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 ――気付いたら、オレは草原にいた。  いつもの公園じゃない。たぶん、マンションの近くの河川敷だ。  辺りを見渡すと、そこにいた。品のある白を纏っている。  きっとこれはいつもの夢だろう。けれど少しだけ違う。  いままでの夢では、影しか見えなかった。今日はその姿をオレに見せてくれるのに、ちっともこちらを向いてはくれない。笑いかけてもくれない。  でも、いつもは霞みのような、霧のようなものに包まれていた河川敷の草原が、はっきり見える。  オレになにを言うわけでもなく、髪をたなびかせている。いままでと違って、オレが追いかけようともせず、ただその姿を見ているだけと気付いたのだろうか。ゆっくりと振り返って、そして、笑った。  なにかを話しているのがわかる。それなのに、声が聞こえない。風の音も、川の流れる音もしないのに。  そのうちに、川へと歩き始めた。  いつもオレが止めようとするところだ。  でも、止めなかった。  振り向き、そっと微笑む。オレはなにをするでもなく、その様子を眺めていた。体が、影が、川の中に消えていくまで、ずっと、――。  ――いつもとは違うタイミングで目が覚めた。  目を開けて周りを見ると、そこは聡一郎の家のリビングだった。オレの身体には、俊平くんに掛けていたはずの毛布が掛かっている。  慌てて身体を起こすと、俊平くんはオレに気付いたらしい。 「おはようございます」 「お、おはよう、ございます」  目をこすって、もう一度周りを見る。あたりまえだけれど、あの河川敷じゃない。でも、雰囲気だけはそっくりで、身体ごとなにかに包まれているかのように心安らかでいられる空間だ。  あの夢はなんだったんだろう。いつもと違っていたのは、オレの心にほんの少し余裕ができていたからだろうか。そんなことを思いながらソファに座りなおすと、俊平くんがキッチンカウンターに置いてあったオレの朝食と思しきものを取りに行った。  そのときの足取りがいつも以上に引き摺っているように見えて、なんだか申し訳ない気分になる。 「すみません、僕、寝ちゃったみたいで」  『途中から記憶がないんです』と継いで、苦笑する。  じゃあ当然のことながらオレの膝を枕代わりにしたことなんて覚えていないだろう。 「食べ終えたらシンクに置いておいて下さいね」  俊平くんが爽やかに言う。  なんだか解せない。なんでオレだけこんなに悄気た気分なんだろう?  答えははっきりしている。あの夢を見たからだ。  ひさしぶりに見たあの夢は、いつもと違っていた。もしかしたら俊平くんは、あの人のようにいなくなってしまうんじゃないか。そんなふうに思ったら、笑えなかった。  聡一郎と朔夜くんはきっと明日までいない。  オレはこの家に独りになってしまう。部屋で眠っていればそれはどうってことないけれど、彼がいなくなってしまった静けさに耐えられるかどうかが不安だった。  それなら、朝から一人でいるほうがいい。彼の余韻に浸らず、彼に依存しすぎないうちに別れてしまったほうが気が楽だ。 「夕方のこと、だけど」  そう思ったからか、口が勝手に言っていた。  俊平くんが不思議そうな顔でオレを見る。 「今日はこなくていいです」 「わかりました」  俊平くんが言葉を発するまでに、時間を要した。  せっかく来てくれたのに、こんなことを言ってしまうなんて本当に大人気ない。  それは解っているけれど、どうすればいいのかが解らなかった。  俊平くんは聡一郎と朔夜くんのための家政夫だ。  オレはここに住んでいるからついでにお世話になっているだけで、こんなにも俊平くんに懐いてはいけないと思う。  それはただの言い訳なのかもしれない。  それでも、俊平くんの存在がオレの中でこれ以上大きくなってしまうと、変わってはいけないものまで変わってしまう、消えて欲しくないものまで消えてしまうような、そんな気がしていた。  いつも見ていた夢が今日だけは違っていたのも、きっとそうだ。  もうあちらには戻れない。戻り方を忘れてしまっている。それに、あちらの世界に行くための扉は、一筋の線になってしまっていた。  それでも、最後の一歩を踏み出すことが出来ないのは、あの人を忘れてしまうようで怖いからなのかもしれない。  俯いたまま考えていたオレを、不意に俊平くんが呼んだ。 「今日で最終日なんです」  どきりとした。  本当にいなくなってしまうなんて、思ってもみなかったから。  朔夜くんが佳乃さんのところに1日早く行ったのは、朔夜くんのご機嫌とりというより、俊平くんがいなくなることを佳乃さんに諭してもらうためなんだろう。  明日から来なくなるなんて、信じられない。あんまりナチュラルにこの家の雰囲気に馴染んでいたからだ。  この1ヵ月の間だけ彼に触れたオレでさえ思うのだから、聡一郎や朔夜くんの気持ちは計り知れない。  オレは二の句を継げないまま、呆然としていた。 「今日はすごく天気がいいです」  また、俊平くんが話しかけてくる。  外を見ると、絵の具のようにやわらかい、濃い青が広がっていた。  自分の部屋はいつもカーテンを閉め切っているから、こんなにも晴れた空は久しぶりに見たような気がする。 「思い切って外に出てみませんか?」 「‥‥は?」  あんましストレートな俊平くんのセリフに驚いた。  外に出てみる? 朔夜くんを迎えに行ったのはなかったことになっているのか? あのときだってオレは結構がんばったほうなのに。  一瞬の間にいろいろ考えていたことが解ったのか、俊平くんはオレの粗野な返答なんて気にしていない様子で言葉を紡いだ。 「今日は僕に時間を下さる約束でしたよね?」  忘れていた。一瞬間ぽかんとしたけれど、すぐに辻褄と話を合わせた。 「だ、だけど、なんで、外に‥‥?」 「春だからです」 「‥‥だから、なんで?」 「春になると動物達は冬眠から醒めてきます。鬱屈した洞穴の中から出てきたとき、冬眠していた動物たちはまず先になにをすると思います?」 「オレ、冬眠していたんじゃないですよ」 「でもそれに近いって園山さんが言われてましたよ」  と、ニコニコしながら俊平くん。聡一郎のことだからへんな言い方をしているんだろうとは思っていたけれど、まさか冬眠だなんて‥‥。  そしてそれを信じると言うことは、この子はナチュラルなんだろうか。 「さっきの話、だけど」  そう前置きして、話しかける。俊平くんは『はい』と返事をして、オレを見た。 「オレが冬眠していた動物なら、日の光に当りたくないからもう一度入り口にふたをします」  そう言ったら、俊平くんはくすりと笑った。 「僕なら、まず背伸びをすると思います。ずっと狭いところにいたんですもん。太陽の光も心地良いし、外の空気も一層美味しく感じるだろうし」 「‥‥ふつうは、そうでしょうね」 「だから、春になると少しだけ解放的になると言われているみたいです。開け放つほうじゃなくて、自由になる、という意味のほうの。  冬は寒くてなかなか窓も開けられないけれど、暖かくなったら少しでも外の空気に触れたいし、鬱積していた部屋の中のものも、外に出したくなります。  布団を干したり、冬物のコートをクリーニングに出したり。  そんなことをしながら徐々に春の装いに変わっていく。ほんの少し、気分も変わる」 「こころの、クリーニング‥‥ってこと?」  オレがそう訊ねると、俊平くんはそうだとばかりに笑った。 「いまが8時だから、13時くらいに、近くの公園にどうですか? 道がわからなかったら迎えに来ます」 「ひ、ひとりで、大丈夫」 「じゃあ、13時に」 「あ、あの、場所は?」 「公園に来たらすぐにわかりますよ」  そう言って、俊平くんはいつも持っているショルダーバッグを手に、リビングを出た。  俊平くんはとても不思議な子だと思う。  オレは冬眠をしていたわけじゃないけれど、なにも言わなくてもオレがどういう状態なのか、きちんと気付いていた。  聡一郎が話したとは考えられない。例によって聡一郎はオレを“冬眠”と表現するような人だし、オレが俊平くんをよく思っていないことも知っている。  だからわざわざオレの弱みを話すようなことはしないだろう。  じゃあ、どうして? どうして俊平くんはオレに構おうとするんだろう?  園山家の家政夫なら、園山親子にだけ構えばいい、オレのことなんて放っておいてくれればいいのに、俊平くんはそうしてくれそうになかった。  でも、実際に構ってくれなかったとき、少し胸がチクチクした。  朔夜くんはまだ小さいし――って、自分の気持ちを落ち着けようとしたと思う。  それならやっぱし、オレは俊平くんを好きなんじゃないか、そう思った。もちろん、likeの意味合いで。  聡一郎が仕事にかかりきりでもこんな気持ちにならないし、片倉さんに限っては構ってくるのが鬱陶しいとさえ思っていた。  この気持ちは、茉紀さんには本当の子供がいて、オレがどんなにがんばっても茉紀さんの子供にはなれないんだと思って東京に出る決心をしたときと似ている。  此処でオレが一歩踏み出す決心をしたら、あの人ともう一度会えるんだろうか? どうにかしないといけないと思う焦りと、変わりたくない、引き止めておきたいと思うこのジレンマが消えるんだろうか?  このさきずっと俊平くんといられるわけじゃないし、彼に頼りきりになるわけにはいかない。  それは解っているのに、なかなか決心がつかなかった。  シャワーを浴びて、俊平くんが置いていったラスクを食べて、どうやって外に出るかを考えながら玄関とリビングを行き来していた。  なんだか自分が嫌になってくる。どうしてこんなにも根性なしなんだろう?  行くと言ったんだから行けばいい。時間にルーズだと怒る聡一郎もいないから、慌てて家を出る動機もない。極限を越えるといつもはしない行動にでるくせに、どうしていつもオレはこうなんだろう。  俊平くんの言い分も分かるし、自分もそうしないとって思っている。  きっかけがなければなにも出来ないなんて情けないことこの上ない。  そう思ったけど、人が変わるきっかけなんて本のささいなことだと本で読んだ。特にオレのような性格の人は、誰かがポンと軽く背中を押してくれるとよりメリットがある、とも。  現状がそうだ。オロオロするばかりで自分ではなにもしない。考えても行動しないと意味がないのに。  うんうん考えていたときだ。  ふわりと風にのって、桜の花の香りがした。  そういえば、もう桜が満開だから入学式に間に合わないかも‥って、ニュースで言っていたっけ? オレは桜の香りに誘われるように、フラフラと庭に出た。  外はびっくりするくらい、いろんな香りに包まれていた。  花も、風も、太陽も、みんな心地良く思えるほどだった。  聡一郎の家は東向きだからただでさえ眩しいのに、人目避けの樹木の間から金糸が降り注いでいるように見える。  その景色に、香りに包まれた途端、昔見たあの絵画が頭に思い浮かんできた。  場面は違うけれど、これに似た情景の絵を見たことがある。  確か、暗闇の中の男の人を天使たちが助ける為に無数の光の道標をさしだしている、という絵だった。  あの絵画の男の人は、天使達の光を手にしたあと、なにが起こったんだろう?  オレが俊平くんの導くほうに行ったら、絵画の男の人のようになにかが変わるんだろうか?  そう思ったら、急に答えが知りたくなった。  部屋の中の壁時計を見ると、もう16時を過ぎていた。約束の時間を3時間も過ぎている。もう俊平くんは帰っているかもしれない。  でも、いかないと。  いても立ってもいられなくて、オレは玄関の鍵を掛けて、あの公園へと急いだ。 * * * * *  ひさしぶりに公園にやってきたら、なんだか景色が変わっているように見えた。  実際には桜が満開になっているだけで、変わってはいないと思う。  ぼんやりと桜を見上げながら、春の風を身体に感じる。  俊平くんが言ったように、部屋の中にいるときとは気持ちが違うように感じた。  今までよくやっていたように桜の前に立って、空を見上げた。  満開の桜からほんのりと優しいかおりがして、いい気持ちだ。  桜を見ながら、約束のことを思い出す。  桜はもう満開になってしまっている。約束どおり五部咲きの桜を書くのなら、もう1年待たなければいけないな。  そんなことを思っていると、バスのクラクションの音が聞こえた。  バス停で待っていた人たちが、次々とバスに乗り込んで行く。そのなかに俊平くんはいない。  この公園は広いけれど見晴らしが良いから擦れ違うことはないだろうと思う。  けれど3時間も遅れてきているから、いないかもしれない。もしいるなら、最初に出会ったこのベンチにいると思ったけれど、オレの思い過ごしだったのかも知れない。  5分ほど、ベンチに座って俊平くんがいないか、辺りを確かめた。でもそれらしき姿見えないし、いるのは親子連れだけだ。  オレは3時間以上も俊平くんを待たせてしまっている。オレだったら何時間も待ったりしない。普通なら帰ってしまうだろう。  どうやって外に出るきっかけを作るか――なんてことばかり考えて、俊平くんの気持ちを考えていなかったから、会えなくても、帰ってしまっていても仕方がない。いくら優しいとはいえ、3時間以上も待っているお人よしではないだろうから。  仕方がないから少し散歩をして帰ろう。なんだかガッカリしたけれど、時間に遅れたオレが悪い。もしも次に会えたら謝ることにしよう。そう思いながら、いつもオレが通っている市民会館の脇に差し掛かったときだ。  特別展示の文字が目に入った。  誰かが個展でもやっているんだろうか?  最近は人の絵や写真に触れることなんてまったくなかったから、ちょうどいいと思って市民会館に入った。  個展は普通入場料だけでも2,3千円はするのに、大人500円で子どもは無料なんていうかなり安価なものだった。どおりで子供づれがいっぱいいたわけだと思いながら、案内板どおりに道を進む。  会館内に展示されているのは、独特なアングルで描かれた風景画ばかりで、なんだか妙に惹かれるものがあった。  彩色の施し方はまだ少し未熟な気がするけれど、それすら手法のように見せているのがまたおもしろい。  オレも一時期絵を描いて生計を立てていたけれど、その頃の絵に少し似ているように思えた。  とはいえオレはここまで大胆に原色を使えないから、勢いとパワーに満ち溢れている、個性のある良い絵だと思う。  角を曲がったとき、ビルに飲み込まれていく夕日の絵が置いてあった。  会社を辞める前に行った展覧会にも似たような絵があったけれど、それよりも低めのアングルから描かれているからか、また違った迫力がある。  この絵を描いた人はかなり独創的な人なんだろう。個人的にはかなり好きな感じだ。  一通り中を見て、一番奥の、少し毛色の違った作品が置いてあるコーナーに差し掛かったときだ。オレは自分の目を疑った。  テーブルの上に、額縁に入れて飾られているそれが、オレの体に檄を飛ばしたような気がした。  無機質なアスファルトに映し出されるふたつの影。人自体は描かれていなくて、膝から下の影しかない。  全体的に単調な色合いだけれど、意味を知っているオレからすればとても深い。  なにも知らない人が見ても訴えかけてくるものがあるほど独特なものであることに違いない。  それもそのはずだ。この絵は、あの人が“自分の足でしっかり歩く”という意味を篭めて描いた絵だった。  オレがあの人の絵を見間違えるはずがない。  急いでほかのコーナーに置いてあったパンフレットを見ると、そこには“Chigusa HIUMI”と書かれていた。  どこかで聞いたことのある名前だ。  そう思いながらパンフレットを読んでいると、あの特徴のある足音が聞こえてきた。 「こんにちは」  声を掛けてきたのは、俊平くんだった。  いつもの少しラフな服装ではない。あまり目立たないけれどストライプの柄が入った、若者らしいややカジュアルなスーツを着ている。ネクタイまでしているし、髪型もいつもとは違うから、一瞬誰かが分からなかった。 「こ、こんにちは」  言葉を搾り出すのに、少しの時間を要した。  約束の時間に3時間も遅れてしまったから、すこし気まずい。  けれど俊平くんはまったく気にしていない様子で、やんわりと笑った。 「来てくださってありがとうございます」 「え?」  『どういうことですか?』――その言葉は、後ろから聞こえた声に遮られた。 「俊、悪いけどそろそろ表のプレートを架け替えてきてもらえないか?」  鈍いタイヤの音がする。  車椅子だ。  呆然とその人を眺めていたら、その人は、驚いたように目を瞠った。 「ナオさん!?」  どうしてオレのことを知っているんだろう? 一瞬、頭が混乱する。  思わず俊平くんを見上げると、満足そうに笑って、その人に言った。 「うん、玖坂さん。“偶然”市民会館の前を通りかかったみたいで」  もう閉館する時間だったのか、館内には2、3人しか人がいない。  もしかして俊平くんは、オレが遅れてくることさえ想定していたんだろうか。それとも、来ないと思っていたから、ここに来たことでホッとしたんだろうか。  あんまりナチュラルに説明していくから、状況が飲み込めなかった。  俊平くんと話している車椅子の男の子は、どこかで見たことがあるような気がする。  落ち着きのある茶髪。すっと流れるような眉。目力の強い瞳。俊平くんよりも年上に見えるけれど、タメ口で話しているのをみると同い年くらいなんだろう。  状況を整理しながら彼を眺めていると、彼は右半身だけで車椅子を上手に操作して、こちらに寄ってきた。 「おひさしぶりです。ずっと会いたかったんです、あのときのお礼をもう一度言いたくて」 「お礼、って‥」 「アトリエですよ。2年前、ナオさんと園山さんにバリアフリーのアトリエを作って頂いた」 「飛海、さん? じゃあ、ここの作品も?」 「はい、俺の作品です。まだナオさんに見せられるほどじゃないんですけど」  と、はにかむように笑いながら、飛海さんが言った。  当たり前なのかもしれないけれど、2年前とはまったく表情が違った。  すごく活き活きとしている。  オレの中にあった飛海さんは、もっと消極的な印象が残っている。  あまりにも驚いてなにも言えずにいたけれど、ふと本来の目的を思い出した。 「あ、あの、あそこの絵は?」  奥のコーナーの絵を指差すと、飛海さんは『ああ』と声をあげた。 「あそこの絵は、俺が入院していたときにもらったんです。  名前は聞きそびれたから分からないんですけど、俺がいまこうして絵を書いていられるのはその人のおかげでもあるので、勝手に展示させてもらったんです」 「そう、ですか」  飛海さんはとてもいい笑顔をしていた。  あの人が言っていたように、“自分の足で歩き出した”証拠だろう。  まさかこんなところであの絵に会えるとは思わなかった。  オレはもう一度その絵を眺めた。しっかりと、自分の目に焼き付けていられるように。  オレがしばらくの間その絵を眺めていたら、飛海さんはその場にはいなくなっていた。  あの絵を見たせいか、なんとなく懐かしい感じがする。頭の中にずっとあったはずのモヤモヤが掻き消すように、ふうっと溜息を吐いた。 「すみませんでした、遅くなってしまって」 「いいえ。来てくださっただけで」  まったく淀みのない、彼の声が聞こえる。  すっと耳に入ってきて、はじめて会ったときのようにまた、耳に馴染む。 「でも、オレ‥」  彼の声を遮って咄嗟に言ってしまったけれど、そのあとになにを言えばいいのかが分からない。  どう切り出そうかと悩んで唸っていると、彼がくすりと笑って、破顔した。 「いいんです、気にしないで下さい。  玖坂さんのおかげで千種がまた絵を描こうっていう気になってくれたんですから」  そうとだけ言って、彼はオレに軽く頭を下げた。  飛海さんのところに行くのだろうか? ろくに挨拶もしなかったオレを残して、彼が去っていく。  オレは咄嗟に彼の腕を掴んだ。  少し驚いたような、それでもあまり表情に出さずにオレを見下ろしているのが見える。  オレは彼の腕を掴んだまま、なにも言えずにあたふたした。  言いたいことがたくさんあるのだけれど、なんだか言葉にならない。  アトリエが完成した日、まるで抑えていたものが溢れたように、泣いている男の子がいた。  そしてオレに言ってくれた。『ありがとうございました』って。  『これで千種がまた絵を描けるかもしれない』って。  あのとき、あの言葉でなんだかいろんな思いが消えていって、オレまで泣いたのを覚えている。  聡一郎からは『涙もろいから』ってフォローされたけれど、実際は、人から感謝されるのがあんなに嬉しいことだなんて知らなかったからだった。  あのアトリエは、本当はべつの人の為に考えていた。聡一郎に相談するため、その設計図を持って茉紀さんの会社に行った。そのときに居合わせたお偉いさんから、『ぜひうちの部下の息子さんの為に作ってくれ』と懇願されて、自信がないままに承諾したものだった。  だから正直に言ってあまり乗り気ではなかったし、本当にこんなものでいいんだろうか? と自信が持てなかった。  聡一郎からも、そして茉紀さんからもやってみるといいとは言われていたけれど、社員でもないオレが勝手なことをして茉紀さんの会社の評判を落とすことになったらと思うと、気が気ではなくて。  だけどその不安は、一人の男の子によって払拭された。  飛海さんじゃない。飛海さんの友達の、線の細い、オレとおなじくらいの背丈の男の子だった。  オレが現場で聡一郎たちといろいろ相談をしているときに、毎日来ていた。  自分のアトリエじゃないはずなのに、楽しみにしてくれていた。  あの子だ。  あのときの、あの子だ。  そう思ったら、その手を離したくなくて、俊平くんの服の袖を、ギュッと握った。  すると俊平くんは、オレが“あの時の子”だと気づいたのを悟ったように、そっと笑った。 「玖坂さんは、知らないだけですよ。貴方がどれだけ僕の支えになってくれたか」  ぽつりと、俊平くんが言った。  解らない。だってオレは自分のことしか考えていなかったし、2年でこんなに成長しているなんて詐欺みたいなものだ。  もっと線が細かったし、声だって高かった。  それよりもなによりも違うのは表情と、そして、自分の足で歩いているということだった。 「もう、車椅子は要らないんですね」  そう言ったら、俊平くんは少し照れたような顔をして、オレから視線を逸らした。 「玖坂さんが言ってくださらなかったら、たぶんいまだにリハビリしていなかったと思いますけど」 「え? お、オレ、なにか、言った‥?」  俊平くんの言葉にそう言ったら、俊平くんは驚いたような顔をしてオレを見た。  忘れているのかと言わんばかりの顔だ。 「ご、ごめんなさい。オレ、たぶん興奮していてなにを言ったのか‥」 「気にしないで下さい。僕が覚えていますし」 「で、でも‥っ」 「いいんです。玖坂さんのおかげですべてが始まったようなものなので」  満足そうな顔で飛海さんの絵を見上げて、俊平くんが言った。  なんだかとても大人びた顔をしている。  2年前、まるで総てを拒絶していたように顔を見てくれなかった“あの子”の面影はどこにもない。  どうして人はこんなにも強くなれるんだろう?  どうすればこんなにも変われるんだろう?  いまではなんのしこりも残っていないように思えるほどすっきりした顔をしている俊平くんを見ていたら、なんだか鼻の奥がつんとした。 「もし玖坂さんがよければ、ときどき公園で話しませんか?  明日から園山さんの家に行かなくなってしまうけれど、千種の家には度々行くので。  今度は僕が玖坂さんの力になりたいと思っています」  『次に玖坂さんにお会いしたら、言おうと思っていたんです』と、はにかむように。  オレは俊平くんの穏やかな笑顔を見たら急に恥ずかしくなって、それ以上なにも言えなくなってしまった。  そのうちに俊平くんは飛海さんに呼ばれて奥に行ってしまった。  ひっそりと静まり返った空間に戻ってしまう。けれど前のようにその静けさが怖いとも思わなかった。  飛海さんが描いた絵の中心で、あの人の絵が不思議なほど映えている。  ふたりが自分の道を歩き出したからだろうか。忘れていたことを思い出してホッとしたからだろうか。  とても心が落ち着いていて、いままでにないくらい、穏やかだ。  とてもシンプルな絵を眺めていたら、『次は貴方の番だ』と言われているような、そんな気がした。

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