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renaissance/人間性の解放、または再生する

 昨日、聡一郎と昔の話をしたからだろう。うとうとしていたとき、昔の夢を見た。  どういう内容だったかは忘れてしまった。でも、とても懐かしい姿を見たような気がした。それはほんの一瞬で、すぐにオレのイメージから消えてしまった。たぶんあれは、オレがイギリスに行く前のことだ。  オレはもぞもぞと布団の中でうごめいて、小さく背伸びをした。  昨日3日ぶりに戻ってきた聡一郎とお酒を飲んだからか、なんだか身体がだるい。夢を見たのもそのせいだろう。  ガシガシと頭を掻いて、枕元に置いてある携帯を手にした。液晶画面には、8という数字が浮かんでいる。でもよく見えない。目をこすって画面に目を凝らす。そこに表示されている日付を見て、オレは得体の知れない感情が息吹くのを感じた。  今日は3月30日だ。明日で3月も終わってしまう。  なんだか釈然としない。よく解らない感情がモヤモヤと胸のあたりに堪っていくのに気付いて、オレはがばっと頭まで布団を被った。 「おはよう、なおちゃん」  大きな声と同時に、ずんと腰の辺りが重くなった。抗議の声を上げようとしたら、2,3度身体を揺すられる。  布団から頭を出すと、満面の笑みを湛えた朔夜くんがいた。 「おはよう」 「お、おはよう」  今日は朝からエライご機嫌だなと思いつつ、ベッドに突っ伏した。  朔夜くんはオレから降りて、オレの頭もとに回ってくる。一体どうしたんだろうかと思ったときだ。 「今日ね、ママのところにお泊りするんだよ」  言って、朔夜くんが嬉しそうに身体を揺らした。 「そう、なんだ」  よかったねと継ぎながら、今日はまだ金曜日じゃなかっただろうかと思う。さりげなく携帯を覗き込むと、やはり“FRI”と表示されていた。  いつもは土曜日に出て行くのに、珍しいな。そんなふうに思っていると、聡一郎が顔を覗かせた。 「漸く起きたか。ナオ、悪いけど今日は仕事が終わったら朔を連れてそのまま病院に泊まるから」 「ああ、そう。そのほうが朔夜くんも喜びそうだね」 「それでな、ナオ。俊に連絡したら来てくれるっていうんだ」 「‥‥いいのに。独りのほうが気が楽」 「冗談だろ? 部屋に独りってだけでろくすっぽ眠れないチキンのクセに。じゃあソメ返せよ、暖取りに丁度よかったんだから」 「なっ、朔夜くんがいるじゃない。オレだって寒いんだから。それに、俊平くんが来たってどうせ夜には帰るんでしょ? だったらいてもいなくてもおなじ。それならいないほうがいい。そういう理由なんだけど」  意地悪くいう聡一郎に言い返して、掛け布団の上においておいたニットガウンを羽織る。  なにも言ってこない、ニヤリと笑う聡一郎を見て、オレは自分が墓穴を掘ったことに気付いた。 「それはナオのアピール次第だな」  どうやらこれ以上否定するだけ無駄らしい。聡一郎が余計に“オレが俊平くんを気に入っている”と勘違いするだけだ。 「‥‥わかった」  ややあって、溜息混じりにいうと、聡一郎は『じゃあメールしとく』と言い残して、朔夜くんと一緒に部屋を後にした。  急に静かになった室内で、一人ぼんやりと考える。俊平くんがうちに来ることを、お家の方はちゃんと許可してくれたんだろうか? 聡一郎がああいっていたんだから、きっと外出禁止令が解けたんだろう。  けれど、俊平くんは夕飯を作り終えたら帰ってしまう。さっき聡一郎にも言ったけれど、だったら一人でいるほうがマシだった。そうすれば、きちんと自分に言い聞かせることができるから。  独りになるのは嫌いじゃない。寧ろ好きなくらいだ。  でも、それは聡一郎のいうとおり、“おなじ屋根の下”に誰かがいる前提で、だ。  小さい頃に聡一郎のうちに泊まったとき、聡一郎の部屋の隣の部屋に独りきりで、それが怖くて聡一郎に泣きながら助けを求めに言った記憶がある。悲しいかなそれはいまもおなじで、“誰もいない空間”が怖い。だけど誰かがいればべつに独りでも平気だ。そこだけが小さい頃とは違う。  そこまで考えて、思う。夜になるとオレがベッドの上でゴロゴロしていることを、さすがに聡一郎は気付いていたらしい。ベッドの音が聞こえていたに違いない。  なんだか釈然としなかったけれど、否定したところで聡一郎からの評価が変わるわけじゃない。  オレは自分の気持ちがどうなっているのか、不思議でならなかった。一時期、俊平くんを寄せ付けまいとする気持ちが態度に表れていたと思う。しばらくの間、そう思っていた。彼に触れてはならないなにかがある。オレの中でタブー視されるべくなにかが。  そのなにかはいまだにわからない。でも、触れてしまえば最後だと思った。それなのにいまは、俊平くんがいないことに不安を抱く始末だ。本当、どうかしている。  心境の変化なんてほんの些細なことで訪れるものだと、本で読んだ。だけど人に対する印象が少し変わっただけでなれなれしくできるほどオレは大胆な性格じゃないし、嫌いな人に対してはいい顔一つできないところもある。それはむしろオレの数多い欠点のひとつだ。  それなのに俊平くんに対しては違う。むしろ、元々印象が悪くなかったんじゃないかと思うほどだ。あれほど俊平くんの顔を見たくないと思った時期があったというのに。  そこまで思ったとき、なんだか急に、考えるのが面倒くさくなった。考えても仕方がない。あの時のオレはなにを考えていたのか自分でもわからなかったんだから、改めて考えてわかるわけがない。そう居直って、オレは俊平くんがやってくるのを待った。  夕方、なんとなく紅茶が飲みたくなって1階に降りたら、丁度俊平くんが玄関のドアを開けたところだった。  なんの心構えもしていなかったから、一瞬間呆然としていたと思う。そしてオレがいつもの壁を作る暇さえ与えず、俊平くんがそっと笑った。 「こんにちは」  いままでとなんら変わりないはずなのに、どきりとした。 「こ、こんにちは」  オレは頭を下げて、そそくさとリビングに向かった。  後ろから俊平くんの足音がする。  俊平くんの足音は、やっぱりいままでと少し違う。不定期なリズムが耳を叩いて、オレを不安な気持ちにさせる。  やっぱりダメだと思って振り返ると、俊平くんが不思議そうな顔をした。 「あ、あし」 「え?」 「足、大丈夫なの?」  前より引き摺ってると、右足を指差す。俊平くんは苦笑を漏らした。 「大丈夫じゃないです」 「‥‥怪我、ひどかった?」 「思ったよりは。でも、支障はありません」 「なら、いいけど」  そう言ってしまった自分を殴りたくなった。いやいや、良くない。全然良くない。きっとここで無理をさせたら、また俊平くんがお家の方に怒られるハメになってしまう。  そう思ったのが解ったんだろうか。俊平くんがくすりと笑った。 「大丈夫ですよ。もう解決しましたから」 「ほんと?」 「ええ。そういえば、新しい紅茶を買ってきたんです」  まるで話題を変えるかのように、俊平くん。不思議に思って俊平くんを盗み見ると、バッグから真新しい缶を取り出した。  見たことがないパッケージの缶だ。  どうしてこんなものを買ってきたんだろう? 俊平くんはオレがそう思ったのを悟ったかのように、口を開いた。 「友達の店で扱っている、すごく評判のいい茶葉らしいですよ」 「オレも好きだろう、って?」 「はい」  言って、俊平くんが楽しそうに笑う。  表示を見ると、アッサムの茶葉だった。しかも輸入雑貨店じゃないと買えないものらしい。  前に俊平くんが買って来てくれたのもそうだ。こんな高級そうなものを本当に貰ってもいいんだろうか? 日本で買ったら結構高いと思うけど。  俊平くんと茶葉とを交互に眺めていると、『淹れましょうか?』と訊ねられた。 「お、お願い、します」  自分でもかなりしどろもどろなのが解った。  美味しい紅茶を飲むからという胸の高鳴りと、朔夜くんがいないのに俊平くんと話しているという状況の緊張が混ざって、独特な感情の色を成している。とても不思議なものだ。こんな気持ちはなかなかない。  促されるままにソファに座って待っていると、それと一緒にスコーンが出された。  夕食前だからどうしようかと思ったけれど、甘いはちみつの香りがオレを誘惑した。 「結構本格的なんですね」  手際よく作られていく料理の数々に、オレは思わず感嘆した。  しかも聡一郎のうちの冷蔵庫にあった食材は、本当に僅かなものだった。なのにあれだけのものでこんなに作れるんだと、ある意味感心する。  俊平くんの後ろでじっとそれを眺めていると、ややあって、おもしろそうに笑うのが分かった。 「なっ、なんで笑うの?」 「すみません、つい」  つい、て‥‥。オレはなんにもおもしろいことしてないのに。ぽつりと呟いてみる。  口が開いてたのがおかしかったのかなあとかいろいろ考えていると、俊平くんは含み笑いをしながら料理を盛り付けていた。  俊平くんはほんとうによく笑う子だと思う。  なにが食べたいか聞かれて、真っ先に思い浮かんだのがラーメンで、それじゃあ元も子もないって言って、笑った。  他に食べたいものを考えて、なかなか思いつかなかったから、なんでもいいって言ったら、また笑った。  その後、嫌いなものとか、食べられないものを聞かれて、思いつく限りの答えを言ったら、また、笑った。  なんでこんな風に笑えるんだろう。  俊平くんを見ていると、いつも不思議な気持ちになった。  オレのことをちゃんと解ってくれる。ありのままを理解してくれる。  その優しさが、痛くて、怖くて、戸惑ったけど。でも、――。 「お待たせしました」  暫くして、俊平くんがオムライスとポタージュスープをテーブルに運んできた。  オレがあまり食べないのを解っているかのように、朔夜くんが食べるものとおなじサイズのものがお皿に置いてある。  色よく盛り付けられたそれと、俊平くんとを交互に見つめていると、俊平くんがまた、笑った。 「どうぞ」 「あ、は、はいっ、いただきます」  突然振られて、慌てたせいか、語尾が尻上がりになった。  きちんとスープ用のスプーンまで用意されているなんて、さすがだ。  二人きりだから一緒に‥‥なんて言われるかと思ったから、言われる前に『一緒に食べないの?』と聞いてみた。  すると俊平くんは、嬉しそうに笑った。  普通にしているときもあどけないけれど、笑うといつも以上にコドモっぽくなるんだな。歳よりも大人びているのは雰囲気だけで、実際には歳よりもコドモっぽい顔をしている。女の子受けの良さそうな顔だなあとマジマジ見ていたら、今までにないことだからか、照れたような複雑な顔をされた。 「ごはん作るの、上手だね」 「得意じゃないけど、好きなんです」  言って、俊平くんがまた笑う。聡一郎にすらプロ級と言わしめた腕を持つのに得意じゃないとか、謙遜もいいところだ。そうやって揶揄してやろうかと思ったけれど、オムライスがあまりにもおいしそうだったから、やめた。  オムライスの端っこを割ると、ふんわりとした感触がスプーン越しに伝わった。  レストランとかの店頭で見るオムライスとは違って、中のごはんにグリンピースが入ってない。  オレが嫌いだって言ったのを気にしてくれたんだろうか。  それをスプーンで掬って口に運ぶ。  半熟の卵とごはんが絡んで、口の中にまったりとした味が広がった。  なんだか、すごく、懐かしい味がした。  そう思ったせいなんだろうか。それともあまりにもおいしかったからなんだろうか。 急に鼻の奥がつんとして、視界がぼやけた。  俊平くんが気付いていないうちにそれを拭って、また、オムライスを口に運ぶ。なんだか妙に胸がいっぱいになってきて、切なくなる。  ごはんを食べただけでこんなになるなんて、初めてだ。  この味はたぶん、俊平くんの優しさがいっぱい詰まった味なんだろうと思う。  数年前、初めて食べたオムライスと、おんなじ味がした。 * * * * *  なんとなく寒くて目を覚ますと、気持ちを紛らわす為につけていたテレビは、スクランブルに変わっていた。  どうやらオレは眠ってしまっていたらしい。  目を擦って、肩に掛けられた毛布に顔を埋めながら、記憶を整理する。  昨日は俊平くんと夕ごはんを食べた。オムライスもポタージュスープも思った以上においしかったし、二人きりでも問題なく俊平くんと話せたと思う。オレにしてはがんばったほうだろう。  壁時計を見上げると、一時を回ったところだった。何時ごろ眠ってしまったのかは解らないけれど、なんだか頭がスッキリしているような気がする。俊平くんとふたりきりでも大丈夫だったことにホッとして、よく眠れたんだろうか。  そういえば、と、オレは辺りを見回した。  俊平くんはもう帰ってしまったんだろうか? 姿が見えない。  もし帰ってしまったのなら、せっかくきてくれたのに、悪いことをしたな。そう思って身体の向きを変えようとしたとき、自分がなにかを掴んでいるのに気付いた。  よく見るとそれは誰かのシャツだ。  不思議に思って顔を上げると、そこには俊平くんがいた。座ったままうとうとしている。オレが握っていたせいで帰れなかったんだろうか。  なんだか急に恥ずかしくなってソファに突っ伏したら、俊平くんから小さな唸り声が上がった。 「おはよう、ございます」  なんだか少し寝惚けたような声だ。  床に座ったままで寝かせたなんて聡一郎に知られたら殺されかねない。 「きゃ、客間に、ベッドがあるから‥」  慌てて声を掛けると、俊平くんは眠そうに目を擦った。  いつからこの状態だったんだろう?  オムライスを食べた後、ソファに移ってテレビを見ていたと思う。  テレビなんていつも見ないけど、手持ち無沙汰だったからテレビをつけたら、美味しそうなイタリアン特集をやっていたから、そのまま釘付けになっていた。  その後のことは覚えていない。何時間も眠れるなんてめずらしいし、おまけにソファでなんて考えられない。  俊平くんが傍にいたからだろうか? 違うと思いたいけれど、それ以外に思いつかない。  俊平くんはへんな体勢で眠っていたからか、それともあまり寝起きが良くないのか、ものすごく眠そうな顔をしている。  ここで起こして帰らせるのもへんな話だし、かといって客間に案内できる状況でもなさそうだ。  どうしようか悩んでいると、俊平くんは『うーん』と唸ってそのままソファに顔を埋めた。それも、オレの膝を枕代わりにして。  なんだかものすごくドキドキする。そういえば俊平くんは寝たらなかなか起きないと聡一郎が言っていたのを思い出した。 「しゅ、俊平くん、おきてっ」 「うん‥」  辛うじて返事はしてくれるものの、目は開かない。小さな寝息が聞こえてくるまで、そう時間は掛からなかった。 「俊平くん、俊平くんってば」  何度身体を揺すっても、声を掛けてもおきてはくれない。よっぽど疲れているんだろうか。  仕方がないから、ソファの端っこにある、ヒツジ型のお昼寝ピローを取って、俊平くんの頭の下に置いた。  それでも、少し唸っただけだった。  なんだろう、この18歳児は。一度寝たら起きないなんてオレには羨ましすぎる特技だ。  まるで園山親子。聡一郎を尊敬しているのはわかったけど、なにもこんなところまで‥と思う。  なんだか自分が信じられない。あんなに牽制していたはずなのに、いまは俊平くんが近くにいるのが当たり前のようになっているなんて。  明日の朝別れたら、夕方には来てくれるんだろうけれど、次の日の朝までオレはひとりになっちゃうんだな。そう思うと、なんだか鼻の奥がつんとする。  聡一郎と朔夜くんはオレを心配して少し早めに帰ってきてくれると思うけれど、ふたりの暖かさと俊平くんのそれは、同等のようであってまったく違うものだ。  なんだか寂しくなってきたから、考えるのを辞めた。明日のことは明日考えればいい。  明日の朝、俊平くんが目を覚ましたときにオレが寝ていたら、きっと声を掛けてくれるだろう。オレは向かいのソファに横たわって、目を閉じた。

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