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002

 あれ以来、オレは調子の良い日には俊平くんと一緒に朔夜くんを迎えに行くようになっていた。昨日で5回目くらいだろう。幼稚園の帰りに知耀さんに遭遇して、知耀さんがどこかほっとしたように笑っていたのを思い出す。ようやく落ち着いたのねと言われても、嫌な気持ちにはならなかった。  本当だ。ようやく落ち着いた。ようやく気持ちと頭が合致しつつある。外に出て、朔夜くんを迎えに行って、みんなが嬉しそうにしているのを見て、オレはどこかホッとしている。ここにいてもいいんだなって思える。きっとそれはオレの思い過ごしなのだろうけれど、そんなふうに思ってしまうのだ。  自分の居場所がなくなるなんて、考えたことがなかった。人はお互いがお互いの距離を保って生活している。それが当たり前なのだと思っていた。でもそれが当たり前ではなくなってしまったとき、誰でもきっと道を見失って、自分がなんなのかもわからなくなって、仄暗い闇に包まれた場所で、一人さびしく嘆くことしかできない。けれどそこに光を当ててくれる人もいる。仄暗い闇にかすかな光がさす。その光は次第に大きく、明るくなっていって、沈んでいた自分の中から、本当の自分を見出すことが出来る。でもそれは、果たして本当にすべてを昇華しているのだろうか? なんて、小難しいことを考えた。  人は弱いから、自分の気持ちを曝け出すことを嫌う人が多い。弱みを見せたくない。誰にも知られたくない。相手に好く思われたい。そんな感情から自分を雁字搦めにしてしまって、本当は淋しいし、苦しいし、泣きたいのに、そうできなくなってしまったら、人は強がって生きていくしか方法を持たなくなってしまう。  オレだってそうだ。本当はもっとたくさん言いたいこともあるし、曝け出したいこともある。でもきっとそれをしてしまうと、後戻りができなくなる。二人に自分の感情を曝け出すことが出来たとしても、もしこの先聡一郎とも俊平くんとも会えなくなってしまったら、また同じように感情を曝け出す相手を探さなければならなくなる。だったら、最初から曝け出さないほうがいい。そう思ってしまったことで、自分をより弱くしてしまったんだろうと思う。  外が怖い。人が怖い。ずっとそう思っていた。  そんなことはない。一歩外に出てみれば、見知らぬ人とも話してみれば、意外にあっさりだった。たぶんそれは俊平くんがそばにいるからだろう。一人だったら違ったかもしれない。だからといって、いつまでも聡一郎や俊平くんに甘えているわけにはいかない。オレには自分がやるべきことを、約束したことをきちんと成し遂げる義務がある。  そこまで思って、自嘲気味に笑った。義務なんて仰々しい言葉を使うから余計に辛くなってしまうのだ。急ぎもせず、焦りもせず、少しずつでも前を向けばそれでいいじゃないか。自分がそう気づくことに意味があるのだし、そう思えるようになったことだけでも進歩なのだ。オレにとっては、特に。  物思いに耽っていたら、庭からすごい音が聞こえてきた。尋常じゃない音だ。慌ててリビングに降りて、外を確認する。窓越しに庭を覗くと、オロオロしている朔夜くんと、芝生に座り込んでいる俊平くんがいた。 「ど、どうしたの?」  朔夜くんが少し涙目になっている。なにがあったのか訊ねると、俊平くんが膝を擦りながら立ち上がった。 「俊平くん、大丈夫?」 「はい、なんとか」  そう言ったはいいけれど、俊平くんは歩くのも少しつらそうだ。いつも以上に足を引きずっているし、ひょこひょこしている。  気まずそうな朔夜くんを見ると、罰が悪そうに眉を顰めた。 「お、オレが、物干しで遊んでたんだ。そしたら棹が落ちて、俊兄が助けてくれた」 「なんでそんなもので遊んだの?」 「‥‥鉄棒できるようになったから」  涙目で朔夜くんがいう。自分が悪いことをちゃんと理解しているらしい。オレが溜め息を吐いたら、ぐすんと鼻を啜って、抱き付いてきた。 「パパに言わないで、俊兄が怒られちゃう」 「そこまで解ってて、なんで危ないことするの?」 「だって‥‥」 「だってじゃない。朔夜くんが怪我をするのは、自分が悪いんだから仕方ないよ。でも俊平くんが怪我しちゃったら、どうするつもりだったの?」  実際怪我しているというか、どこかを痛めたようにも見える。オレが少し語気を強めて言ったからか、朔夜くんはいまにも泣き出しそうな顔をしている。  俊平くんが「そんなに怒らなくても」とフォローをしてきた。何度も危ないと言っていたであろう光景が目に浮かんできて、余計イライラする。 「朔夜くんが鉄棒できるようになったのを俊平くんに見せたくてやったのは分かった。でも、物干しは遊ぶものじゃないよ。自分がなにをしたか、解ってる?」  そこまで朔夜くんに言ったとき、ぐすんと鼻を啜って、俊平くんに近付いた。  俊平くんはなにをいうわけでもない朔夜くんの背中をぽんぽんと軽く叩いたけれど、朔夜くんを抱き上げるでもなく、窓際に腰を下ろした。 「もう危ないことはしない。わかった?」  俊平くんが訊ねると、朔夜くんは大きく頷いて、また、抱きついた。  さすがに朔夜くんの扱いに慣れているなと思う。朔夜くんの服についた芝生を叩こうとして俊平くんが身を乗り出したとき、ほんの少し、眉を顰めた。 「足、痛い?」  俊平くんは大丈夫と言って笑ってみせたけれど、それにしてはどうも動きが不自然すぎる。さっきから右足を動かすのも少し辛そうだ。 「朔夜を庇ったときに痛めたわけじゃないので、気にしないで下さい」 「で、でも、ちゃんと病院に‥‥」 「病院に行っても、治るようなものじゃないですから」  病院に行ったほうがいいというオレの言葉を遮ったのは、俊平くんの、やや尖った声だった。  初めて聞く穏やかではない声に、思わず言葉を飲み込んでしまった。俊平くんの本音なのだろう。でもだからと言ってなにもしなくてもいいというわけではない。オレは庭に降りて、俊平くんが履いているコーデュロイパンツの裾を捲った。  右の足首が明らかに腫れている。靴下をずり下ろしてみるとそれが余計にでもわかる。この数日歩き方がいつもとは違うと思っていたけれど、どうやら気のせいではなかったらしい。 「これが歩き癖の原因だったんだね」  言いながらそこに触れてみる。かなり熱い。オレは朔夜くんを呼んで、冷凍庫にある保冷剤を取ってくるように伝えた。すぐさま朔夜くんがリビングに上がり、キッチンへと向かって行く。それを横目に見た後、俊平くんを見上げた。俊平くんは複雑そうな顔をしている。そうかと思うと空を仰いで、ふうっと息を吐いた。 「事故に遭って以来、ずっとこうです。朔夜を庇って足首を捻ったせいもあるかもしれないけど、どうせ病院に行っても、うまく付き合っていくしかないって言われるだけなので」  俊平くんの声と言葉に違和感を懐いた。事故と言ったとき、いつもはまろやかに絡んでくる声が鋭さを孕んだものに変わった。その一言を出すまでに躊躇したように思えた。どうにもならないんですと苦笑しながら、痛いのか、膝を摩っている。オレがそこに手を伸ばそうとしたとき、俊平くんが勢いよくオレの手首を掴んだ。 「あ、す、すみません」  絞り出すように言った後、少し俯いて、難しい顔をした。こんな顔を見るのは初めてだった。オレの手を掴んだ手は、まるでガードするかのように膝に置かれている。痛いだけじゃなく、見られたくないものでもあるのかもしれない。さすがにオレだってそこまで踏み込むほど野暮ではない。  ちょうど朔夜くんが保冷剤を持って戻ってきた。近くにあった乾いた洗濯物の中からタオルを手に取り、保冷剤を包んで俊平くんの足首に巻きつける。痛みがなくなるわけではないが、なにもしないよりはましだろう。 「病院に行っても対処療法しかしないから、痛みが完全になくなるわけじゃないし、元通りになるわけじゃないから、行きたくないのは分からないでもないよ」  タオルの端を結びながら言う。俊平くんはなにも答えない。答えが欲しいわけじゃないから腹も立たない。タオルを結び終え、オレはすっくと立ち上がった。 「でも、だから行かなくていいっていう理由にはならない。きちんと診てもらいなさい。貴方には将来があるんだから、どうにもならないなんていう安易な言葉で片付けないで」  少し語気を強め、撥ねつけるように言った。オレは声も口調もふにゃふにゃしているから怒っても怖くないと聡一郎に揶揄されるのだが、俊平くんは少し怖気づいたような顔をした。まさかここまで言うとは思わなかったのだろうか。オレは言うときには言う。当たり前だけれど、俊平くんはオレとは付き合いが短いから知らないだけだ。 「洗濯物はもう終わり?」 「さっき干したもので終わりです」  オレはそうと素っ気なく返して、芝生の上に落ちた物干しざおを物干し台にかけなおした。よくこんなものによじ登って遊んだなと思う。オレはふつふつと込み上げてくる妙な気持ちを溜め息とともに吐き出した。 「朔夜くん、俊平くんにちゃんとごめんなさいした?」  朔夜くんはすぐに弾かれたように顔を上げて、俊平くんにごめんなさいと謝った。俊平くんは苦い笑顔のまま大丈夫と頭を撫でている。オレはそれを横目に見ながらリビングに上がった。 「なおちゃん?」  朔夜くんが声を掛けてきたが、無視だ。つかつかと電話が置いてあるチェストに近付き、電話の子機を手に取った。朔夜くんでも聡一郎に連絡が取れるよう、一番を押せば聡一郎の携帯につながるように登録してある。オレが子機のボタンを押すと軽快な音が鳴った。受話口を耳に押し当て聡一郎が出るのを待つ。3コール目で呼び出し音から聡一郎の声に変わる。オレからの連絡だと分かると、「ナオか?」と驚いたように声が裏返った。 「聡一郎、昼休みに抜けてこれない?」 「いまからでも行けるよ、丁度近くにいるし」  「どうした?」と、聡一郎が訊ねてくる。  どこまで話すべきかと考えて、とりあえずオレは、余計なことは言わないようにした。 「俊平くんがね、ちょっと足痛めちゃったみたい。歩くのが辛そうだから、聡一郎に手伝ってもらおうかと思って」 「‥‥なんで俊が足痛めるようなことになるんだよ?」  不審そうに聡一郎が訊ねてくる。オレはちらりと朔夜くんを見て、言った。 「聡一郎の遺伝子がそうさせたみたい」 「は?」 「昔から、なにかひとつできるようになったら、誰かに自慢したくて仕方なかったじゃない」  そう言ってやると、聡一郎はなにかを悟ったらしく、大きな溜め息を吐いた。 「朔を逃がすなよ」 「大丈夫、自分で謝れって言っておいた」  聡一郎は「上出来」とだけ言って、電話を切った。  終話ボタンを押したあと、ふと我に帰る。電話を受けるのも、するのも怖かったはずなのに、どうして普通に話せたんだろう? 自分の中では切羽詰った状況だったからだろうか? なんだか不思議でならない。  首を傾げながら俊平くんと朔夜くんのところに戻ると、朔夜くんは不満げに眉を顰め、ひしっと俊平くんに抱き着いた。 「パパに怒られないように、オレが謝るからね」  ごめんねと朔夜くん。俊平くんは少し照れくさそうに大丈夫だからと返して、朔夜くんの背中を撫でている。オレはそれを横目に見ながら、穏やかならぬ気持ちでいっぱいだった。 「すみません、ご迷惑をおかけして」  俊平くんが声を掛けてきた。オレはそんなに刺々しい雰囲気を出していただろうかと思うほど、申し訳なさそうに眉を下げている。 「朔夜くんが危ないことしていたなら、教えてくれればよかったのに」 「いや、でも‥‥。目を離した間に落ちていたら元も子もないですし、朔夜が物干し台に攀じ登ったことに気付かなかったのは僕なので」 「だから足を痛めたのも仕方がないっていうんですか?」  自分の口調がやたらと攻撃的で、赤を孕んでいるのが自分でもわかった。俊平くんがすみませんと気まずそうに言ったが、別に謝ってほしいわけでもない。どういえばいいのかがわからなくて、俊平くんを見下ろしたまま突っ立っていた。 「貴方が怪我をして、ここに来なくなると、朔夜くんだって、聡一郎だって困る」  もちろんオレもと付け加えようと思ったが、言わなかった。せっかく食事がおいしいと思えるようになったというのに、俊平くんが来なくなってしまったら、また食が進まなくなるかもしれない‥‥なんていうのは、オレ個人の意見だ。 「貴方だって、いま以上に炎症がひどくなってしまったら、下手をすると再手術をしなければならなくなるかもしれない。ちゃんと診察を受けて、いまのあなたの怪我の状態がどうなのかくらいは知っておいても損はないでしょう。ここのバイトを続けたいのなら、そうするのが賢明だと思うけれど」  オレは特別変なことを言ったつもりはなかった。けれど俊平くんは気恥ずかしいような、困ったような複雑な色を含んだ笑みを浮かべ、少し伸びた前髪をくしゃりと揉んだ。 「玖坂さんは変わりませんね」  変わらないと言われたのは、気のせいではないだろう。俊平くんはふうと息を吐いた後、リビングの壁に備え付けられた手すりを片手で掴み、左足に荷重を掛けながら立ち上がった。  デジャヴュというべきなんだろうか。なんだか、前にもおなじことを言われたような気がした。他の誰かじゃなくて、俊平くんに。この、どこか寂しげな表情にも見覚えがあるような、――。  俊平くんはスロープからひょこひょことしたおぼつかない足取りでリビングに戻ってくる。それを脇から支えながら、俊平くんに声を掛けようと思ったが、オレの記憶違いかもしれないとその言葉を飲み込んだ。 「本当に人騒がせな‥‥」  リビングに戻って開口一番。自分の中に渦巻く様々な感情を抑えるように、聡一郎が言った。  特に怒っているわけでもなさそうだけれど、半ば呆れているような表情に見える。ちらりと聡一郎の様子を窺うと、溜め息を吐いて、前髪を掻き上げた。 「どうせ最近ナオが一緒に迎えに来ることでハイテンションになっていたんだろう」  言って、朔夜くんを見る。朔夜くんはどこかホッとしたような顔をしたけれど、すぐに「ごめんなさい」と謝った。 「俊は、嫌でもちゃんと病院に行くこと。じゃないと俺が保護者に半殺しにされる」 「そ、そんなことないですよ」 「いーや、困る。『もう二度と俊の貸し出しはしない』とか平気で言いそうだからな」 「‥‥でも」 「でもじゃあるか。そんだけ足が腫れててどうもないわけがない」  聡一郎が、俊平くんの足をポンと叩いた。それだけで、俊平くんの小さな悲鳴が聞こえる。恨めしそうに見てくる俊平くんを鼻で笑って、続けた。 「ほらな。捻挫してるか、手術したところが炎症起こしてるか、どちらかだろう。  ナオが気を利かせてアイシングをしてくれているのには驚いたが、そんな応急処置で治まるようなら病院なんて要らないだろ」 「どうせ病院に行っても痛み止めを打つか、シップを貰うかどちらかですよ」 「ほお、それで月一の健診も行かずずっと無理してきていたわけか」 「な、なんでそれを‥‥」  やっぱりなと呟いたら、俊平くんが驚いたようにオレを見た。  オレは高校のときに看護を専攻していた。血が苦手そうだとよく言われるが、そうでもない。それにあの歩き癖が最近特にひどいことが気になって、可能性として聡一郎に伝えたのだけれど、本当にそうだったらしい。怒りを通り越して半ば呆れて溜め息を吐くと、俊平くんが気まずそうに眉を顰めた。 「どうせ帰り道だ。病院におろしてやるから、大人しく診察されて来い」  「なんなら付き添ってやろうか?」と聡一郎が言うと、俊平くんはややあって、首を横に振った。 「ひとりで、大丈夫です」 「ならいい」  ちゃんと診てもらえと聡一郎に諭されていたけれど、どことなく不安そうな顔をしているように見えた。  病院に行くのが怖いというか、病院に行ったことが解ったらお家の方に文句を言われるんじゃないだろうか。そうも思ったが、そうならまず無理をしないような気がする。病院に行きたくない別の事情でもあるんだろうかと考えていたら、朔夜くんが急に俊平くんに抱き着いた。 「柾兄になんか言われたら、オレがやっつけてやるから!」 「お前じゃ返り討ちだ」  言って、聡一郎が朔夜くんの額にでこピンを食らわせた。ぎゃっと悲鳴に近い声がする。聡一郎のでこピンは痛い。オレはまるで自分もされたような気分になって額を擦った。 「そうやって思う気持ちがあるのなら、ふざけたことはするんじゃない。  幸いそこまで怪我がひどくはなさそうだけど、骨でも折れていたらどうするんだ? おまえが俊を連れて病院まで行けるのか? 俊の足の代わりになれるのか?」  言いながら聡一郎が朔夜くんの鼻を摘まむ。朔夜くんはふがふがと間の抜けた声でできませんと沈んだ声で言う。聡一郎は朔夜くんの鼻を解放した後、じろりと朔夜くんを睨んだ。 「よし。このことは佳乃とサンタさんの耳にも入れるからな」  聡一郎が言った途端、朔夜くんが今日一番なんじゃないかと思うほど大声を上げた。 「なんでママとサンタさんに言っちゃうの!?」  やだやだと聡一郎に縋りつく。聡一郎は朔夜くんの頬を軽く摘まむと、ごつんと額をくっつけた。 「おまえが約束を破った罰だ」  そう言われたら朔夜くんも押し黙るしかない。唇を噛んで俯くと、むすっと頬を膨らませた。 「おいこら、なんだその態度は。俊が怪我をしたのはどうしてだ?」 「おれが物干しで遊んだから」  かなりの間を置いて朔夜くんが言う。聡一郎はそうだろうと念を押すように言って、朔夜くんの頬を摘まんでいた手を放し、そこを撫でた。 「ふつうの悪戯ならまだしも、人に怪我をさせるようなことをしたんだ。サンタさんに言われて当然だな」  朔夜くんは小さく頷いた後、もうしませんと涙声で呟いた。サンタさんはいい子のところにしか来ない。でも10回悪いことをしたら来てくれなくなる‥‥なんて、聡一郎らしいやり方だと思う。佳乃さんに報告をするのだって、心配をかけると体に障るかもしれないからと、聡一郎が腹に据えかねたことしか言わないみたいだ。 「俊もだぞ。あいつには俺からも説明しておくし、体に障るような無茶だけはしてくれるなよ」  俊平くんはまるで観念したような表情で、はいと頷いた。うっすらと穏やかな笑みを浮かべている。けれどそれがいつもの表情だとは思えなかった。なんだか複雑な気持ちを抱えているようで、気になった。でもこれ以上踏み込むのはよくない。きっと俊平くんはいい気持ちではないだろう。  俊平くんと聡一郎の会話を聞いていたら、なにを思ったのか朔夜くんが俊平くんに駆け寄った。そうかと思うと、俊平くんの膝にふうふうと息を吹きかけはじめた。一生懸命にふうふうと吹いている。顔が真っ赤になってしまっている。 「ど、どうしたの?」 「俊兄のおひざ、熱いんでしょ? じゃあふうふうして冷まさなきゃ」 「‥‥はっ?」  聡一郎が呆れたような顔をする。 「ごはんが熱い時はふうふうして冷ましてねって、俊兄もパパもいつも言ってるよ」  朔夜くんにとっては当たり前のことなのだろう。でもスープやごはんが熱いのと、俊平くんの膝が熱いのとは別問題だ。苦笑するオレをよそに、俊平くんはなにやら悶えている。どうも朔夜くんの反応がかわいすぎてノックアウトされたらしい。両手で顔を押さえているから見えないけれど、耳まで真っ赤になっている。 「すまん、俊。マフィアの孫だからな、血は争えないようだ」  聡一郎が笑いを堪えながら言う。どうもツボだったらしい。 「秘儀子供好き殺し」  オレがぼそりと言うと、聡一郎が吹き出した。我が子ながら恐ろしいと肩を震わせている。 「おまえがいい子なのはわかったよ、朔。でも残念ながら俊の膝にふうふうしても冷めないんだ」 「どうして?」 「ふうふうして冷ましていいのは食べるものと飲むものだけで、怪我の時は違うんだよ」  的確に聡一郎が言う。すると朔夜くんは大きな目をぱっちりとあけて、ピンと背筋を伸ばした。 「ほんとだ! 俊兄のおひざは食べられないね!」  そう言った後、じゃあなでなでしようと、俊平くんの膝を撫ではじめた。どうも朔夜くんは自分のせいで俊平くんが怪我をしたことに罪悪感を懐いているらしい。聡一郎は呆れたような微笑ましいような複雑な笑顔を浮かべて、どんなにかわいい素振りをしても遊んだらいけないもので遊んだことと俊に迷惑をかけたことは許されないからなと、朔夜くんの頭を撫でながら言った。 *****  それから数日の間、俊平くんは来なかった。  足の具合があまり良くないのか、それともお家の方からここにくることを止められてしまったのかは解らない。  それを訊ねようにも、聡一郎の帰りも遅いから、なにも分からずにいた。 「そんな不貞腐れた顔しないの」  言って、テーブルにハンバーグを運んできたのは知耀さんだ。  昨日も今日も知耀さんが夕食を作りに来た。朔夜くんのお迎えに行ったのも知耀さんだ。  どうやら聡一郎は仕事で忙しいらしい。オレはそうわかっていても、朔夜くんはそうじゃない。2、3日聡一郎を見ていないからか、すっかり不機嫌になってしまっていた。 「パパ、どうしたの?」 「どうもしない。急に大きな仕事が舞い込んできて、職場で四苦八苦しているだけ」 「オフィスに泊まっているの?」 「みたいね。檜木くんと二人で大事しているみたいだけど」  檜木さんと聞いて、あの日書類を持ってきた人の顔が浮かんだ。あの人は本当に聡一郎の会社の人だったのか。  そう思って苦笑したとき、朔夜くんが不満そうな顔で知耀さんに抱きついた。 「ちーちゃん、パパ元気?」 「元気よ。明日には帰るって言っていたから、いい子にするのね」  朔夜くんの頭を撫でながら、知耀さん。朔夜くんはやや不満そうな顔をしたまま、小さく頷いた。 「俊兄もこないから、つまんない」 「それは仕方ないわね」 「どうして?」 「俊の怪我、相当だったみたいだもの」 「え?」 「冗談よ。単に家主から外出禁止令が出ているだけ」  さらりと言ってのけて、知耀さんが笑う。怪我が相当だったとかいうから、一瞬ヒヤッとした。知耀さんの冗談は冗談ぽく聞こえないから怖い。 「柾兄、怒ってた?」 「聡一郎がいうには、相当だったみたいね。ケンカを止めるのに苦労したらしいわ」 「‥‥どうしよう」 「外出禁止令もあと2,3日のことだろうし、週末には来るんじゃないかしら? 保障は出来ないけどね」 「さあ、早く食べちゃって」と、知耀さん。  明日俊平くんがこなかったら、聡一郎に連絡して、訊ねてもらうかな。そんなふうに思いながら、ハンバーグを頬張った。 ***  月日が経つのは早いもので、あと数日で3月が終わる。すっぽりと抜け落ちてしまっているおよそ一カ月の間の記憶は、ぼんやりとした輪郭さえ未だに見ることができないが、そんなことはどうでもよくなっている自分がいる。それよりも、自分の変化に驚いている。  俊平くんに出会ってから、様々な色が息吹いた。感覚が芽吹き、感情が花をつけるように、いままでの自分が忘れていたものを取り戻しているようだ。  ご飯を食べることも、人と話すことも、何もかもが億劫だったのは覚えている。その理由がなんだったのか。それも知っている。けれど思い出したくはない。ほんの一瞬でも隙を見せたら、仄暗い黒が押し寄せて来るのではないかという懸念がぬぐえないからだ。  人は弱いから、自分の弱さを見せないように取り繕う。おれは特にそういう傾向にある。だから聡一郎の家に引きこもっているのだけれど、このままではいけないという気持ちもある。前を向かなければならない。こうなったのはおれの決断だったはずだ。言えばいいのに言わなかった。行動に移さなかった。だから悩んで、傷ついて、どうしようもないほど落ち込んだ。けれどそうすることで解決するとは微塵も思っていない。逃げてばかりいるのはよくない。それでも、どうアクションすればいいのかが分からずにいた。  自分の気持ちを落ち着ける為にはどう図ればいいのだろうか。以前は好きな絵画を見たり、音楽を聞いたりして、新たなインスピレーションを懐くことで不安や迷いを明るみにすり替えていた。いまはなにか見たいものがあるわけでも、聞きたいものがあるわけでもない。ただ、俊平くんに会いたい。俊平くんと話していたら、不思議と気持ちの整理がつく。穏やかな声のトーンも、やわらかな表情も、まるでおれを包みこんでくれているかのように安心できるのだ。  だからといって俊平くんに甘えてばかりもいられない。朔夜くんがふざけたせいで怪我をしてしまってから今日まで、ここに来ていない。保護者さんともかなり揉めたと聞いている。俊平くんが来ない間は味気ないし、つまらない。それはおれだけではなく、朔夜くんもおなじようだ。 「俊兄、もうこないのかな?」  眉をハの字に下げて、朔夜くんが言う。俊平くんが来なくなってから、殆んど毎日こうだ。くすんと鼻を啜り、プレートの上のにんじんをフォークで突っついている。 「食べ物で遊んじゃダメって俊平くんに言われちゃうよ」  少しの間その様子を横目に見ていたけれど、それでは埒が明かないからと口を開く。朔夜くんは恨めしそうにおれを見て、ぷくっと頬を膨らませた。 「でも俊兄こないもん」 「朔夜くんがにんじん食べないからじゃない?」  にんじん嫌いの朔夜くんは、俊平くんが作ると食べるのに、聡一郎が作ると絶対に口にしない。おれもあまりにんじんが好きではないが、子どもの手前好き嫌いはよくないからと無理をして食べている。  ハの字だった眉を少しつり上げ、むきになったようににんじんを口に放り込むと、朔夜くんはこれでどうだと言わんばかりにおれに視線を向けてきた。

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