎に声を掛けられた。
いつのまに帰っていたのかと驚くオレ。どうやら手にしている分厚い参考書を取りに戻ったらしい。
「昨日のことは、俊にはちゃんと伝えておいた。すっげえ狼狽えていたから、たぶん、ナオの推測どおり無理をしていたみたいだ」
オレはジト目で聡一郎を見た。聡一郎は気付いていなかったことをごまかすかのように苦笑を漏らした。
「仕方ないだろ、俺には大丈夫って言うんだから」
「歩様も足音もあんなに違いがあるのに?」
「いや、気になってこっちも声を掛けるんだよ。だけど本人が平気だっていうし」
「一昨日は朝からいつもにはない跛行があった」
じっと聡一郎を見てやる。それに気付いていないというのならあの歩き方がどれだけきついか思い知らせてやろうかとも思う。
「腹減ったならなにか作ろうか?」
小袋に入ったクロワッサンを5,6個抱えているオレに、聡一郎が訊ねてくる。話をはぐらかす気だ。
「いらない。オレも気が付いたら言うけど、あんまり俊平くんに無理させないほうがいいよ。あの歩き方をずっと続けていたら、そのうちぐきっと捻挫でもしちゃいそう」
「そんなに違うか?」
「わざと右に荷重をかけようとしている感じがある。手術とかしたのかな?」
聡一郎がぽかんとした。そうかと思うと苦い顔になって、がりがりと頭を掻いた。
「知りたきゃ自分で聞くんだな。それより今日は俺が夕飯を作ることにしているんだ。オムライスにするか?」
オムライスはオレの好物のひとつだ。けれど、いくら聡一郎がこの2年間食事も作る父親をやっていたからと言って、おいしいオムライスが作れるとは限らない。朔夜くんがおいしいと言っていたのは、父親の味しか知らないからに違いない。
「シェフの腕が激しく疑わしい」
「失礼な。食べてもいないのにそれはないだろ?」
「朔夜くんの味覚と比較されてもね」
『オレはグルメなんだ』と言い切って嗤うと、聡一郎は少し苦い顔をした。
聡一郎の料理が美味しくないわけじゃない。でも、今朝は聡一郎が作っていったサラダとクロワッサンを食べたし、お昼もラスクを食べた。だからおなかが空いていないだけだ。
バランスのよい食生活なんていう“奇妙な規則”に興味のないオレでさえ、いまの食生活は偏っていると思う。けれど、ここにいたら間違いなく、俊平くんがやってくる。昨日の今日だ。顔なんて見られない。
「味を抜きにしても、いまは欲しくない」
オレはなにかを考えている聡一郎を尻目に、紙パックのミルクティーを入れた紙袋に、クロワッサンを押し込んだ。
「分かった、じゃあ俺は今後ナオにはラーメンしか作らない」
オレがリビングを出ようとしたら、聡一郎がオレの腕を引きながら、言った。
「‥‥なに、そのネゴシエーターみたいな言い方」
聡一郎の腕を振り払う。ラーメンは好きだ。誰が作っても味は同じだし、茹で加減さえ間違えなければ失敗しない。まあオレはそれでもぐだぐだにしてしまうが。
「俊の料理は俊への感情に反比例して好きなんだろ?」
「おいしいとは言ったけど、誰が好きって言ったの? 好きとおいしいは同義語なの? 初めて知った」
聡一郎を揶揄するように言ったら、少しの沈黙のあと、納得したように小さく頷いた。
「そうか。そうだった。アフリカの生態系が崩れるくらい有り得ないことだったな」
「は?」
「シマウマがライオンをとっ捕まえて食べるのは、天変地異の前触れの如く異常だろ? 生態系どころか種族の壁や閾値も越えている」
『いやいや、俺としたことが』と、楽しそうに聡一郎。オレを茶化している以外のなにものでもない言い様にムッとする。
「なにが言いたいの?」
「お気に入りでもない相手のことで四苦八苦するようなナオじゃなかったなーと思って」
「‥‥うん?」
それは、俊平くんがオレのお気に入りだと言っているのだろうか? 小首を傾げたら、聡一郎が笑みを深めた。ぐうっとおなかが鳴った。体は正直だ。オムライスはオムライスでも俊平くんが作ったオムライスが食べたい。オレのおなかの音を聞いて、聡一郎が吹き出した。
玄関から、あの子の声がした。すぐに朔夜くんの声もする。
熱も下がって元気になったらしい。数日ぶりの幼稚園が楽しかったのか、異様に元気な声と共に、軽快な足音がリビングに近付いてきた。
「ただいまー、パパ!」
朔夜くんがリビングに入ってきたのと、オレがウォールドアで仕切られたスペースに隠れたのとは、ほぼ同時だった。なんで隠れたんだろうか。俊平くんにちゃんと謝らなきゃって思ったばかりだ。ドキドキして、顔が熱い。クロワッサンとミルクティーが入った紙袋を落とさないようにとぎゅっとそれを腕で抱き込んだ。
「すみません、少し遅くなりました」
昨日とまったく変わりのない声がする。その声がしただけで、まわりの雰囲気が変わったような気がした。
「いや、こっちこそ済まなかったな。昨日はあれから携帯が繋がらなかったから、ジュニア経由だったが、伝わってよかった」
「パパ、俊兄が携帯忘れて帰っちゃったんだよ。オレの部屋にあったもん」
「だから捜してもなかったんだ」
「携帯忘れるよって言ったのに、俊兄急いで帰っちゃうんだもん。柾兄に怒られそうになったらオレに言って、オレが怒ってあげるから」
朔夜くんが庇うように言ったとき、俊平くんが静かに笑った。聡一郎や朔夜くんに向けるメロディアスな言葉の波は、いままでとまったく変わりがない。オレがどこか変わったんだろうか? 温かなその声で、やけに落ち着く自分がいる。
「足の調子は?」
「今日はいつもよりいい方です。ちゃんと装具もしているので、大丈夫です」
そうかと聡一郎が言う。
「玖坂さんの様子は、いかがですか?」
どきりとした。少し不安げな声だ。
「あー、うん、まあ、いつもどおり」
聡一郎がごにょごにょと言い淀む。本人を前にして言い辛いのかもしれない。なんでここに隠れたんだろう。オレの馬鹿。
「最近すれ違っているから、ちょっと気になって」
またどきりとした。すれ違っているというより、オレが一方的に避けている。あんなことを言ってしまった手前話しかけづらい。俊平くんはどこか寂しそうな表情だ。
「まあ、僕も、ちょっと、避けてしまったというか」
俊平くんが伏し目がちに言った。
「俊が避けるのは仕方ないだろ、あの鳥頭が余計なことを言うのが悪い」
「でも、それはこれから僕が多くの人にかけられるだろう言葉です。いままでもそうでした。だから慣れていると思っていたけど、思い込み、だったんでしょうね」
正直ショックでしたと俊平くんがはにかむ。
「言いたいヤツには言わせておけばいい。そいつらがなにを言おうと、俊がいままで積み重ねてきた努力が消えるわけじゃない」
「ありがとうございます。いつもなら大丈夫なんですけど、玖坂さんだったから、ですかね」
苦い笑顔だ。その言葉を聞いて、胸の奥が痛くなった。ずきずきする。これ以上顔が見られなくて、隙間から顔を逸らした。困ったような、寂しげな顔だった。あんな顔はオレの前ではしなかった。オレが余計なことを言ったせいで、あんな顔をさせてしまった。妙な罪悪感に苛まれる。
「でも、単なる思い込みなのかもしれないんですけど、なんとなく、分かるような気がするんです。
自分が“いま立っている場所に達するまで”にあった様々なことを知らない人から掛けられた言葉は、すごく痛かった。気を使ってくれているのも、頭では解っていても、すごく悔しかったし、憎らしいとさえ思ってしまったりして」
ほんの少しの間を置いて、ゆっくりと、静かに、言葉を紡ぎ始めた。
オレはふたりのやり取りを聴いているだけだというのに、メロディアスな語調が、さざなみのように穏やかなフレーズが、じんと胸に沁みてくる。
「そういえば、俊は暫く人が嫌いだと言っていたな」
「いまも、あまり好きではありません」
人が好きじゃない。一見するとそんなふうには見えない。礼儀正しいのも、気を遣う性格なのも、人の動きを見て学んでいるからだとさえ思える。
けれど俊平くんから直接その言葉を聞くと、礼儀正しくしているのは“壁”を作るためなんじゃないか。なんとなく、本当になんとなく、そう思った。
それは、俊平くんが学校に行っていないことに、なにか関係があるんだろうか?
オレは自分にその余裕がなかったこともあって、俊平くんの置かれている状況をまったく考えたことがなかった。
とても失礼なことだと思う。大人気ないとも思う。聡一郎が言っていたように、俊平くんには俊平くんなりの事情というものがあるのだ。
「人を嫌うことで、苦手とすることでそこに滞(なず)むのは、よくない。
でも、みんな自分勝手なんです。頑張れって。やればできるって。解決する方法を教えてくれないのに、結果だけを求めてくる。どう頑張ればいいのか、どうやればできるのか、その過程が分からないからもがいてるのに、そこは置き去りにして、自分の気持ちばかり押し付けてくる」
俊平くんのこんな言葉は初めて聞いた気がする。ほんの少し怒りを孕んでいるような声だ。でも、なんとなく、オレにもその気持ちが分かった。
「その結果にたどり着く術を持たない自分を恥じるべきだったのに、周りの人を、特に大人を拒絶することでそんな自分を見ないようにしていました。逃げていました。
でもそれは、許すとか、許さないとか、できるとか、できないとかの問題じゃないんですよ。だって、そこに行き着くまでの道が、自分にはわからないんですもん。やりようがない。やる術がない。だったらいっそやらないほうがいい。それが当時の僕の結論でした」
その言葉のどこにも、暗色も憂色もさしてはいなかった。本当にしっかりとした口調で言葉を紡いでいく。
俊平くんの気持ちは、オレの気持ちとは違って、おろしたてのキャンバスのようだ。穢れも、ほつれもない。まっしろだ。オレはそんなふうには思えない。俊平くんがどこまでも素直な性格だからだろう。
「でも、がんばったからいまがあるんだろう?」
「改めて考えたら、結局僕は、なにに腹立たしく思っていたのか、その気持ちをどこにぶつけていいのかが分からなかったんです。
だからリハビリもしないし、周りの大人が言うことに耳も貸さない。だって、僕にしか分からない気持ちを、まるで解ったような口調で諭してくるんですよ。おなじ目にあったことがないからわからないだろって言いたかったけど、言わなかった。ただの癇癪だって、自分でも解っていたので」
「先生とか、看護師とか?」
「ええ。僕と兄との温度差はかなりありましたね。僕は手術もリハビリもしたくない。兄はしろっていう。
どうしようもない状況に置かれているのは自分なのに、兄だけじゃなく周りも挙って言うんです。がんばれとか、このままじゃいけないとか。がんばろうとは思うんです。でも、身体が思うようにいかない。
一度動かなくなった足をもう一度動かすようにするのって、想像以上の労力を要するんですよ。一生懸命やっているはずなのに思うように行かない。知らない間に周りの時間だけが過ぎてしまっているようで、自分だけが取り残されているように感じて、とても腹立たしくなる。感情がコントロールできなくなる。
募る苛立ちや、やり場のない得体の知れない感情を、誰かにぶつけないと、自分だけが惨めな思いをしているように思えてなりませんでした。兄に、そして従兄弟に。そうしているうちに、自分自身が勝手に線引きをして、勝手にハードルを上げていることに気付いたんです。
兄たちの言う頑張れは、僕が思っているような頑張れではなかった。僕は自分で自分の首を絞めていたんです」
俊平くんの言葉を受けて、聡一郎がなるほどといわんばかりに唸った。
「そのときの状況が、いまのナオと被って見える‥‥ってわけか。
いうても、俊の場合は命に危険があったわけだから、ナオの勝手な引きこもりとは次元が違うぞ」
「そうでしょうか?」
似ているといわれて、どきりとした。
けれど、いままでの話を総合すると、いろいろと辻褄が合ってくる。
俊平くんはオレの内側にすんなりと入ってくる。そこにあるはずの壁なんてないように、極自然と、そこにいる。そのくせ、オレが纏っている色には干渉しない。オレが黒を纏っていれば、彼は滲まない白を携えて、混ざりもしなければ、塗り替えようともしない。
彼がどうしてそんなふうに、オレの気持ちを荒立てないように触れてくるのか、なんとなく、解った。それは聡一郎のいうとおり、本当にただ純粋で、自然な行動だったようだ。
「全然違うって。ナオは俊ほど考えてもいないし、ガチで当り散らしているだけだ」
「もしそうなら、僕はそのほうが羨ましいです」
「マジか? めんどくさいぞ、いちいち取り合うコッチが疲れる」
「僕はそんなふうにしたくても、言える相手がいませんでしたから。玖坂さんにとって、園山さんがそういう相手なんじゃないですかね」
「俊にもガンガン言ってるぞ、アイツ」
「あ、そういえばそうでしたね」
言って、俊平くんが笑った。
なんだか冷静に分析されていて釈然としない。すべてわかりきっているような言い方をされてむず痒い反面、どことなくホッとする自分がいた。
「話を蒸し返すようで悪いが、先生は俊に早く良くなってもらいたかっただけなんだと思う。そりゃ弟にしてみりゃ鬱陶しかったかもしれないけどな。
でもたぶん、俺が先生の立場でも、俊に早くリハビリしろとか、手術しろとか、いろいろ言っていたかもしれないぞ」
「そう、でしょうか」
「そりゃ言うだろ」
「園山さんの場合、『動きたくなったら動けばいい』とか言いそうな気がするんですけど」
「‥‥あー、すまん、そっちかも」
オレは吹き出しそうになって、慌てて口を押さえた。
確かに聡一郎なら、リハビリしろとか手術しろなんていわないと思う。寧ろ本当に『動きたくなれば動けばいい』とか『視野が広がるぞ』なんてことも言いそうだ。
笑いを堪えながら二人の会話を聞いていたら、ややあって、玄関のドアが閉じる音が耳に届いた。
彼があんなことを言ったのは意外だった。きっともうこないと思っていたのに。
本当になにごともなかったかのような声色だったなと思い出していると、ウォールドアの前で立ち尽くしていたオレの視界が急に変わった。
「帰ったぞ」
やや呆れたような顔で、聡一郎が言う。オレは聡一郎を上目遣いに睨んで、顔を背けた。
「相変わらず性格悪いよね。なにもオレが隠れているリビングで話さなくたって」
「仕方ないだろう。あの状況で場所を変えようというほうが不自然だ」
「なおちゃん、いつからいたの?」
聡一郎の横で、朔夜くんが不思議そうにオレを見上げている。
子供は正直だ。けれどその正直さこそが彼には害がないことを、如実に表している良い証拠でもある。
なんだかばかばかしくなってきた。オレ一人が疑心暗鬼になっているだけじゃないか。
俊平くんにはなんの他意もなさそうだし、朔夜くんがあんなにもなついている人を疑うのも気が引ける。
だからといって俊平くんに気を許すつもりはない。けれど、牽制する必要もないのだと気付いた。聡一郎がいうように、本当に放っておけばいいのだと。そう思ったら、なんだか気が抜けた。
「‥‥おなかすいた」
「さっきは要らないって言ってたじゃないか」
「おなかすいたの」
揶揄するように言ってくる聡一郎を睨みながら再度言うと、呆気にとられたような表情が急に笑顔になって、吹き出した。
「な、なんで笑うの?」
「いや、なんでも。しょうがない、ラーメンなら作ってやろう」
聡一郎がキッチンに向かいながらオレに手招きをする。オレは聡一郎からすこし離れて歩きながら、普段自分が座らない、ダイニングテーブルの一角に腰を下ろした。
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