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installation/空間を意識的に表現する

 寝惚け眼を擦りながらリビングに降りて時計を見上げたら、10時を回っていた。  俊平くんの考えていることがなんとなく解って、警戒する必要がないと分かったからなのだろうか。それともただ単に、俊平くんが怒っていないとわかってホッとしたからなのだろうか。自分でビックリするくらい、よく眠れた気がする。  普段はほとんど眠れなくて、6時過ぎると聡一郎がバタバタしている足音が聞こえてくるからリビングに下りるというのに。  オレは相変わらず綺麗に片付けられているリビングを見渡した。  確か昨日、俊平くんがテーブルの上にバウムクーヘンを置いて帰ると言っていた。  テーブルの上に高級感漂う箱が置いてあるのに気付いて、近寄ったときだ。携帯の、着信を知らせる電子音が鳴った。  カウンターに置いてあるそれは、いつぞやオレが投げ捨てたものだった。俊平くんが掃除をしたときに見つけて、バラバラになっていたのを修復してくれたらしい。  恐る恐る電話の主を確かめようと携帯を手にとる。よく見るとそれは、オレが昔使っていた携帯だった。オレの部屋にあるのは新しいほうの携帯だ。  携帯のサブディスプレイは、それが茉紀(マキ)さんからの電話であることを告げていた。  電話に出ることを、オレは躊躇った。けれどこれを逃したら、茉紀さんとの関係を修復できないかもしれない。そう思ったら無意識に、通話ボタンを押していた。 「調子はどうだ、由樹」  茉紀さんの声だ。けれど片倉さんの声とおなじく、ウィンドー越しにしゃべっているかのように、くぐもっている。  そのあとに茉紀さんがなにかを言ったけれど、よく聞き取れない。オレは音量を少し上げて、茉紀さんの声に耳を澄ませた。 「まあまあ、です」 「『玖坂は迷子になっていないか、風邪をひいていないか』と、榛原(ハイバラ)氏が心配していた」  『そんな大袈裟な』と返しながら、オレは妙な違和感を覚えた。  茉紀さんはこんな声だっただろうか? 冷たい、無機質な携帯の着信音と変わらないようにしか聞こえない。電話越しだからなのか、ハウリングのような不快な音に包まれている。  茉紀さんはいつ聞いても舞台俳優を想起させる良い声だったはずだ。オレは茉紀さんの声が好きで、メロディアスなものにすら感じていた。  それなのに、まるで風邪でもひいているのかと思うほどかすれて聞こえる。  いや、それはむしろ“声”ではなくて、ただの音のように、耳に馴染まないものだった。  茉紀さんはオレがいた養護施設の経営者の息子さんで、大阪にいたときに親代わりをしてくれていた人だ。奥さんと、秘書の神楽さんと一緒に、三人ではもったいないほどの豪邸に住んでいる。  イギリスに行く前までと、18のときにイタリアから戻ってきて数ヶ月間一緒に生活していた。聡一郎がいるCDの母体であるシセローネ本社の社長だ。少し前まではシセローネ東京支社の社長も兼任していたと聞いている。でもオレが小さいころは、茉紀さんが“社長”だなんてまったく知らなかった。社会人になって、茉紀さんがどういう会社を経営しているのかをようやく知ったくらいだ。茉紀さんは仕事に関しては語らないし、オレも聞かない。それは触れてはいけない一線のような気がしたからだ。  それ以外に知っているのは、茉紀さんにはオレよりみっつくらい年下の野良息子がひとりいて、その野良息子の対応に困っているということだ。  オレはその人に会ったことはない。放浪癖があるからいまどこにいるのか分からないらしく、茉紀さんでさえこの数年は声さえ聞いていないと言っていた。  去年までは大阪と東京を行き来していたから、オレの中の茉紀さんのイメージは、そんなに変わっていないと思う。ダークブラウンの髪はミディアムボブくらいまで伸びていて、男性にしては大きめの切れ長の目が知的で、とてもクールに見える。  鼻筋が高く、日本人離れした整った顔だ。茉紀さんは自分でハーフだと言っていたけれど、向こうの人の血が入っている割にはあまり背が高くない。オレよりはかなり高いけれど、茉紀さんとクロエさんの身長差はあまりなかったように記憶している。 「東京でも元気でやっているのか?」  オレがしばらく言葉を継がなかったからだろう。かなりの間を置いて、茉紀さんが言う。  耳の奥でじりじりと音がしている。気のせいなのか本当にしているのかさえわからないほどの小さな音だ。  それなのに茉紀さんの声を遮る。まるでオレに茉紀さんの声を聞かせないようにしているかのように。 「ええ、まあ」  なんとか聞き取れたセリフにそう返すと、茉紀さんは少しの間を置いて、『そうか』とだけ言った。  沈黙が続く間、オレは茉紀さんから電話がきた理由を考えていた。  東京に出てきてからは毎月連絡を入れるようにしていたのに、ここ数ヶ月はしていなかったからかもしれない。  茉紀さんがこうして電話をくれるのは二度目だ。初めて電話をくれたのは、確か秋頃だったと思う。  心配をかけているんだな、申し訳ないな、と頭の片隅では感じるのだけれど、どうも行動がそれに伴わない。いつものオレなら、茉紀さんから連絡が来るなんて嬉しくて、取り繕ってでも会話をしようとするのに。  そんなことを思っていたら、茉紀さんが再び声をかけてきた。 「仕事はどうしている?」  単刀直入に訊ねてくるのは、茉紀さんとの会話の中ではデフォルトだ。  口数が少ないのも、言い方が不器用なのも相俟って、クロエさんからよく『茉紀は舌足らずよ』と指摘されていたのを思い出す。  そんな小さな癖を知っているのに、この人の言葉に悪意がないことは分かっているのに、そう訊ねられた途端、胸の奥がちくりと痛んだ。 「選んでいる場合ではないので」  かなりの沈黙の後にオレが選んだのは、どちらとも取れる言葉だった。辞めたとも、続けているとも言っていない。これなら嘘を吐いたことにはならないだろう。精一杯の詭弁を弄したつもりでいる。  「そうか」と、淡々とした口調で答える茉紀さんに、愛想笑いをする。電話越しだから表情なんて伝わるはずがない。そう思っているのに、茉紀さんにはすべてバレているのではないかという懸念がオレにそうさせた。  仕事なんてしていない。そんなものはする気になれない。3ヶ月前に仕事を辞めたことを知っているのは聡一郎と知耀さんだけだ。  茉紀さんには、いまの自分の状態を知られたくない。反対を押し切ってまで東京に出てきたというのに、仕事もしていないし引きこもって外にもでない生活をしていると知れたら、茉紀さんは怒るだろう。  そう思ったら、言葉がでなかった。前に電話をくれたときにはきちんと仕事もしていたからか、大阪にいたときのように話せたと思う。だけど、今日は会話が続かない。頭の中が真っ白で、初めて会う人と話すときのように、なにを話していいのかが分からなかった。  それはきっと茉紀さんもおなじだと思う。せっかく電話をかけてきてくれたのに、オレがこんな態度しか取らないから気分を悪くしてしまったかもしれない。 「由樹」  オレが会話の口火を切らないからか、茉紀さんがオレを呼んだ。先ほどとは違う、尖った低い声だ。  オレは窓の外にひろがる青いはずの空を覆う灰色を眺めながら、茉紀さんの低い声を辿って表情を想像した。きっといまは少し眉間にシワを寄せて、なにを言おうか考えているんだろう。オレの想像どおり、茉紀さんが次の言葉を発するまでに随分間があった。 「神楽に、聞いた」  茉紀さんの言葉に、オレは違和感を覚えた。  一体なにを言いたいのだろう? 神楽さんはなにも知らないはずだ。オレはなにも言っていない。口下手な茉紀さんとの主語がない会話には慣れたものだと思っていたのに、さっぱり理解できなかった。 「なんの、ことですか?」 「‥‥いや、なんでもない」  いまのセリフはどういう意味なのだろうか? 茉紀さんの態度や言葉には、明らかな溝がある。オレがあまりにも身勝手なことをするから、そのことを咎められているような気さえした。 「こちらにはいつ頃戻る?」  茉紀さんの声が徐々に遠くなっていく。いつの間にか降り始めていた雨の音に――いや、一層ひどくなったノイズに掻き消されて、次になにを言ったかが判らなかった。  外に広がる春らしいはずの景色が雨で彩られていく。庭に生えた樹木の淡いグリーンと、ぼやけたアッシュグレーのアンバランスなグラデーションが、周りの色を一層滲ませ、霞ませて、そこがオレの居場所ではないことを告げる。 「由樹、大丈夫か?」  まるでオレと、外の世界とを遮断するようにザーザーと耳に響いていた音を掻き消したのは、オレを呼ぶ茉紀さんの声だった。 「すみません、ボーっとしていて」 「ぼんやりするのは由樹らしいが」  慌てて返事をすると、茉紀さんはすこしホッとしたような声で言う。言葉尻を濁しているから、その後に続く言葉があるのだと思う。けれど、そのあとの茉紀さんの声はやはりぼんやりとしか聞こえなかった。いままでと違って言葉を彩る感情の色がまったく見えなくて、余計混乱する。  オレは一体どうしてしまったのだろう? 自分でもわからないくらいぼんやりしているし、前からそうだったかもしれないが、周りで起きていることについていけない。  相手の感情をよく掴めないし、自分の周りにだけ黒いフィルターが掛かっているかのようだ。  だから茉紀さんからの電話に出たことを後悔した。茉紀さんからもう大阪に戻れと言われそうな気がして。そうでなければ戻ってくるなと撥ね付けられそうな気がして。茉紀さんともう何分も話しているというのに、いまだに手が震えている。心臓がうるさいくらいに鳴っていて、どうにかなりそうだ。 「疲れているなら少し休め。まだ東京にいるつもりなんだろう?」 「‥‥すみません、もう少しだけ」  オレの言葉が適切だったかは定かではないが、『帰る前には連絡をしろ』と聞こえた後、茉紀さんの声は聞こえなくなった。  耳には無機質な電子音だけが響いている。いまの茉紀さんの言葉のニュアンスは、どう解釈すべきなのだろう。オレには早く帰れと急かされているようにしか思えなかった。  オレは携帯を手にしたまま、しばらくぼんやりしていた。周りをまた静寂が覆っていく。窓の外には雨粒が見えるほどの雨が降っている。けれどそれに音はない。  周りはアッシュグレーに包まれて風景の一部として溶け込んでいるのに、オレがいる場所だけは明らかに浮いている。水彩で彩られたキャンバスが無遠慮な油絵の具に邪魔をされているような、不釣合いなフィールドに立たされているような、そんな気がして落ち着かない。  ここに自分の居場所はないのだと、この風景が暗に指しているように思えた。  茉紀さんはなんの為に電話をかけてきたんだろう? 身寄りのないオレを大学に行かせてくださった恩を忘れるつもりなんてない。けれどそこに血の繋がりが存在しないからこそ、余計にでも突き放されることに恐怖心があった。  あの人は簡単に誰かを見捨てるような人ではない。そうも思うのだけれど、自分がとった行動にどうしても自信を持てないから、その妙な気持ちを塗りつぶすことができなかった。  なんだか茉紀さんのことを考えると、胸の奥がもやもやしてくる。不甲斐無い自分への嫌悪感なのか、電話をかけてきた茉紀さんへの怒りなのかは定かではない。むしろその両方なのかもしれないなと自嘲する。  本当にどうかしている。自分が情けなくて仕方がなかった。あんなによくしてくださった人さえ疑ってしまうだなんて。自分の心はなにかぽっかりと穴が開いてしまっているんじゃないかと思うほど冷たくなってしまったような気がする。  茉紀さんとクロエさんが、オレが小さい頃から憧れていた“両親”の代わりになって下さったことには感謝している。親の顔を見たことがない、名前も知らないということは、コンプレックスにもなっていたから。  だからかもしれない。きっと期待に応えたいと思う気持ちの裏側にある、「応えられなかったらどうしよう」の気持ちが強いのだと思う。いくら大丈夫と思っても、茉紀さんがそう思っていないんじゃないかと考えてしまう。  ああ、こんな弱音を吐いたらきっと、ネガティブだと笑われるだろうな。そう思ったら溜め息が漏れた。  自分がよくわからなくなってくる。茉紀さんは他意なく、ただ、オレを心配して電話をかけてきてくれただけだ。それなのに、茉紀さんの声を聴いたら、言いようのない感情が押し寄せてきた。  茉紀さんからの電話が、言葉が、オレに思い出したくないことを思い出させた。頭の中の自分は現実を見ていないのだと、そう言っているかのように。  同時に、もう一人の自分がその歪みを修正しはじめた。バス停近くのベンチとその前にぽつりと佇む一本桜を残して、オレのイメージを消そうとしている。もう一人の自分が、オレの隣にいるはずの影を消そうとしている。その違和感にずきんと頭が痛んだ。なんだか吐き気すらする。オレの頭の中は、絵の具をひたすらにぶちまけたように、ぐちゃぐちゃに乱れていた。  公園と、ベンチと、桜。そこにはもう近くでは触れられないあたたかな空間があって、桜の前にあるベンチを中心に、そこだけやわらかくて静かな、春の水面のような優しさを湛えている。オレはその空間がとても好きで、苦しいときや、困ったときにはいつもそこにいた。  そのイメージがいま、自分を苦しめていることには気付いている。だけどそこに散らばったたくさんの色を払拭してしまうと、もうあのイメージを思い描けなくなってしまう。オレはそれが怖くて、これ以上どうしようもないことも解っていた。  ジレンマの角、というべきだろう。オレはそのどちらの選択もしたくない。もう一人の自分が必死に歪みを修正しているのを知りながらも、頑なにイメージを保ち続けている。そうしないと自分が崩れてしまいそうで、どうしようもない。  次第にズキズキと感覚を狭めて頭痛が襲ってくる。この部屋が自分にとってあまりにもイレギュラーすぎて、この雰囲気がイメージと違いすぎて、吐き気すらする。  頭痛に眉を顰めながら、ソファに突っ伏したときだった。  部屋のドアが開く音がした。  同時に、部屋に雰囲気が変わった。辺りをさまよう黒が、闇が、一瞬にして消えた。  ひさしぶりに襲ってきたあの頭痛も、部屋の中の空気が変わったせいなのか、いつのまにか落ち着いていた。 「大丈夫ですか?」  俊平くんだ。  慌てて駆け寄ってくる俊平くんに、オレはなにも言わずに、まるで縋り付くように寄りかかった。 「少しは落ち着きましたか?」  俊平くんが淹れてくれたハーブティーを飲んで、頷く。  自分がなにを口走ったのか、どうして俊平くんに縋り付いたのか、よく覚えていない。  部屋のなかにたちこめ始めた黒から逃れる為だったといえば、そうなのかもしれない。その“黒”を呼び覚ました原因はなんだっただろうか?  茉紀さんと会話をしたことは覚えている。自分がイメージしてきた茉紀さんの声とはひどく違っていて、オレはまたあの空間に放り込まれてしまったのかと思ったけれど、違った。俊平くんの声はいつもと変わらないし、この部屋は様々な色に溢れている。  俊平くんと出会って、あのイメージを思い出さなくなっていたからだろう。ひさしぶりに訪れた発作的な衝動に、オレ自身動揺を隠せなかった。 「あ、あの」  俊平くんは、不思議そうな顔をしてオレを見た。  まさかオレが話しかけてくるとは思わなかった。そんな顔をしているように見えるのは、俊平くんに対するオレの気持ちがそうさせているんだろう。 「いろいろと、すみませんでした。あの、ヘンなこと、言っちゃって‥‥」  俊平くんはなにも言わない。ただ、オレの隣に腰を下ろして、紅茶を啜っているだけだ。 「オレ、ときどき、ああやって感情がコントロールできなくなるんです。自分でもよくわからない気持ちが渦巻いてきて、怖くなって、八つ当たりしちゃって‥‥。  でも、あのとき、片倉さんと会うときめたとき、俊平くんになにも言ってもらえなかったら、きっと、ずっと逃げていたと思うんです」  だから‥‥。もう一度、反芻する。でも、肝心の言葉が出てこない。  どういえば、オレの気持ちが俊平くんに伝わるんだろう。  自分が前後の脈絡がない話をしていることに気付いていたけれど、自分の気持ちを表現することに精一杯だった。 「僕はなにも。きっとそれは、玖坂さんが“答え”に手を伸ばしたからですよ」  俊平くんがそう言った。テーブルに手をついて、右足を伸ばしたまま、左足に重心を掛けるようにして立ち上がる。  オレは不意に、俊平くんの服の裾を掴んでいた。  あのとき、俊平くんが来てくれなかったら、オレはもしかするとまたあのモノクロの世界に戻っていたのかもしれない。  あちらにいたとき、常にオレを取り巻いていた感情が次々に押し寄せてきて、どうしようもなかったのを覚えている。あの感覚がまた蘇ってきて、自分ではどうすることもできなかったというのに、俊平くんがあの雰囲気を一蹴してくれた。オレの周りにあった隔たりすらなかったことにして。  不思議そうにオレを見てくる俊平くんを前にして、オレはあーとかうーとか言いながら、発すべき言葉を賢明に考えていた。 「あの、ありがとう」  漸く、喉につっかえていた言葉が出ていった。 「それから、ヘンなこと言って、ごめんなさい」  そう言ったら、俊平くんが薄く笑った。  本当に、不思議だ。オレの中に渦巻いていた気持ちが、そこかしこにあったはずの壁が、すうっと消えていく。  ひとつひとつ、元からなかったかのように、なくなっている。  自分が頑なに固持していたその“壁”の正体は、紛れもない、オレの弱さだった。 「本当に、ごめんなさい」  なんだか、鼻の奥がつんとした。  自分が泣きそうになるだなんて、考えもしなかった。まるでオレの心のように凍りついていて、あのときだってひとかけらさえ零れてくれなかったくせに。  オレがあまりにも弱々しい声で言ったからだろう。俊平くんの困ったような声が聞こえたあと、そっと肩に手が置かれた。 「気にしないでください。僕も気にしていませんから」 「で、でも‥‥」  口を濁したものの、次の言葉が出て行かない。オレがもどかしい気持ちでいることに気付いたかのように、俊平くんが「じゃあ」と切り出した。 「ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」 「え?」 「最後の土曜日、僕に時間を下さい」 「土曜、日‥‥?」 「はい。玖坂さんにお見せしたいものがあるんです」  土曜日といわれてカレンダーを確認したら、丁度31日だった。  オレはいつも家にいるし、特別用事があるわけでもない。  だから何の気なしに頷いたら、俊平くんがまた、笑った。 * * * * * 「ナオ、俊になにか言った?」  夜、オレがリビングで紅茶を飲んでいたら、聡一郎が唐突に訊ねてきた。  お風呂あがりらしい聡一郎の手には、缶ビールが掴まれている。  オレはそれを少し寄越せとばかりに、トレイの上にあったグラスを手に取り、それを聡一郎に向けて突き出した。 「教えなきゃやらない」 「ケチ。じゃあオレも言わない」  言って、グラスをトレイに戻し、俊平くんが置いていったスコーンを頬張る。  聡一郎には、それだけでなんとなく解ったらしい。『なるほど』と言わんばかりの顔をして、口元を上げた。 「そういえばお前、新しいほうのアドレスと番号教えとけよ。古いケータイの残骸がリビングからも出てきたらしいぞ」 「これでしょう?」  オレはポケットに入れていた古いほうのケータイを聡一郎に見せた。 「茉紀さんから連絡があった」 「社長から?」 「うん。それで、妙に緊張しちゃったんだろうね。なんか頭痛くなっちゃって、ここでグッタリしていたら、俊平くんが助けてくれた」 「‥‥お前、どっか悪いんじゃないの?」  聡一郎が怪訝そうな顔をする。  本当になんとなくだけれど、オレは自分の感情が定まらない理由に気付いた。  オレはもう、あのモノクロの世界に戻りたくない。  もう帰り方も解らないし、オレの手が届かない先に見えていたはずの黒への出入り口は、今朝、閉ざされた。茉紀さんからの電話の後、俊平くんが触れた瞬間に。  茉紀さんからの電話が――いや、茉紀さんから言われたなにかの言葉が、オレのなかに眠っていたなにかを呼び覚まして、閉じかけていた黒の入り口をこじ開けようとした。あのときの頭痛は、オレがあちらに戻りたくないと思っているのに、無理矢理に増してくる黒に抵抗していたからだろう。  そのあと、リビングの扉が開いて、俊平くんの声が、雰囲気が、オレを包んだとき、開き始めたそれは、一筋の歪みとしてそこにあるだけになってしまった。 「でも、もう、大丈夫」  そう言うと、聡一郎はどこかホッとしたように笑った。 「それを聞いて安心した」  言って、聡一郎がオレのグラスに、ビールを注いでくれた。『酒弱いから少しだけな』って、からかうように言いながら。 「聡一郎が酒豪すぎるんだよ」 「はいはい、ナオが酒に弱いのは身体の大きさに比例しているからだろ」 「‥‥っ! またチビって言った!」 「直接は言ってないだろうが」  クックッと笑いながら、聡一郎。  こんなやりとりをしたのはひさしぶりのように思える。  なんの隔たりもない自然な会話だ。  とても懐かしい感覚で、胸がいっぱいになってくる。  気持ちが晴れて穏やかになるっていう表現は、こんな感じなんだろうなと、ひそかに思った。 「俊平くんはいいお嫁さんになりそう」  オレの昼食用に作ってくれたラタトゥイユがおいしかったと告げる。俊平くんは本当に料理が得意みたいで、最初はラタトゥイユを知らないと言っていたけれど、材料と味の具合を伝えたら、すぐに理解して作ってくれた。ああいう特技はうらやましくも思えるほどだ。  ビールを飲んでいた聡一郎に言うと、聡一郎の目尻が下がった。 「嫁ねえ。普通男は嫁って言わないぞ」 「でもそう思ったよ。ごはんもおいしいし、気が利くし。そういえば、今日は俊平くんとお茶したよ」 「ふうん、俊とお茶ね」  『ずいぶんな進歩じゃないか』と笑いながら聡一郎が言う。  オレはビールを啜り、口の中に広がる独特の苦みを久々に堪能しながら、うんうんと頷いた。 「でもね、オレがケーキを食べている最中に、買い物に行くって出て行っちゃった」 「なんだよ、話したいことでもあったのか?」 「う、ううん。そんなんじゃない。そんなんじゃ、ないけど」  言いながら、本当はもう少し話したかったんじゃないか、なんて思ってみる。  けれどきっと緊張してそれどころじゃなくなってしまうのがオチだし、なにを話せばいいのかが解らない。ひとつだけ聞いてみたいことがあるけれど、それはなんだか失礼に当たるような気がする。本人に堂々と尋ねるほど、オレは無神経じゃない。  聡一郎も俊平くんをよく知っているようだし、聡一郎に聞いてみよう。そう思いながらも随分時間が経ってしまった。 「ねえ聡一郎、なんで俊平くんはオレを知ってるんだと思う?」  そう尋ねたら、聡一郎が怪訝そうな顔をした。 「なんでって‥‥。この鳥頭め」  言った後、深々と溜息を吐く。前から3歩歩いたら忘れるといろんな人から言われていたけれど、俊平くんのような雰囲気のある人を忘れるほどではないと思う。  それを言い訳がましく言ってみたら、聡一郎は「よく言うわ」と言った後、がしがしと頭を掻いた。 「名前と性質だけ知ってるんだよ」 「せ、性質って‥‥」 「ローテンションのナオに近付いたらなにされるか解ったもんじゃないから、ナオがウチに居候することになった時点で伝えた。これでいいか?」  まるでなにかの講義をするような口調で、聡一郎。すこしムッとしたけれど、オレが俊平くんに罵詈雑言を浴びせる可能性がないことはない。実際文句も言ったしと口の中でもごもごと呟いていたら、聡一郎はなにかを考えるようにあごに手を宛てて、オレを見た。 「な、なに?」 「いや。いつものマヌケ面に戻ってきたなーと思って」 「し、失礼なっ。童顔とかボーっとしてそうな顔とか気にしてるんだから言わないでっ」 「怒るなって。ナオの代名詞じゃないか、童顔もマヌケ面もチビも」 「もうっ。明日朔夜くんに『パパからこんなこといわれたんだよ』ってバラしてやる」 「やめとけよ、4歳児に助けを求める24歳児なんて、幼稚園教諭も聞いてビックリだ」 「‥‥連絡帳に書くって言いたいの?」 「そりゃナオのことを幼稚園で担任の先生に話しているみたいだからな。最近ごはん食べるようになったとか、いろいろ。『ペットかなにかですか?』っていう先生の感想に吹き出したぞ」  そこまで言うと、聡一郎はなにかを思い出したように笑い始めた。  ああ、やっぱり晩酌に付き合おうなんて思わなければ良かった。そうぼやくと、聡一郎は笑いを押し殺しながらオレの肩をポンポン叩いた。 「朔も嬉しいんだよ。ナオのこと兄弟みたいに思ってるし」 「嬉しくないっ。いくつ違うと思ってるの?」 「その20も年下の朔に助けを求めようとしたのは誰だよ?」  くっくっと笑いながら、聡一郎が言う。オレを揶うことにかけては頭をフル回転させるから本当に性質が悪い。  オレは聡一郎が入れてくれたビールをぐいっと飲み干した。 「ごちそうさま。もう寝る」  素っ気なく言って、グラスを掴み、キッチンに向かう。グラスを軽く水でゆすいで、食洗機に入れる。そのままリビングを出ようとしたら、聡一郎に呼び止められた。 「そういえば、明日の夕飯は鍋にするって言ってたぞ」 「なべ?」 「たぶん気に入るから、気が向いたら降りてこいよ」 「気が向いたら、ね」  そう言ってはいるけれど、たぶんオレは俊平くんが作るご飯を食べに降りてくるだろう。聡一郎もそれを知ったうえで言っている。オレが俊平くんのことを報告したのがそんなに嬉しかったのか、聡一郎はオレがリビングを出てもなお笑っていた。

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